聖徒の堅忍と救いの保証
クリスチャンを公言する人々の間にある率直な(そしてしばしば厄介な)疑問は、キリストの救いは永遠に保証されているのかどうか、ということです。信仰によりイエス・キリストを救い主、自分の主として真に知っている者は、人生の最後の瞬間までその信仰のうちに堅忍するのでしょうか。あるいは、真のクリスチャンが救いを失う可能性はあるのでしょうか。救いのために真にキリストを信頼する者が、後にその信仰を捨て、最終的に永遠のいのちを失うことはあり得るのでしょうか。これらの疑問のひとつひとつに対する聖書全体の一貫した答えは、断固たる「否」です。真に御霊によって生まれ、信仰によってキリストと一つである者はすべて、神の力によってキリストのうちに守られており、したがって、死んでキリストのもとに行くまで信仰のうちに忍耐し続けます。
三一の神の保持の力
キリストを真に信じる者の救いの永遠の保証の土台は、三位一体の神の堅忍です。救いは、神がその救いの愛を与えようと選んだ者に永遠の昔に定め、キリストを彼らのための仲介者に任命し、キリスト・イエスにおいて彼らに恵みを与えた(Ⅱテモテ 1:9)ときに始まりました。聖書はこの聖定を、御父が選ばれた者を御子に与えた(ヨハネ6:37, 39; 10:29; 17:2, 6, 9, 24参照)、御子のかたちと同じ姿になるようにあらかじめ定めた(ローマ 8:29)、と描写しています。
第一に、御父が救いに予定した者が、その目的を達成し損ねることはあり得ません。なぜなら「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えにな(った)」からです(ローマ 8:30)。信者の救いが必ず最終的な完成に至ることは、パウロが義とされた者についてすでに栄光を受けたかのように語ることができるほど、確定的で確実なものなのです。そして、すべての被造物のうちの何物も、真の信仰者をキリストにある神の愛から引き離すことはない、と宣言します:
主イエスは、御父の救いのみこころについてまさにこの点を説き、こう宣言しています:
御父のみこころは誰にも、何にも覆されることはありません(ヨブ 42:2; 詩篇 33:10-11; 115:3; イザヤ 46:9-10; ダニエル 4:35)。「わたしは(わたしの羊)に永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません」(ヨハネ 10:28-29) とイエスは言います。ギリシャ語の最も強い否定表現を用いて、信仰によってキリストに属する者は「決して滅びることがなく」(ギリ. ou mē apolōntai, ヨハネ 10:28)、永遠のいのちを持つ(ヨハネ 3:16)と力強く宣言します。キリストの羊たちの永遠の保証は、彼らをその手に握っている御父の主権的な力に根拠を持ち、御父の偉大さと力強さのゆえに、この方が永遠に握っている羊たちをその手から奪うことは、誰にもできません。自分は御父の保持の力によって堅忍するのだと、信者は確信できるのです。
第二に、信者の保証は、キリストの救いの恵みと、現在のとりなしの力を土台としています。パウロは、「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」(ローマ 8:33-34) と記しています。キリストの死、復活、そして現在のとりなしが、キリストの民に対するいかなる訴えも通用しないことの根拠となっている。キリストが死に、復活し、御父の前でとりなしているので、誰も私たちをその愛から引き離すことはできはしないということです(ローマ 8:35-39)。
御父の予定的選びの計画がその目的を完全に達成するのと同様に、御子の贖いのわざもまた、その計画を完全な有効性をもって達成します。「キリストは罪人のためにご自身を宥めとして献げたが、それでもなお彼らが神の怒りの永遠の刑罰に苦しむかもしれない」と示唆することは、キリストの贖いの犠牲の尊さを貶めることであり、復活に示された御父の証明に異を唱えることです。
その上、キリストは現在も御父の前で絶えず民のためにとりなしています(ローマ 8:34)。特に、選ばれた者の永遠の救いを確実にするため祈っています。
第三に、信者の保証は聖霊の証印のわざを根拠としています。
「証印」とは、保証、認証、所有権を意味します。神はご自分の民に聖霊ご自身をもって証印を押し、将来の救いの相続の保証として、ご自身の御霊を一人ひとりの信者に個人的に内住させるのです(Ⅱコリント 1:22; 5:5)。「保証」と訳されたギリシャ語arrabōnは、手付金や頭金(残金も続けて支払うことを保証するもの)を意味する商業用語です。繰り返しますが、神がご自分の民に所有権を示す証印を押し、約束の相続に至らせようという心からの熱望の保証として聖霊ご自身を彼らに内住させながら、それでもなお彼らを守り損ね、永遠のいのちの約束を完全に実行できない、などということはありません。
神の子どもの信仰の堅忍
すべての真の信者は、神の全能の力によって主権的に救いを保たれていますが、神の主権は、彼らが生涯にわたって信仰のうちに忍耐する責任があることを決して排除するものではありません。回心における神の主権が、人の悔い改めて信じる責任を軽んじるものではないのと同様に(ローマ 9:14-18)、また、聖化における神の主権が、聖さを追い求める継続的な努力の必要性を排除するものではないのと同様に(ピリピ 2:12-13; Ⅱペテロ 1:3-5など)、神の主権による救いの保持は、信者の忍耐の必要性と矛盾するものではありません。真の信者は皆、「信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただく」(Ⅰペテロ 1:5)ものです。神の力は保持の決定的な原動力であるが、神の力は信仰を通して(すなわち、すべての信者のうちに愛によって働く、継続的で忍耐強い信仰を通して)その民を救いのうちに保つのです(ガラテヤ 5:6)。
それゆえ、聖書は信仰のうちに忍耐するよう何度も呼びかけており、忍耐を怠る者は最終的な救いを手にし損なうことを示唆しています:
イエスのことばにとどまらない者は、偽の弟子、あるいは「偽兄弟」(Ⅱコリント 11:26; ガラテヤ 2:4)であることがわかります。イエスのものであると言いながら、真の回心の証拠となるべき実を結ばない者です。それゆえ聖書は、キリストがその身代わりに死んだ人々に救いの確信を与えようとする一方、その人々の一員であると主張する者の中には、実はそうではない者たちがいることも示しています:
これらの箇所が明確に示しているのは、「信仰を公言している信者が、神の力と聖定によって最終的に救いに至ることになっているのならば、その人は信仰と従順のうちに忍耐するに違いない」ということです。FG論者は、「信仰を告白した後どのように生きようと、天国はその人のものだ」と断言しますが、神の保持の力をこのように捉えることは、聖書の教えとは著しく対立しています。キリストとその教会に対し、外見上は忠誠の態度を示していても、内心では真の信者ではない人が大勢いる、ということです。信仰を熱く告白し、聖霊の奇跡的な賜物を行使しているようにさえ見える者たちの中にさえ、救いを受け取るものと思いながらさばきの日を迎えるが、実は滅びに追いやられる者もある、と主イエスは警告します:
興味深いことに、イエスは「私はあなたがたを知っていたことはない(οὐδέποτε ἔγνων ὑμᾶς “I never knew you”)」と言っています。また、ヨハネはこう記しています:
最初から真の信者ではなかったのだ、と。「友人や親戚がキリストへの信仰を告白したが、後に離れてしまった」という経験を持つ人は、忍耐できなければ最終的に滅びると警告する聖書のいくつかの箇所と相まって、真の信者も実は救いを失うかもしれない、と不安になってしまいます。しかし聖書は、ある人々が最後まで忍耐できないのは、最初から真のクリスチャンではなかったことの現れだ、と教えています。(※その友人や親戚が救いに選ばれていないわけではありません…時が満ちていなかった、正しく福音を聞いていなかっただけの場合もあります。がっかりせずに伝え続けましょう!)
救いの確信
ではどうすれば、自分がキリストを信じる真の信者であり、ある日道を外して、自分がそもそも真の信者ではなかったと明らかになるようなことはない、と確信できるのでしょうか。救いの確証があると公言する人すべてに、それを得る権利があるわけではありません。なぜなら、自分自身を欺いている人が多くいるからです(マタイ 21:11-13 の婚宴に来た男のように、彼は自分が参加するにふさわしいと信じていましたが、主催者が用意した服ではなく、自分の服を着ていました)。このため聖書は、キリストへの信仰を告白する人々に、自分自身を吟味するように呼びかけています:
聖書が示す、以下の11の確証を考察してみてください。真の信者かどうかのチェックリストです。
①真の信者は、聖霊を通して御父と御子との交わりを楽しむ
愛の中で、喜びの中で、祈りの中で、そして聖書の真理を発見する中で、神とのこの交わりを常に体験する人は、自分の信仰が本物であることを確信し、喜ぶことができる。
②心のうちに働く聖霊のわざがある
罪人が「イエスは神の御子であり世の救い主である」と告白し、自分の人生をイエスにささげるのは、御霊のわざによるものです。御霊はまた、聖書を理解できるように信者の思考を明るくし、聖書をとおして罪を明らかにし、励まし、心に喜びをもたらします。さらに御霊は、真の信者の人生に実を結ばせるので、その人生は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)という特徴を持つものになります。
③祈りが答えられる
真の信者は、自分の個人的な欲望や願いを求めるのではなく、むしろゆるしときよい心を求め、福音を宣べ伝える大胆さを求め、困難な時にも満ち足りてあることを求めるような、神のみこころに沿った祈りをささげます。御父がご自身の栄光と神の民の益のためにその祈りに答えるとき、信者は自分の祈りが神の御心がなされたことの一部分であったことを喜び、その心は強められ、励まされるのです。
④キリストの再臨を切に待ち望む
真のクリスチャンの本質的特徴は、キリストへの愛です(Ⅰコリント16:22)。その愛ゆえに、クリスチャンは自分の救い主と顔と顔を合わせ、それにより完全に主と同じ姿に変えられる日を切望します(ピリピ 3:21; Ⅰヨハネ 3:1-3)。これは、罪のからだから解放され、完全な方であるキリストのようになることを願う、新しい性質が宿っていることの表れです。
⑤霊的な分別
新生した者は、霊的な真理と誤りとを見分けること、霊が神からのものであるかどうかをみことばにより吟味することができます。神はご自分の子どもたちが偽教師を見分け、彼らを拒絶し、健全な教えに堅くとどまることができるように彼らを整えてくださいます。人は健全な教えを信じることなしには、真の救いの確信を味わうことはできません(Ⅰテサロニケ 5:21; Ⅰテモテ 6:3-5; Ⅱテモテ 2:13-14)。
⑥神の聖さと自分の罪に対する敏感な意識
不信者は、神の絶対的な道徳的完全性、神は光であり神には闇は全くないということを認識できません(Ⅰヨハネ1:5)。よって自分自身をその光に照らして見ることができないので、自分が罪の闇にどれほど汚染されているかを理解できません。しかし、真の信者は自分の罪深さを敏感に感じ取り、その人生はますます罪を脱ぎ捨て、義を着ていくことを特徴とします。彼らは罪を犯すと、きよめられた良心によって神のみこころに添った悲しみを経験し、悔い改めへと導かれます(Ⅱコリント 7:10)。そして罪を告白し、キリストにゆるしを求めます。
このパウロの証しは、信者の罪に対する敏感さと嫌悪感を示しています。このように、真の信者は、さまざまな形で罪を犯しますがその罪を告白し、神との交わりへと回復することを何より強く求めます。偽の信者は自分の罪を無視したり、隠したり、罪を憎む神を無視しています。
⑦習慣的な罪の減少
神の子どもは、自分のうちに残っている罪に対して敏感であるだけでなく、神の恵みと御霊の力によって、それらの罪に対して徐々に勝利していくようになります。罪人が再生するとき、罪の支配は打ち砕かれ、御霊は、回心したばかりの者のうちに聖さを求める思いを生み出します。内なる罪は残りますが、罪を愛する心はなくなります。真のクリスチャンはもはや罪の奴隷ではなく、義の奴隷だからです(ロ―マ 6:14-18)。
⑧習慣的な従順の増大
「守る」と訳されたギリシャ語(tēreō)は、用心深く、注意深く、思慮深い従順(行ないだけでなく心においても)を語っています。真の信者の従順とは、聖書に書いてあるとおりに、かつ聖書が意図したとおりに、意欲的習慣的にみことばを守ることです。従順の習慣が持続することによって、自分は救われた者として神と関わりを持っているという確信が与えられます。
⑨世俗性の拒絶
「世」とは、サタンが操る邪悪なこの世の体制のことであり(Ⅱコリント 4:4; エペソ 2:2; Ⅰヨハネ 5:19参照)、偽りの宗教、誤った哲学、犯罪、不道徳、物質主義などが満ち溢れています。これらのことは、すべての不信者の愛情と意志を支配する一方で、真の信者はそれらを嫌悪します。自分自身を吟味する人は、この邪悪なこの世の体制を、その偽りのイデオロギー、忌まわしい宗教、神を無視した生き方、空虚な追求、そのすべてとともに拒絶しているかどうか、そしてその代わりに神と神の真理と神の民を愛しているかどうかを、自分に問わねばなりません。
⑩世からの拒絶
神の民が世の悪から離れて、その罪深い価値観を拒絶し、義を掲げ立つとき、その闇は光を憎み(ヨハネ 3:19-20)、闇を暴く勢力に対して反感と敵意をあらわにします。カインが兄弟アベルを憎み殺害したのは、まさにアベルの義の行いがカインの邪悪な反逆を暴いたからでした(Ⅰヨハネ 3:12)。神の民は世から疎外され、拒絶され、迫害さえも受けることになります。それは彼らが、義のために迫害を受けたキリストに属しているからです(マタイ 5:10-12; ヨハネ 15:18-21; ピリピ 1:29; Ⅱテモテ 3:12; Ⅰペテロ 4:12-14)。私たちは、自分が快くこの世に受け入れられているのか、それとも、キリストの姿に似つつある者として、義に敵対する者たちからキリストご自身が受けたのと同じ拒絶を自分も受けているのか(ヨハネ7:7)、それを問わねばならないでしょう。
⑪同胞クリスチャンに対する愛
他の信者に対して冷淡で、思いやりがなく、無関心な人は、不信仰の表れである自己中心性を露呈しており、反対に、キリストにある兄弟姉妹との交わりを喜び、聖徒たちの必要を満たしたいと切に願う人は、自分が真理に属する者であると確信することができます(Ⅰヨハネ 3:16-19)。
(参考:John MacArthur, Biblical Doctrine.)
以上のような、新生した証拠がまったくない人が、救いの保証を受ける権利を持っていないことは、論理的に当然です。そのような人に向かってFG支持者が「あの時決心して心から信じたんだよね、それならあなたは確かに救われているよ」と励ますことは、文字通り、有罪の宣告を受けている人をその状態に安住させてしまうことです。その人を神の前での自分の本当の状態に向き合わせることなく、滅びに向かわせてしまうことです。
ここまでこのシリーズをお読みくださった方の中には、一時期は信じたが信仰を離れてしまった人にそのような言葉をかけたことがある、または、誰かの救いを簡単に宣言してしまったことがあるという方がおられるかもしれません。ぜひその方のところに行き、悔い改めて福音を信じるように語りかけてください。明日は炉に投げ込まれるかもしれないのですから。