幸福とは何か
創価学会の会長といえば、諸君らは、ちょっと偉い人ではないかと思うのではないかと、私は思うのです。よく、新聞記者や、あるいは妙な人たちがきて『会長先生だから、あなたは仏さまだろう、あなたは如来さまだろう、神さまだろう』と、こう言う。そのときぐらい腹が立つことはないのです。
『私は、仏さまだの、如来さまだの、神さまになるような片輪ではない。私は、りっぱな凡夫だ』と、このように言ったのです。
私は、あなた方と同じ凡夫であります。初代の会長は、ひじょうにごりっぱな方でありまして、私の二十一の年から、四十五歳で先生がなくなるまでお供いたしました。
四十四の七月六日に、同じく東条内閣の圧迫を受け、東京拘置所にはいるまで、先生と三日会わなければ、一年も会わないような気持ちでお仕えしてまいりました。
先生のごりっぱな人格を思うとともに、先生死後、会長として私がならなければならないことは、じゅうぶん知りながら、私は、先生のごりっぱさを思うとともに、私は、会長になりたくなかったのであります。七年のあいだ、会長職を置かずに、理事長として私は働いてまいりました。
なぜか。会長になったら、ひどい目にあうことは、じゅうぶん承知なのです。
そうだろう。この金曜日に、細井尊師といっしょに大阪へきて、土曜日に、ちっぽけな、ブルブルブルブルふるえている、まるで病気やみみたいな飛行機に乗って土佐へ行って、ゆうべの十一時半に、なんだか知らんけれども、汽車というものに乗っけられて、きょうの十二時十分に大阪にきて、少しも休まさないで、またここへ連れてこられて、こうして、あすこへすわらされてごらんなさい。あまり楽なものではない、じっさい。
しかし、私が会長になる以外には、広宣流布の道がないことを知り、かつまた、自分が会長にならないことによって、大きな罰を私は受けたのです。
ここに、ひとつの覚悟をもって会長になった以上には、つらいも悲しいも、あるものか。私のからだは皆さまの前に投げ出して、広宣流布の大闘士として、私は戦います。
と同様に、皆さま創価学会の一員となったいじょうには、お気の毒でありますけれども、折伏していただきます。あなた方に、広宣流布をしてくれということは、戸田は頼みません。
広宣流布は私がいたします。
あなた方は、御自分のしあわせのために折伏しなさい。あなた方は、御本尊様を拝んで折伏する以外には、幸福になる道はないのです。こうなったら、あきらめて折伏しなさい。
これは、私のためでもなければ、日蓮正宗のためでもなければ、御国(みくに)のためでもない。あなた方のためにやることが、結局は広宣流布のためであり、御国のためになるのである。だから、皆さんの信心の努力の大半を自分自身の幸福のために使って、その残りを広宣流布のためにこっちへよこしなさい。豆腐のカスみたいなものをこっちによこして、自分がしあわせになって、そうして、そのカスで広宣流布をやるのだから、楽なものです。
そこで、幸福というものについて、一言教えておきましょう。それは、幸福には、絶対的幸福と相対的幸福という二つのものがある。
絶対的幸福を成仏というのであります。相対的幸福というのは、まだ成仏までいかない、ゆで卵でいえば、半熟ぐらいのものだ。相対的幸福というのは、私は、百万円の金がほしい、わしは、ああいうきれいな奥さんをもらいたい、わしは、りっぱな子供をもちたい、ああいう家を建てたい、こういう着物を買いたい、その願いが、ひとつひとつかなっていくのを相対的幸福というのです。
これは、まだほんとうの幸福ではない。早くいえば肺病がなおりたい、リューマチがなおりたい、ぜんそくがなおりたい……、そういうのは、皆、相対的幸福というのです。
そういうような幸福は、あんまりたいしたものではない。しかし、それを幸福ものだと皆思い込んでいる。
しからば、絶対的幸福というのは、なにものぞや。
絶対的幸福というのは、生きてそこにいる、それ自体がしあわせなのです。便所へ行っていようと、台所にいようと、どこにいても、それはしあわせでなくてはいけない。
ところが、借金取りがきて、しあわせだって、そういうわけにはいきません。なに、借金取りがこようが、ウグイスの声だなどと。それは、やせがまんというもので、ほんとうに借金取りにひどい目にあわないから、そんなことを言っているけれども、借金取りがくるような生活で、絶対的幸福だなどと、ありえようはずがない。
それは、そんな人は、よっぽど悪い人です。病気で困っているのに、からだが苦しくてたまらないのに、おれは幸福だ、それは、うそです。着る物がないのに、おれは幸福だ、それもうそです。
とくに女の人であるならば、同じ階級の人が、今はやりの、なんとかいう羽織を着ているのに、自分は五十年前の、おばあさんの形見の羽織なんか着て歩いて、私はしあわせだといっても、とおりません。夜こっそり質屋へ通って、その金であるふりをして着たって、それが幸福ではありません。
絶対的幸福というのは、金にも困らず、健康もじゅうぶんである。一家のなかも平和で、商売もうまくいって、心豊かに、もう見るもの聞くものが、ああ、楽しいな、こう思う世界が起こってくれば、この世は、この娑婆世界が浄土であって、それを成仏というのです。
それを哲学語でいえば、絶対的幸福性というのです。
それは、なにものによって得られるか、相対的幸福感から、絶対的幸福感へといかなければならん。これは、この信心以外には、ほかの信心では絶対できないことです。
それを教えるのに、私は大わらわになっているのだから、疑わずに、信じて、そうして、そういう生活になってもらいたいと思う。
昭和30年1月23日
西日本三支部連合総会
大阪中之島中央公会堂