※この記事は『ほかの福音(4)日本におけるカリスマ派の広がりと影響』の続きです。
Ⅴ. 私たちとカリスマ派との神学的相違
最後に、カリスマ派の神学的な問題点について述べたい。繰り返して言うが、詳細に違いを知りたい方は、紹介した本を読んでいただきたい。しかし、その教えが聖書とは違うことを知ってもらうためには、全く触れないわけにもいかないので、本で書かれているような内容を少しばかり記す。そして、私が思う根本的な違いについて述べる。
聖書論の違い
聖書論において大きな違いがあることは述べておかなくてはならないと思う。第一・第二スイス信条、フランス信条、ウェストミンスター信仰告白、そして第二ロンドン信仰告白といくつかの信仰告白は、最初に聖書について告白しているが意義深いことだと思う。なぜなら、聖書に対する信仰が違えば、すべてのことが違ってくるからだ。私たちは聖書をどのように信じるべきかを聖書から決定することは極めて重要だ。その聖書論においてカリスマ派は私たちと異なっているのだ。
『レーマ』とは
カリスマ派指導者たちは、自分たちが福音派の教理を受け入れていると言う。ジョン・ウィンバーは、カリスマ派が聖書的ではないという批判を受けて「神の言葉が十全霊感で、無謬で、教理と実践に関する霊的真理の最高の権威である」と認めていることを証言した。[1] ところが、彼らはこう言いながら、やすやすと聖書の十分性を否定する。レーマの神学がその1つだ。カリスマ派によれば、聖書の中で「ことば」と訳されている「ロゴス」と「レーマ」には、違いがあるという。「ロゴス」は書かれたみことば、すなわち聖書を意味しており、「レーマ」は神が必要に応じて与えられる預言のことばだという。従って、神は「ロゴス」(聖書)以外にも人々に「レーマ」を、すなわち預言を今も与えられるというのだ。これは、新正統主義と似ている。新正統主義では聖書は客観的な神のことばではない。人が読むとき神のことばになり得るものだ。ある人が、聖書のある一節を神のことばと思っても、ある人にはそうではない。真理は何かを人が決めるという主観主義であり、体験主義である。極論すれば、聖書も必要なくなるのではないか。なぜなら、自分に神の言葉があったと思えばそれが神のことばであり、その人の真理となるのだから。新正統主義は聖書の必要性を認めるが、聖書を不完全なものとしている。カリスマ派も同じだ。彼らは、聖書が「教理と実践に関する霊的真理の最高の権威である」と釈明しながら、私たちのように「すべてについての」とは告白しない。また、私たちは「御旨をご自分の民にあらわした神の従前の啓示方法は今は終わっている」[2] と告白するが、カリスマ派は預言をする。もし、彼らが私たちのように信仰告白をするなら、彼らはレーマの教理を否定しなくてはならなくなる。これは、言い換えるなら、彼らは聖書よりも、いま与えられるレーマ(預言)のほうが重要であって、聖書を軽んじているのである。実際、彼らはレーマ(預言)を聖書から検証することをしない。自分に神のことばが与えられたと思えば、それで真理が確定する。主観主義であり、体験主義だ。彼らの「教理と実践に関する霊的真理の最高の権威」は聖書ではなく実質レーマだ。それでもカリスマ派は、「私たちは聖書的検証を行なう」と反論するかも知れない。だが、彼らの言うそれは、あまりにもいい加減だ。たとえば、ピーター・ワグナーは「聖霊の第三の波」の中でこのように書いている。「スタントは第一に聖書的な根拠を挙げる。『聖霊の力によってしるしと不思議を行なうことは、単なる方法論ではなく、神の国の訪れの中心的な成就なのである。力の伝道は付随的なものではなく、必須のものである。言葉を換えるなら、これは、福音が伝えられるためのごく普通のやり方なのである』[3] 非常に驚くのだが、聖書的な根拠と言いながら、何の証拠聖句も出てこないし、証拠聖句もないので釈義もない。聖書的な根拠は聖書には無く自分が聖書的だと思ったことが聖書的になる。聖書はいらないのだ。彼らは「おしえとあかしに尋ね」(イザヤ8章20節)ることがない。証拠聖句があったとしても、自分の主張を通すために使用している。これは私的解釈であって、異端がしている方法と同じだ。そして同書全体がこの調子なのだ。レーマの主張も同じである。実際のところ、聖書はロゴスとレーマを区別して使用しておらず、互いに置き換え可能なことばに過ぎない。[4]
これらのことから分かるようにカリスマ派は聖書解釈の理解が私たちと異なる。私たちは「聖書解釈の無謬の基準は聖書自身である。したがって聖書のどこでも(多様ではなく、たった一つの)真実で完全な意味について疑問がある場合、もっと明白に語っている他の箇所によって探求されなければならない」と告白し、また「通常の方法を適切に用いて」[5] 聖書解釈を行う。すなわち、字義的・歴史的・文法的に聖書解釈を行なうが彼らはそうではない。例えばカリスマ派はヘブル書13章8節の「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」という御言葉から「主イエスはいまも異言をともなう聖霊のバプテスマを授ける」と主張する。もちろん、この箇所は聖霊のバプテスマを教えていない。この箇所は、主が信仰者から決して離れず、また、捨てないお方であり(5節)、それは、旧約時代から(11-12章)変わらないことを(7節)示す御言葉だ。これはキリストの永遠の不変性を教えている。それなのに彼らは、「きのう」をペンテコステの日に限定している。それに、使徒の働き2章以前の主イエスのお働きに異言はない。このように彼らは自分たちの主張のために御言葉を利用する。
レーマの神学とカルト化の危険
レーマの神学はカルト化にもつながる。というのは、彼らの預言が、聖書によって検証されること無く、真理とされるなら、どのような内容であってもそれを信じて従わなくてはならないからだ。恐ろしい話だ。レーマの教えは教会の指導者と結びつくことでいっそうカルト化を進行させる。「霊の戦い虚構と真実」より引用する。「(カルト教会の被害者の)証言によると、多くの場合、神が聖霊によって牧師にだけ特別な力、特に予言の力、病気を癒す力、霊を見分ける力などを与えたと信者たちに教えているとのことです。そして、そのような霊的力を授かることで、神ご自身から特別な『レーマ』を受けることができたので、自分だけが最も正しい聖書の解釈をすることができると言っているということです。そうすることで、信者たちは牧師が特別な霊的指導者であると信じ込むようになっていきます。牧師はそれを利用しながら、信者たちの生き方や考え方をどんどんコントロールしていきます。牧師の言うことは絶対なので、逆らうことのできない信者たちは、ただ牧師に従うしかなくなってしまいます。」[6] カリスマ派の教えによって教会がマインド・コントロールされ、カルト化する様子が分かる。したがって、マインド・コントロールという手法だけに着目していてはいけない。その発生源に誤った教えがないかを見て、その教えを根絶しなければならないのだ。
教会の指導者にレーマの神学が結び付けられることも、カリスマ派の教えによる。「後の雨運動」だ。[7] この運動では、使徒職と預言者職が回復されたとし、「これらの職を通して、聖霊が今日語ろうとしておられることを示すと主張し、彼らによって主張されたこと、あるいは預言されたことは聖書と同等の権威を持つものと考え」、「実際上聖書以上の権威を持ち、個人の信仰の規約・規範となり、道しるべ」[8] となっている。そして、このような指導者によって新しい一致した教会を作ることを推進した。彼らが、「パラダイムシフト」「トランスフォーメーション」「新しいことがら」「新しいブドウ酒のための皮袋」という用語を使うなら、このことを意味している。セル・チャーチはそのための手段だ。後の雨運動は、アッセンブリー・オブ・ゴッド教団から早々に否定されたものであったが、第三の波運動に連結して今も強く広まりを見せている。先月(※2013年10月)11-14日に、「エンパワード21全日本大会」[9] が行なわれたが、これは、後の雨運動とつながりを持った運動だ。日本にも強い影響があるのだ。だから、私たちには後の雨運動の影響は無いと考えてはならない。この運動も弟子訓練も教会の指導者への過剰な尊敬を促すので、非カリスマの牧師たちの誘惑になり得る。これを取り入れ、牧師への服従を強いるようになった教会では、牧師が罪を犯しても、それを責めることができなくなる。なぜなら「神に立てられた指導者に逆らう罪。油注がれた者にはむかう罪」と反対に断罪されてしまうからだ。
カリスマ派の使徒職が回復されたという話はもちろん嘘だ。使徒の条件は、復活の主を目撃した者であり(使徒1:21-22、1コリント9:1、15:7-8)、主イエスによって個人的に選ばれた者だ(マタイ10:1-4、使徒9:15)。そして、奇跡的なしるしによって使徒であることを証明する者だ(2コリント12:11-12)。牧会書簡は、継続する教会の指導者について、長老と執事を教えるが、使徒については一切ない。そして、使徒の時代でさえ、奇跡の回数は徐々に少なくなり、使徒がいなくなった時代には、ぱったりと奇跡が止んだ。
根本的な教理的相違
次に、私が思う、カリスマ派との根本的な教理的相違についてお話ししたい。私はそれが救拯論にあると思っている。そして、お話しする内容は耳新しいものでは全くない。使徒の時代から現代に至るまで繰り返されてきた救いの問題であり、その度に答えが出されたことであり、○○会の交わりの信仰の基礎となっている事柄である。
アルミニウス主義の球拯論とカリスマ派
カリスマ派の源流を探ると、ペンテコステ派があり、さらにはメソジスト、ホーリネスがある。そこに共通することはアルミニウス主義だ。アルミニウス主義は、「人間は罪によって堕落しているが、神は人間に自分の意志で神に協力する力を与えているので、自分の意志の力で救いの信仰を持てる」という。アルミニウス主義者は、自分たちは全的堕落の教理を受け入れているというが、意志における堕落を実質認めていない。アルミニウス主義は、自分の意思で信仰を持って救われたのだから、その信仰と救いを自分の意思で保っていかなくてはならない。つまり、アルミニウス主義では一度救われた者が救いを失い得る。これは信仰生活にどんな影響を与えるだろうか。
一つは救いの確信を持ちにくいということだ。救いは自分の意志に責任があるので、自分が救われているかどうか不安になるのだ。次に、救われている実感を必要とするようになる。どれだけ奉仕をしたから、また、どれだけ自分は牧師に従順だったか等によって「私は信仰を持っており、いま救われているはずだ」と自分の救いをはかるようになる。これは、完全に律法主義だ。その日の気分によってすら、救われている気持ちになったり、救いを失った気持ちになったりする人もいるだろう。さらに、救われている実感としての感覚を求めるので、神秘主義に走る。神秘体験があれば、自分は救われていると思えるし、無ければ不安になり、あればあったで、救いの確信の継続のためにさらなる神秘体験を必要とする。救いに人間の力を認めると、人は律法主義や神秘主義に陥るようになるのだ。「リーダーシップのダークサイド」という本にこのような話しがあった。「さらには教会の背景が、闇の部分を育てる肥沃な土地を提供した。私が育ったペンテコステ派の教会では、それとはわからないような形で律法主義が人々の生き方を支配していた。神との関係は自分の行ないに大きく左右されるとされていたので、罪深いこの世で1週間を過ごした後、自分が霊的に正しい状態にあるかどうか自信を持つことができなかった。霊的な確信がないため、毎週日曜の夜、繰り返して献身をしなければならなかった。(中略)異言は聖霊のバプテスマを受けたという証明だった。それこそが、その人が仕事を立派にやり遂げたことを神が認めてくれたというしるしだった。残念ながら私は、何年もの間、『聖霊の夕べ』という青年のキャンプや、数えきれないほどの集会やリバイバル聖会に参加したにもかかわらず、待望の祝福を得ることが出来なかった。16歳の少年だった私は、自分は神を喜ばせていないのだと考えた。神を喜ばせていたら、神からの賜物を受けることができるはずなのだ。私はもっと一生懸命に働かなければならないと思った。」[10] 彼は、救いの確信ということより、神に認められていることの確信を求めていたが、ペンテコステ派の教理が彼(ら)を律法主義と神秘主義(異言体験)に追いやる様子が分かる。著者は真面目で誠実な人柄なゆえにいっそう苦しかったに違いない。
聖書の語る救拯論
一方、聖書は救いをどのように教えているだろうか。聖書は、人間は良心ですら堕落しており(ヘブル10:22)、生まれながらに死んだ状態であり(エペソ2:1、ローマ5:12)、霊的に盲目・耳が聞こえず、サタンの支配にあり(マルコ4:11-12、使徒26:18)、みことばを理解できず、受け入れることがない(1コリント2:14)と教えている。霊的に死んでいるのに、どうして神を求めることができるだろうか。確かに「神について知りうることは、彼らに明らかであり」「それは神が明らかにされた」(ローマ1:19)。では、人は神を求めることが出来るのか。答えは、いいえだ。「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった」(同1:21)と書いてある。そのような人間が、どうして救われるのだろうか。それは、神の主権的な選びによる。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」(エペソ1:4)たのだ。主は私たちの心を開いて、福音宣教のことばに心を留めるようにされた(使徒の働き16:14)。そうして、十字架につけられた方、すなわちイエス・キリストを御霊によって理解させてくださった(1コリント2章)。信じたことすら、神の恵み、神の賜物であった(エペソ2:8)。では、一度救われた者はその救いを失うことがあるだろうか。聖書はそのようなことは絶対にないことを保証している。聖霊の証印は私たちが御国を受け継ぐことの保証である(エペソ1:13-14)。どんなものも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは」(ローマ8:39)できない。主イエスは次のように仰せになられた。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」(ヨハネ6:39)、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)。たとえ信仰がなくなったかのように思えるときでさえ、主はその人の信仰を守り回復させてくださる(ルカ22:32、ローマ8:34)。私たちは、救いの確信を律法主義や神秘体験によって持つ必要はない。体験ではなく、みことばに目を留めるならば、心は明るくされる(2ペテロ1:18-19)。心に共にいてくださる聖霊は、神の子どもとしての立場をあかししてくださる(ローマ8:15-16)。また、兄弟を愛する教会生活のうちに信仰の確信を強める(1ヨハネ3:14,18-19、21、24)。
アルミニウス主義の救いと聖書の救いとには、なんと大きな違いがあるのだろうか。片や人を律法主義と神秘体験の奴隷とし、片や人を神の恵みに安息させる。パウロはガラテヤの信徒たちがほかの福音に移っていくことに驚いていたが、こんなにも素晴らしい救いを捨てて、奴隷の教えに移るのであれば、確かに驚いてしまう。アルミニウス主義は人間の力を救いに貢献させることで、キリストの十字架を不完全なものとしている。そして、律法主義化することで主が流された尊い血潮を無駄にしてしまっている。これは、主を愛する者にとって耐え難い屈辱だ。パウロが「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1:8)というのももっともだ。ある人たちは、パウロのこのような激しい言葉に怒りや嫌悪感や非難を向けたことだろう。パウロの言葉は「人の歓心」(同1:10)を得られるようなものではない。しかし、たとえパウロの相手が大使徒であろうと「神の恵みを無には」(同2:21)できない。キリストの死を無意味にする律法主義を退けなくてはならない(同)。
私は、アルミニウス主義やカリスマ派の教会の信徒たちが救われていない、と言っているのではない。恵みによって救われている人たちがたくさんいるだろう。ガラテヤの信徒たちは救われていたが「ほかの福音」を信じるようになってしまった。しかし、パウロは救われているからと言って放置して良い問題とはしなかった。信徒たちを「ほかの福音」から再び「キリストの恵み」「キリストの福音」「私たちが宣べ伝えた福音」に連れ戻さなくてはならなかった。カリスマ派のために、本来、神の主権的恵みの教理に立っていたはずの諸教会が、それを見捨てて(彼らは見捨てたとは思っていない。それはガラテヤの信徒たちも同じだ)現代の「ほかの福音」に移って行ってしまった。すなわち、律法主義・神秘主義の福音に、あるいは功利主義の福音、オカルトの福音、ご利益主義の福音に移って行ってしまった。もし、彼らが自分たちの信仰告白を大切にし、神の主権的な恵みの救いに立脚していたならば、このようなことにはならなかったはずである。彼らが神の栄光のために、キリストの福音に立ち返ることを祈り願わなくてはならない。しかし、そのためには「ほかの福音」が取り除かれなくてはならない。変わり果てたセージの苗は、虫を取り除くことで、いまは元通りになっている。
また、私たちの交わりは、ほかの福音によってもたらされるものであってはならない。それを変えてはならない。主キリストの十字架と復活による贖いの完全なることの恵みに喜び、御子を遣わされた父なる神の愛に安息し、聖霊の証印を頂いた者たちの確かな交わりを保とうではないか。そして、この豊かな聖書の福音のみを、人々に伝えていく諸教会として、神の栄光を現わそうではないか。
参考資料:『キリスト教会の「カルト化」』
[1] ジョン・F・マッカーサーJr. 混迷の中のキリスト教 櫻井圀郎訳 日本長老教会文書出版委員会 1997年 131p
[2] 鈴木昌訳編 第二ロンドン信仰告白<1689> 5p 前の「すべてについても」も同様。
[3] ピーター・ワグナー 聖霊の第三の波 マルコーシュ・パブリケーション 1991年 47p
[4] 多くの書がこのことを指摘しているが、「『信仰』という名の虐待」の中でパスカル・ズィヴィーがこの問題を詳しく扱っている。44-52p
[5]鈴木昌訳編 第二ロンドン信仰告白<1689> 8-9p
[6] 51-52p
[7] 1948年に始まった聖霊運動。指導者のジョージ・ホーティンの兄弟アーネストに按手に関する預言が与えられたという。それは、使徒職や預言者職が回復するというものだった。使徒の働き2章のペンテコステの出来事を初めの雨として、この運動を後の雨と称している。
[8] 佐々木正明のblog記事 2010年11月09日 だいぶ怪しげなペンテコステ信仰(3)http://pentekosute.seesaa.net/article/167000763.html
[9] 「ペンテコステ運動の21世紀版」と称して行なわれた大会。日本大会のホームページによれば「ありとあらゆるペンテコステ系諸派、カリスマ運動の主唱者たちが一致団結して展開し始めた運動」とのこと。http://www.empowered21aj.com/about/object-2/
[10] ゲーリー・L・マッキントッシュ サミュエル・D・ライマ リーダーシップのダークサイド-心の闇をどう克服するか 2013年 いのちのことば社 27p