師匠の正義実証せん

 

 牧口先生とわたくしとは、親子であると信じています。親子という意味は、先生の精神的財産を、わたくしが受け継いだことであります。

 

 もし、わたくしが先生とお会いしていなければ、いまのわたくしはありません。そのあらわれは、いまの学会の大幹部の半数は、先生の弟子であり、いまその人たちがわたくしを守ってくれている。

 

 わたくしは、精神的財産を受け継いできましたが、またここに、大きな使命を残されました。それは、『価値論を世に出さなければならぬ』ということです。先生の精神的財産を継いだおかげで、また大きな仕事をもらったのです。

 

 先生との話しはたくさんありますが、先生にお別れした最後は、昭和十八年、警視庁の二階でした。

 先生が先に東京拘置所に行くことになり、わたくしが後になりました。お別れしようと思って部長に話し、先生のところへ行きました。顔を見合わせたときは、なにもいえず、顔を見て泣いているだけであり、ただ『おからだをおだいじに』と申しあげたのが、お別れの最後でした。

 

 わたくしは、先生が死んだのも知りませんでした。ちょうど、二十年一月八日、忘れもしません、その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』と言われました。ハッとしただけで、涙も出ませんでした。自分の部屋へ帰って、思いきり泣きました。

 

 あれほど悲しいことは、わたくしの一生涯になかった。そのとき、わたくしは、『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生におかえししよう』と決心した。いまはまだ先生のためになすべきことはなされていないが、必ずや一生を通して、先生の行動が正しいか正しくないか、その証明をする覚悟です。

 

 わたくしは牢から出て聞いたことだが、牧口先生が警視庁から自動車に乗るとき、『戸田君は、戸田君は』といわれたので、送っていった稲葉さんの奥さんが、『戸田さんは後から行くんですよ』といったら、『ああそうか』といわれて、自動車に乗られたそうである。

 わたくしは、葬式のとき、わずか四、五人の弟子しか列席しなかったと聞いて、『あれほど弟子がいたのに、わずか四、五人とはなにごとだ! 警視庁がそれほどこわいか。いまにみろ』と、憤慨した。

 

 いま、こうして会長をしていることは、初代会長の恩をこうむっているのはいうまでもないが、わたくしは、先生と、親子として、弟子として、一生涯、自分の生きている間は、だいじにしていく決心であります。

 

昭和29年11月18日

牧口先生第十一回忌法要

日蓮正宗池袋常在寺