肉的クリスチャン論
「肉的クリスチャン」論の概要
この記事では、「肉的クリスチャン」理論に関する二つの見解の違いについて考察します。これは、私たちの世代で最も歪んだ教えの一つです。危険で自己欺瞞的であるだけでなく、多くの場合、破滅的なものです。この誤った教えの結果、日曜日の朝、教会の席を埋め、教会員名簿に名を連ねている多くの人々は、真の回心を知りません。人生を変える力を経験したことがないため、心からの信仰とは無縁なのです。彼らは「新しく造られた者」ではなく、彼らにとって「古いものは過ぎ去って」いません(Ⅱコリント 5:17)。
この「肉的クリスチャン」の教えは、現代の悔い改めを排除した伝道によって改宗したと思われるすべての人々を受け入れるために、また彼らの回心の有効性を説明するために、考案されました。決心をし、手を上げて通路を歩き、信仰告白をしたものの、聖霊の力によって人生が変えられることがなかった、その人々。クリスチャンが愛するものを愛さず、クリスチャンが嫌うものを嫌わない、その人々。クリスチャンではないように行動し、考え、生きる彼らの人生について、かならずしもFG陣営だけとは限らない、この教えを支持する教師や信徒たちは、何らかの説明を用意しなければなりませんでした。こうして、LS否定の教師たちを中心とする者たちによって、非聖書的な「肉的クリスチャン」というカテゴリーが発明されたのです。
シリーズ冒頭でも述べましたが、LS否定の教師は、クリスチャン生活に関する二段階の経験論を説きます。第一段階は回心であり、キリストを自分の救い主として受け入れ、そうすることで地獄から逃れること。第二段階は、その後、キリストを主とする決心をすること。LS否定の教師たちがわかっていないことは、人間にはキリストを主とすることはできないということです。罪人が何を言おうと、考えようと、しようと、キリストは主です。キリストは、全能の神の聖定によって、主なのです。以下の聖句は、誰がキリストを主としたのかを明言しています:
「肉的クリスチャン」論の支持者によれば、この二つの段階の間の期間、信仰を持ったとされる人は、不信者のように生きるかもしれません。「子供の時(または若い時、数年前、20年前…)、私はキリストを救い主として受け入れたが、主として受け入れたのはずっと後になってからだった」とは、よく耳にするストーリーですが、これは個人的経験の誤った解釈です。私たちは常に経験を聖書によって解釈し、決して経験を聖書によって解釈してはなりません。聖書解釈の根本的な原則です。
それに対し、LSに立つ教師たちは、クリスチャンは人数と同じだけ種類があるものの、霊的と肉的という二つのカテゴリーがあることを否定しています。LSの教師たちは、すべてのクリスチャンは、人生のある時点で、ある状況において肉的であることがあっても、すべてのクリスチャンは霊的である、でなければクリスチャンではない、と教えます:
私たちは、ヘブル 13:9 の警告「さまざまな異端の教理に惑わされないようにしなさい」を心に留めておかなければなりません。別の英訳聖書では、「あらゆる種類の風変わりな教えに流されないようにしなさい」、「奇妙な新しい考えに惹かれないようにしなさい」という訳もあります。「肉的クリスチャン」の教えは、この奇妙で風変わりな教えの一つです。この「肉的クリスチャン」の教えが、「主を主としない救い」すなわち「ノンロードシップ・サルベーション」という恐ろしく歪曲した教理を生み出したのです。悲しみとともに書きますが、この教えは、多くの立派なクリスチャンによって支持され、尊敬に値する教師たちによって教えられています。主がこの機会を通して、読者が真の救いに至る信仰を与えられ、信者がより確かな理解を通してますます神を崇め、栄光を帰すことになりますように。
スコフィールド聖書によって普及
クリスチャンを二つのカテゴリーに分ける教えは、主にスコフィールド聖書、ダラス神学校、キャンパス・クルセード・フォー・クライストによって普及しました。
以下のスコフィールド聖書からの引用は、その教えを明確に表現しています:
このスコフィールドの注釈には二つの主要な点があります。第一に、人間を三つの階級に分類していること、第二に、これらの階級の一つが「肉的」「肉欲的な」「肉に従って歩み」「キリストにある幼子」から成ることを示していることです。「歩む」とは、肉の欲する方向への傾きや偏りをその特徴として生きている、ということです。
この立場を最もよく表現し、かつ最も広く普及しているのは、次のような図による教えを載せた小冊子です。日本でも「四つの法則」としてよく知られています。
1の円は、ノンクリスチャンを表していることに、議論の余地はありません。自我の位置に注目してください。これは、自分の自我が王座にいることを示しています。生まれたままの人間は自己中心であり、その興味は自我によって支配されており、十字架はその人の外にあります。これを2の円と比較してみてください。唯一の違いは、十字架(キリストを表す)が王座ではなく、その人物の内部にあることです。また、1の円と同じ小さな点が2の円にもあり、性質や性格に基本的な変化がないことを示しています。つまり、肉的クリスチャンの人生の傾向は、ノンクリスチャンと同じであるということです。2の円は、基本的に 1の円と同じですが、唯一の違いは、肉的クリスチャンはイエスを受け入れたと信仰告白をしたということで、神を信頼していない点においては1と同様です。この図と、Ⅰコリント3:1-4のスコフィールド聖書注釈を見比べると、互いを正確に表現していることがわかります。
この教えについて、非常に顕著で重要な事柄が三つ確認できます。第一に、先程も述べたように、この教えはすべての人間を三つの階級またはカテゴリーに分類していることです。この事実については、その支持者たちは誰も異議を唱えません。第二に、一つの階級またはカテゴリーが「肉に従って歩むクリスチャン」だとされていることです。その人生の中心は自分の自我であり、人生の傾向は、再生されていない人間と同じです。第三に、この見解を受け入れるすべての人々は、1コリント3:1-4をその根拠として用いていることです。
したがって、聖書全体が、再生した人と再生していない人、回心した人と回心していない人、キリストにある人とキリストの外にある人、この二つのカテゴリーの人しか教えていないことを立証できれば、「肉的クリスチャン」の存在は否定されます。
「肉的クリスチャン」の教えの誤りと危険性についてさらに述べる前に、私が意図していないことを記しておきます。この「肉的クリスチャン」の議論において、私は、クリスチャンの罪、キリストにある幼子、恵みによる成長、一時的に背信するクリスチャン、そしてクリスチャンが受ける神の懲らしめに関する聖書の教えを見落としているわけではありません。私は、幼子のクリスチャンがいることを認めます。実際、神の真理の理解や霊的成長においてはさまざまな「幼子」の段階があります。また、クリスチャンは肉的になりうるし、それにもさまざまな程度があります。すべてのクリスチャンは、人生のある時期、ある状況、ある分野において肉的であり得ます。「肉が望むことは御霊に逆ら(う)」(ガラテヤ 5:17)という現実を、すべての信者が生きています。さらに、神の目に麗しい様々なクリスチャンの性質が、皆に等しく現れているわけではありませんし、クリスチャンの人生のあらゆる時期に一定に現れるわけでもありません。そして、聖化の過程には多くの山や谷があり、天の都への道には多くのつまずき、転倒、そして曲がりくねった道があります。真の信者の人生における悲惨な転落と肉欲の例が、聖書に数多くあるとおりです。天の御父による一時的な裁きと懲らしめについての警告が必要なのは、そのためです。
「肉的クリスチャン」に関する、LS否定派の教えの誤り
①彼らの唯一の根拠、第一コリント3:1-4の誤った解釈と適用
この箇所の歴史的かつ正しい解釈については、後で詳しく説明します。
新約聖書の中で最も教理的な書がローマ人への手紙であることについては、ほとんどすべての聖書学者や神学者が同意するでしょう。そして、ガラテヤ人への手紙が新約聖書の中で 2 番目に教理的であることにも、同様に同意するでしょう。一方コリント人への手紙第一は、おもに教会における実際的な問題を取り上げています。
1-3章:長老たちに関する争いと対立(参照:1:12-13; 3:3-6; 3:21-22)
5章:不道徳と近親相姦(1節)、悔い改めの欠如(2節)
6章1-10節:互いに訴訟を起こすこと(7節)、互いに欺き害を与えること(8節)
7章1-17節:夫婦間の性問題、性行為は子孫繁栄のためだけではないことの説明と指示
8章1-13節:クリスチャンの自由、弱いクリスチャンと強いクリスチャン、偶像に捧げられた肉を巡る争い
9章:説教者への報酬とパウロの使徒職
10章:クリスチャンの自由
11章1-16節:女性と帽子・髪型に関する問題
11章17節:彼らの公の集まりは、良いことよりも悪いことの方が多い
11章20-23節:主の食卓での混乱
12-14章:霊的賜物、愛の欠如(13節)
15章:最悪の教理の誤り、キリスト教の根本的な教理である復活
16章:献金に関する問題
これらの問題はすべて、クリスチャンの行動の中の、肉的だと認められる例です。したがって、第一コリント1-3章で述べられている争い、分裂、長老をめぐる論争は、その一つの例にすぎず、コリントの信徒たちはこの分野において肉的だったということであり、この特定の分野において幼子のように、そして再生していない者たちのように振舞っていた、ということに過ぎません。そもそも、パウロが肉的だと非難した人々は、霊的な実を多少は示していました。彼らは定期的に集まっていました(Ⅰコリント11・14章)し、その濫用はあったものの霊的賜物も用いていました。キリストを信じる決心はしたものの、その後キリストと共に歩むことをやめ、キリストの民との交わりを絶った人々ではなかったのです:
この箇所から、人類が三つのカテゴリーに、あるいはクリスチャンが二つの階級に分類できると結論付ける、強力な根拠は見つけられません。そのような見解は、聖書の他の部分とはまったく相容れません。以下の引用は、人類が二つのカテゴリーに分けられることを明確に教えている、多くの聖書の箇所のうちのほんの二例です。
(ローマ 8:1-9)。
この二つの箇所は、聖書の他の部分で明確に教えられていることを、同様に述べています。すなわち、人間には二つの階級またはカテゴリーしかなく、この二つの階級の中には多くの濃淡や程度があるということです。したがって、第一コリント 3:1-4を人間を三つの階級に分けるように解釈することは、解釈の根本原則に反するものです。その原則とは、すべての個々の箇所を聖書全体から解釈すること、補足的な箇所は主要な真理から解釈すること、曖昧な箇所は明確な箇所から解釈することです。この教えは、聖書の一部分だけを取り上げ、誤って解釈し、それを根拠として適用しているため、誤りです。
②「義認」と「聖化」およびそれらの相互関係との矛盾とそれらの歪曲
「義認」と「聖化」は、新しい契約の基盤となる、二つの祝福です。義認とは、キリストが天で私たちのためにしてくださる事です。御自分の完全な義を私たちにまとわせ、その血潮で私たちの罪の記録を白紙にし、私たちに天に入る律法の前の権利を与えてくださいます。聖化とは、キリストが地上で御自分の聖霊をとおして私たちの内でしてくださる事です。聖霊によって私たちは、ふさわしい行ないをすることが可能になります。
御霊の私たちの内での働きと、私たちのために流された血潮によるきよめは、恵みの適用において不可分一体のものです。したがって、回心されてしばらくしてから服従が来るのだと教え込むような試みは、新しい契約から生きた神経を抜き取ることに他なりません。「肉的クリスチャン」の教えはまさにそれを行っています。神が結び合わせたものを分離し、その結果聖書的なキリスト教を歪め、義認と聖化の両方を含む新しい契約のすべてを有効にするために流されたキリストの血潮に汚名を着せるものです。
子供用教理問答は、それを美しく要約しています:
③救いに至らせる真の信仰と偽りの信仰とを区別していないこと
この区別は、新約聖書全体に見られます。多くの人が信じましたが、イエスは彼らに自分を任せませんでした(ヨハネ 2:23-24)。信じましたが、イエスを告白しませんでした(ヨハネ 12:42-43)。しばらくの間信じましたが、後にいなくなりました(ルカ 8:13)。魔術師シモンは信じ、バプテスマを受け、行動をともにしましたが、聖霊を買うことができると思っていました(使徒 8:12-32)。ペテロは、シモンが滅びると言いました( 20節)。彼の心が正しくなかったからです(21節)。新しくされていなかったシモンは、苦い悪意と不義の束縛の中にいました(23節)。そして、彼が真の信仰を持っていない最も強い証拠は、彼の祈りにあります:
彼は、再生していない者と同様、罪の結末だけに気を取られ、罪からきよめられることを求めませんでした。いわゆる「肉的クリスチャン」と同じように、イエスを一種の「地獄から逃れるための保険」としては望んでも、罪から解放されることは望まなかったのです。ヤコブ 2:19 は「悪霊どもも信じて(いる)」と述べています。
これらの人々は、信じていました。つまり、彼らは信仰を持っていました。しかしそれは、救いに至る信仰ではありませんでした。同様に、「肉的クリスチャン」は皆、信仰を持っています。しかし、それが必ずしも救いに至る信仰であるとは限りません。救いを宣言してはいけません。
④悔い改めの排除
「肉的クリスチャン」の教えは、少なくとも暗に、悔い改めを排除しています。「肉的クリスチャン」が事実上変化しておらず、生まれたままの人間と同じように生き、行動していると教えているからです。自我が依然として王座に座っている図から、容易に理解できます。これまでたくさん述べてきたように、悔い改めの必要性を教えないことは、非常に重大な誤りであり、福音のメッセージと使徒たちの福音伝道の模範から逸脱しています。
⑤救いの確証の教理の無視
「肉的クリスチャン」論支持の立場は、保証の教理に関する多くの聖書の教え、すなわち、クリスチャンの性質や行動は救いの確証と関係がある、という教えを無視しています。救いの確証に関するLS論の見解については、第二ロンドン信仰告白第18章をご覧ください。救いの確証については、今後の記事でさらに詳しく説明します。
これらの多くが、私がここまで述べてきたFG論に対する反駁と重なることにお気づきだと思います。「肉的クリスチャン」の教理は、FG論の中心的教えであると言って過言ではないでしょう。
