弟子であること
弟子とはどのような者か
世界中には、クリスチャンであると主張する人が大勢います。実際、私たちの教会の兄姉に「あなたはクリスチャンですか?」と尋ねた場合、ほとんど全員が即座に「もちろん!」と力強く答えるでしょう。しかし、彼らに「あなたはイエス・キリストの弟子ですか?」と尋ねた場合、多くの人はそれほど即座に答えることはできないでしょう。正直に「イエス・キリストの弟子だとは言えない…」と打ち明ける人もいるかもしれません。
この矛盾は大きな問題です。それを聞きたくない人、それを説教したくない牧師が、多くいることが原因かもしれません。しかし聖書によれば、クリスチャンとイエス・キリストの弟子には何の違いもありません。すべてのクリスチャンはキリストの弟子なのです。弟子とは、キリストを信頼し、その信頼に基づいた生き方をする、すなわちキリストに従う者です。聖書を読み、調べ、聞き、学び、キリストの恵みと知識においてキリストのことばから学び成長する者です。
ギリシャ語の新約聖書で「弟子」を意味する言葉は、「学ぶ」を意味する語源から派生しています。このことは、イエスの最初の弟子たちの生涯に現れています。彼らは約3年間、イエスを見つめ、聞き、共に過ごし、共に働きながら、イエスを学びました。そしてイエスの復活後、彼らは40日間、キリストの御国について教えを受けました(使徒1:3)。弟子とは「学ぶ者」です。したがって、キリストの福音を聞いて、内容を理解し、それを信じる者は「キリストから学ぶ者」、すなわち「キリストの弟子」です。学びの過程を経ずにクリスチャンになることはできませんし、真にクリスチャンになったのならば、その人は聖書からキリストに教えられ続けたいと願うのです。
実際、新約聖書において「弟子」という言葉は「信者」と同義に使われています。使徒の働きには「弟子たち」の活動が頻繁に登場します。その中で「弟子たち」という言葉は27回使われていますが、「信者たち」という言葉は1回しか使われていません。使徒6:2で十二人が「弟子たち全員(※文字通りには「大勢の弟子たち」)を呼び集めて」というのは、本当に献身的なクリスチャンを選び出し、献身的でないクリスチャンと分けたという意味ではありません。以下の聖句よりご確認ください。
すべての「弟子」(本質でなく呼称として)が正しい理由で付き従うわけではありませんが(ヨハネ6:66; マタイ8:21-22参照)、新約聖書には、多少なりともキリストに従い、キリストから学ばない信者は出て来ません。キリスト者は、キリストに信仰を認められ永遠のいのちを得るために従うのではなく、新しく造られた者として、羊飼いキリストの声を聞き(すなわちみことばを学び)、従うのです(ヨハネ10:16, 27)。
「クリスチャン=弟子」ではない?
FG陣営によるクリスチャンと弟子の区別の議論において特筆すべきは、マタイ11:28-30の不自然な区分による解釈です。
A.招きの分割
FG論は、この3節を2つの部分に分割し、28節は救いへの招き、29-30節は弟子の招きであるとします。しかし以下の点でその論は脆弱です:
- 悔い改めない民を悲しみ叱責し、その恐ろしい結末を警告したあと、イエスは御父への祈りの中で、永遠の昔に定められた選びと救いを宣言する。それに続くのが、これらの3節である。生きるか滅ぶかの緊迫した警告と祈りのあとに、救いよりも多くの言葉を用いてその後の聖化について勧めているとするのは、文字通りの自然な解釈を逸脱している。
- 通常の解釈の逸脱を裏付けるに値するような、分割を示す文法的根拠がない。イエスは「第一に」「次に」などの接続語句を使用せず、「来なさい」「負いなさい」「学びなさい」と単純に動詞の命令形を列記している。
B.「わたしのもとに来なさい」
「イエスのもとに来る」=「イエスに信仰を持つ」であることは明白ですが、はじめの概要で述べた通り、FGの「信仰」の定義が聖書全体の指し示すそれとはかけ離れています。逆の見方をするなら、FGの説く「信仰」が29-30節にある委ねや服従を含まないものであることから、この3節の美しい信仰への招きを真っ二つに切る解釈を絞り出す必要があった、ということです。
「わたしのもとに来なさい」とは、イエスがその後のことはどうでもいいと思っているという意味ではありません。主は幾度となく「来なさい」「ついて来なさい」と命じましたが、それは決してただ「来る」だけの命令ではなく、その招きに応じた者たちのその後の様子は、ただイエスのところに行って何かをもらって、あとは自由に暮らす、というものでもなく、29-30節のもう二つの命令に従う姿でした。
C.anapauoの解釈
FG論者は、ひとかたまりの文脈の中で複数回使用される語が、1節後には違う意味を持つのだと主張します。彼らの論点を以下にまとめました:
「フリー・グレイス」神学は、anapauoを「永遠の休息」(救い)と「魂の休息」(内なる平安)の 二つに区分します。しかし、聖書の本文にはこれを支えるための明確な根拠はありません。正統な解釈学への反逆であり、先に述べた通り文脈からの自然な文字通りの解釈から逸脱しています。anapauoは特にヘブル4章で、神と和解することから生じる包括的かつ完結的な神との平和と捉えられており、「救い」の文脈を持つこの章においても、単なる感情的な平和や霊的な成熟を意味するものではありません。
D. 「わたしは心が柔和でへりくだっているから」
聖書は心のへりくだった者への救いを、繰り返し繰り返し語っています。救いに人々を招いているこの箇所でもそれに言及し、へりくだった主に倣い(ピリピ2:6-11)身を低くして救いを乞い願う必要を説くことは、とても自然なことです。しかしFG論者は、これを救いとは関係のないことと説きます。
E. 「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」
「くびき」とは何でしょうか?ユダヤ人は日常的にこの比喩を使いました。「くびき」とは服従のことです。つまり、「私はあなたのくびきを負います」と言うことは、「私はあなたに対して、文字通りあなたの意志に任せて、あなたの命ずるすべてに服従します」ということです。ところで、よく聞くのは家畜の例を用いて「イエス様がともにくびきを負って歩んでくださる」という説明ですが、くびきは人間の奴隷にも使われる道具です。聖書では動物用のくびきの記述はごく少数であり、旧約聖書の「くびき」の使用のほとんどは、圧政や奴隷状態のもとで苦しむ人々の状況を表現したものです(多すぎるのでご自分で「くびき」で引いてみてください)。その上で考えていただきたいのですが、その負うべきくびきとは誰の所有でしょうか?くびきをかけられている人や動物が持っている、マイくびきでしょうか?いいえ、くびきの所有者は、そのくびきを自分の意図するところに引いて行かせる、権威者です。イエスが「わたしのくびきを負って」と言うとき、主は一緒にそれを負っているのではなく、その進む方向を指示しているのです。それをまず確認してください。
転じて、CのFGによる解説に正しく示されているように、ユダヤ文化の中の「くびきを負う」という表現は、ある教師の弟子になることも意味します。その意味だと、イエスはここで「私をあなたの教師として服従しなさい」と命じています。これが、先程も述べたマタイ28章の大宣教命令において、服従と従順の問題が強調されている理由です。そこには悔い改めがあり、信仰があり、服従があります。私たちは自分の堕落の悲惨に絶望し、救いが必要であることを認め、十字架につけられた主のへりくだりと従順を学ぶことで救いを請う信仰が与えられるのです。
F. 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
なんと麗しい愛の言葉でしょう。イエスはあなたの意に反して圧迫することはありません。第一ヨハネ5:3には「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」とあります。神の命令を守ることは、私たちの喜びなのです。実際、私たちはイエスを愛しているから、イエスに従います。主を愛しているなら…どうするのでしたか?「わたしの戒めを守るはずです」と主は言いました(ヨハネ14:15)。律法のくびき、行いのくびき、つまり人間の努力、重く、苦しく、苛立たしい、耐え難い重荷のくびきは、絶望と死をもたらしますが、イエスのくびきは喜びの首飾りであり、永遠への朽ちない希望を告白する賛美の歌です。
すべてのクリスチャンは弟子であることを、FG論者がそうではないことの証明としてしばしば用いる、マタイ11:28-30から解説をしました。最後に、主イエス・キリストご自身の、天に昇られる直前のことばを読んでください。
先述の使徒11:26やⅠペテロ4:16-19に優って、これらの並行箇所を通して主ご自身が、クリスチャンと弟子の同一性を明確に語っています。「あなたはクリスチャンですか?」「あなたはキリストの弟子ですか?」…1番目の質問に対する答えがYESならば、2番目の質問の答えもYESです。2番目の質問の答えがNOやMaybeならば、1番目の質問の答えもNOかMaybeとなるでしょう。吟味しましょう。
