相続人であること
FG論者の主張は、「御国に入る」ことはすべての信じる者の救いであり、「御国を相続する」ことは一部の忠実な「キリストの弟子」がキリストとともに統治することである、というものです。ボブ・ウィルキンは、「『神の国を相続する』という表現は、統治する権利と報いを指している」と述べています(”Has This Passage Ever Bothered You? Matthew 25:31-46 - Works Salvation?”、Grace in Focus、1998年3月)。しかし、御国にそのような階層やエリート主義は存在しません。聖書のメッセージは、「すべての信者は相続人であり、御国を受け継ぐのだ」ということです。私の印象では、FGの神学者たちは、「悔い改めがなくても、霊的実りが全く無くても、たとえ信仰を否定したとしても、一度信じたなら救われている」という彼らの神学と著しく矛盾するいくつかの聖句を、まったく否定してしまうことにならないように、この説を導入する必要があったのだと思います。しかし1900年代に始まったその試みは失敗に終わり、正統な教理を持つ神学者や教師たちからは、正しい救済観から著しく外れているという評価を得ています。いくつかの側面から、これを検証していきます。
「相続」の定義
聖書ギリシャ語辞典(BDAG)によると「相続」に関するギリシャ語は以下のように定義されます:
κληρονομέω kleronomeo
1) 相続人となる、相続する
2) 手に入れる、所有者となる
κληρονομία kleronomia
1) 相続地、相続財産、遺産
2) 所有、割り当て地
3) 神の子供たちへの遺産としての、超越的な救いの所有
κληρονόμος kleronomos
1) 相続人、跡取り
2) 何かを所有物として受け取る人、受益者
聖書の「相続」の概念
旧約聖書の「相続」の概念は、「地を受け継ぐ」という表現に多く表されます。アブラハム、イサク、ヤコブの神が祝福し契約した約束の地を受け継ぐために、イスラエルの人々は荒野を旅し、数多くの戦いをし、何度も分裂や敵国からの脅威にさらされ、異国への捕囚に苦しみました。彼らは神にイスラエルの祝福と回復を祈り、また、それを成し遂げついには魂の救いを与えてくださるメシアを待ち望みました:
その人のたましいは 幸せの中に宿り その子孫は地を受け継ぐ。(詩篇 25:13)
悪を行う者は断ち切られ 主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。(詩篇 37:9)
主はこう言われる。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日に、わたしはあなたを助ける。 わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、 国を復興して、 荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。(イザヤ 49:8)
七十人訳聖書(紀元前3世紀頃にギリシャ語に訳された旧約聖書で、新約の著者も引用)でも、「受け継ぐ」の訳はkleronomeoです。これこそ、神との契約に明明と示された「相続」の概念、メシヤによるイスラエルの救い、ひいてはアブラハム契約に記された全世界の神の民の救いを指しています。イエスのことばと新約の書簡を受け取った信者たちが、「御国を相続する」と聞いて一番に思い浮かべたのは、これらの旧約の救いの約束だったことでしょう。
しかし 柔和な人は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。(詩篇37:11)
柔和な者は幸いです。 その人たちは地を受け継ぐからです。(マタイ 5:5)
「受け継ぐ(相続する)」=「得る」=「入る」=「救われる」
次の三つの並行箇所をお読みください。
すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マタイ 19:16-24)
イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(マルコ 10:17-31)
また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」(ルカ 18:25-26)
これらを読み比べると、「永遠のいのちを得る」「いのちに入る」「永遠のいのちを受け継ぐ」「神の国に入る」「救われる」「永遠のいのちを受ける」などこれらの表現が、同義に使われていることがわかります。先に示した旧約(七十人訳)の「地を受け継ぐ」という句で何度も用いられている動詞kleronomeoの目的語が、ここでは「永遠のいのち」(マルコ 10:17)であることの意味は大きいです。
加えて、ここでイエスが永遠のいのちを求めた青年に悔い改めを語らずに、イエスに従い行ないでその信仰の表明を求めていること、そしてそれを行なった弟子たちに永遠のいのちを確約していることは、大変興味深いです。イエスは彼の信仰が行ないをもって真正だと認められることを望んでおり、弟子たちの従順な信仰の行ないの報いとして、イエスとの共同統治の特権や御国の特別な相続人の地位ではなく、単純に「永遠のいのち」と言っているという事実は、FGの神学にとっては都合の悪い箇所でもあるでしょう。後にまた議論します。
すべての信者は相続人であり、御国を受け継ぐことになる
これらの各節を文脈に沿って学ぶと、相続はしばしば子としての地位と結びついており、救いが私たちの相続の根拠であることがわかります:
人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ25:31-46)
※「正しい人たち」は「御国を受け継ぎ」、「永遠のいのちに入る」と書かれています。この箇所には、「相続しない信者」という第三のグループは存在しません。羊と山羊(信者と不信者)だけ、主の右にいる者と左にいる者だけです。グレーの濃淡はなく、相続する者と相続しない者を白黒で区別しています。この二者択一性は、後に論じる「御国を受け継ぐ」ことに関する他の箇所とも一致しています。
さらに、「世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」(34節)との宣言は、御父が「世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4-5)との聖句によれば、御父が私たちをご自分の子にする、すなわち救いを与えるための選びと予定のことであり、信者の従順の度合いによって相続人を予見するという意味ではありません。
もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。(ローマ4:14)
※律法ではなく、信仰が人を相続人にする、という意味です。信仰によってアブラハムの子孫とされた私たち信者すべてが、相続人であるということです(「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」ガラテヤ3:29)。
子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ8:17)
※ここでのパウロの目的は、子供たちがどのような相続人であるかを説明することです。多くのFGの教師たちは、パウロはこの節でクリスチャンを二つに分けて説明していると言います。一つはすべての信者からなる「神の相続人」。もう一つは、御国を受け継ぐことができる一部の忠実な『勝利者』クリスチャン、「キリストとともに(受け継ぐ)共同相続人」。しかし、彼がこの節で『勝利者』だけの相続権を説明しているとすれば、それは文脈から外れた不必要な考えを挿入していることになります。もしそうなら、「神の相続人です」と述べただけで、その説明は終わっていたはずです。
さらに、この二つのカテゴリーはどちらも、信者全般を指していることは明らかです。「神の相続人」は「神の子ども」と同じであり、「キリストとともに共同相続人」とは、この節の中ほどで「キリストと、栄光をともに受ける」と書かれている者たちです(ローマ 8:30)。
相続する、さもなければ滅びる:聖書の二者択一性
以下の箇所をご確認ください。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示 21:7-8)
※この書の記者であるヨハネは、同様に記したⅠヨハネ 5:4-5 において「世に勝つ者」の定義を「イエスを神の御子と信じる者」と言明しています。選択肢は「御国を相続すること」または「地獄に行くこと」の二つだけです。
あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(Ⅰコリント6:9-11)
※9-10節における「正しくない者」の描写と、黙示21:6-8および22:14-15における同じような罪のリストとの類似点に注意してください。これらは明らかに、罪深い生活のために永遠の罰を受ける、不信者たちを指しています。
また、11節では、コリントの信徒たちが以前の生活でこのような行動を常としていたようであり、それはもはや彼らの常とする事柄ではないことが明確にわかります。彼らは「洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」からです。
最後に、文脈から「正しくない者」が誰を指すかは明確です。1節で、パウロはコリントの信徒たちが「聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいる」ことを非難しています。これらの「正しくない者」は、2節では「世界」と呼ばれ、6 節では「信者でない人たち」と呼ばれています。これが、パウロが「正しくない者は神の国を相続できません」と述べた理由のすべてです。コリントの信者たちに、このことが彼らを信者同士の争いを裁くにふさわしくないことを教えるためです。驚くべきことに、FGの教師たちは、自分たちの教理を守るために、この節のこれほどまでに明白な教えを否定しています。
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(Iコリント15:50)
※パウロが神の御国を相続することについて述べている背景は、復活であることに注目してください。
つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、…ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。…しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(ガラテヤ 4:1, 7, 30-31)
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(ガラテヤ 5:19-24)
※先ほど引用した第一コリント6章の聖句のポイントと酷似しています。箇所前半の罪のリストを、不信者を明確に指す、黙示録 21:8 および 22:15 の類似したリストとも比較してみてください。
またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。(エペソ 1:11)
※マタイ25:34、エペソ1:4-5を参照してください。信じる者の救いを指していることが明らかになるでしょう。
それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。(エペソ 3:6)
※キリストのからだに連なっている者は、すべての真に救われた信者です。(ローマ7:4; Ⅰコリント6:15; 10:16; 12:27; エペソ1:23; 5:30参照)
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。(テトス 3:7)
私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。(ヤコブ 2:5)
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(Ⅰペテロ 1:3-5)
※「受け継ぐ」ことの前提は新生と御国への希望であり、資産とは天のプロパティです。5節はそれが「救い」であるという説明です。
同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(Ⅰペテロ 3:7)
FG論者は、人の行動と救いの状態には必ずしも相関関係はないと主張しているため、これまで挙げてきた聖句がすべて救いについて述べているものだという明白な事実は、彼らにとっては非常に受け入れがたいものとなります。
そこで絞り出したのが、この「相続する者/相続しない者」のFG神学です。FGの「御国を受け継ぐ」の理解は、「キリストとともに地を治める」という意味に限定されており、「御国に入る」や「永遠のいのちを受け継ぐ」という概念とは別のものだと強弁します。このテーマについて私が読んだFG派の人々は、神の御国を千年王国に限定し、上記のような罪の特徴を持つクリスチャンは、その千年の間は御国に入ることは許されないとか、煉獄のような場所に追放されそこで泣いて歯ぎしりするとか、彼らは御国に入るが支配はできないとか、様々な疑似神学的アクロバットを披露します。つまり、御国に二つの階層(存在しない地下1階、あるいはエリート信者だけに許されている最上階)をこしらえることによって、聖書が滅ぼされるべきだと示す人々をそこにバンプアップしているのです。彼らがクリスチャンを「弟子/信者」に分けていることもその努力の一つです。
「受け継ぐ(相続する)」「得る」「入る」「救われる」…聖書でのこれらの語の使用には、同義語ではないことを示すような要素はまったくありませんし、むしろこれまで示したように「同義語として使われている」と断言して良いでしょう。考えてみてください、FG論を前提とするならば、なぜパウロは上記の聖句について「私は救いについて話しているのではなく、千年王国においてキリストとともに統治することについて話しているのです」と明確にしなかったのでしょう?これらの多分に重い意味を持つ記述に何の説明も付されていないのは、当時の信者たちにとってパウロが何を指しているかが明らかだった、読んでそのままの意味だったからです。初代教会の信者たちが、自分の永遠の居場所の根拠として救いの本質の真理を読み漁った、まさにその聖書を、私も裏表を何度もひっくり返すように読み、この点について深く研究しました。そこから得た明らかな解釈は、当時のシンプルな信者たちが明らかに読み取ったのと同じであろうこと――「すべての信者は御国を受け継ぐ」ということです。 この点において、教父たちや改革者以降の優れた神学者全員が私に同意しています。
しかし、私たちにとって明白なことでも、まったく異なる神学的視点から聖書を読む人にとっては明白ではないかもしれません。もうひとつ、先程言及した「行ないと救い」に関する議論を付け加えます。
行ないと終着点の相関関係
すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。 すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(ルカ 13:23-28)
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』(マタイ7:21-23)
ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。(マタイ 21:28-32)
これら三つの箇所の共通するテーマは、救いです。「(御国を)受け継ぐ」ではなく、「(御国に)入る」という動詞が、共通して使われています。ここまでは、FG論との矛盾はありませんから、FG論者が「これらの箇所は救いについて言及しているものであり、『御国を受け継ぐ』『キリストとともに統治する』あるいは千年王国説について言及しているものではない」と解釈するだろうと予想します。
確かに「御国に入る」とは救いを指す表現です。では、これらの箇所の文脈では、どのような人たちが「御国に入る」のでしょうか?それは、「狭い門から入るように努め(る)」者、「父のみこころを行う者」、罪を思い直し従順に父に仕える者です。逆にどのような人たちが「御国に入」れないのでしょうか?それは「不義を行う者たち」、「不法を行う者たち」、そして、口先では父を敬うが不従順な者たちです。FG神学とは対照的に、人の行動とその救いの状態には相関関係があることを意味しています。むしろこれらの箇所は、先に多く挙げた「御国を受け継ぐ」者たちと滅ぶべき者たちとの対比とぴったり重なることにお気づきでしょうか。(※しつこいかもですが、私は行いによる救いを語っているのではなく、悔い改めと信仰から必然的に生まれる全人的な変容、神が信者のためにあらかじめ備えてくださった良い行ないについて語っています。)
確かにイエスのことばは、厳しいものです。自分の、あるいは愛する人の罪の生活を直視し悔い改めを求めるよりも、FG論に身を委ねて生きることは楽かもしれません。心と行ないの悔い改めを救いの確証として要求しなければ、教会に集う人、日曜日には信仰深い態度が取れるようになる人は増えるかもしれません。あるFG論者たちは、これらの箇所の明白なさばきのことばについて、「イエスの教えは十字架以前のものだから無効だ」とまで言います。復活ののち、昇天の直前に「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(マタイ28:20)と弟子たちに命じたことばは、彼らには意味を成さないのでしょうか。
どうぞ今、私の言葉ではなく、聖書の権威ある聖いみことばに聞き、ご自身の理解を吟味してください。今回の記事は、いささかきつい表現を用いました。「主よ、主よ」と言いながら「あなたには会ったこともない」と言われてしまうだろう人に、なんとか立ち返ってほしいという願いの故ですのでご容赦ください。しかし重ねて言いますが、私はFG論者全員が救われていないとは思っていません。この論に立つ多くの尊敬すべきクリスチャンを知っているからです。懸念しているのは、FG論を信じて救われていると思いながら滅んでいく人たちです。
次回はさらに、FG/LSの議論で「相続」に深く関連している「勝利を得る者」と「キリストとともに治める者」について考察します。ぜひこの記事と、以前に書きました「弟子であること」と合わせてお読みください。