この記事は、カリスマ・ペンテコステ派における異言の再燃(前編)の続きです。
Ⅴ. CP派の3つの波
CP(カリスマ・ペンテコステ)派は、歴史的に見ると少なくとも3つの段階を経ていた、3つの波があった、と言えるでしょう。ここではそれぞれの波の特徴と、その時代の顕著なリーダーについて解説します。
第一の波:古典ペンテコステ派(〜1960年頃)
ペンテコステ派の原型は、前編の記事でお話ししたように、聖霊の奇跡的な働き、特に癒しや異言を話すという点で、初代教会が持っていたものを取り戻そうという考え方に基づく運動でした。その急進的な神学は、他のほとんどのプロテスタントでは歓迎されなかったため、新しい教派がいくつも生まれました。しかしその初期に、内部の深刻な問題を抱えるようになりました。いくつかの教派が「ワンネス教理」と呼ばれる、神の位格に本質的な区別はないとする一種のモーダリズムの名の下に、三位一体の教理を否定し始めたのです。父、子、聖霊は唯一の神の「別名」に過ぎず、イエスが肉体を持った唯一の神である、というものです。これは初期のペンテコステ派にとって、大変大きな打撃となりました。三位一体論のペンテコステ派がモーダリストを異端視する一方、これらの異端者たちも皆『異言を話し、奇跡を起こしている』と主張したからです。となると、この異端者たちに聖霊が宿ることがどうして可能なのか?自分たちが神の子であると主張するためのこのしるしが、どうして異端者たちにもあるのか?…その答えは「異端者たちの奇跡は悪魔の偽造品である」ということでした。その言い訳にもかかわらず、ペンテコステ派において聖霊の活動を明確に示すはずの証は、少しぼやけてしまいました。
チャールズ・フォックス・パーハム、ウィリアム・シーモア
カリスマ・ペンテコステ派における異言の再燃(前編)をご参照ください。
ジョン・G・レイク(1870-1935)
ジョン・A・ダーウィーの弟子であり、彼の神学(病気は悪魔の仕業、献金をすれば癒やされるなど)を引き継ぎました。ポートランド教会を創設し、『癒やしの部屋』を運営、100,000人が癒やされたと豪語しましたが、医学的記録はまったく残っていません。当時アフリカで流行した、死に至る病である腺ペスト患者の体内から出た液体を自分に塗り、顕微鏡でその部分を見ると、バクテリアがすべて死んでいた、という伝説があります。しかし不都合な真実は、不透明な固体表面の病原菌を当時の反射式の顕微鏡で見ることは、仕組み上不可能です。現代のカリスマの指導者でも、この嘘を実話として伝えたり、自分もCOVID19の菌を殺せると豪語するアンドリュー・ウォーマックのような人もいるほど、その影響力は大きいものでした。しかし実生活では、妻を亡くした後、再婚する際に口寄せに依頼し前妻の許可を得ようとするなど、聖書から逸脱したものでした。株式詐欺で逮捕されたり、教会への献金を個人の口座に振り込んでくれ、そうすれば祝福を得るだろう、という趣旨の手紙を教会員に送るなど、金銭欲に支配されていたようです。また、17歳の少女と婚外性交関係を持つ小児性愛者でもありました。そしてもちろん、再臨のエリヤを自称しました。
※重要※
CP派のリーダーによる『信仰による癒やし』の多くが、一時的な『心身相関的癒やし』です。『心身相関的癒やし』とは、アドレナリンや精神の高揚、プラシーボ効果で一時的に癒やされた感覚を持つ現象で、科学的に立証されているものです。その対極にあるのが奇跡的な『有機的癒やし』です。それは医学的に不可能な癒やし(全盲の人が正常に見えるようになる、肢体麻痺が治る、癌が一瞬で消えるなどで、その癒やしは継続する)であり、治療が一切行われていないことが前提です。イエス・キリストの行った癒やしは皆このような奇跡的有機的癒やしでした。ちなみに、CP派の『信仰による癒やし』の賜物を持つ者の働きによって奇跡的な回復・治癒を遂げたという報告で、科学的医学的検証に耐えうる永続する癒やしの例は、この100年以上の歴史の中でただの一例もありません。その癒やしの様子を撮影した動画も、皆がスマホを持ち歩くこのご時世に、ただの一つもありません。そのどれをとっても、信頼に足らぬ『証言』ばかりです。とても不思議です。CP派の『癒やしの賜物』については、後日また別に記事を書きます。
第二の波:カリズマ・リニューアル(〜1985年頃)
第一の波が教派的にペンテコステのみだったのに対し、第二の波は様々な宗派教派に及びました。当初、カリズマとは、所属する教団を離れずに聖霊のバプテスマを受けた者と考えられていましたが、ペンテコステ派の指導者たちがメディアに登場するようになり、エキュメニズムに対するオープンな姿勢が生まれ、60年代におけるカリズマ運動の誕生を促したことは事実でしょう。その第一段階では、カリスマ運動はプロテスタント教会に限られたものでしたが、カリフォルニア州ヴァンナイのセントマーク・エピスコパル教会を皮切りに、ルーテル教会、ロンドンの英国国教会などがそれに続き、カトリック教会も同様にその現象を報告しました。
カリズマ的な集会は、原則的にペンテコステ的な集会と似ていました。 会衆の祈り、刷り込み的な説教、個人の証、奇跡的な御霊の顕現が礼拝の中心でした。家庭集会や癒しや預言の会場設置も奨励されました。加えて、世俗的な性質と、会衆の各メンバーの活動に焦点を当てることは、カリズマに特有のものでした。伝統的な教会の間に懸念を引き起こす一方、導き出された結論の大部分は、この運動に好意的なものでした。 多くの教会は、新しいカリズマの波に反対するのではなく、オープンにしておくことを選びました。しかし、すべての教会がこの運動を好意的にとらえているわけではなく、誰からも非難される極端な形のカリズマの教えも現れるようになりました。みことばの権威を軽視し、主観的な体験を過度に尊重したり、霊的エリート主義やカリズマニアを形成する背景を作りました。ワード・オブ・フェイス(口にすることが現実になる)がここから派生しています。
ウィリアム・ブラナム(1909-1965)
第二次大戦後の『癒やしのリバイバル運動』の旗手。彼の教えを受け入れたものだけが救われる、と説きました。すべての教派はローマ・カトリックの支配により吸収されるとし、それが起こるのは携挙と世界が滅亡する1977年だと預言しましたが、もちろん成就はしませんでした。「主が三位一体は悪魔的な教理だと告げている」との、ワンネス・ペンテコステの教義を説きました。現代ではTD・ジェイク、スティーブン・ファーティックらが同様の様態論(父・子・聖霊は1位格の神の3つの現れだとする)を掲げています。そしてもちろん、自称、再臨のエリヤです。
ケネス・ヘーゲン(1917-2003)
現代の『ワード・オブ・フェイス運動』の父。「祈って言葉にしたものは全て手に入る」「ことばで天地を創造した神を父に持つのだから、子とされた私たちも小さな神であり、言葉によって現実を創造できる」と教えました。また病気については、先と同様の理由で「宣言すれば癒やしは得られる。癒やされないのは信仰が弱いからだ」と説きました。イエスの幻を見る、一度死んで蘇って信仰を得た、など、超自然的体験を売りにしており、多くの癒やしの集会などでの献金を得て、巨万の富を築きました。著作の盗作(主にE.W.ケニオン)を多く行ったことでも有名です。
オーラル・ロバーツ(1918-2009)
福音派に繁栄の神学を持ち込み拡大させたリーダー。第三ヨハネ2は神が信徒の物質的繁栄を願っていることだと信じ(全く誤った解釈)、「富と健康こそが神の祝福であり、それを受けていることが信仰の証である」と教えました。ケネス・コープランドに按手をした際、使徒3:4-6の御言葉をもじって「私たちを見なさい。金銀は私たちにはたくさんある」と言い、コープランド夫妻も会衆も大喜び。数々の偽預言や奇妙な神秘体験を語りました。彼の教えにより多くの魂が傷つき失われたことと思いますが、ロバーツの存在自体が、騙したり騙されたりしながら耳に心地よい教えを求めた人々への裁きだったのでしょうか。
第三の波:ネオ・カリズマティズム(〜現代)
1985年以降、CP派の運動は新しい局面を迎えることになります。『ネオ・カリズマティズム』は、フラー神学校の神学教授であるピーター・ワグナーによって付された名称で、保守的福音主義教会でのCP派の台頭を指しています。 ワグナーとその同僚であるジョン・ウィンバーは、カリスマの古典的形態(異言・預言・癒やし)だけでなく、「霊の解放」によって与えられた新しい形態(痙攣、霊的エクスタシー、霊に打たれる体験など)を加え、「しるしと不思議の運動」と名付けました。フロリダのロドニー・ハワード・ブラウンによる集会、トロント・ヴィンヤード教会でのランディ・クラーク、ジョン・アーノットによる「トロントの祝福」などの大規模集会において拡大し続け、聖なる笑い、床を転がる、動物の遠吠えや鳴き声など異様な『霊の現れ』が加わり、秩序立ったはずの礼拝にこのような無秩序が流入して行きました。 実はその様子は、異教の恍惚体験や悪魔的な憑依と瓜二つです。下の動画では、異教とCP派の集会を比較しています。テロップがなければ、見分けがつきません。異言に関しても同様に、ヒンドゥクンダリーニ、アフリカの土着宗教、グレコローマン時代の神秘宗教においても、異言で語ることが神とつながっているしるしとされていました。これらのCP派の信徒の行動が、秩序と平和の聖書の神からのものか、あるいは無秩序で官能的な異教の神々から来ているのか、ぜひこの動画を見て吟味してみてください。
スミス・ウィグルズワース(1859-1947)
イギリスの伝道者。使徒19章からアイディアを得て、献金した人に「祈りの布」を配布しました。多くの現代のカリスマ指導者も同様に、献金のお礼に『霊の力が込められた』布や水を配布をして、それが病の癒やしや繁栄に効果があるとしています。「医者に行くのは不信仰」「病を引き起こす悪霊が見える」として、その霊を追い出すためだとその病人に対して殴る蹴るなどの暴力を用いました。トッド・ベントリーは、現在もその手法をそのまま用いています。
エイミー・センプル・マクフィアソン(1890-1944)
通称『ペンテコステの女王』。神秘主義を持ち込み、『霊に打たれる』という現象を広めました。異言の賜物が与えられると信じ中国に渡るも、もちろんそれは起こらず、夫はその2ヶ月後に病死しました。出産、再婚の後シカゴへ移住、数年間全米で癒やしの集会や伝道ツアーをした後、全米最大規模のアンジェラス教会を創設しました。女優を目指していた過去を活かし、礼拝を演劇やコンサートに見立て、様々な衣装や小道具を用いて、エンターテインメントの要素で未信者を惹き付けました。このようにして、皆が名前を認識するような時代の寵児となりましたが、私生活もその神学同様に乱れており、偽装誘拐事件、その事件で隠そうとしていた不貞の罪などが明らかになりました。その後も平然と牧師の職を務め続けました。
キャサリン・クールマン(1907-1976)
マクフィアソンと並ぶ著名な女性伝道者で、最も有名な『癒やしの伝道者』の一人。デンバー・リバイバル・タバナクルを創設、牧師として教えました。妻子のある男性と恋愛し、男性の離婚後その人と結婚しますが、7年で離婚。リポーターにたずねられると「実際は結婚していない。宣誓の前に霊に打たれて倒れてしまったから」と述べるも、後に結婚証明書の写しが公になり虚偽がさらされてしまいました。ちなみにベニー・ヒンは、彼女の神学や衣装、話し方を真似たと言われています。
ケネス・コープランド(1936-)
現行の『ワード・オブ・フェイス』、繁栄の神学、カリスマ、ペンテコステのキングピン。ケネス・ヘーゲンの運転手を務めながら、弟子としてその神学を学びました。『小さな神』の教理(人間はすべて神の能力を持つ小さな神であるという教え)、自分も「わたしはある」であると宣言、神は人間の許しなしには何もできない、人間は神の位に等しい存在、など多くの神を冒涜する言論や、突拍子もない聖書解釈で悪名高いです。コロナ禍の初期に「コロナよ去れ!」と息でプーと吹き飛ばすような真似をしたり、「コロナはすでに滅ぼされた」と宣言した数秒後に「早くワクチンが来ますように」と祈るなど、多くの失笑を買いました。個人的には、ケネス・コープランドとトッド・ベントレーの二人に関して、コミカルなほどメチャメチャな神学・牧会にも関わらず、本当に悪魔に支配されている、強大な力を持つ人々のうちの二人だと確信して、大変警戒、注視しています。
Ⅵ. おわりに
以上のように、CP派の教えは、クリスチャンの体験すべき聖霊の役割を歪めるものであり、聖書神学に著しく反しています。一般的にCP派の人々は、キリストご自身との関係より聖霊との関係の重要性を強調しすぎています。実際このような教会は、働きや教会の名前に「聖霊」という名前をよく使っており、神格の第三位格を強調したい思いが表れています。CP派の教会では、聖霊の力、栄光、権威を過度に強調するがゆえにキリストを引き下げてしまっているのですが、これは教会における聖霊の役割と、神格における聖霊の御子との関係に関する聖書の教えに、全く反することです。
聖書の教えによれば、神格における聖霊の主な役割は、キリストを証しキリストに栄光をもたらすことです。聖霊は決してご自身に注目や栄光をもたらすために働くのではありません(ヨハネ15:26、16:13-14)。したがってキリストのからだなる教会で、聖霊がキリストよりもむしろ自らを表そうと働いたりそれを許容したりすることは、決してありません。そうではなく、私たちが人への聖霊の働きを最も明確に知りうるのは、罪を示され、キリストを主と告白する時なのです(使徒2:37-38)。
残念ながら、CP派の文化はこの聖書の原則を覆しています。この運動の教えと実践で彼らが意図するのは、「聖霊はこのような『御霊の現れ』のため尊ばれるべき、聖霊ご自身が求められるべきである」という見解、例えば聖霊を呼び求めたり、その「充満」を要求するように導くことです(※『聖霊の満たし』については、後日別の記事で扱います)。このような環境では、キリストは御霊との関連によって周辺的な存在としての栄光を受けるだけです。しかし聖書は、聖霊の働きが人をキリストに引き寄せることによってのみ顕れる、背景的な役割であると教えています(ヨハネ3:8)。言い換えれば、聖霊の役割は、私たちのキリストへの賛美を引き出すために、目に見えないように働くことなのです。
この働きは、創世記24章にあるアブラハムが息子イサクの花嫁を見つける物語に最もよく表れています。ここでアブラハムは御父、イサクは御子として、神の2位格が表現されています。リベカは御子の花嫁(教会)です。しかし、御霊はどこでしょうか?御霊は、花嫁を選ぶためにアブラハムの父の家に旅して行く、アブラハムの名もなきしもべとして描かれています。この物語の重要な点は、聖霊が名前さえ明かされないということです。御父のために、そして御子の栄光のために、御霊がいかに舞台裏で働くかを強調するべく、御霊ご自身は物語の陰に隠れているのです。
聖書に明記されている狭義の目的は別として、このような聖霊の役割とご性質に関する聖書的な理解に基づいて考えるならば、現代の異言や預言、信憑性のない癒やし、その他、痙攣や大笑いなどの常軌を逸した行動を含め、ご自身に注目を集めるいかなるプロセスにも加担することはないと断言できます。聖霊の働きはむしろ、人をキリストに引き寄せ、聖徒を整え福音を広めさせることです。パウロが述べたように、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝え」るのです(1コリ1:22-23)。
したがって私は、聖書と歴史と神学に基づき、現代のCP派が御霊の賜物の現れとする異言などの現象は、ほとんどの場合偽りであること、人が自分たちの感情の盛り上がりを求めて人為的に引き起こしたものであることを確信し、そう結論付けています。個人的な体験や一時の感情の高揚を、聖書の語るところ以上に持ち上げたり、聖書の語っていないことを教会・信仰生活に取り入れるのは、大変危険です。体験は良いですが体験主義はよろしくないし、感情は良いですが感情論はよろしくないです。べレアの人々のように、特定の牧師、教師が言っていることが果たしてそのとおりかどうか、聖書に常にあたることが大切です。自分が当たり前と思い愛している教会の掲げる教えや、自分が実践している異言の祈りや預言の集会が、果たして確かな神学的検証の積み重ねの元にあるのか、姦淫や詐欺や偽の御霊の現れで有名な指導者の教えの歴史ではなく、信頼に足る信仰的な指導者の教えの歴史の上に成り立っているのか、ぜひご再考いただきたいです。サタンは、見た目の派手さや偽りのしるしを目の前にぶら下げ、人間の感情を高ぶらせ判断力を鈍らせ、健全な聖書の教義よりも個人の体験の確かさを強調することによって、不信者を盲目にし、信徒の霊性を弱めることを望んでいます。