小樽問答に大勝利を得て
三月四日、突然に御本山の細井庶務部長と早瀬教学部長の御来訪を本部にて受けた。
何事であろうかとお伺いしたところが、小樽の妙照寺の住職阿部尊師から、小樽の身延派の寺と法論をするから、応援してほしいとの手紙がきた。しかも、それは小樽の創価学会の班長から口火がきられたとのことであった。
ことは至極かんたんなように受けとられるが、じつに重大なことである。法論の日取りは十一日で、先方は身延本山から法論者が派遣され、北海道在住の身延の僧侶がぜんぶ集まるということであり、日蓮正宗側から妙光寺の柿沼尊師、法道会の早瀬教学部長のふたりが法論の当時者として、先方へ明示されているとのことである。
しかも、当日は、日蓮正宗法主水谷日昇上人が北海道御親教の途次、小樽へ立ち寄れる日である。両尊師の御心配もとうぜんのことである。そこで私は、事重大でもあるし、かつはまた信仰も哲理もない似非日蓮宗身延山が法論をしかけるのは、片腹痛いと思った。
そこで即座に『この法論は私がお引き受けいたしますから、心おきなく法主上人の御供をしていただきたい』と申し上げた。
即日、星野第四部隊長を呼んで、大川清幸青年を介添えして、明朝、飛行機にて現地へおもむいて事情を調査するよう命じた。ただちに、これが対策本部を設け、石田聖教新聞編集長(理事)、辻青年部長、池田参謀室長(渉外部長)を、その任にあたらせた。
翌五日、六日は登山会であったので、本部を本山に移し、頻々とくる報告によって種々と対策をたてた。その結果、八日に秋谷第五部隊長外十名を派遣することとし、十日、飛行機にて石田理事、竜参謀のふたりが出張し、十一日に、私ほか辻、小平、池田の諸氏が、空路現地に行くことに決定した。
私どもが、小樽へ着いたのは十一日の午後三時であった。身延の講師が室住一妙氏と長谷川義一氏であると聞いて少し奇妙に感じた。長谷川義一氏は顕本法華の人であって、身延とは相いれないと思っていたのに、その人が講師として出ることになっていたからである。
そこで、この法論にあたって辻君が攻勢にまわり、小平君が守勢にまわることに相談した。攻勢に出るとは身延の本尊雑乱を衝くことであり、これは日蓮宗学上、断じて許すべからざることであるから、この一点を攻めることに決めたのである。
また小平君が守勢に出るおもなる点は、彼ら邪宗の輩が、わが日蓮正宗を攻めんとする攻めには、日蓮本仏論、一閻浮提総与の御本尊の真偽(知らないことによって論ぜられている)相承にたいする疑い、唯授一人にたいする誤解、富士戒壇論である。これ以外のものは枝葉であって、なんら驚くほどのこともないから、この点を守って逆に攻撃するように打ち合わせができたのである。
ただ、その時とくに感じたことは、教学もなにもない身延が、よく法論に応じたという点である。それというのも創価学会の教学における実力を、彼らは知らなかったのであろうと推察する。
さて会場にのぞんで、長谷川義一氏が学会攻撃をするにさいして、なんら教学的なことを言わず、その真偽をも糺さないで三月四日の読売新聞の人生相談欄を、あたかも事実であるがごとく述べたててきた。私は、長谷川氏が学会の教学を見くびっているとすぐ直感した。これでは身延が大敗する以外にないと。そして強力なる辻、小平両氏の攻撃にあって愕然としたらしい。そこで彼は五分の補充演説に、もちまえの板曼茶羅真偽論を持ち出してきた。これで長谷川氏も本物らしい形を見せてきた。しかしもう遅い、時を失してしまった。こちらのほうは余裕綽々と圧倒的になってきた。
また室住一妙氏は身延の本尊雑乱を辻君に衝かれて、これを受けて立ったために、シドロモドロになってしまった。もうこの時には大勢が決していたのである。
一山の責任を負って法論に立つも、なんらの見識もなく、なんらの教学もないということを、私は深く痛感した。これ身延が伏滅する一大要因であろう。
ことに一妙氏が身延の山に大聖人の題目が浸み込んでいるとか、山というものは焼けないから尊いとかの放言にいたっては、あいた口がふさがらなかった。南無妙法蓮華経と唱題するなかに三秘がそなわっているというがごときは、無学のジイサン、バアサンならいざしらず、少しでも教学をやったものには、気違いになっているのではないかという以外には思いようがなかった。
はかなきは邪宗の教学である。何百年来、宗祖を看板にして懶惰懈怠にすぎてきた身延派の僧侶の姿を、そのまま暴露している。大聖人様のお悲しみはいかばかりであろう。
横綱とふんどしかつぎの相撲のように、あっけない小樽法論は、だれがみても勝敗歴然たるものがあった。
翌十二日、御法主上人にお目通りして、過分のおほめをいただいたことは、身にあまる感激であった。
昭和30年3月13日