"諸経の中の王"

事実か幻想か

 事実か幻想か ― これは法華経の雄大なドラマ、通常の認識をはるかに超えた話の展開を読むとき、誰もが一度は考える問題でしょう。

 序品で、霊山会の会座に集まった三十万有余の大衆の描写、さらには、見宝塔品で、地下から涌出し、空中に立った五百由旬の大宝塔、また従地涌出品における六万恒河沙という地涌の菩薩の出現など、法華経には私たちの想像を絶する話の展開が随所に見られます。

 私もかつて、法華経を序品から普賢品まで読んだことはありますが、そのときに、いつもこれらの驚くべき話の展開に、はたと困ってしまったことを、今でも懐かしく思い出します。

 これらの雄大な想像を絶する話を読んで、学者たちのなかには、法華経を、想像力に富んだインド民族の特性をもっともよく表わした経典である、という人があります。法華経を、インド民族特有の想像力の産物として片づけるのは簡単ですが、しかし、想像力を駆って、いったい何を表現しようとしたものであるかを考えることは、大変むずかしいことです。

 少し残酷な批判になると、法華経を幻想の物語としてしまう例は、これまでにもありました。

 しかし、こうした考え方の奥には、近代の科学的な物の見方や、合理的な思考法を絶対視する傲慢な姿勢を、私は見ないわけにはいきません。自分の限界を知っている科学こそ、真の科学です。科学的な思考法によって、昔の人々がいだいた考え方や思想を頭から否定する態度は、本当にもののわかった人のとる態度ではないと思います。

 私は、かつて読んだ、こうした法華経に対する安直な批評を見て、「これは本当ではない」と感じておりましたけれども、最近、ますますその感を深くします。

 まず、私たちの既成の思想や物の見方を捨てて、虚心坦懐に、ありのままに、法華経そのものに迫ることが必要ではないでしょうか。

 そのとき、一見、幻想的、空想的にみえる法華経の雄大なドラマも、あるはっきりした事実の壮大な表現であることを、知るのではないでしょうか。いったい、その事実とは何か。それこそ、人間一個の生命の奥底に、厳然と宇宙生命が実存するという事実です。

 この驚嘆すべき事実を、他の人にわからせ、ともに同じ事実を分かちあうために、いかにして巧みに、印象深く表現するかという慈悲の念が、こうした壮大なドラマの展開になったのです。

 この観点から、法華経をもう一度、改めて見直すとき、法華経がいかに巧みに譬喩や物語を駆使して、その奥にある深遠な哲理を民衆に理解させようとしたかが、明白になってきます。幻想、空想に思える描写が、じつは、いたって真剣で、緊張感をはらんだものであったことを、逆に法華経の文々句々の行間に、垣間見ることができるのです。

 そうした一例にすぎませんが、法華経で説く三千大千世界を単位とした膨大な宇宙観は、長い間、まるで架空の話のようにとられるむきもありましたが、今では、宇宙科学の発達によって、この銀河系大宇宙を形容した、はるかなる達観であることが、宇宙科学者たちによって言われています。このように、仏法の達観と、科学の洞察が、今後、次元を異にしながらも、共通の視野を拡大していくように思えるのです。

 

「正き事はわずかなり」

 古来、法華経ほど、インド、中国、日本の三国にわたって、庶民に親しまれ、庶民の生きる支えになってきた経典もありません。

 ここでは、その一端を過去の歴史のなかにたどり、法華経にまつわるさまざまな話題を取りあげてみましょう。私たちにとっては、やはり日本人の心に与えた法華経の影響のほうが、密接な親近感を覚えるでしょうから、国を日本に限って、考えてみることにします。

 

 日本人と法華経との結びつきは、奈良朝、平安朝の昔に遡ることができます。

『目本霊異記(りょういき)』『今昔物語集』『三宝絵詞(さんぼうえことば)』などを読むと、古代日本の庶民が、いかに法華経を霊験(れいげん)あらたかな経典として、信仰していたかがわかります。

 たとえば、『日本霊異記』には、「法花経品(ほっけきょうぼん)を読む人を(あざ)りて、現に(くち)喎斜(ゆが)みて、悪報を得る縁」

とか「誠の心を至して法花経を写し(たてまつ)り、験有(しるしあ)りて異事を示す縁」、「法花経を写し奉り、供養することに因りて、母の牛と()る因を(あらわ)す縁」などの項目が多く出てきますが、この表題を見ただけでも、当時の庶民の法華経信仰の一端を知ることができます

 また、日本人と法華経の関係において忘れることのできない人物は、何といっても、飛鳥時代の聖徳太子でしょう。

 今日では、一万円札に印刷された肖像として、ときどき思い出されるにすぎませんが、日本で最初に、法華経の注釈(ちゅうしゃく)を著したことで有名です。それが『法華義疏(ほっけぎしょ)』です。これは、今日において、ますますその真価が問われだした書物です。

 さらに、平安朝に入ると、『枕草子(まくらのそうし)』『源氏物語』『平家納経(のうきょう)』などの随所に、法華経の思想が反映していると、今日の学界では定説となっております。

 たとえば、『枕草子』を見ると、法華経が仏教の代表的な経典として、当時の知識人たちの常識となっていたことが明らかです。

 しかし、江戸時代に入ると、日本の庶民に親しまれてきた法華経に対して、批判する学者が出てきたことは、新たな出来事といってよいでしょう。

 江戸中期の大阪の学者・富永仲基は、その著『出定後語(しゅつじょうごご)』において、法華経について、次のように説いています。

(へん)中、終始齟齬(そご)して、全く文を成さず。かつまた法華経一部、終始みな仏を賛するの言にして、全く経説の実なし。もとより、経と名づくベき者なし」と

 富永仲基は、法華経二十八品全体を通じて、最初から最後まで、仏を賛嘆する言葉ばかりであって、内容は何もないと断定したわけです。

 一種の文献批判の立場にあった、といえるでしょう。

 さらに、もう少し時代が下ると、今度は平田篤胤という学者は、富永仲基の『出定後語』をもじった『出定笑話』において、法華経は効能書ばかりで肝心の丸薬がないと批判しました。

 この両者とも、いわば、法華経が無内容であることを主張したのです。

 これまで述べてきたことから明らかなように、法華経に対して、賛嘆し、絶対の信仰が持たれてきた一面、他方では、徹底的に否定される一面もあり、法華経に関する評価は、賛否の両極端に分かれています。

 古来、この事態を、法華経の不思議とされてきましたが、私は、むしろ、この事態こそ、法華経が偉大な内容を持った経典であることを、間接的に証明しているように思うのです。

 評価が一方的に決まるというのは、それだけ把握されやすいことを示すのであって、逆に決まらないというのは、それだけその内容が、人々の思考や認識の力を超えていることを示している、といってよいでしょう。

 この観点から考えるとき、法華経には、偉大な思想が含まれているからこそ、評価も分かれてくるように思います。

 ここで驚くべきことは、これらの批判の起こるはるか前に、鎌倉時代に出た日蓮大聖人が、次のように説いている一文です。すなわち、「二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし(そう思いなさい)(『妙密上人御消息』)と述べられています。まるで、後に出現する批判を先取りしたような言葉ではありませんか。

 問題は、法華経に説かれている、わずかな"正き事"を発見し、把握するかどうかにかかっているようです。

 また、"正き事"がわかれば、法華経がいったい何を賛嘆したかが、明瞭になってくるように思います。

 そして、私は、この"正き事"こそ、法華経が人間一個の生命の全体像を説き明かした、という視点である、と確信するものです

 

偉大なる精神遺産

 世紀の歴史家・トインビーは、二十一世紀に、人類が語り継ぐベき十の書物を挙げたなかに、ザ・ロータス・スートラ(法華経の英語名)を挙げています。

 今日、客観的にも、法華経は、人類が生み出した数少ない精神的遺産の一つであることは、間違いありません。なぜなら、法華経こそ、人類の普遍的な基盤である"生命"を深く凝視し、こよなく賛嘆した唯一の経典であるからです。また、数少ない他の精神的遺産に対して、法華経は民衆から慕われ、生きる喜びを与え、その支えとなってきた期間の長さにおいても、まったく諸経の追随を許しません。

 私たちは、この偉大な精神遺産を無にすることなく、後世の人類に伝えていく義務があるのではないでしょうか。

 とくに、最近の生命軽視の風潮を見るにつけ、今後ますます世界は、"法華経の精神"を見直すとともに、この精神に立脚しなければならないことを、痛感するものです

 しかし、一方で、かつて日本の知識階級に知れわたった"諸経の中の王"としての経文が、今日の混沌とした危機の時代に、ふたたび広く注目されだしたことにも、時代の必然の流れを感ぜざるをえないのです。