※この文章は、私の敬愛するとある地域教会の牧師が、とある学びの会のためにお書きになったものを、ご本人の承諾を頂いて掲載しています。
Ⅰ. はじめに
私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
ガラテヤ1章6節
冬のある日、私は園芸店に立ち寄った。そこに、以前から欲しかった食用セージの苗が1つだけあった。ほとんど枯れたような小さな苗だったが、根元が元気そうだったので、きっと育ってくれるだろうと購入した。鉢を代え、新しい土も入れた。苗は春になると元気に育ち始め、予想とは違ったが細めの葉を茂らせた。もっと大きくなれば、おいしいサルティンボッカを作れるだろう。やがて綺麗な紫色の花を咲かせ、さらには、種をこぼしてたくさんの芽をだした。これからをとても期待した。ところがである。ある日、葉の数が少なくなっていた。たくさんあった芽は跡形も無かった。一部残された葉を見ると虫が食べた形跡が残されていた。どんな悪い虫が食べたのだろうと探したが、まったく見当たらない。羽虫が食べて飛んでいったのか?数日後、葉はほとんど無くなってしまっていた。もう一度、くまなく見ていくうちにようやく気がついた。なんと、色も、輝き具合も、そして模様も、葉っぱにそっくりの幼虫がたった1匹いたのである。2センチはあるから結構前からいたはずだ。セージを毎日見ていたわけではないので、その間にやられてしまった。そして、葉とそっくりなことが発見を遅らせ、セージを無残な姿にしてしまったのだった。一度正体がわかってしまえば、葉とは似ても似つかない姿なのに。
主の教会は、使徒の時代からすでに異端に悩まされていたが、パウロはその異端をガラテヤ書の中で「ほかの福音」と呼んだ。コリント書の中では「異なった福音」(2コリント11:4)と呼んでいる。すなわち異端の教えは福音を装っており、似ているのだ。そのため、「キリストの福音」(ガラテヤ1:7)にしっかり立っていないガラテヤ諸教会はかき乱され、神を「そんなにも急に見捨てて」(同1:6)「ほかの福音」に移って行ったのだ。もちろん、ガラテヤ諸教会は、自分たちが神とその恵みの福音を見捨てたとは思っていなかったに違いない。むしろ、偽教師の教えを、真理だと思って受け入れてしまったのだろう。彼らは、偽教師もその教えも「のろわれるべき」(同1:8-9)ものであるとは知らなかったのだ。パウロは、手紙を通してガラテヤ諸教会に「キリストの恵み」、「キリストの福音」を説き明かし、「ほかの福音」との違いを明確にした。そして、両者を比べてみれば、セージの葉とあの幼虫の違いのように、似ても似つかぬものだった。
異端とはなんと恐ろしいものだろうか。福音と似たものとして教会に入り込み、信徒たちに喜んで受け入れられ、結果、主キリストの教会を異質なものにしてしまう。私たちは異なる教えが教会に入り込まないよう、注意しなくてはならない。しかし、現代の教会は異端の問題の影響を直接的に受けないようにも思える。なぜなら、私たちが知る代表的な異端、すなわち、ものみの搭・モルモン教・統一協会といった現代の異端は、彼らの教会を組織しており、その中で活動しているからだ。つまり、彼らが主の教会に入り込んで、彼らの教義を広めることは、まったくではないにしても、あまり考えられない。もちろん、主の教会が異端のために戦わなくてはならない現状はある。異端が社会に与える影響は大きく、異端救出のカウンセラーたちが多大な犠牲を払って活動している。そして、諸教会は異端救出のカウンセラーと連携を取り、そこから救われた人たちをフォローするために活動している。従って、主の教会は異端の知識を身につけ、被害者たちの心を学ばなくてはならない。教会における異端のための働きは、現代においても極めて重要だ。だが、このように考えると、私たちは教会の内部を侵蝕する異端の攻撃からはほぼ解放されているかのように思う。パウロがエペソの長老たちに注意を呼びかけた「狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回る」(使徒20:29)という心配はもう無用となったのだろうか。
ところが、近年のキリスト教会には、異端とは区別されるが異端と同じ被害をもたらす問題が発生している。信仰の虐待とも呼ばれるカルト教会やカルト化教会の問題だ。信仰の名の下に教会の中で虐待がある、無条件的な牧師への服従が求められる、過度な奉仕や献金を強いられる、できなければ信仰がないと非難される、疑問を持てばサタンだと言われる、などの問題がキリスト教会の中に、しかも福音派と呼ばれる教会の中に多く見られるようになった。これらのカルト的問題は、信徒の思い・行動・感情・情報を統制する、いわゆるマインド・コントロールという手法の問題とされている。これに関する本は「信仰という名の虐待」、[1]「教会がカルト化するとき(及び改訂版)」、[2]「健全な信仰とカルト化した信仰」、[3]「信仰という名の虐待からの回復」[4]等、多数出版された。マインド・コントロールは異端が組織作りに用いる特徴的な方法であるが、キリスト教会の内にマインド・コントロールが見られる場合、異端とはされない。一方、異端にマインド・コントロールの手法が見られなくても異端は異端だ。教えが違うのだから。ということは、キリスト教会の中にあるマインド・コントロールの手法やそれに結びつく様々な要因は、教えの問題ではないとされる傾向があると言える。従って、カルト化した教会の中からカルト化の要因とマインド・コントロールの手法が取り除かれれば、その教会は健全化されるはずだ。しかし、カルト化の要因やマインド・コントロールという悪の手法はいったいどこから来たのだろうか。聖書からか。もちろんそんなはずは無い。みことばは真理であり、私たちを聖め別つ(ヨハネ17:17)、「敬虔にふさわしい真理の知識」(テトス1:1)だ。神の御言葉が私たちを悪に導くことは絶対にない。反対にみことばから離れることで、人は悪を行なう(2ペテロ2:2)。悪魔のうちには真理がなく、それゆえ彼は人を殺し、偽りを言う(ヨハネ8:44)。ペテロは福音の真理についてまっすぐ歩まなかったので失敗した(ガラテヤ2:14)。従って、カルト化教会には聖書と違う教えが見られるのではないだろうか。教会で虐待を受け、その教会から離れた人たちは、自分がかつて所属していた教会には、間違った聖書理解があることを認めているという。[5] それを個人の罪のためとすることもできるだろう。教会がカルト化してしまったのは、その教会の指導者たちの罪がそうさせてしまったのであって、教会の信仰・教理には問題ないとも考えられる。
それでも、誤った教えが悪を行なわせるという現実は残る。カルト化の原因を個人の罪に帰したとしても、それは聖書とは異なる考えに従ったためだ。事実、異端の教えは、異端の行動を生んでいる。そしてそれを教える者の行動は不敬虔な歩みに結びつく場合が多い。例えば「エホバの証人」で知られるものみの塔の創始者、チャールズ・ラッセルはどうだろうか。チャールズとその妻は離婚裁判で14年間の長期に渡って争った末に離婚している。妻の証言によれば、チャールズは暴君で異常な性癖を持っていたという。しかも、この裁判だけでなく名誉毀損、虚偽の罪などいくつもの裁判を起こされている。モルモン教の創始者ジョセフ・スミスはどうだろうか。彼は、地元では魔術が好きな詐欺師として知られていた。彼の母は、「(ジョセフ)は法螺(ほら)話が上手で、彼が話すことは何でも本当のことのように聞こえた」と日記に書いている。彼は1826年にニューヨーク州で裁判にかけられ、「詐欺および人々の平和な生活を乱す騒乱罪」で有罪判決を受けている。統一教会の創始者として知られる文鮮明はどうだろうか。彼は性犯罪などで複数回逮捕されているおぞましい人物だ。このように、異端の教師たちは、不敬虔な歩みをしている。教えがおかしければその行動もおかしいのだ。2ペテロ書2章1節の御言葉の通りだ。
しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。(2ペテロ2章1節)
異端の教師は異端を教えるだけでなく、「主を否定するようなことさえ」する。教えはその行動にも現れるのだ。主イエスの御言葉も思い出す。
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。(マタイ7章15-18節)
木が悪ければ悪い実ができる。教えが悪ければ悪い行いに至る。私たちは「パリサイ人のパン種」(マタイ16:11-12)に気をつけなければならない。それで、カルト化する教会の教えの部分にメスを入れた本もある。「今日における奇跡 いやし 預言」、[6]「混迷の中のキリスト教」、[7]「霊の戦い虚構と真実」[8]がそうだ。これらの本はカリスマ問題について取り扱っているが、先にあげたカルト問題の本と比較するならば、カルト化教会とカリスマ問題には深いつながりがあることがわかるだろう。カリスマの教えがカルト化した教会を多く生み出しているのだ。カリスマ問題というと、聖霊の第2の波、あるいはネオ・ペンテコステ運動とも呼ばれるカリスマ運動を思い起こすが、カリスマ問題はそれだけを意味するのではない。ペンテコステ運動、カリスマ運動、力の伝道(しるしと不思議)運動が合わさったものである。[9] 高木慶太は、これを「カリスマ・ミックス」と称しているが、[10] 的確な表現だと思う。カリスマ運動(ネオ・ペンテコステ運動)が超教派のペンテコステ運動であったように、カリスマ・ミックスもそれであり、カリスマ運動以上に様々な教会に広がり、影響を与えている。しかし、高木慶太が言うように、「旧来のペンテコステ派およびカリスマ派の中には、独自の教理的特徴を保ちながらも、『しるしや不思議』を極端に強調する第三の波運動に批判的な立場をとる穏健派の人たち」[11]もいる。代表的な人物としては佐々木正明[12]や村上密[13]が挙げられるだろう。それで、「今日における奇跡 いやし 預言」と「霊の戦い虚構と真実」は、カリスマ・ミックスに対する教理的反論であり、旧来のペンテコステ派への反論ではない。もう1つの「混迷の中のキリスト教」は、この問題をより全体的に扱っている。ところで、この学びで使用するこの運動に対する名称であるが、カリスマ・ミックスではなく、短く「カリスマ派」で統一することにする。
カリスマの問題を扱うことは非常に勇気がいる。なぜなら、カリスマ派からの攻撃を受けることになるからだ。ウィリアム・ウッドはこう言っている。「最後の懸念として、筆者や筆者の家族への攻撃が予想されます。」[14] 村上密は「霊の戦い虚構と真実」の序文でこう言っている。「不都合な人々の反発が予想される中で、出版されたいのちのことば社の勇気に感謝します。」[15] また村上密はブログの中で「匿名の誹謗中傷を受け続け」ていることを告白し、そのような中で「教会のカルト化問題にこれからも取り組んでいきたい。」と語っている。[16] ジョン・F・マッカーサーJr.も「混迷の中のキリスト教」でこう書いている。「実際、かつて出版されたこの問題に関する本はすべて反発を受けている。(中略)この問題を聖書的に扱おうとする者に強い威嚇的要素が働く」。[17] ずいぶん昔になるが、「異言-聖書の教えと現代の異言」が出版されたときもそうだったという。[18] また「混迷の中のキリスト教」がいのちのことば社から出版されなかった理由も伝聞ではあるがカリスマ派からの圧力がネックになったと聞いている。今回の学びは、これらの本に大いに助けを受け、内容を引き継ぐものであるわけだが、私がこの問題を取り扱えるのは、私の心臓に毛が生えているからではなく、ここが「○○会」(※個人情報のため伏字とする)という場であるからだ。同じ立場の中で思うところを思い切ってお話ししたい。この学びと紹介した本の内容との違いも述べておく。私はこの学びにおいてカリスマ問題に関する日本の現状のいくらかをお伝えしたいと思っている。「混迷の中のキリスト教」は具体的な例がはっきりと、しかも多数述べられているが、おもに米国の話しであるので、日本にはなじみがない。そこで、ほんの少しではあるが、日本の具体例を紹介する理由は、この問題の影響が非常に大きい事を理解してもらうためだ。そして、どのようにこの誤った教えが広がり教会に入り込むのか、という点を考えたい。誤った教えは「ひそかに」(2ペテロ2:1)教会に入り込むので、それを知ることによって万が一にも私たちの教会にそのようなことがないようにしたい。それから、私が思う、この問題を引き起こす根本的な教理的違いについて触れたいと思う。従って、先に紹介した本が明らかにしているカリスマ派の様々な教理的間違いについては、あまり述べないようにするつもりだ。
次章:『ほかの福音(2)倫理崩壊の教会』
[1] パスカル・ズィヴィー 福沢満雄 志村真 いのちのことば社 2002年
[2] ウィリアム・ウッド いのちのことば社 2002年 改訂版2007年
[3] ウィリアム・ウッド いのちのことば社 2005年
[4] パスカル・ズィヴィー いのちのことば社 2008年
[5] パスカル・ズィヴィー “「信仰」という名の虐待”からの回復 いのちのことば社 62p
[6] 高木慶太 テモテ・シスク 今日における奇跡 いやし 預言 いのちのことば社 1996年
[7] ジョン・F・マッカーサーJr. 櫻井圀郎訳 日本長老教会文書出版委員会 1997年
[8] ウィリアム・ウッド パスカル・ズィヴィー いのちのことば社 2011年
[9] ペンテコステ運動は1901年アメリカで始まった。福音宣教のためには、聖霊のバプテスマを受ける必要があり、その体験は異言によって証明されるとする。いくつかのペンテコステ教団を生んだ。 カリスマ運動は1960年アメリカで始まった。超教派のペンテコステ運動であるが、指導者にはその証拠となる、預言・異言・奇跡など「しるしの賜物(カリスマ)」が与えられているとする点が見られる。
力の伝道運動は、しるしによって一致し、しるしによって伝道するよう教える。 ピーター・ワグナーは、この3つの運動を、それぞれ、聖霊の第一、第二、第三の波としている。
[10] 高木慶太 テモテ・シスク 前掲書 16p
[11] 高木慶太 テモテ・シスク 前掲書 16p
[12] 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団正教師。 blog上でペンテコステ派の問題点を取り上げ公開している。http://pentekosute.seesaa.net/等。
[13] アッセンブリー京都教会牧師 聖神中央教会事件で被害者の受皿となった。blogでカルト化教会の問題点を扱っている。http://maranatha.exblog.jp/ 名前の「密」は「ひそか」と読む。
[14] ウィリアム・ウッド 教会がカルト化するとき 10p 実際、元エホバの証人からではあるが、2006年に「ウィリアム・ウッドを告発する会」が発足され、数人から執拗な嫌がらせを受けた。その様子は「霊の戦い虚構と真実」14-15pに書かれている。
[15] 3p
[16] http://maranatha.exblog.jp/20528436/ 2013年05月21日 ブログの役割
[17] 7p
[18] 昭和51年4月にいのちのことば社より発行された。すると、すぐさまペンテコステ系諸派が、出版抑圧に乗り出したという。そのため、版元は同年11月24付で同書の出版・販売を停止することとなった。カリスマ派には言論の自由があるが、聖書的根拠をもって反論する者たちにはそれが認められない。これは彼らが実は「聖書のみ」という信仰ではないことを示す一例だ。