ある人たちにとっては理解し難いかもしれませんが、もう一度強調したいのです。これはカリスマ派の方々が言うように彼らを個人的に攻撃しているのではなく、今日起こっているこの特定の現象について神の言葉が何と言っているかを明確に理解しようと、できる限り努力しようという思いの故です。ですから、この解説は神の言葉からであり、神の真理を理解しようと努めているものであって、攻撃して来る人たちに対する反撃ではありません。皆が神の言葉の真理を理解してほしいという動機以外には、何の下心もありません。そのことを念頭に置いて、再び十四章に進みたいと思います。

 

 

Ⅰ. コリント書簡の背景

 

『異言』の認識

今日のカリスマ主義者やペンテコステ派の兄弟たちは、使徒2章と第一コリント14章の間に違いがあることを認識しています。そして、その違いを説明する方法は、たいてい次のようなものです「異言には2種類ある。使徒の働き2章の異言は実際の言語であり、第一コリント14章の異言は、自己成長のため個人的に一人の時に未知の言語で神に語りかけるための、恍惚とした私的なデボーション用のスピーチである」彼らはその違いを認識し、「異言の賜物は二種類ある」と言って、その違いを解決しているのです。

私も違いを認識しています。使徒の働き2章には真の異言の使い方があり、第一コリント14章には偽の異言の使い方がある。これがその違いの解決です。聖書は、異言の話し方には、言語と恍惚の二種類があることをどこにも教えていません。なぜそれがわかるかというと、使徒の働き2章では、第一コリント14章に書かれているのと同じ単語で賜物が説明されているからです。もし神様が区別したいのなら、別の言葉を使うでしょうが、そうではありません。それは、まったく同じ言葉です。これは、ギリシャ語で言語を意味する普通の言葉です。ですから、自分勝手に異言を使うことを、何か新しい特別な賜物であるかのように正当化することはできません。

 

コリント教会の人々

実際「コリントの人々が持っていたのは真の賜物であり、真に行使されたものだ」と言うことは、霊性の最も基本的な真理に反論することになると思います。当時のコリントの教会の実態では、真の賜物を現すことはできなかったでしょう。教会の特徴はこうです…「世俗的で、分裂を好み、我が強く、党派心が強く、肉的で、嫉妬深く、争いが絶えず、議論好きで、高慢で、自己顕示欲が強く、自惚れで、不道徳で、罪に妥協し、互いに騙し合い、姦淫を犯し、結婚は破綻し、弱いクリスチャンを不快にし、偶像を崇拝し、邪悪なものに欲情し、偶像を求め、悪霊たちと交わり、反抗的で、むさぼり、酒に酔い、貧しい人をあわれまず、主の食卓を汚している」…このような信徒の集まりが、真の聖霊の賜物を表現していると言えるでしょうか。その答えは明らかです。もしそうなら、霊性のあらゆる原則に背くことになります。信者は肉の中を歩むか、御霊の中を歩むか、どちらかしかできません。コリントの人々がしていたことについては、議論の余地はありません。まだこれが理解できないなら、3章や他の章を読んでください。肉の中を歩いているときは、聖霊の真の力による真の賜物は現われません。それは不可能であり、ありえないことです。

 

ですから、第一コリント14章にあるものが真の賜物だと結論付けてはいけません。彼らの人生で、他のすべてが間違っていたからです。ですからパウロは、ここまでの1~13章と同じように、コリントの集会での誤りを正すために書いているのです。自分勝手なやり方で異教徒的な恍惚の言葉を使うことが、あたかも聖霊によって与えられた異言の賜物であるかのように正当化されていたのですから。そして、真の賜物を持っている人たちでさえ明らかにそれを曲解して、自分の私的な祈りや、その場に未信者がいない時でさえそれを使い、自分を霊的に優位に立たせるためのある種の方法としていました。コリント教会に共通することが一つあるとすれば、それは、世の中のあらゆる制度に飲み込まれてしまっていたことです。このことも同じです。

 

異言の終焉

神は使徒時代に異言の賜物を与えられました。しかし13:8-12にあるように、それは途絶えました。ですからこの章は私たちにとって、とても難しいです。2000年の間、本物が存在しなかったのですから、それに関する詳細をすべて再構築することはとても困難です。私はこのテーマについて少なくとも50冊の本を読みましたが、その中ですべての詳細について同意しているものはまだ見つかっていません。これは驚くべきことで、福音主義者の間でさえもそうなのです。

そこで、私の推測を紹介します。その推測は、次の3点の明確に分かることに基づいてなされます。①コリントの人々は肉的であったということ、②彼らはこの異教的恍惚を会衆に浸透させたということ、③真の賜物は、それを理解する人に真の言語で話すことであり、それは彼らがしていたことではないということ、この3つです。紹介する過程で、確かなものが見えてくるはずです。

 

 

Ⅱ. 異言の賜物は二の次:理由②

 

 異言の賜物は二の次:理由①おさらい

前回、異言の賜物の順位は二の次だと言いました。なぜ二の次かというと、預言は人を成長させることができますが、異言はそうではありません。ですから、異言は二の次的な賜物なのです。26節の終わりに注目してください。この章全体の鍵になります。「そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。」つまり「何をするにしても、それが教会を建て上げるためにしなさい」ということです。同じフレーズが何度も繰り返されています。前回1〜5節で取り上げたポイント、二の次である理由①は、預言は会衆全体を成長させるということでした。

 

賜物は教会を建て上げるため

説明に入る前に一つ確認しましょう。1節は、クリスチャン個人が個人の賜物を求めているのではなく、教会のことを言っているということです。集会が開かれるとき、教会は預言の賜物を持つ人によるその現れを求めなさい、ということなのです。11章から14章までは、コリント教会の集まりについて書かれています。プライベートな時間や神との個人的な関係ではなく、集会の中でどのように振舞うかが書かれています。11章は、女性が集会でどのように振舞うべきか、また、彼らが集会のときに、聖餐(主の晩餐)と愛饗をどのように扱うべきか。12章では、彼らが集会のときにどのように賜物をささげるか。13章では、彼らが集会のときにどのように愛を現すか。14章では、彼らが集会のときにどのように異言の賜物を使用するか。このように、11章から14章まで、全部が教会の集まりについてです。カリスマやペンテコステの人たちが、14章を個人的な異言に関連させようとするのは、この本の文脈から見ても、完全に的を外したものです。

 

 

 6節

ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。

異言は理解不能

さて、異言が二の次なものである第二の理由は、異言は理解不能であるからです。6節でも、前回示した「異言」というギリシャ語の単数形(偽)と複数形(真)のルールを用いて、パウロは間違いなく真の賜物を指しています。「たとえ、私、使徒パウロが、あらゆる権勢と神性をもってあなたがたのところに来て、真の賜物である言葉を語ったとしても、それがあなたがたに何の役に立つというのか。あなたはギリシャ語を話せるのだから、私が異言で話す必要はないでしょう」と言っています。「異言はあなたがたに何の意味もない。それは、あなたがたの成長の役に立たない」と。彼が伝えたいのは、話すならば聞く人にとって意味のわかるものでなければならないということです。

今日、教会の一部の人々が、誰も、話し手さえも理解できない、意味不明な言語を非常に重要視していることに驚かされます。真の賜物、すなわち知らなかった外国語を話す能力は、気にもとめられません。同様に驚きなのは、『解き明かしの賜物』を持つと自称する人にヘブライ語やその他の言語で話してみて、その人が言ったことと全く関係のない解き明かしをされたという実験証言があまりにも多いのに、同様に誰もそれを気にかけないことです。今日私たちは、誰にも何も伝えることのできない『異言』をもって、聖なる牛の像、ある種の素晴らしい霊的なヒエラルキーに祭り上げてしまったのです。

 

 

 7節

笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。

ここからは6節の説明が続きます。ここでいう笛とはフルートのこと、竪琴とは弦楽器のことです。これらは当時、最も一般的な楽器でした。宴会や葬式、宗教的な儀式で使われており、読者は彼の言っていることがピンときたでしょう。「いのちのない楽器」と書いてあります。魂のない、動きもしない、いのちのない楽器ですが、これらは美しい音楽で知られ、喜びや悲しみの気分を奏で出すものでした。この種の楽器は、音色とリズムを区別して演奏するのでなければ、全く何の意味もありません。「変化のある」とは、ギリシャ語では文字通り「違いを持つ」という意味です。つまり、音に違いがないと意味がありません。研究され、計算された差異がなければなりません。フルートやハープは、音に意味のある差異があってこそ、意味があるのです。「たとえ美しい楽器でも、音だけでは意味がない。聴く人がメロディーや曲のテーマや内容を理解できるように音色に変化を付けなければ、意味がない」とパウロは言っています。この例えのポイントは「誰かが話すのを聞くとき、意味を伝える音のバリエーション、すなわち音や文法が作り出す言葉の意味が理解できなければ、あなたがたの益にはならないし、成長もさせられない」ということです。真の異言の賜物でさえも、それを理解しない人々に使われるのは無駄なのですから、ましてやでたらめ言葉ならば、常に無駄なことなのです。

 

 

 8節

また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。

もし皆が戦いの準備をしているところ、ある男が立ち上がって好き勝手にラッパを吹いたとして、皆が「了解!」と言うでしょうか?ベッドから起き上がるか、ベッドに戻るか、鎧を着るか、どうするか、どんな指示なのかわからないでしょう。ラッパが意味を持つには、かなりのバリエーションが必要なのは一目瞭然です。軍楽隊のラッパは、あらゆる楽器の中で最も明瞭で大きな音を出すものでした。しかし、意味を持つメロディを吹かなければ、どんな兵士も何をしたらよいのかわからないでしょう。

 

 

 9節

同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。

ポイントは、でたらめ言葉には何の意味もない、なぜなら今まで誰もそれを理解できないのだから、ということです。使徒時代に真の賜物が使われたのは、その言語を理解する人がそこにいたときだけです。もしそれが信徒の集まりで起こったなら、信徒がそれによって成長できるように、解き明かしされたはずです。理解できるものでなければ、ただ空気に息を吹きかけているようなものです。

 

このように、パウロはコリントの人たちのために、風刺的な、皮肉な絵を描いているのです。でたらめで意味のない音の羅列を出す楽器、下手くそで軍隊に指示が伝わらないラッパ。そして「コリントの集会で起こっていることは、まさにこのようなことだ。それは、ただただ混乱、ただただ混沌」と言っています。パウロは、聖霊の賜物の目的は、救われていない人々に福音を宣べ伝え、神の民に真理を教え、その両方を行う人々に認証を与えることであり、それは理解できる言葉によってのみ行うことができることを、この信徒たちに認識、悟らせようとしているのです。皮肉や少しの嫌味、多くの忍耐、素晴らしい描写を駆使して、コリント教会に存在する無知、感情、迷信の壁を打ち破ろうとしているのです。

 

 

 10-11節

世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。

再び同じ点を強調しています。パウロは、とても硬い土地の同じ場所に、繰り返し鍬を入れる農夫のようです。同じことを何度も何度も繰り返します。いつかその硬い土地が耕されることを望みながら。

 

伝わらないのに…

今日では言語は世界に3,000はあると 言われています。ちなみに、この「ことば」と訳されている言葉は「声、音」の意味もあり、非常に一般的な広い意味のものです。7節では楽器にも同じ言葉が使われていますが、ここでは言語という意味が適用されています。「もし私が音の意味を知らなければ、つまり声の意味を知らなければ、私は話す者にとってβάρβαρος(バーバロス)であり、話す者は私に対してバーバロスである」つまり「もしあなたが、私が理解できる言葉で話さないなら、私たちは話そうとしている2人の野蛮人だ」と。野蛮人とは外国人のことで、ギリシャ語を話せない人のことを指しました。つまり、彼は単純に「そんなもので話していたら、私たちは通信不能になるだけだ。どちらも共通言語を持たない2人の野蛮人のようになってしまうからだ」と言っているのです。

この言葉について興味深いことがあります。バーバロスという言葉は、またしても擬音語なのです。前回お話した、単純に音を繰り返す単語です。この単語はまさに「バーバー」の繰り返しです。つまり「もしあなたがそのように話すなら、そしてあなたが言っていることの意味がわからないなら、それは私にとってただの『バーバーバーバー』だ」ということです。理解することも、意味を伝えることもありません。意味不明な言語や異教徒のでたらめ言葉は、10節にある音と意味の法則に反しており、役に立たないということなのです。「すべてのものには意味があるが、あなたがたがしていることは違う。すべての言語は意味を伝えるが、あなたがたの言語はそうではない」パウロはそう指摘しています。

そして、覚えておいてほしいのですが、そこにいる誰も理解できないのにある言語をあたかも自分がしていることが素晴らしい霊的なことであるかのように話すことによって、真の賜物の乱用で罪とされることさえあり得ます。そのことは、この章の後半の解説で詳しく説明します。

 

このコリント教会のような混乱した状態では、霊的な働きは決して成し得ません。不信者たちが入ってきて様子を見たら、23節にあるように「気が変になっている」と言ったでしょう。彼らはダイアナ(異教の女神)を崇拝する人々と同じように狂乱し、神殿にいた人々と同じような恍惚状態に陥っているのですから。キリスト教会も、ダイアナ神殿での光景と変わらない、と思ったでしょう。

 

 

 12節

同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。

異言が理解不能であるという、第二の異言の二の次性のポイントは、第一のポイントと同じ点で締めくくられています。第一のポイントの最後の5節も同様に、教会の成長を強調して締めくくっています。それは彼らの利己主義に対処するためです。コリントの信徒は皆この経験を求めて集まりました。皆が恍惚感や官能的な経験を求めていたのです。そして、それは今日も続いています。カリスマ運動やペンテコステ運動にも、皆が個人的な経験を求めている節があります。しかしパウロは「それは、教会を建て上げることを意図した霊的な賜物の、対極にあるものだ」と言っています。

 

異言の順位は二の次です。理由の第一は、預言は教会を成長させるからであり、第二は、異言は理解不能だからです。結果として、異言の賜物には非常に限られた用途しかありません。その限られた用途とは、使徒時代に限定されたものです。

 

 

Ⅲ. 異言の賜物は二の次:理由③

 

異言が二の次である第三の理由は、異言の効果は知的よりむしろ感情的なものだからです。

 

 13節

そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

この「異言」も単数形です。「でたらめ言葉で話すなら、解き明かしできるよう祈りなさい」…!これは解釈の難しい節です。彼は何を言っているのでしょうか。私たちがすでに学んだように、彼らは自分たちの神の言葉で、自分たちの神との恍惚としたコミュニケーションの中で話していましたが、でたらめ言葉で祈ることは決して賜物の意図ではないですから、いつも倒錯していました。そこでパウロは「でたらめ言葉で祈っている人は、解き明かしされる前提で祈りなさい」と言っているのです。28節を見れば、それは明らかです。これは、ちょっとした皮肉だと思います。「なあ、でたらめ言葉で祈ってる暇があったら、教会の他の人たちの益になるようなものを神に求めなさい。あなたのしていることは、とても利己的だ」ということです。読み込みすぎだと思う方がいるかも知れませんが、コリント人への手紙を注意深く読むと、このような皮肉が何度も何度も登場することがわかります。

 

さて、解釈のもう一つの選択肢があります。もう一つの選択肢はこうです:「だから異言で話す者は、解き明かしの賜物も授かるよう祈りなさい」このように解釈するならば、私たちは特定の賜物を求めることができるということになります。解き明かしの賜物や他の賜物が欲しいなら、ただ祈ればいいということです。それは聖書的に正しいでしょうか?以下に2点説明します。

 

求めれば与えられる?

第一コリント12章7節には「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられている」、そして11節には「御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださる」とあります。ということは、賜物は救われた時に御霊の選びによって一人ひとりに与えられるものだとわかります。30節には、「皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。」とあり、答えは「いいえ」です。このように、神様は私たちがどんな贈り物でも祈ることができ、どんな贈り物でも求めることができる、とは言っていません。求めればいつでも与えられる類の恵みではないのです。ゆえにこの14章13節は、私たちが解き明かしの賜物を求めるべきだとは言っていないはずです。

 

 

賜物は限定的

もう一つの理由として、28節を見てください。「解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて」言い換えれば、もし真の賜物を持った人がそこにいる外国の異教徒の理解を助けることができるとしても、それを解き明かしする者がそこにいなければ、賜物を使うべきではない、ということです。彼らは当時、解き明かしの賜物を持つ人が教会にいたはずですが、その人がそこにいない状況も多々あっての、この言葉なのでしょう。それほどに、特定の賜物は御霊による配布において限定的、その使用可能な状況においても限定的だったのです。

 

ゆえにこの聖句は、解き明かしの賜物を求めるよう個人に勧めるものではあり得ません。ですからパウロは初めの選択肢、つまり彼らを少し皮肉って「あなたたちがでたらめで話している暇があったら、何か知的なことを祈ったらどうですか。私たちにとって意味のあることを神に求めたらどうですか」と言っているのだと思います。

 

 

 14節

もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。

この「霊」と訳される単語はπνεῦμά(ニューマ)で、霊、息、風と訳すことができます。そしてこの「異言」は再び単数形(でたらめ言葉)です。私はこのように訳すことができると思いますー「私がでたらめ言葉で祈るなら、私はただ息を吹き出しているだけなのだ」と。フィーリングや内面的な感情の表現に過ぎない、との見方もあるでしょう。カリスマの人たちはほとんどの場合、このπνεῦμά(ニューマ)を「聖霊」とします。しかしそれはフェアではありません。「私の霊」と言っているからです。すると彼らは「しかし聖霊は私の霊だ」と言います。そうですが、それは「私の知性」と対比されているのだから、「私の呼吸や霊」を対象としなければならないのではないでしょうか。私の知性は聖霊の知性でしょうか?…その辺りのバランスと配慮が必要です。

ですからここは「もし私がでたらめ言葉で祈っているなら、私の息は祈っているかもしれないが、私の知性は実を結ばない」と解釈すべきです。つまり「有益なことは何も起こっていない、実を結んでいない」ということです。「異言の祈り、つまりでたらめ言葉は、知性がない。もし私がでたらめ言葉で祈るなら、それは私の息、あるいは私の風、あるいは私の霊、あるいは私の内なる感情などが、ただ息を吹き出しているだけ、異教徒のように霊を吹き出しているに過ぎない。私もあなたもそれを理解できない。私は空気に空気を吹き出している」…偽の賜物は、ただ感情的な経験をさせるだけで、知的な益は何もないのです。

 

無心になることは良いことではない

よくご存知のように、神が私たちに無心になるよう望むことは、聖書には全く書かれていません。脳をオフにすることで得られるものは、ひとつもありません。神が私たちに、頭で理解せずに純粋な感情だけで行動することを望むようなことも、決してありません。そしてこのコリント教会で行われていることは、間違っています。それは知性のない、意味のない、感情的な体験です。マタイによる福音書第22章37節には「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とあります。そう「知性を尽くして」です。異言で祈ったり歌ったりしても無益です…自分にも、他人にも。それは知性のない「感情」なのです。

 

 

 15節

それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。

「私が神に語りかけるとき、祈りは私の内側から出てきて、私は言葉を発します。息を使いますが、頭も使います。そして、私は息を使って、知性も使って歌います。」どうやらコリントの人たちは、このような恍惚とした言語で歌も歌っていたようです。今日『異言』で歌うカリスマたちの中にも、そのような人たちがいます。しかしパウロは「私はそんなことはしない。」と言います。感情的な自己満足に浸ったり「私は神との間に個人的な祈りの言葉を持っていて、特別な方法でつながっているのだ」という考えを皆に見せびらかす以外に、何の目的があるのでしょう?とても利己的です。

 

あなたが母国語で祈れば神は理解し、あなたが母国語で歌えば神は理解するのです。それは、誰が何と言おうと、ある種のでたらめ言葉で神と話すより、はるかに優れています。神はでたらめ言葉を必要としません。

 

 

 16節

そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。

言い換えれば「あなたがでたらめ言葉に没頭して、知性をもって意味のある言葉で賛美しないなら、初心者の人はあなたが言うことを理解できない。感謝をささげるときに『アーメン』と言うこともできないのだ」ということです。

 

「初心者の席」という言葉に注目してください。ギリシャ語では、idiōtēsという言葉です。この言葉はここでは「無知な人」という意味で、あなたが話している言語について無知な人ということです。ということは、本人以外の人たち、あるいは本人を含め全員です。もし自分のでたらめ言葉で話すなら、言ったことを理解できないので、感謝を捧げても「アーメン」と言うことさえできません。盲目的、感情的な恍惚状態になっているだけなら、誰も同意することすらできません。教会が集まる時、すべては皆の益のためであり、誰かを省くようなことは間違っています。

 

 

 17節

あなたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません。

感謝するのは素晴らしいことです。しかし、真の賜物を持ってであれ、あるいは偽の方法であれ、それらを使って自分の心の中の「ああ、私は神に感謝している」との思いを表したとしても、他の人は誰も成長させられません。なぜならそれは、教会の意義、集まることの意義を見逃しているのです。

「だから、これは個人的に行うものだと教えているのだ」と言う人がいるかもしれません。しかし、そこがポイントでもあるのです。なぜなら、異言の賜物は決して個人的なことではなく、その場にいる誰かが言葉を理解するための賜物だったのですから。個人的に行うことに何の意味があるのでしょうか。「公共の場であっても、そこにいる誰かがあなたの感謝を理解しない限り、何の役にも立たない」と言っているのです。

 

 

 18節

私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。

さて、パウロはこの章の前半で言ったことを繰り返します。ここでパウロは「このことについてずっとキツイ言い方をしてきましたが、異言について誤解してほしくありません。私にはその真の賜物があります。それを、神に感謝しています」。異言(tongues)が複数形であることに注意してください。ここで彼は真の賜物を指しているのだと思います。彼の真意はこうです「もし私が部外者のようであって、この現象のすべてをよく理解していないのではないかと思っているなら、私はおそらくあなた方の誰よりもこのことをしてきたのだということを知っておいてほしいのです」。

 

パウロの異言の賜物

彼は真の賜物を持っていました。彼は使徒であり、第二コリント12:12によると、使徒の賜物を持っていました。彼はその賜物を行使し、各地を旅しながら、間違いなくこの賜物を使いました。まず第一に、個人的な祈りの言葉としては使わなかったと思います。第二に、キリスト教の集会で、自分が霊的であることを示すために使ったのではないでしょう。第三に、自分の利益のために使ったのではないでしょう。彼は、外国語を話す人々がいる場所で、その言語を話す能力を神から与えられ、神が存在し奇跡が起こったことを彼らに知らせるために、その言語を話しました。そして、彼は人々に神の真理を語り、彼らは回心するのです。彼は異邦人への宣教師として、宣教の旅の中で何度もこの賜物を使うことができたのは間違いありません。しかし興味深いことに、彼はこの賜物を非常に低く評価しており、彼の伝道活動や書簡の中で、この賜物を使うことに言及したことは一度もありません。ここにも限定的であったことが見て取れます。

 

 

 19節

しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。

「しかし教会では」つまり、外で伝道するのにはいいのです。異教徒に彼らが理解できる言葉で話し、神が存在し神が語っておられることを示さなければならないときはいいのです。「ほかの人たちにも教えるため」それが教会の目的です。

 

1万と5つ

興味深いことがあります。5と1万は単位が違います。一万とは、ギリシャ語のムリオスという言葉で、ギリシャの数学の単位で最大の数なので、ここで使われているのです。例えば、ヨハネの黙示録で御使いの声を聞いたとき、「その数は万の数万倍、千の数千倍であった」(5:11)と書いてあるのを覚えていますか?「ムリオス、ムリオス、チリオイ、チリオイ」と繰り返されます。つまり彼は文字通りこう言っています「理解可能な5つの単語を言う方が、5京の単語をでたらめ言葉で言うよりましだ」と。比較にならない単位です。それが彼の主張です。

 

 

 20節

兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。

「成長しなさい、成長しなさい…」パウロは繰り返し教会を建て上げることを説きます。第一コリント13章11節で彼は言いました「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」この節の「大人になりなさい」と同じことです。

 

 

Ⅳ. まとめ:ここから学ぶべきこと

 

最後にとても大切なことをお伝えします。ここでの教訓は何でしょうか?この章は、今日の教会で異言をどのようにコントロールすればよいかを教えてくれているのでしょうか。いいえ、そうではありません。なぜなら真の異言は止んだからです(別の機会に詳しく語ります)。

 

カリスマ・ペンテコステ運動の実態

では、何を教えているのでしょうか。第一に、現代のカリスマ運動は、昔のコリントの問題の再来であることを、私は心から信じています。彼らは今日、集会で異言、いやでたらめ言葉を使っています。彼らは私的な自己啓発のためにそれを行い、知的な理解よりも感情的な経験を求めています。異言で歌い、恍惚体験に没頭し、理解不能な言葉を、あたかも神との秘密の交わりであるかのように誇示して、それを未信者への証のためでなく信徒の間で行っています。解き明かす人もいないのに。しかしながら、その彼らの言うところのあらゆる『真の霊的体験』があるにも関わらず、彼らの宣教師たちは、異なる言語を持つ人々に伝道するための真の異言の賜物を誰一人持っていません。今日のカリスマ派の人々の様子は、まるでこの章のコリントの問題が鏡に映し出されているものです。

 

私たちの側への教訓

私たちもここから学びましょう。①神の言葉を宣べ伝えること、②その教えを尊ぶこと、③神の言葉を理解できるよう常に集まり聞くこと、④どんな賜物でも誰かを建て上げるために使うこと、⑤決して自分勝手な霊的体験を求めないこと、⑥感情ではなく知識を喜ぶこと、⑦サタンの与える偽物に注意すること、⑧神の真理に対して素直であり、明瞭な聖書理解の下ですべてを行うこと、などです。

 

悲劇

現代の『異言』運動から生じる最大の悲劇は、彼らが聖霊の真の働きを見逃していることです。犬が、骨を咥えて橋を渡っているときに、水面に映っている自分を見る、という古い寓話を覚えていますか。水面に映った骨があまりに美味しそうで、口にくわえている骨よりもずっと美味しそうで、その犬はその影を求めて本物を手放し、空腹になってしいました。この運動の中にいる親愛なる友人たちの多くが、カリスマ的な経験の影のために、聖霊の本質と現実を手放してしまい、空腹になっています。彼らのために祈りましょう

 

※詳しくは 

"Strange Fire: The Danger of Offending the Holy Spirit with Counterfeit Worship"

 Grace To You