異言の賜物 パート1(第一コリント14章1-5節)
(ジョン・マッカーサー師による異言の賜物の考察です)第一コリント14章では、コリントの集会で大きな問題となっただけでなく、控えめに言っても、現代でも大きな問題となっている異言についての真理を、時代に即して語っています。彼らは、神が賜物として与えた異言の有り様を混乱させ、偽造し、本物を悪魔の偽造品に置き換えてしまったのです。ですからパウロは、この問題を扱うために一章を書かなければなりませんでした。真の異言とは真の異言の賜物があることを思い出してください。神が初代教会に賜物を与えたとき、いくつかの奇跡的な賜物を与えましたが、それは新しい時代のメッセージの正当性を証明するしるしとなるようにデザインされたものでした。神は過去に預言者たちを通して先祖たちに語られましたが、この終わりの日に御子において語られ(ヘブル1:1-2)、新しいメッセージを送りました。それは特にユダヤ人達に、これは新しい時代であり、新しい啓示があり、神が再び語られていることを知らせるためでした。それに付随して、しるしと不思議がありました。そのひとつは、使徒たちや彼らとともに働いていた者たちが、神の霊感を受けて知らない言葉を話すことができた、というものです。それが異言の賜物でした。また、それは常に言語、つまり外国語を話す能力でした。使徒の働き2章では、「私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞く」(8節)とあります。ちなみに、使徒の働き以降にこの賜物が言及されるのはコリントだけですが、それはコリントがあまりにも混乱していて、混沌としていたことに理由があります。当時のコリントの状況を見ると、彼らは本当の賜物を偽造して、異教徒の恍惚とした話し方で代用していたことが見て取れます。真の賜物が恍惚を呼ぶ異言と混同されました。偽造品だったのです。このような恍惚状態や語りは、異教にはよくあること、非常に一般的なことです。Ⅰ. コリント教会の実情腐敗した教会コリントの人々は、自分たちが属する土地の文化を、自分たちの集会に浸透させることを許していました。例えば、最初の4章によると、彼らは皆、人間的な哲学にとらわれていました。世と同じような偉人崇拝カルトがあったのことが3章に書かれています。彼らはひどい、粗暴な、性的不道徳に関与していたということが、5章と6章に書かれています。6章には、彼らが法廷で互いに訴え合っていたとあり、7章では彼らが家庭と結婚をめちゃくちゃにし、それ全体の間違った価値観を持っていたことがわかります。彼らは異教徒の祭りや偶像崇拝、偶像に捧げられるものについて誤解していました。8章、9章、10章にそのことが書かれています。11章では、教会における女性の適切な位置づけを間違えていました。12章では、霊的な賜物について、間違った解釈をしていました。そして、愛という一つの偉大なものを見失ったことを書いたのが13章です。異教の影響彼らは、社会に存在する悪魔的なシステムの全容を教会に侵入させてしまいました。そして異教の宗教が入り込み、そのエクスタシー、エロティシズム、官能的なものが入り込み、彼らはそれを全部まるごと取り入れたのです。そして、全体が真理と誤りの混じり合ったものとなってしまいました。現代のローマ・カトリックは、聖書の中のキリスト教と古代のバアル崇拝、そしてアスタルトとタンムーズとして知られていた母子崇拝が結びついたものですが、コリント教会でも同じようなことが起こりました。一部はキリスト教、一部は異教というように、様々なものが結びついていたのです。異教の異言・官能的恍惚の求めコリント教会の時代のグレコローマン世界を研究すれば、彼らにはさまざまな祭司や巫女がいたことがわかるでしょう。神々に帰依する人々は、これらの大きな神殿に行き、祭司や巫女を崇拝し、その信者が恍惚状態に陥るのはごく普通のことでした。恍惚状態(ecstacy)とは、自分自身の外に出て行くという意味です。文字通りの意味で、自分自身を見失うことです。彼らは正気を失ったり無意識の状態になったりと、あらゆる種類の不自然な現象、心霊現象が起こります。彼らは、自分の魂が文字通り肉体を離れ、宇宙に昇り、自分が崇拝している神々とつながり交信し始めると信じていました。そして、その神々と交信し始めると、神々の言葉を話し始めるのでした。これは彼らの文化ではごく普通のことでした。コリントの信徒への手紙で使われている「glōssais lalein」(異言で話す)という言葉は、聖書記者が考案したのではなく、グレコ・ローマ文化でよく使われていた言葉で、異教徒の恍惚状態、つまり体外に出て神とつながり、神秘的に神々の言葉を話し始めることを指したものだったのです。ギリシャでは、この恍惚とした宗教的体験を表す言葉さえありました。それはなんと「エロス」という言葉です。この言葉は官能的な愛と訳されますが、実はこの言葉はもっと大きな意味を持つ言葉なのです。簡単に言えば、官能的なものへの欲求、エロティックなものへの欲求、恍惚状態への欲求、究極の経験や感情への欲求、ということです。彼らが持っていた宗教は、エロティックな宗教でした。それは、知性ではなく感覚で捉えるものとして作られた宗教でした。官能的で恍惚とするような宗教だったのです。これらの宗教を研究すると、彼らが寺院や巫女のところに行き、乱交していたことがわかります。このようなエロティックで性的で官能的で恍惚に浸る経験や神の言葉とされるでたらめ言葉のような、バビロンで生まれコリント社会に入り込んだ神秘宗教が、雪だるま式に大きな影響となったのです。このようなことが起こったことを物語る膨大な歴史的情報があるのです。その情報をすべて読み上げる時間はありませんが、このようなことが起こったことを物語る、とてつもない歴史的情報があります。Ⅱ. 現代のカリスマ・ペンテコステ派の実情コリントの再来今、カリスマ運動の中で起こっていることは、コリントで起こったことをそのまま再現しているのではないかと危惧しています。教会が死んでいるため、聖霊の真の働きについて何年も無知であったため、また多くの場所で本当に緻密な聖書の教えがなかったため、そして目をみはるようなことが何も起こっていなかったため…教会の人々は手を上に伸ばし、神を感じたい、現実に神を体験したいと思い、刺激を求めるようになりました。サタンによる偽物が流れ込んできたのです。カリスマ運動で今起こっていることは、単に、コリントの再来です。教会は異教徒の宗教と再び結婚し、感覚的、感情的、体験的、エロティックな宗教と同じアプローチを作り出しました。この宗教に関わったいろいろな人たちに話を聞くと、彼らの経験のは非常に似たようなものであることがわかるでしょう。非常に官能的で、非常に感覚を重視したものです。感覚を求めて一つの例を挙げましょう。ペンテコステ運動の元リーダーが書いたパンフレットがありますが、その中で彼はこう証言しています。「ついに、私はシカゴの西63丁目328番地の伝道所に行き、一つだけ質問をしました。『なぜ私には聖霊のバプテスマがないのですか?私に何か問題があるのでしょうか?』。良き友人たちは私と一緒に祈り、何も問題はない、ただ待てばよいと言いました。主よ、彼らが正しかったことを感謝します。「3月17日の日曜日の午後、私は初めて講壇にひざまずきました。すると力が湧いてきて、その後の聖餐式ではずっと笑っていました。夜11時頃、数人の友人と一緒にひざまずき、祈っていました。長老の○○さんは午後から夜にかけて数回、短時間ですが私の頭に手を置いて下さいました。そして、少し待つと、私は笑い出しました。というより、笑う道具として私の体が使われている感覚でした。ますます力強く笑うようになり、30分以上、仰向けになって声の限りに笑い続けました。私は新しいぶどう酒に酔っており、いろいろな意味で泥酔した者のようであり、喜びにあふれていました。跪いて再び主に向かうと、私は突然、言葉にならないほどのうめき声で懇願する力に襲われ、罪人の私を憐れんでください、主と共にどこまでも行きたいと告げました。この祈りの力があまりにも大きく、耐え切れず、突然目を開けると、数メートル先に立っていた長老が殴られたように倒れていたのです。私はほっとしたのも束の間、そのまま立ち上がって『栄光あれ!』と大声で叫んでいました。再び跪いたとき、目の前が暗くなり、私は床に転がされ、しばらく意識を失いそうになりました。そしてまた意識が戻り跪いたとき、私は自分のあごと口が奇妙な力で動かされているのを感じました。数秒後、赤ん坊のような言葉が発せられ、次に私が理解できる中国語の単語がいくつか発せられ、それから奇妙な言葉でいくつかの文が発せられました。これが歌になり、3日後の水曜日まで、再び異言を発することはありませんでした。さて、ここで何が起こっているのでしょうか。あらゆる感情体験、あらゆる感覚的なもの、つまり、頭ではなく感覚によって理解されるものです。これは異教徒の宗教に非常によく見られることです。ちなみに、プラトンはキリスト以前の紀元前429年から347年まで生きていましたが、その著書の中で、何ページも何ページも、こうした異教徒の言語的恍惚体験を描写しています。これは何もキリスト教だけに属するものではなかったのです。キリスト教において異言の真の賜物とは、神がそこにおられ神の民が神の真理を語っているということのしるしとなるように、その言語を話す人がいるときにのみ用いられるものでした。決して異教徒と混同されることを意図したものではありません。しかし、いつもそうですが、神様が何かされると、サタンがそれを偽造して問題を混乱させるのです。サタンによる偽の働き初代教会における聖霊の真の啓示の働きを曇らせるために、サタンは偽りの啓示、偽りの幻、偽りの異言という煙幕を張りました。ですから第一ヨハネには、「偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい」(4:1)と書かれています。偽物の餌食になるのは簡単です。コリントの人々は、この世の霊と結婚することを決め、犠牲者になったのです。サタンはこの世の神と呼ばれ(2コリ4:4)、サタンは不従順の子らに力を与える霊と呼ばれている(エペ2:1)ことを忘れないでください。サタンは神のようになろうとする者であり、サタンは光の天使として姿を変えて現れます。彼は現実を偽り、教会に偽物を取り入れさせようとします。それが彼の仕事です。ですから、私たちは異教にその偽りの全容を見ます。そして、ここコリントでは、それが教会を飲み込んでしまったのです。私は、それが今日も同じように働いているのではないかと心配しています。新約聖書において、エクスタシー、官能、エロティシズム、我を忘れることなどは、聖霊の真の働きとは全く関係がありません。実際、14:32には、「預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。」と書かれています。クリスチャンは誰も自分の霊を手放すことはないし、制御不能にもなりません。神のデザインを無視して我をわすれたようになってしまうことは、決してないのです。だから14章の最後に使徒パウロはこう言っています「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」そうです、「秩序」です。皆がジャンプして、ある人は詩篇を、ある人は教義を、ある人は啓示を、ある人は解釈を、ある人は恍惚状態で語り、ある人はビジョンを見…そういうことは聖霊のやり方ではありません。それは教会を飲み込んだ異教的な混乱です。当時のそれは、ある意味「流行っているもの」でした。コリント文化の時代を支配していたバビロンの神秘宗教は、あらゆる儀式や誓い、洗礼、動物犠牲、祝祭、断食、罪のための沐浴、例えば凍った川に沈めるとか、何キロも膝をついて這うとか、そういったものを作り出していました。インチキ宗教のようなものばかりで、恍惚とした語り、幻、預言もすべてその一部でした。そして、そのすべてがコリントにやってきました。コリントのクリスチャンの集会に行くことは、完全なカオスと混沌の中に入っていくことだったのです。12章には、人々が実際にイエスを罵り、人々は「ああ、これは聖霊に違いない」と言ったことが見て取れます。「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」と言う必要があったのは、そのためです。ただただ、混乱。ギリシャの異教の荒々しい熱が、コリント教会で狂気となりました。今日私たちがカリスマ運動で見るものは、異教に教会が飲み込まれるのと同じ類のものです。自分の人生を変えてくれるものが何もない教会に、長い間座っていた人々の感情にインパクトを与えることにより、この偽物が受け入れられているのです。パウロはそれを正すために、14章を書きました。Ⅲ. 異言の賜物は二の次:理由その①14章を3つのパートに分けます。異言の賜物の順位(1-19節)、異言の賜物の目的(20-25節)、異言の賜物を使用する方法(26-40節)。まとめると「順位は二の次、目的はしるし、方法は体系的」となります。この章は、この3つの素晴らしいことを述べています。異言の賜物の位置づけまず第一のポイントは、賜物の順位です。パウロは異言について話したいのですが、まず第一に、他の賜物との相対的な順位を理解させたいのです。その順位は、二の次なもの、最重要ではないものです。その1つ目の理由は最初の5節にあります。なぜ異言の賜物は二の次なのでしょうか。なぜ異言の賜物は預言の賜物より劣るのでしょうか。彼はその2つの比較対象を意図的に使ったのです。預言は教会全体を成長させるが、異言は役立たない―それが第一原則です。預言が異言より優れているのは、預言は教会を成長させ、異言は成長させないためです。これは重要なポイントです。14:1-5で言っているのはこのことです。そして、この立場が二の次なものである理由はもう二つあり、19節までに3つの理由が出てきます。最初の5節は、異言は成長させず預言は成長させることができるため、異言は二の次なものである、と述べています。14章のポイントは『教会の成長』教会が集う目的は何でしょうか。それは非常にシンプルで、「成長させること(注:規模ではなく信仰において)」「建て上げること」です。14章の26節には、最後に「すべてのことを、成長に役立てるためにしなさい」と書かれていますし、12節にも「教会を成長させるために」とあります。つまり、ポイントは 「教会の信仰的成長」です。4節には「預言する人は教会を成長させます」、5節には「教会の成長に役立つのでないかぎり」。この章を通して、同じことが何度も何度も繰り返されています。31節 「だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように」。何度も何度もです。この書簡のポイントはそこなのです。教会が集うのは、教会の成長のため、つまり互いを建て上げるためです。パウロはこう言っています。「異言は、特にあなたがたの異言のような本物でもないものは、成長させることはできない」これが1-5節の基本的な命題です。1節愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。「愛を追い求めなさい」は、むしろ13章に入るべき文です。「今、最も偉大なことを教えました。それは愛です。あなた方が追い求めるべきは愛です。」とパウロは言っていますから。12章31節で、この章はどう終わっているでしょう。文脈から(命令文ではなく)平叙文に訳すべきだと思います(注:ギリシャ語では同じ文法であるため)。12:31で彼が伝えたい本心は「あなたがたは目立つ賜物を欲しがっている」です。「あなたがたは目立つ賜物を欲しがっているが、私はもっとすばらしい道を示そう。あなたがたは自慢できる賜物、目立つ賜物、劇的な賜物を追い求めることで精一杯だが、私はもっと優れた方法を示したい。愛を追い求めなさい。」そして、13章で愛についての素晴らしい教えを与えてから、同じポイントに戻ってくるのです。愛も霊的賜物も13章の愛についての説明は、括弧でくくったように挿入されています。14章の1節は「もしあなたが何かを熱心に求めるなら、熱心に愛を求めなさい」と述べます。「熱心に求める」は、ギリシャ語で「追いかける、追跡する」という意味の「ディオコー」という言葉です。この言葉はしばしば「迫害する」とも訳されます。とても激しく、熱く、意欲的に何かを追いかけることであり、文字通り迫害の様子そのものです。「もしあなたが何かを追いかけるのなら、何かを追い求めて走るのなら、それは愛であるべきだ」と。この「熱心に求める」という単語は、いろいろな訳し方ができますが、文脈からこの言葉は命令形だとわかります。そしてここで、ギリシャ語「de」があります。「de」は「but(しかし)」のようなものです。順接ならば「kai」ですが、これは逆接です。つまり「愛を追い求めなさい、しかし霊的なものも求め続けなさい」ということです。言い換えれば、「賜物の働きを求めるのをやめろと言っているのではないよ」ということです。12:31からつなげると「あなたは派手なことを追い求めているが、愛を追い求めるべきです。しかし賜物を、つまり文字通り霊的な領域を追い求めるのをやめないでください」。つまり「賜物による聖霊の働きを求めるべきだから、それは辞めないでほしい。賜物を捨ててしまえと言っているのではない。むしろ、愛を追求し、霊的な領域、聖霊の働きの領域、神の霊が行っておられる真のことを求め続けるのだよ。でも何よりも、預言することを求めなさいよ」と。異言は二の次。「あなた方が集う時、カオスと混乱とでたらめ言葉ではなく、明瞭な預言を求めるべきですよ」と述べているのです。預言とは預言とは何か。それはギリシャ語のprophēteuōから来ています。プロは「前に」、フェテーオは「話す」という意味、つまり「前に話す」という意味です。預言とは、誰かが誰かの前で神の言葉を話すことです。牧師は毎週日曜日に預言をしているわけです。これは未来を予言するということではありません。予言という言葉は中世になってから使われるようになったのであり、このギリシャ語にはそのような意味はありません。単に「誰かの前で話す」という意味です。ここでは「皆が同時に恍惚とした声で叫ぶ代わりに、誰かが皆の前に立って神の言葉を語るべきだ」と述べているのです。それが、本来あるべき姿です。異言による混乱や混沌よりむしろ、神の声を語る者が語る、それが預言です。当時はそれが啓示的であったり、またすでに与えられた啓示の再確認だったりしました。しかしここで言いたいのは、それはシンプルに、教会が集まって神の言葉を聞くことだったということです。主日礼拝でクリスチャンが行っているのは、まさにそのことです。恍惚とした表情や、感情的な表現、参加型メッセージではなく、一定の人たち(牧師)が神の言葉を語り、会衆はそれを聞きます。神はご自分の代わりに、教える賜物=説教の賜物=預言の賜物を持つ人を用いて語らせるのです。異言との位置関係「異言よりも、皆が聞いて理解できるものを求めなさい」とパウロは言っています。異言が劣っている明らかな理由は、誰も何を言っているのか理解できないことです。異言が使われるのは、誰かがその言葉を理解する時、または使徒の働きに繰り返し出てくるペンテコステのときのようなケースもあります。この場合はしるしとしての賜物であって、教会の成長にはまったく役に立ちません。理解できないのに、どうして成長させられるでしょうか。唯一成長させるのが可能なのは、誰かが理解するか、あるいは理解できるように解き明かししてあげるときです。このように、異言の目的は成長ではありませんでした。目的は、神が語っておられると示すこと、新約聖書の預言者たちや使徒たちが本当に神の声の代表者であることを示すしるしとしてあったのです。2節さて、2節に注目してください。ここが重要です。なぜ異言が二の次なものなのか、その理由はここにあります。異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。※翻訳の補足説明"ὁ γὰρ λαλῶν γλώσσῃ οὐκ ἀνθρώποις λαλεῖ, ἀλλὰ τῷ Θεῷ· οὐδεὶς γὰρ ἀκούει, πνεύματι δὲ λαλεῖ μυστήρια.""For one who speaks in a tongue does not speak to men but to a god, for no one understands, but in his spirit he speaks mysteries."「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、別の神に向かって語ります。だれも理解できませんが、その人の霊は謎めいたことを語るのです。」※後に説明彼の言葉に耳を傾けてください。パウロはこう言っています 「異教の恍惚に溺れているあなたがたは、人のために授けられた賜物を人のために使っていない。むしろ、あなた方の恍惚は異教の神に向かって話している。異教の神秘を語ることで頭がいっぱいになっているのだ」と。それは真の神のマステリオンではなく、パウロが与えた神秘でもなく、異教の神秘なのです。賜物は他の人のため基本的な、土台となる真理として、すべての霊的な賜物が、人に仕えるため、あるいは人に語るために与えられている、ということを忘れないでください。人のために、です。霊的な賜物は神のために与えられたのではなく、人のために与えられたのです。すべての賜物は、キリストのからだを築くために与えられており、互いに仕え合うためにあります。神様は私たちから何か賜物(ギフト)を受け取る必要はないのです、不完全ではないのですから。パウロは、「あなた方は、賜物の非常に基本的な使い方、つまり、それは人間のためのものである、ということを知らないでいる。あなた方は、人のためではなく、別の神のためにしているのだ」と言っているのです。ここでの「神」は冠詞のないアナルトゥールですから、「神、真の神(God)」ではなく、「別の神(a god) 」と訳したほうがいいです。つまり「あなた方は自分たちから離れ、何か別の神とつながり、異教の神秘を語り、霊的な賜物の第一の原則である、他の人のために使うということに違反したのだ」ということです。神はあなたが恍惚の表情で神と話すことを必要としていないのです。個人的祈りの言葉?:1つ目の曲解現代のカリスマ運動がまさにこの点で間違った解釈に立っていることは、私にとって驚くべきことです。彼らはコリントの過ちを繰り返し、異言の本質的な使用は神への個人的な祈りの言葉であると教えています。パウロがここで非難しているのは、まさにこのことです。パウロは言っています「あなたがたは的外れだ。ポイントは、賜物は人のために用いるものであるということだ。しかしあなたがたがしているのは、別の神との交わりであり、誰もあなたがたの言っていることがわからない。異教の神秘を語っているのだ。」…神様はそんな風に話しかけられることを望んでいません。話し手自身が理解できないような話し方で話しかけられることは、決して神の意図するところではありません。新約の書簡を見て、その中で祈られた祈りをすべて取り出してみてください。そして、聖書全体に記されたすべての祈り、イエスが祈ったすべての祈り、イエスが祈りについて語ったすべての言葉を調べて、祈りが理解不能なものであることを示唆する言葉が一体どこに見つかるか、調べてください。決して見つけることはできません。実はイエス様は全く逆のことを言われました。マタイによる福音書6章7節「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」見てください「異邦人のように」 この言葉は何だと思いますか?「無意味な繰り返し」=バタロゲオ。「ロゲオ」は「話す」という言葉で、そこから「ロゴス」という言葉が生まれました。そして接頭辞は「バタ」。これは単語ですらなく、英語で言うところのオノマトペ(擬声語)です。ハチが「ブーン」とか、ジッパーが「ジッ」とか、飛行機が「ビューン」とか。これは言葉ではなく、オノマトペと呼ばれるものです。バタも意味を持つ言葉ではありません。マタイ6:7は「あなたが祈るとき、『バタバタバタバタ』と意味のわからないことを言って神に近づいてはいけない」と言っているのです。これでわかるでしょうか。それは私たちの真の神が関心を持つようなコミュニケーションではなく、異教徒が偽りの神々に向かってすることです。つまり、当時の異教徒が神々に捧げている意味のないでたらめ言葉の存在をイエスは指摘していて、「それこそ、あなたがたが父に祈るときにやって欲しくないことだ 」と言っているのです。「常に分かるように祈ることだ。常に理解できる形で祈ることだ。」そうパウロも言います。「常に、私たちは自分の言うことを理解し、神にはっきりと話すべきだ」と。イエスが父に祈るために園に入ったとき、彼は天国の言葉で話しませんでした。なぜ、そうしなければならないのでしょうか?神が神と交わる会話、それははっきりとした言葉でした。イエスがラザロの墓のそばに立って、彼を死からよみがえらせようとしたとき、彼は祈りました。ヨハネは彼が祈ったすべての言葉を聞き、彼が言ったとおりの言葉でそれを書き留めました。ヨハネによる福音書17章を読むと、イエスと父との間の個人的な祈りは、原語から英語に美しく翻訳され、非常に明瞭です。しかし、肉的なコリント人たちは、現在のカリスマ主義者のように、目立って注目を浴びたい、自尊心を高めたい、感情的な『異言の賜物』を、霊性の勲章として使い、「ああ、私はこんなに霊的に高みに達したんだ」と言いながらそれを使っていたのではないでしょうか。「永遠の神と私語を交わすことができるんだ」と感じながら。神との個人的な祈りの言葉を使ってすごい体験をしていると思っていますが、それは(他の人にとってだけでなく)本人たちにとっても何ら良いものではないのです。なぜなら彼らは自分で何を言っているかについての知識がなく、ゆえに知性で学ぶこともない、ゆえにそれは官能的な恍惚に過ぎないからです。それは感覚であり、感情です。キリスト教は、決して感覚を前提にはしません。異教の偽の異言それはまさしく、異教そのものです。それでパウロは「あなたがたは全く誤解している。真の賜物で人のために話しているのではなく、何かの神秘で別の神と話しているのだ」と言っているのです。彼らが信じていた神秘とは、伝授された者だけが知る、隠された奥義でした。恍惚の境地に達して、自分の体から抜け出して、自分の神とつながったときだけ、その奥義を手に入れることができるというものでした。私たちクリスチャンは、救われたなら全員、奥義を伝授されています。秘密はありませんし、「あの人は持っている、この人は持っていない」ということもありません。パウロはいいます「あなた方は大事なことを見逃している。あなた方のやり方では、異言は人々に奉仕しない。いや、それは異言でもなんでもない。あなたがたの言っていることを、誰もわからない。しかし」3節「預言する者は人に向かって話すのだ」。3節しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。「あなた方には預言してほしい。あなたがたが人に向かって話すことによって、三つのことが起こるからだ。それは、成長させること、勧めること、慰めることだ。あなたは神のことばを語るのだ。そうしたら何が起こると思うか?人生が変わるのだ。まず第一に、彼らは成長させられる。第二に、新しい行いへの励ましを受ける。そして第三に、苦悩や傷の中で慰めを受けるのだ。それが、私があなた方に望むことだ。あなた方が集うとき、バタバタ、バタバタではなく、神の言葉が宣べ伝えられるのを聞きたいのだ。」ということです。4節異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。ではどちらが良いのでしょう?パウロは何を言おうとしているのでしょうか?教会を成長させること―この章のポイントは、これに尽きます。自分を建て上げることは重要ではないのです。どんな霊的賜物も、自分のために与えられているものは、一つもありません。もし人が霊的賜物を自分のために使うなら、その人は賜物を悪用していることになります。なぜなら、賜物は他の人のため、キリストの体を建て上げるためのものだからです。「自らを成長させる」とは?:二つ目の曲解「異言は自分を成長させると書いてあるじゃないですか?」これが二つ目の曲解です。あなたもそう問うでしょうか?しかし、これでは教会を成長させることにはなりません。そこがポイントです。「でも解き明かし(通訳)されたなら教会を成長させませんか?」それは異言の解き明かしの賜物が教会を成長させたのであって、異言の賜物自体ではありません。異言の賜物は教会を成長させるのに役立たないのは、誰もあなたの言っていることがわからないからです。「たとえ本物の才能が使われたとしても、本物を持った人が現れたとしても、それ自体では誰も成長させられない。解き明かされなければならない」と。5節の後半「異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり」です。素晴らしいことに、真の賜物が使われた時、それがしるしとして使われた時、神が真の賜物を使いたいと思った時、そしてそれがたまたまそこにいるクリスチャンに使われた時、神はそれが教会にとって無意味にならないように、いつも誰かに解き明かしをさせました。真の賜物が使われても成長させられない、ということがないように、神は解き明かしの賜物を下さったのです。しかし、コリント人たちがやっていた方法はめちゃめちゃで、異言を言うだけで教会を成長させられると判断していました。それは間違っています。この二番目の曲解に対する指摘は、賜物は人のためのものであって、あなたのためではない、ということです。しかし、有名なカリスマ派のドナルド・ジーは「異言の賜物の明らな目的は、主にデボーションのためであり、その事実を強調したほうが良い」と述べています。また、ラリー・クリステンソンは、「人は異言で話すのは、ほとんどの場合、個人的なデボーションの時である。これが異言の最重要な用途であり価値である。」と言っています。これはパウロが言っていることと正反対ではないですか。第一に、異言の賜物は神に語りかけるためではない、第二に異言の賜物はあなたのためではないのです。要は人のため、人のため、人のため、なのです。「異言で語る人は自らを成長させる」…パウロの書簡に時折見られるように、これはおそらく皮肉です。「自分のため」の否定パウロはすでに自己成長の努力というものを、これより前にかなり鋭く指摘しています。8章に戻り、8-9節をご覧ください。しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。これは偶像に捧げられた肉の問題です。「偶像に捧げられた肉を食べるのは悪いことではない。でも、それを悪いことだと思っている弱いクリスチャンもいる。だから、そんなことをしたら、彼らをつまずかせることになる。」そして10節。知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。知識があり、成熟した偉大なクリスチャンであるあなたが、偶像の宮で食卓を囲み、偶像の肉を食べているのをだれかが見たら「その人はそれに後押しされて」この「後押しされる」と訳されている語は、14章で「成長させる、建て上げる」として使われているのと全く同じ言葉です。「偶像に供えられたものを食べるように建て上げられ」、11節つまり、 その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。言い換えれば、あなたは誰かを害するように建て上げることができるのです。もしあなたが教会を建て上げるために賜物を使うなら、それは善のためです。もし、あなたが自分自身を建て上げるためだけに賜物を使うなら、それは利己的な行為であり、悪いことです。指摘したいのは、「成長させる、建て上げる」という語には良いことも悪いこともあり得るので、質的な議論に翻訳の原則を見つけなければならない、ということです。10章に移り、23節を見てください。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。「すべてのことが許されている」つまり「私は異言の賜物を持っていたので、使おうと思えば使えた」。しかし「すべてのことが益になるわけではありません。『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません」。誰を育てるのですか?答えは24節にあります。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。※直訳:「誰にも自分のために行わせないように、誰もが他の人のために行うようにさせなさい」「あなたにとって、すべてのことは問題ないかもしれない。しかし、自分にとって良いからやるのではなく、他の誰かにとって意味があるからやるのだ」ということです。それが、すべての霊的賜物のポイントです。「神に向かってでもなく、自分のためでもなく、教会のため」なのです。「だから、あなたがたが集まるとき、皆が自己表現や自己の成長を求めるのではなく、愛の行いをしなさい。」と教えています「(愛は)自分の利益を求めず(※直訳「自分のためのことを求めず」)(1コリ13:5) です。賜物は神に向けられるべきものでも、自己成長のためのものでもありません。異言は教会を成長させることはできませんが、少しワクワクを味わうことはできます。仮にその人たちが真の賜物を持っていて、その真の賜物を勝手に使って、ある種の自己満足を得るとしたら、パウロは「ほら、それは乱用ですよ」と言うのです。神が意図したとおり、人への愛ゆえに愛の方法で使うべきです。「たとえあなたがたが人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」そうパウロは断言します。5節私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。パウロはここまで、異言が二の次なものであり教会の成長に役立たないことを強調してきましたが、5節で真の賜物があり、真の場所があることを認めています。「あなたがたがみな異言で語ることを願います」パウロはなぜそんなことを言ったのでしょう。これが聖書に書かれていないことを望んでいる福音派の方も多いでしょうね。カリスマ派は「ほら、そう書いてあるだろう」と言いますから。皆が異言を語る?他の聖句に照らし合わせてみましょう。例えば12章30節には「皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。」…このギリシャ語の構文からわかる答えは「いいえ」です。12章11節では「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」とあります。では、できないと知りつつも、なぜパウロは「そうしてほしい」と言ったのでしょう?それは、誇張表現をしたからです。例えば、第一コリント7章7節です。ここでは結婚について話しています。「結婚は素晴らしい、良いことだ」と言っていますが、7節「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。」これはパウロの本心や神の命令なのではなく、強調するために不可能なことを願うと言っているのがわかります。第一コリント14章では「私は異言を軽んじているわけではない、誰もが本当の能力を持っていたらと思う」と言っているのです。それは素晴らしいことですが、彼はそれが真実でないこと、実現しないことを知っています。異言の優位性を否定する強い言葉に対して、真の異言の賜物が存在するのだということを強調するための、誇張表現なのです。「あなたがたには預言してほしい。皆が異言を話せばそれは素晴らしいことだろう。でも、皆が預言の賜物の恵みにあずかることができたら、それは異言よりはるかに素晴らしいことなのだ」と。異言は解釈されないと教会を成長させられない、教会に何の役にも立たないが、預言は成長させられる…それがパウロの言いたいことです。Ⅳ. その他の異言に関する議論ここに、とても興味深い脚注があります。2節と4節の「異言」(tongue)のところに、欽定訳の訳者が「未知の(unknown)」という言葉を前置きしたことに気づくでしょう。しかし、5節の 「異言 」(tongues)のところでは「未知の」がないのです。「未知の」を単数形の「異言」には付けて、複数形では外したようなのです。ある聖書学者は、パウロが単数形を使っていたときは、彼らの恍惚としたうわごとを指していて、それはすべて「でたらめ言葉」というひと括りであったからだと考えています。「でたらめ言葉」には種類がないのですから。「あなたは何のでたらめ言葉を話すの?」「私は〇〇のでたらめ言葉だよ」これはありえない会話です。しかし、パウロが真の異言の賜物に言及するとき、それは使徒の働きにおいてすべての人が自分の言語で使徒たちの話を聞いたときの、複数の異言=外国語を指しています。つまり、2節から4節までは「それは偽りの賜物だ」と言っていて、しかし5節では「正しい賜物は、その場で解き明かしされるならば良いものである」と言っているのです。この法則は、このあとの箇所でも繰り返されます。Ⅴ. まとめこの二つのことを確認しましょう:①教会は互いを成長させ、一緒に御言葉を聞くために集まること②異教徒の形態が神の純粋な教会の真理に浸透するのを防ぐために、私たちは警戒している必要があることサタンはその手口を全く変えておらず、常に教会に潜入し混乱させようとします。神が与えていないものを求めるのはとても危険です。サタンの偽物に、その可能性を大きく開くことになるからです。確かな御言葉の解釈に基づいてできる限りの備えをし、思うままにされている兄姉を助けることができるように、祈りましょう。※詳しくは"Strange Fire: The Danger of Offending the Holy Spirit with Counterfeit Worship"Grace To You