フリー・グレイス論の反駁⑤:ヨハネ第一の手紙の解釈
ヨハネ第一の手紙の解釈ヨハネの第一の手紙の意味は、プロテスタンティズムの歴史を通してほぼ一様に理解されてきました。しかし、この手紙は FG神学者にとっては問題となります。ヨハネは、人が神の子ども(信者)であるかどうかを明らかにするテストがあることを、この書物を通して明白に述べているように見えます。そのテストとは以下のとおりです。教理に関するものと行ないに関するものの、両方があることに注目してください: 兄弟を愛しているか(2:10; 3:10; 3:14; 4:7) 光の中を歩んでいるか(1:7) 神の命令を守っているか(2:3-4) イエスの歩まれた道を歩んでいるか(2:6) 他の信者たちとの交わりを続けているか(2:19) 御子を告白しているか(2:23) 義を行なっているか(2:29; 3:10) イエスが人となって来られたことを告白しているか(4:2) 使徒の教えを聞いているか(4:6) 御霊を受けているか(4:13) イエスが神の御子であることを告白しているか(4:15) イエスがキリストであるとを信じているか(5:1) 世に打ち勝っているか(5:4)これらの条件は、FGを教える者たちに 二つの難題を突きつけます。一つ目は、ヨハネが救いの確証を与えるために行ないのテストを課していることです。FGの教義の一つは、真の信者か否かを判断するために行ないのテストを信者に課すことはいかなる場合にも間違いである、というものです。前述のように、第一ヨハネはこのような行ないのテストで満ちていますが、これらの教師たちによれば、人は真に信じている神の子どもであっても、これらのテストにまったく合格しない場合もあるというのです。二つ目の難題は、堅忍に関する事柄です。第一ヨハネでは、行ないだけでなくその継続的習慣的な実践が、しばしば言及されています。例えば「義を行う」とは、原文では継続的な行動を示すギリシャ語の動詞の時制が使われており、文字通りには「義の行ないを習慣とする」という意味です。この継続の概念は、「とどまる」という表現が実に26回も使われているという事実にも表されています。一方これらの教師たちは、ある者がキリストを受け入れ、初めの霊的実りは見せたものの、その後信仰から離れ、神の事柄にまったく関心を示さず、御霊の実も一切現さず、神の民との交わりを望まなかったとしても、人生のある時点での決心のゆえにその人を救われた者とみなすのです。このように、第一ヨハネの行ないのテストは、これらの教師たちに解釈上のジレンマをもたらします。では、FGの教師たちはこれらの難題をどのように解決するのでしょうか。基本的に、彼らは、第一ヨハネの目的は「永遠のいのちに関するテスト」ではなく「神との交わりに関するテスト」、つまり「その人が御父に良い子どもだと認められているか、あるいは罪のためにその関係が乱れているか」のテストなのだ、と主張します。信者が神との交わりにあるか否かという概念は、聖書にも登場します(例えばダビデがバテシェバとの罪を犯した後、神との関係が明らかに崩壊した事例など)。しかし、ヨハネが第一の手紙で本当に伝えたかったのは、このことだったでしょうか。手紙の趣旨表明FGに立つ神学者は、「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」(1:3)、および「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」(1:6)を、ヨハネの「趣旨表明」だと主張します。要するに、ヨハネは手紙の冒頭で、この手紙を書いた理由をそのように説明しているのだ、と。しかし、ヨハネの「趣旨表明」は、実際にはこの手紙の最後にあります:「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」(5:13)。事実、ヨハネが福音書の最後にもその目的を述べており、この目的を最初の書簡の最後に置いていることと同様であるのは注目に値します:「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ 20:31)。実際に、この 2 つの目的の記述は互いに非常によく似ており、Ⅰヨハネ 5:13 がヨハネの趣旨表明だと信じるための、さらなる理由を与えてくれます。構造上の類似点に注目してください。以上のように、ヨハネがこの手紙を書いた目的は、読者が自分たちの永遠の救いを確信するためであり、神との交わりの状態を確認するためではありません。教理と行ないのテストヨハネが与えたテストは、教理に関するものと行ないに関するものの両方であると、先程述べました。FGの教師たちは、行ないに関するテストは、神との交わりの状態を示す指標であり、永遠のいのちを持っているかどうかをテストするものではないと主張していますが、教理に関するテストはどうでしょうか。ヨハネは、私たちの交わりの状態を判断する道具としてに、これらの教理のテストを与えているのでしょうか?イエスが人となって来られたことを信じることは(Ⅰヨハ 4:2)、神との交わりにある成熟したクリスチャンのためだけのしるしなのでしょうか?信者はこの真理を否定しても、それでも「神との交わりから離れた」信者であり続けることができるのでしょうか?いいえ、そうではありません。第一ヨハネの背景として、ヨハネはグノーシス主義の異端を退けようとしていました。したがって、読者がキリストを救い主として信じているかどうかを知るためには、教理の肯定が不可欠だったのです。また、5:1の「神から生まれた」という表現は、教理のテストに合格した者と、行ないのテストに合格した者の両方を指していることに注目してください。イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。(5:1)互いに愛し合いましょう。…愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。(4:7)明らかに、ヨハネは「神から生まれた」者という、同じ人々について言っています。そして、すべての信者は 5:1 の教理のテストに合格しているはずですから、4:7 でもヨハネはすべての信者を念頭に置いているに違いありません。「神から生まれた」というのは、信者であることを表す別の表現だということです。ヨハネの記述の排他性FG論者による第一ヨハネのの解釈に関するもう一つの問題は、ヨハネの記述の排他性です。第一ヨハネが、神と信者、あるいは信者同士の交わりについて相対的に語っているのであれば、なぜヨハネは相対的な表現ではなく、「AかBか」というような排他的な対比表現を多用したのでしょうか?それはヨハネが、灰色のグラデーションではなく白と黒、すなわち光と闇の対比を述べているからです。第一ヨハネには、その例が山ほどあります。事実、ヨハネは相対的な表現をほとんど使用していません(Ⅰヨハ 1:6, 7; 2:19, 23, 29; 3:7-10, 14, 15; 4:6-8, 5:4, 10, 12, 18)。言い換えれば、聖化や神との交わりにはさまざまな程度がありますが、人がクリスチャンであるか否かは絶対的なものであり、「半分救われた」人はいません。したがって、ヨハネが選んだ表現は、その人が神との交わりにあるかどうかではなく、その人が救われているかどうかを知る方法の説明だと結論付けることが適切であると思います。彼が用いている対比的な表現の両項を定義できるでしょう。ヨハネは、この手紙の中で多くの対比表現を用いて、正の状態と負の状態を併記しています。以下に、その対比表現の一部を挙げます。左のコラムは良いこと、右のコラムは悪いことだと、誰もが同意するでしょう。問題は、右のコラムの表現は誰に当てはまるかということです。それは、神との交わりを失ったクリスチャンを表しているのでしょうか、それとも、クリスチャンではない人々を表しているのでしょうか。「その人のうちに真理はありません」「闇の中にいる」「悪魔から出た者」「悪魔の子ども」「神から出た者ではありません」「永遠のいのちがとどまることはありません」「神から出ていない者」「神を知りません」といった表現は、すべて不信者の状態を指していることは明らかです。ヨハネが宛てた当時の読者がこのような表現を読んで、「ああこれは、肉に支配され神の御国を相続できないけれど、救われている信者たちを指しているのだ」と、即座に理解できたと、本当に思いますか?もしヨハネがそう意図したのだとしたら、彼らはとても混乱したことでしょう。さらに、ヨハネが福音書の中で、これらの表現を用いて不信者たちを指していることを、比較考察してみてください。死からいのちにFGの学者たちにとって問題となるもう一つの箇所があります:私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。(Ⅰヨハネ 3:14)新約聖書の語句を定義する場合、その著者が他の書で同じ語句をどのように使用しているかを確認して、最も明確な定義を見出すことは、解釈学の基本原則です。この箇所は、FGの教師たちが、自分たちの立場を維持するために、そのような聖書解釈のルールをここまで無視するのだということを如実に示しています。「死からいのちに移った」という表現は、霊的な死から永遠のいのちに移ったことを指すヨハネのによる福音書の記述と比較することができます:まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)ギリシャ語では、この 2つの箇所は次のように比較できます。太字の部分の類似点に注目してください。 ヨハネ5:24ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι ὁ τὸν λόγον μου ἀκούων καὶ πιστεύων τῷ πέμψαντί με ἔχει ζωὴν αἰώνιον· καὶ εἰς κρίσιν οὐκ ἔρχεται ἀλλὰ μεταβέβηκεν ἐκ τοῦ θανάτου εἰς τὴν ζωήν Ⅰヨハネ 3:14ἡμεῖς οἴδαμεν ὅτι μεταβεβήκαμεν ἐκ τοῦ θανάτου εἰς τὴν ζωήν ὅτι ἀγαπῶμεν τοὺς ἀδελφούς ὁ μὴ ἀγαπῶν τὸν ἀδελφόν μένει ἐν τῷ θανάτῳさて、FGの教師たちは、この聖句の明確な意味、すなわち「私たちが死からいのちに移っている、真の信者であることを確認するための、愛の行ないというテストがある」ということをどのように回避するのでしょうか?…「文脈によって意味が決まるのだ」と主張するのです。もちろん、FGの教師たちにとってこの文脈とは、救いの確証ではなく、神との交わりです。したがって、「死からいのちへ」という文字通り読んで明確に理解できる表現があり、同様の表現が同じ著者によって、救いの有無を明確化するために使用されているにもかかわらず、「文脈(FGの教師たち自身が提供する文脈)によれば、それはその意味ではない」と私たちに言うのです。ボブ・ウィルキンは、Grace in Focusニュースレター(1994年秋号の記事)で、まさにその主張をしています。この箇所が実際に何を教えているのかというジレンマを解決するために、彼はこの節を次のように大幅に言い換える必要がありました:「私たちは、(自分の神との交わりの中で)死の支配からいのちの支配に移った体験をしたことを知っています」。しかし、ヨハネは「死の支配からいのちの支配に移った体験をしたことを知っています」とは述べていません。彼は実際に「死からいのちに移ったことを知っています」と述べているのです。以上のように、ヨハネ第一の手紙は、歴史的な理解に立脚して解釈するのが最も適切です。この書は主として、読者が救いの確証を得るために与えられたものです。これが、ヨハネがこの書を書いた理由だと言っているとおりであり、この書が文字通り伝えている内容です。正しい解釈がどちらなのか、FG論者にとって正直な答えを出すことは心情的に難しいかもしれません。しかしそれをなさしめるのが、真に救われているものが行使できる御霊の実、「誠実」「柔和(謙遜)」「自制」です。祈りましょう。私も祈っています。