カリスマ・ペンテコステ派(以下CP派)ムーブメントの歴史の概要を、特に異言に着目しつつ人物・団体を中心にざっくり解説します。

 

Ⅰ. 異言の歴史:使徒〜教父時代

 

 聖書での言及

異言の賜物は、聖書の書簡において最初期に書かれた第一コリントでしか語られておらず、その後書かれた書簡では一切言及されていません(執筆年代についてはこちら)。ローマ12章、エペソ4章、1ペテロ4章などの御霊の賜物を列挙するような箇所にさえ、「異言」の記述は見当たりません。ゆえに、この賜物は早期に終焉したものと思われます。1コリントとほぼ同時期(1-2年後)に書かれたローマ書に記述がないということは、1コリントが書かれた時点で異言の賜物はほぼ終焉しており、それゆえの偽の賜物の現れだったのではと思います。

 

 

 教父たちの見解

教父らもその著書で、3世紀のしるしの減少や、4世紀の異言の終焉を肯定しています。

 

オリゲネス(185-253)

「さらに、聖霊はキリストの宣教の始めにその存在のしるしを与え、昇天後はさらに多くのしるしを与えた。しかし、その時以来、これらのしるしは減少したが、福音によって魂を清め、その影響によって行動を規制された少数の人々の中には、聖霊の存在の痕跡がまだ残っている。」(『ケルソス駁論』7.8)

 

クリュソストモス(347-407)

「この章(1コリ14)全体は非常に不明瞭である。しかしその不明瞭さは、言及された事実(異言)に対する我々の無知と、かつて起こったが今はもう起こらないという異言の終焉によって生み出されたものである。これらの原因はまた私たちに別の疑問をも起こさせた。すなわち、なぜそれらはかつて起こり、なぜ今はもう起こらないのか?(『第一コリント書に関する講話』29)

 

アウグスティヌス(354-430)

「初期の時代には信じている人々の上に聖霊が降り、彼らは学んでいない異言を御霊が語らせるままに話した(使徒2:4参照)。これらは、その時代に適したしるしであった。なぜなら、神の福音が全地上のあらゆる言語を通し伝えられるためには、あらゆる言語で聖霊が現されることが必要であったからである。そのようなことが行われたのは、啓示のためであり、それは終焉した。」(『ヨハネの手紙第一に関する講話』6.10)。

 

 

 

Ⅱ. 異言とカルト的集団:〜19世紀末

 

 モンタノス派

2世紀の異端として特記すべきは、モンタノス派でしょう。彼らは自らが三位一体の神となると説き、使徒時代の賜物を使うことができると主張しました。彼らの『新しい預言』は、聖書に神の言葉を書き足すものであり、入ってはいけない聖書の権威の範疇に踏み込んでいます。異教的な恍惚体験や異言を信仰の証として重視し、過度の禁欲主義を信徒に強いました。ユーセビオスは彼らの様子を次のように記しています「そして、彼(モンタノス)は我を忘れて、突然、狂乱と恍惚の状態に陥り、わめき散らし、初めから伝えられてきた教会の慣わしに反する方法で奇妙なことを口にし始め、預言し始めたのである。」(『教会史』16章 モンタノスとその偽預言者達)

 

 

 空白の時代

以降、個人による奇跡的な異言の目撃証言が少数記録されているのみで、信頼できるソースにはそれ以外の教会における異言の現れと見られる記述は、18世紀初頭まで一切現れなくなりました。ゆえにCP派の継続説に立つ方々は、自らを『継続論者』とは呼ばず、むしろ『復興論者』と呼んだほうが良いのではないかと思います。

 

 

 カルトばかりが

使徒・教父時代以降の異言の現れは、上記モンタノス派を含め、常におかしな異端的カルト的グループによるものでした。正統なキリスト教から離れているグループが、聖書の描写からは程遠い異教の神秘体験を真似た形態で、異言や預言の賜物を行使していると主張してきました。以下の説明を読めばおわかりになるでしょうが、その様子は現代の過激なCP派の状況に酷似しています。

 

カミザール

1700年代初頭、プロテスタント鎮圧に対抗した反乱軍のグループ。セクト的文化の中、異言預言や恍惚体験をしたものが選ばれた少数の霊的権威とされ、グループ内での権力に大きく影響していました。

 

ヤンセニズム

1700年代のカトリックの異端。異言や激しい痙攣のような神秘体験を奨励し、セクール(エロティックで暴力的な拷問)にふけるようになり、降霊、拷問、終末論的・反逆的なレトリックに従事し続けました。1762年、パルメント(地方行政機関)は「人命にとって潜在的に危険な」彼らの行為を犯罪としました。

 

シェーカー

1747年〜のアメリカの異端で、三位一体を否定します。開祖アン・リーは、自らが再臨のキリストだと説きました。セックスを禁じ(夫婦間でも)、養子縁組や改宗で信徒を増やすべきだと教えました。名前の通り、体を激しく揺さぶり熱狂的に踊ったり異言を語ったりするのが大きな特徴です。

 

モルモン

1830年創設。三位一体を否定し、イエスは被造物であり、悪魔の兄弟であると教えます。19世紀末まで盛んに異言の活動をしました。

 

 

 ホーリネス運動

19世紀後半、それまでカルト的集団に限定して散見された恍惚的な神秘体験や異言、その他の秩序を欠いた『霊の現れ』が、正統的な神学を持つ教派に初めて起こりました。そのきっかけは、以下の通りです。

 

ジョン・ウェスレー(1703-1791)

メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは、キリスト教体験には2つの異なる段階があると教え、 第1の祝福「新生」において信者は許しを受けてキリスト者となり、第2の祝福「全的聖化」において信者はきよめられ聖となると説きました。しかしウェスレー自身は、完全な聖化は行いにおいてではなく、信者の動機において行動を規制していくものであると信じていたようです。

ウェスレーの死後、その信者の中には彼のメソジスト主義を堅苦しく、制限的であると感じるようになった者が多く現れ、また多くの指導者が聖化あるいは聖性の探求の重要性を見失ってしまったと考えました。こうして、幻滅したメソジストたちを中心とするホーリネス運動が1860年代に誕生します。ウェスレーの聖化教理を再び強調する願望とともに、その多くの説教者は聖化が瞬間的な出来事であり、キリスト教の完全性に見合った全き聖化という、神秘的体験であると説きました。

 

火の洗礼を受けたホーリネス教会(1896-)

1896年、ウェスレアン神学者ジョン・フレッチャーの神学を標榜する『火の洗礼を受けたホーリネス教会』と呼ばれる教会がアイオワ州に出現します。指導者らは回心が第1の祝福、聖化が第2の祝福とし、それを補完する『第3の祝福』を求め始め、それを『聖霊と火のバプテスマ』あるいは単に『火』と呼ぶようになりました。『火』を受けた人々は大声で叫び、異言を話し、トランス状態に陥り、さらに痙攣のような様子を見せました。ホーリネス派の人々は、第二の祝福である聖化(ホーリネス)と聖霊によるバプテスマを同時に起こる事と考えていたので、この新しい解釈はホーリネスの多くの人々に大きな懸念と拒絶を引き起こしました。

 

『聖霊と火のバプテスマ』の浸透

この『聖霊のバプテスマ』の急進的な教えは、ウェスレアン・ホーリネス運動やハイヤーライフ運動の中で、殊更に強調されました。復興主義(初代教会に戻ろうというもの)、信仰による癒し聖霊の性質と働きに重点をおいた教えが、この新興のカリスマ派、ペンテコステ派の中心となり、キリストの再臨が近いと信じる人々は使徒的な力、霊的賜物、奇跡的行いが終末期にリバイバルするのだと期待したのです。D・L・ムーディやR・A・トーレイ達は、これらの事はすべてのキリスト教徒が体験できるものであり、信徒は『聖霊のバプテスマ』によって世界を福音化する力を与えられると説きました。以降、様々な教会やキャンプ集会が『第三の祝福』の体験を求めるようになりました。上記の超自然的な能力が約束される中で、異言はいとも簡単に『模倣・習得できる奇跡的賜物』でしたから、皆が夢中になって追い求めただろうことは想像に難くないです。このような変化に対し反対運動もありましたが、その反対運動が信者たちの思いに火をつけることにもなったと言えるでしょう。ただし、その『異言』が聖書のいう異言と同質のものであったかは、誰も吟味することはなかったようです。次のパートで、それがどのように明るみになって、彼らがどのようにその『異言』を正当化したのかを説明します。

 

 

Ⅳ. 現代のカリスマ・ペンテコステの開祖達

 

ここでは19世紀後半からの、現代のCP派に直接的な影響を与えた人物に着目します。

 

ジョン・アレキサンダー・ダーウィー(1847-1907)

1800年代後半に活動した、カリスマ派の先駆者。International Divine Healing Association(国際神癒協会)を創設し、有料会員だけを癒やしました。国内外で不動産詐欺、保険金詐欺、献金詐欺を何度も働きました。数都市に教会を建て「あらゆる病は悪魔の仕業であり、キリストを信じれば永久的に健康な体を手に入れられる」「什一献金をしないと病気になる」などと教え、すべての医療行為を神の癒やしを信じない不信仰の罪として禁じ、脅迫まがいの教えにより信者を支配しました。「癒やされないのは信仰がないから。信仰があれば癒やされる。」「献金をケチってはならない。ケチれば主も癒やしをケチる。」「良くならないですか?ああ、それはあなた自身の問題です。主に信頼していないか、隠れた罪があるか、どちらかです」などの、インタビューでの発言の記録が残っています。また、自分は再臨のエリヤだと主張しました。

 

フランク・サンフォード(1862-1948)

ダーウィーの教えに触発され、1900年代初頭に活動した、終末論セクトの指導者。森の中で「アルマゲドン」という神の声を聞き、宗教組織シャイロを創設しました。1000人の弟子に財産すべてを捧げさせ、外出を禁じました。子どもにも長期の断食を強制しました。「病気になるのは魂が病んでいるからだ」とし、病気の子供達は「神と和解するまで断食」を強いられ、治るようにと叩かれました。このように多くの死者を出し続け、サンフォードは殺人で逮捕され、彼の率いる団体施設は法律により強制散開となりました。また、自分は再臨のエリヤだと主張しました。

 

チャールズ・フォックス・パーハム(1873-1929)

パーハムはフランク・サンフォードの弟子であり、CP派の父と呼ばれています。「ベテル癒やしと預言の学校」を創設。「癒やしの福音」を教えない牧師は神の前に恐ろしい呪いを受けると信じ、それを広く説きました。サンフォード同様に医療行為を否定し、弟子達にその信念を強制しました。「契約の箱詐欺」と呼ばれる事件では、自分は失われた契約の箱の正確な位置が分かると言い巨額の献金を得ましたが、もちろんそれは見つからず、献金を自身の団体の活動や自身の利得のために用いました。「金製造機詐欺」というのもあります。「石を金に変えられる機械を持っている」と公言し、そのための費用を騙し取る詐欺行為を働きました。また、自分は再臨のエリヤだと主張しました。CP派のパイオニアには、なぜか再臨のエリヤがたくさんいます。

 

※重要※

上記「ベテル癒やしと預言の学校」では、「異言は外国語である」と聖書的に正しい理解を教えていました。「聖霊を受けていれば、異言の賜物を持っているはずだ」と主張しました(これは聖書的ではない考えです)。パーハムにこの異言の賜物の継続を確信させたのは、アグネズ・オズマンという一人の学生でした。彼女は集会で『異言』を語り始めると、周りにいた人たちが「彼女は中国語を話している」と言い出しました(その中には誰一人中国語を話す者はいなかったのですが)。彼女はその日の日暮れまで、中国語しか話せなくなってしまい、その上に話すだけでなく書くこともできたそうです。その時に書かれた中国語の、実際の画像が残っています。それがこちらです。

 

画像出典: The Topeka Outpouring, by Larry E. Martin 

© 1997 Christian Life Books, P.O. Box 2152, Joplin, MO 64083.

 

現代の我々ならば、誰が見ても偽物だとわかります。当時ももちろん、数日後に大々的に報道された時点で、彼女の異言は偽物だったのは周知の事実となったのですが、パーハムは頑として認めず、誤った異言の賜物を信じ込んだ学生達を、インド、中国、日本に派遣しました。インタビューでパーハムは「主は私たちに異言の賜物を使う力をくれるのだから、学校で言語を学ばなくとも様々な国の人と話すことができる」「今頃彼ら(外国に派遣された学生たち)は異言の賜物を受け、現地のこれと思う人達と話をしているはずだ。ベテル学校の学生は、旧来の方法で語学の勉強をする必要はないのだ」などと話しています。しかしその後の調査において、その18人の学生ら自身の証言により、異言(現地の言語)を話すことができたことは誰一人、ただの一度もなく、失意のうちに帰国したことが判明しました。

このことをきっかけに、CP派は「異言」の定義(実際はでたらめ言葉だが、実際の言語だと信じて話していた)を「外国語」から「意味不明な祈りの言葉」に変えることを余儀なくされたのです。この認識が現代まで続き、CP派の教会の標準となっています。18人の学生が落胆し帰国したこの時から、『異言』のこの間違った定義が、異端ではないキリスト教会に流布され始めたのです。

よくよく、覚えておいてください。現代の異言の発端は上の画像の『中国語』であることを。尊い御霊の賜物を、おもちゃのように扱っているのです。聖霊様の冒涜とは、まさしくこのことではないでしょうか。

 

ウィリアム・シーモア(1870-1922)

パーハムの「ベテル癒やしと預言の学校」の卒業生の一人です。『アズーザ・ストリート・リバイバル』と呼ばれる現象で、一躍有名になりました。シーモアは、1906年にLAでパーハムの教理を伝え始め、「異言が聖霊のバプテスマの証である」と説きました。実は彼自身は、その当時異言で話すことはできなかったのですが。

この『リバイバル』では、床に転がるなどの恍惚的な奇妙な身体行動、異言預言、獣のような遠吠え、ドラマチックな礼拝、当時は稀であった異人種混合の集会などが話題を集めました。多くの牧師が全米から見学に訪れ、その人気を得ようとアズーザで見た活動の様子を自分の教会に持ち帰り、地域に広めました。しかし、そのあまりに興奮し混乱した状況が収拾のつかない事態に陥り、周辺住民からの苦情や警察通報も頻繁になりました。困惑したシーモアは、師であるパーハムにこの状況をどうしたら良いかと相談しました。パーハムは現場の状況を見て「これは悪霊によるものだ」と彼に言ったそうです。

一方教義においては完全な聖化を強調し、信徒に禁欲主義を徹底しました。キリストの再臨が間近であると執拗に繰り返す事で信徒の焦りを呼び、神学的学びの不十分なままの宣教師を多くの国へ送りました。そのような無秩序な牧会と教理を続け、分裂やスキャンダルを繰り返し、始まりから3年ほどの後にはこのブームは終焉を迎えました。しかしその影響は各地に及び、現在のCP派の教会の基となっています。

 

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