贖いにおける神の決定的な御業
FGの教理を紹介したところで、この教理が聖書的ではないことをはっきりと示す、いくつかの聖句を紹介したいと思います。ぜひこれらの聖句を実際に調べて、その前後の文脈も確認し、これらの聖句が文脈から切り離されて引用されているのではないことを確認しつつお読みください。
聖書から明らかなように、神の救いの計画は、単に人々を天国に導くことではありません。神の目的は、選びの民を御自身のもとに呼び寄せ、彼らを聖別し世の光とすることによって、御自身の栄光を現すことです。彼らは失敗を犯す(ダビデのように時には凶悪な罪を犯す)こともありますが、それは一時的な道徳的過ちであり、悔い改めのない長期にわたる不従順の繰り返しではありません。次の 7 つの箇所は、神が人を救うときにその人の心にもたらす根本的な変化について述べています。これらの記述のほとんどが確定的・断定的な性質を帯びた表現であることに注目してください。つまりこれらは、人が神に対して行うかもしれない、あるいは行わないかもしれないような事柄ではなく、神が人を救うときに確実に行うことです。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ 31:33)
わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(エゼキエル 11:19-20)
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル 36:26-27)
そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。(使徒 15:8-9)
ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。(ローマ 7:4)
キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(テトス 2:14)
イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。(Ⅰペテロ 1:1-2)
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ 2:10)
悔い改め
悔い改めとは
悔い改めは人の働きではなく、神が人を御自身に引き寄せる際に与える賜物です。人から来る悔い改めは、神の前には何の価値もありません。なぜなら、人による悔い改めはすべて不完全であり、私たちの最も義なる行いも、聖なる神の前では不潔な衣のようなものだからです(イザヤ 64:6)。しかし神の与える悔い改めは、神が人を回心させるためにその人の心の中で働いておられる証拠です。
悔い改めとは、FGの教師たちが定義するように、単に「神に対する考えを変える」ことではありません。この定義は、神に対する自分の罪を認識することについては何も述べていません。むしろ、悔い改めは、罪に対する悲しみから生まれるものと定義するほうがよいでしょう(Ⅱコリント 7:9-10参照)。悔い改めは、自分の考えを変えることですが、それは神に対する考えだけでなく、自分の罪に対する考えをも変えることです。もはや罪を愛するのをやめ、それまでの自分の罪が間違っていたことに関して神と同意し、神の御霊によって肉と罪が打ち負かされることを望むようになることです)。自分の肉と罪の敵となり、神の陣営に入ることです。それは、良い行ないという霊的実りと同じものではありませんが、論理的には悔い改めと関連し、悔い改めに続くものです。
「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(ルカ 3:8; マタイ 3:8 も参照)
こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。(使徒 26:19-20)
あの手紙(※信徒への叱責)によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント7:8-10)
ウェストミンスター小教理問答は、悔い改めを次のようにわかりやすく定義しています:
「いのちに至る悔い改めとは、罪人が自分の罪を真に認識し、キリストにある神の憐れみを理解し、その罪を悲しみ、憎み、罪から離れて神に向き直り、新たな従順を全うする決意と努力をもたらす、救いの恵みである」。
ここで加筆すべき重大なことがあります。著名なFG神学者チャールズ・ビングは、「metanoeo(悔い改め)」の定義が単に「考えを変えること」であり、単なる知的同意であって感情や意志ひいては行動の変化という全人的な変革ではない、と主張します。その裏付けとして、新約聖書ギリシャ語辞典を引用し、「この悔い改めの定義が、辞書編集者とLS支持者さえも共有する統一見解である」と述べました。しかし彼がやり忘れてしまったことが、ふたつありました。第一に、辞書には大概語句の使用例文が併記されていますが、ビングの採用した「考えを変えること」という定義の例文には、一切聖書の文章がなく、すべて当時の世俗の書物からのものだったという事実を、読者に伝えませんでした。第二に、単語には通常一つ以上の意味があるものです。「悔い改め」という語も同様です。ビングは、一番はじめに記されている定義のみを提示し、「これこそが唯一の悔い改めの定義だ」と言いますが、彼の引用したギリシャ語辞典には当然一つだけでなく二つ目の定義も記されていました…「2. 嘆くこと、悔い改めること、回心すること」。先ほど用例について書きましたが、この二つ目の定義に併記された用例は、すべてが新約聖書の文章でした。さらにそこには、このような説明文が添えられていました:
(聖書中の)metanoeoという語においては、「嫌悪感のゆえに方向を変える」という例が圧倒的に多いことから、apo tinos(~から)という句を伴う。つまり、「悔い改めて何かに背を向ける」ということである。
(※背を向ける対象の例として、悪、不法(罪)、殺人、魔術、姦淫、盗みなどが使用されています)
この他にも、ビングはヨハネス・ベーム(ドイツの新約ギリシャ語辞典著者)やAT・ロバートソンの著作から、自身の主張を裏付けるために一部分を故意に切り取り、彼らの意図したこととまったく違うことを言っているような工作をしました。ビングが切り取りをした著作で両者が真に主張したことは、FGの真逆、すなわち、metanoeoとは認知・感情・意志という全人格的変化が行動の変革を引き起こすことである、ということでした。この事実は、そんなことをせざるを得ないほど、FGのmetanoeoの定義を押し通すのが困難である、ということの証左に他なりません。この他にも、FG論者の解釈は多分にeisegesisの上に成り立っています。巻末にその数例を書き添えます。
悔い改めは福音に不可欠な要素
以下の聖句を調べ、聖書の中で救いのための悔い改めの概念がどれほど頻繁に言及されているかに注目してください。また、これらの聖句は、教会に対する戒めとしてではなく、回心と伝道という文脈のなかで述べられて いることに注目してください。FGの教えとは対照的に、聖書が悔い改めを福音のメッセージの一部として提示していることは明らかです。
(※バプテスマのヨハネ)「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。(マタイ 3:2)
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ 1:14,15)
バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。(マルコ 1:4)
わたし(※イエス)が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ 5:32)
わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ 13:3)
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。(ルカ15:7)
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒 2:38)
ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。(使徒 3:19)
神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(使徒 17:30)
ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。(使徒 20:21)
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。(使徒 26:17-18)
ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心(※悔い改め)、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。(ヘブル 6:1-2)
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ 3:9)
「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:47)
最後に引用した聖句は、「大宣教命令」の一節です。もし悔い改めが福音のメッセージの一部でなかったならば、キリストはここでそれを宣べ伝えるよう命じなかったでしょう。ここでは、また他の箇所でも信仰については言及されていませんが(悔い改めは言及されています)、ヨハネ 3:16 などの他の箇所では悔い改めが言及されていません。したがって、悔い改めと信仰は相互のうちに存在すると暗に認められている、ということになります。つまり、救いに至る信仰とは、悔い改めを伴う信仰である、ということです。それは、胸を打ちながら「神様、罪人の私をあわれんでください。」と言った取税人(ルカ 18:13)の姿です。それは、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」と言った放蕩息子の姿です(ルカ 15:18)。福音に応答する人は、知的に納得しただけでなく、「心を刺され」た人なのです(使徒 2:37)。
ジョン・マレーは、信仰と悔い改めの関係を次のように説明しています:
信仰と悔い改めの相互依存関係は、信仰とは罪からの救いをもたらすキリストへの信仰であることを思い起こせば、容易に理解できる。しかし、信仰が罪からの救いに方向付けられているならば、罪に対する憎しみと、そこから救われたいという願望が必ずあるはずである。このような罪に対する憎しみは、罪から神に本質的に向き直ることからなる悔い改めを伴う。重ねて言うが、悔い改めが罪から神に向き直ることであるならば、その神に向き直るという行為は、キリストのうちに明らかにされた神の憐れみを信じるということを意味する。信仰と悔い改めを切り離すことは不可能である。救いに至る信仰は悔い改めに浸透しており、悔い改めは信仰に浸透している。(ジョン・マレー『Redemption Accomplished and Applied』p.113)
救いは、やがてくる災いから逃れるという緊迫感を伴います。聖書はこれを「前に置かれている希望を捕らえようとして(キリストのもとに)逃れて来た」(ヘブル6:18)と表現しています。パウロは第一コリント14:24-25で、救いの過程を神の御言葉に対する応答として説明しています: この応答とは、御言葉を聞いた人が「皆に誤り(罪)を指摘され」、「皆に問いただされ」悟り、自分の「心の秘密があらわにされ」、その結果その人は「神が確かにあなたがたの中におられる」と聖霊の働きを確信し、「ひれ伏して(※謙遜、砕かれた心、自責の表れ)神を拝む」ことです。使徒 2:37で、使徒たちが宣べ伝えた福音を聞いた人々は、「これを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った」とあります。ここでも、救いが単なる知的同意だけではなく、感情や意志も神に動かされていることがわかります。
悔い改めは人の行ないなのか?
一般的な反論として、悔い改めは人間の行ないであり、信仰に行ないを足すことであって「信仰のみ」に反する、したがって福音のメッセージの一部たりえない、というものがあります。 これをFGの教師たちは「前のめりの福音」と呼んでいます。 前項のテキストを読む限り、これは信じ難いことです。 加えて、聖書は悔い改めについて、救いを得るための人間の行ないとしてではなく、神から与えられた賜物として語っている、という事実にも触れておく必要があるでしょう。
神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。(使徒 5:31)
人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒 11:18)
反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。(Ⅱテモ 2:25)
神は人を救うとき、決定的なことを行います。新しい柔らかい心を与え、理解の目を開かせ、心に律法を記すのです(エレミヤ31:33; エゼキエル11:19-20; 36:26-27; 使徒 16:14; Ⅱコリント3:16; 4:6)。
加えてFG論者は、ヨハネが福音書の中で「悔い改め」という言葉を使わず、不信者にそれを求める記述がないことを主張の根拠の一部としています。ヨハネの福音書が「読者が信じて永遠のいのちを得るために書かれた」と明言している唯一の福音書だ(ヨハネ20:31)という点で、このことには重要な意味があるのだ、と。しかしながら、第一に、当然ながら福音のメッセージはヨハネの福音書だけに示されているわけではありません。第二に、ヨハネは福音書の中で、悔い改めの概念についてはっきりと述べています。例えばヨハネ8章で、イエスはパリサイ人に、嘘をついたり、神を愛さなかったりした彼らの罪を突きつけています。またヨハネ4章では、サマリヤの女の不道徳を指摘しています。第三に、ヨハネが「悔い改め」という言葉を不信者に対して用いていることは他の書から明らかです:
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。(黙示録2:20-22)
※注:キリストが偽教師たちに自分の行いを悔い改めるよう要求したというジレンマを解消するため、ゼイン・ホッジスなどのFGの教師たちは、驚くことに、この偽預言者は実際には真の信者だったと説明しています(Grace in Focus、1998年7/8月号)。イエスは偽教師について「あなたがたは彼らを実によって見分ける 」(マタイ7:16)と明確に言われたのに、何という曲解でしょうか。
これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。(黙示録9:20-21)
こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。 … そして、その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(黙示録 16:9, 11)