霊的実りの必然性
すべてのクリスチャンは、主によって真に回心されたのであれば、何らかの霊的な実を結びます。これは、新生した人(すなわち永遠の昔からの選びにより「キリストのうちに」あり、御心のときに救われた人なら「だれでも」)が現実に「新しく造られた者」となり、「古いものは過ぎ去って、...すべてが新しく」なったからです(Ⅱコリント5:17)。FGの教えは、この新しい創造の必然性を否定しており、新しく造られた者が必ず新しい生き方を示すことを明確に教えている次の箇所によって、反駁されます。
※ 重ねて述べますが、このような生き方(「実」または「行い」)は、決して私たちが神の前に受け入れられる根拠ではありません(エペソ2:8, 9; テトス3:5; ローマ3:20, 28; ガラテヤ2:16参照)。
あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。(マタイ7:16-20)
木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。(マタイ12:33-35)
またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。(ルカ19:27)
※このたとえで、イエスは不信仰な人々を「この人(イエス)が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません」と言う者たちだと表現しています。王という主権者に従うことを拒否した者たちです。
あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、(ローマ2:5-9)
ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(ローマ6:21)
※この節によれば、クリスチャンとは、かつての暗闇の業を恥じ悔い改めた人のことであり、その帰結点であった死を免れた人です。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(ローマ 8:4)
※パウロは7章で、人の肉には罪の律法がありとりこにしていることを語り、嘆き悲しんでいます。しかし8:3では、律法は肉によって弱くなったため人を救えないこと(そして基準は示すことができても、それに到達する手段は与えないこと)、しかし御子の罪のない生涯と身代わりの死によって、罪人を処罰するための律法に代わり、律法が処罰できなかった罪それ自体をも御子が処罰したことを語ります。それゆえキリストを信頼する者は、罪の罰から救われるだけでなく、罪からも救われ、初めて神の義の基準を満たすことができるようになります。信者の肉は依然として弱く、罪に支配されていますが、内なる人はキリストのかたちに造り変えられ、御霊によって罪に抵抗し、打ち勝つ力を持っています。この地上での生涯において完全になることはありませんが、罪に抵抗する神の力を持っているのですから、罪を犯す正当な理由は持ち合わせていないのです。ヨハネは、信者たちに「あなたがたのうちにおられる方(聖霊)は、この世にいる者(サタン)よりも偉大だからです。」と断言しています(Ⅰヨハネ 4:4)。パウロがすでに述べているように、「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われる(すなわち、罪の支配から守られ、救われた状態に保たれる)のは、なおいっそう確かなことです」(ロマ 5:10)。ですから、罪を犯してしまったクリスチャンは、パウロのように聖霊を悲しませたことを嘆き、悔い改め続けます。これがLSの語る「従いたいと願う心」です。このように、LS論者が「従順」を信仰の本質として捉えるのは、この理解に深く根ざしています。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。(ローマ8:7)
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。(ローマ8:13-14)
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)
※このギリシャ語の文章を最も単純な主語と動詞の形に分解すると、「すべての人が……変えられつつある」と書かれています。
完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、(ヘブル5:9)
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。(ヘブル6:4-10)
※その暗に語っているところに注目してください:ヘブル人への手紙の著者は、この箇所前半の救われていない者の実りのなさに対比させ、後半の救われた者の「働き」と「愛」について、神がそれを救いの証左として認めるのだと言っています。
また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:12-14)
なぜなら、キリストは聖なるものとされる(※文字通りには「聖くされつつある」)人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。(ヘブル10:14)
※すべてのクリスチャンが聖化されつつあることを教えています。
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、 あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。 しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。 あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。 ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められた(※義であると確認された)ではありませんか。 あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました(※完全な、救いに至らせる信仰であると証明された)。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。 同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。 からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。(ヤコブ2:14-26)
愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。(Ⅲヨハネ11)
次に、聖書では、キリストを信じない人々についての描写が、彼らの行いという観点から記されています。この行いは、神の子を特徴づけるものではない、過去の救われていないときの行動としても言及されています。
斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ3:10; ルカ3:9参照)
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』(マタイ7:23)
あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6:9-11)
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(エペソ2:1-5)
あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。(コロサイ1:21-22)
私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。 しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトス3:3-5)
「すべてのクリスチャンは、必然的にその生活において霊の実を結ぶ」と述べることは、救いの条件として行ないを要求することだ、と非難する人もいます。FGの教師たちはこれを「福音のバックロード(降ろした荷の代わりに違う荷を負わせること)」と呼びます。しかし冒頭で述べたとおり、必然的な実りを肯定するLS論者たちは、これらの行いが救いのために役に立つということを否定しています。私たちの最高の良い行ないも、不潔な衣のようなものだからです(イザヤ64:6)。もし信じる者によって何らかの良い行いがなされるとすれば、それは神ご自身が私たちを通してなさったからにほかなりません。真の信者は、自分の救いに関して神の前にはなんの訳にも立たない、自分の義という「律法のくびき」や、「(罪の)奴隷のくびき」というがらくたの詰まった荷をおろし、善き主人であるイエスの荷を預かり、イエスご自身がかけてくださる「わたし(イエス)のくびき」を負ってみこころの方向に進むからこそ、良い行ないをさせていただけるのです(マタイ11:28-30)。
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ2:13)
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。(ヘブル13:20-21)