"生命讃歌"の壮大なドラマ

全体の構成は二十八(ぽん)()から成る

 では、いったい、八万法蔵の王座に位置する法華経とは、いかなる経典でしょうか。

 これから、ともどもに、法華経そのもののなかに分け入っていきましょう。そのさい、私たちの方向指示器や羅針盤になるのは、さきほども説明したように、"生命の哲理としての視座"であることは言うまでもありません。

 この視座をはずさないかぎり、古来、難解とされてきた法華経も、ひじょうに親しみやすく、また読みやすい経典となって、私たちの前に姿を現わします。

 ところで、法華経は正確には「妙法蓮華経」といいます。梵語の原名は「サ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ」ですが、これを、有名な鳩摩羅什(くまらじゅう)が「妙法蓮華経」と漢訳したのです。この妙法蓮華経は二十八品から成っています。「品」というのは今日でいえば、書物の目次に出てくる「~章」にあたると思っていただければ結構です。

 かつて、作家の伊藤整が『女性に関する十二章』という本を書いて、ベストセラーになり、一世を風靡(ふうび)したことを記憶にとどめておられる方もあるかと思いますが、そのひそみにならって、法華経二十八品を現代風に言い換えれば、「生命に関する二十八章」とでもいったところでしょうか。

 一個の人間生命をタテに奥底まで掘り下げ、ヨコに宇宙大に広げて説き尽くし、二十八章に収めたのが法華経ということになります。

 

 さて、私が法華経というとき、法華三部経といって、いま述べた二十八品を中心にして、前に開経・「無量義経」を置き、後に結経・「普賢経」(正確には、『観普賢菩薩行法経』)を置いたものを合わせて呼んでいます。

 まず、開経・無量義経に始まり、次に妙法蓮華経二十八品に入り、そして、結経・普賢経に終わるという大きな流れとしてとらえるとき、かえって、法華経二十八品の内容が明確に浮かびあがってくるのです。

 それは、ちょうど、私たちの友人や知人に差し出す手紙の形式を、思い出していただければよいのではないでしょうか。

「拝啓、その後、お元気ですか……」とか「前略……」などの書き出しの部分は、さしずめ、法華三部経の開経・無量義経にあたるでしょう。

 そして、手紙を書いた目的や本当に言いたい事柄が手紙の中心部にきますが、それは三部経でいえば、妙法蓮華経二十八品の部分になります。

 最後に「それでは、くれぐれもお体を大切に、さようなら」などの締めくくりのところは、結経・普賢経にあたります。

 これが「拝啓、その後、お元気ですか」との書き出しも、「それでは、さようなら」の結びもまったくない手紙であったら、受け取った人はどんな気持ちになるでしょうか。たしかに、相手の用件や目的はすぐ理解できますが、それにしても、なんとなく無愛想で、冷たい感じを受けるのではないでしょうか。直接用件には関係なくとも、もう少し、心暖まる文章や部分がほしいと思うのが人情というものです。それと同じようなことが、法華三部経の開経と結経についても、いえるようです。

 以上、述べた点を考慮しながら、いよいよ法華経の生命の哲理のなかに、足を踏み入れていきましょう。

 私たちの眼前に、いかなる展望が開かれてくるか、期待に胸をふくらませながら、ともどもに歩を進めていきたいと思います。

 

「無量義経」の提起する三十四の「非ず」とは?

 まず、手紙の「拝啓~」「前略~」の書き出しの部分にあたる最初の開経・無量義経には何が説かれているのでしょうか。

『法華経の位置』の箇所でも少し触れましたが、ここには「無量義とは一法より生ず」ということが説かれています。

 "無量義"とは量ることのできない多数の義ということで、一個の人間生命が織りなす、多彩にして無量の生命現象を指しています。

 それが"一法より生ず"と無量義経では説いたのですが、その"一法"が何であるかについては、ここでは明確に説明されていません。その答えが次の法華経二十八品で出されるのです。その意味では、無量義経は問題提起の経典といってよいでしょう。問題を的確に出せば、見事な解答が返ってくるというのは、いかなる場合でも、難問の解決の鉄則といってよいと思います。

 かつて私の読んだフランスの哲学者・ベルグソンが、どこかで、問題を上手に出せばそれが解答である、といった趣旨のことを書いていたのを、いま改めて思い出すのですが、無量義経は、その典型的な経典であるとかねがね考えています。

 しかしながら、無量義経の問題提起は、「無量義とは一法より生ず」といった文に尽きるのではなく、もうひとつ、私にとって生涯忘れ得ぬ問題も提起しています。

 それは、映画『人間革命』を見られた方なら知っておられると思いますが、丹波哲郎の演ずる戸田城聖が、獄中で悟達するクライマックスの場面と、大いに関係するのです。戸田城聖が悟達する前に思索したのが、無量義経の「其の身は有に非ず亦無に非ず因に非ず縁に非ず……」という箇所です。ここには「……非ず」という否定形が三十四も繰り返し出てきます。

 三十四の「……非ず」によって示される「其の身」とはいったい何か ― これが戸田城聖を苦慮させ、生命を賭けた思索に入らせた問題提起でした。ただひたすら唱題と思索を重ねた結果、ついに「仏とは生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」と獄中で叫んだ瞬間は、おそらく映画を見られた方なら印象深く胸に刻印されているのではないでしょうか。この悟達こそ、無量義経の問題提起に対する戸田前会長の得た解答であったわけです。このことは、小説『人間革命』に池田会長によって詳細につづられています。さて、この解答、すなわち悟達こそ、密林にも等しい八万法蔵に分け入るさいの私たちの羅針盤、方向指示器になったのです。

 私が先ほどから何度も述べてきた"生命哲理としての視座"も、じつに、戸田前会長の悟達が根底になっているのです。

 

前半十四品を「迹門」、後半十四品を「本門」

 さて、問題提起の無量義経の後には、その答えとして、法華経二十八品がきます

 一言でいうならば、無量義経で提起された"一法"こそ、妙法蓮華経であるとし、この妙法蓮華経について説いたのが法華経二十八品です。つまり、無量の義に展開する生命現象は、妙法蓮華経の一法より生じてくることを、明らかにしたのです。

 では、法華経二十八品には、どのように、妙法蓮華経の一法が説かれていくのでしょうか。二十八品の品々に従って、内容をたどる時がきたようです。

 その前に、二十八品の流れをよりよく理解するために、大ざっぱに四つのグループに分けておきたいと思います。書物の目次でいえば、何章かをまとめる"編"にあたるものがあると、全体を把握しやすいことは、誰もが経験しているところでしょう。

 まず、二十八品を前半と後半の二つに大別します。この分け方は、中国の法華経学者によって試みられたものですが、前半十四品を「迹門(しゃくもん)」、後半十四品を「本門(ほんもん)」と呼びます

"門"というのは、仏の教えということで、迹門とは、迹仏の説いた教え、本門とは、本仏の説いた教えという意味です。

 迹仏と本仏については、後で寿量品16の内容紹介のときに詳しく説明したいと思いますが、迹仏(しゃくぶつ)は、本仏(ほんぶつ)から衆生(しゅじょう)教化(きょうけ)のために垂迹(すいじゃく)した仏のこと。本仏は、自らの生命が永遠の昔から仏であったという本地(ほんち)を明かした仏のこと、ぐらいにここではとどめておきます。

 ただ、本仏と迹仏の関係は、天にかかっている実際の月と、池に映っている月との関係を頭に描いていただければ、少しは理解しやすいのではないでしょうか。

 さて、迹門の十四品は最初から順次に、序品(じょぼん)1(現代的に表現すれば、第一章序論ということになります)方便品(ほうべんぼん)2(第二章方便について、と同じ意味。以下同様)譬喩品(ひゆぼん)3信解品(しんげぼん)4薬草喩品(やくそうゆほん)5授記品(じゅきぼん)6化城喩品(けじょうゆほん)7五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきぼん)8授学無学人記品(じゅがくむがくにんきぼん)9法師品(ほっしぼん)10見宝塔品(けんほうとうぼん)11提婆達多品(だいばだったぼん)12勧持品(かんじぼん)13安楽行品(あんらくぎょうぼん)14、から構成されています。

 次に、本門の十四品は従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)15如来(にょらい)寿量品(じゅりょうぼん)16分別功徳品(ぶんべつくどくぼん)17随喜功徳品(ずいきくどくぼん)18法師功徳品(ほっしくどくぼん)19常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぼん)20如来神力品(にょらいじんりきぼん)21嘱累品(ぞくるいぼん)22薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじぼん)23妙音菩薩品(みょうおんぼさつぼん)24観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)25陀羅尼品(だらにほん)26妙荘厳王本事品(みょうそうごんのうほんじぼん)27普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)28、から構成されています。

 さきに、四つのグループに分ける、ということを述べましたが、それは、迹門と本門のそれぞれを、内容によってまた二つに分けるのです。

 迹門は①方便品2を中心としたグループと、②見宝塔品11を中心としたグループに分けます。

 また、本門は③従地涌出品15、如来寿量品16を中心としたグループと、④常不軽菩薩品20以降を一括したグループに分けます。

 さて、この四つのグループに従って、内容をたどるとき、法華経がいかに壮大なドラマであるかが明瞭になってきます。

 そのドラマ性は、まず冒頭の序品1から見られます。

 

数十万の衆生が狭い霊鷲山(りょうじゅせん)に集まった意味 ― 序品

 序品は、さきほどの手紙の例でいうならば、「拝啓~」「前略~」の後に「さて、物価高騰の折、経済緊迫にて、苦しみはてております・・・」などと書く部分です。この場合だと、本当に言いたいことは、たとえば「お金を借りたい」ということなのでしょうが、それと同じように、序品1も、方便品2以下の法華経の核心に入るための序論というベき性質の章です。

 この序品には、きわめて不思議なドラマが展開されます。舞台は霊鷲山(りょうじゅせん)という、ちょうど鷲の形をした岩山の上です。ここに、合計すれば、じつに数十万という人が集まってくるのです。

 実際に今日でも、インドに霊鷲山そのものはあります。しかし、そこはとても数十万の人が集まれる広さではなさそうです。いったい、これはどう理解すべきでしょうか。これに対して、戸田先生は次のように解答を与えています。

 序品の数十万という衆生の結集は、じつは、釈迦の己心(自らの生命)の中に、あらゆる衆生が映し出されたことを象徴する表現であるということです。

 したがって、何十万集まっても、驚くにはあたらないのです。己心の表現ですから、何百万でも何千万でも可能でしょう。

 序品では、釈迦一人の生命に集約して、己心のなかにあらゆる衆生が内在していることを説いたのです。このことを敷衍(ふえん)していえば、私たち個々の生命のなかにも、舎利弗(釈迦の十大弟子の一人)の生命も、竜女や提婆達多(釈迦の従弟で、釈迦に反逆した人)の生命も、すベて含まれているということです。釈迦は、それを強調するために、序品で、数十万の衆生を結集したのです。

 これはまた、観点を改めれば、「法華経の位置」の節でも述べたように、一個の人間生命に内在する無限の可能性を示す、一つの表現ともいえます。

 

「三乗を開いて一仏乗を顕わす」-方便品

 まず、一個の人間生命の中に、あらゆる衆生の生命が内在している可能性を示した法華経は、方便品2を中心とする①のグループにおいて、一切衆生の生命のなかに、仏界=妙法蓮華経というもっとも尊い生命の力と法が内在していることを明かします。

 寿量品16とともに、法華経二十八品の中核である方便品2では、天台教学でいう"開三顕一"(三乗を開いて一仏乗を顕わす)の原理が示されます。すなわち、声聞、縁覚、菩薩の三乗を開いて、一仏乗を顕わすということです。

 私たちの人生の目的は、声聞、縁覚や菩薩になることではなく、私たちの生命内奥の仏界を開き顕わすことにあるということを説いたのです。そして、釈迦出世(世に出現すること)の目的が、すベての人々の生命に内在する仏界を開き、自己と同じく成仏させることである、との一大宣言がなされたのも、この方便品です。

 ところで、"成仏"とはどういうことでしょうか。テレビの時代劇などを見ていますと、よく、死人が出てくるシーンがあります。

 すると、「ちょっと仏さまを拝ませてもらいましょうか」などという場面が出てきます。

 この場合、死人イコール仏になっていますが、死者を尊重することは当然としても、ここでいう"仏"とは、そのようにゆがめられた概念ではなく、じつは、自分の心の中にある宇宙大の広大な生命力、偉大な生命の実体をいいます。そして、それを開き顕わすことが成仏の意義です。

 したがって、"仏"といっても、なにか別世界のものではなく、もっとも平凡にしてもっともありのままの自分の中に、ダイヤモンドのように光り輝く生命を開花することをいうのです。

 方便品2を受けて、譬喩品3、信解品4、薬草喩品5、授記品6、化城喩品7、五百弟子受記品8、授学無学人記品9などの①のグループは、開三顕一の ― 三乗を開いて一仏乗を顕す ― 原理を、あるときは譬喩を用い、あるときは因縁を説いて、あらゆる角度から説明するのです。

 

生命の尊厳と広大さを象徴する見宝塔品、従地涌出品

 次に、見宝塔品11を中心とする②のグループに入ります。とくに見宝塔品11では、タテ五百由旬、ヨコ 二百五十由旬という大宝塔が、地下から出て空中に立ちます。あとでも触れますが、今日の計量に換算すれば、五百由旬 ― 二百五十由旬の大宝塔は、縦が地球の直径、横がその半径に当たるというものです。これは、まさに私たちの想像を絶する宝塔です。

 その四面がいたるところ、七宝で飾られているので宝塔といいます。

 七宝は、金、銀、瑠璃(るり)硨磲(しゃこ)瑪瑙(めのう)、真珠、玫瑰(まいえ)です七宝のほかに、無数の幢旛(どうはん)(竜頭(りゅうず)や宝珠で飾った竿柱(さおばしら)に、長い(はく)をたれ下げた一種の旗)や宝物によっても荘厳されています。

 おそらく、地球の半分にも等しい、まばゆいばかりの宝塔を見た衆生は、驚嘆したことでしょう。

 しかし、このような大宝塔が地下から出て、空中に立ったというのは、いったい何を意味するのでしょうか。

 私は、次のように思います。

 ①のグループは、すべての人に仏界の生命が内在することを、いろいろな角度から述べてきたわけですが、その仏界の生命がどんなものか ― その広大さと荘厳さを、このような想像を絶する表現により、象徴したということです。スケールの大きさといい、想像を絶するドラマ性といい、すべて、私たちの生命の中に内在する仏界という広大な生命を表現しようとしたものと考えるとき、法華経二十八品の意図の一端をうかがい知ることができます。

 さらに、この見宝塔品11に優るとも劣らないスケールとドラマで展開されるのが、次の③のグループの従地涌出品15における、地涌の菩薩群の出現です。これは、釈尊の説法の途中で、大地を叩き破って現われ、法華経の会座に連なる大菩薩たちです。

"地涌"とは"大地から涌き出した"という意味です。

 あとで詳細に述べますが、簡単に触れますと、この現象もまた、私たちの想像を超えたものです。しかし、これは宇宙大の生命力、生命の大海原が、実際に私たちの生命の内奥から開き顕わす姿を、象徴したといえるでしょう。

 そして、仏界 ― 宇宙大の生命力 ― は、また現実社会の中では、大慈悲として発動するものですから、その大慈悲を菩薩に託して表現したといえます。

 

仏の永遠の存在性を明かした ― 寿量品

 如来寿量品16では、これまで、いわば空間的にその壮大さと尊さを示してきた仏の生命を、今度は、時間的に永遠にして無限の存在であることを、釈尊自身の体験によって明らかにします。

 寿量品の中に「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」という一文があります。この文の意味するところは、釈尊は五百塵点劫という考えも及ばない遠い昔に成仏したということです。このことは成仏の本源の鍵がどこにあったかを示しているとともに、仏になったからといって、ふつうの人間と違った特別な存在になるのではない、ということを裏づけているといえます。

 さらに「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」との文により、五百塵点劫に倍する以前から、菩薩の行を行なってきたと述べています。

 そして、「方便現涅槃」といって、これは「方便として涅槃を現ずる」ということで、釈迦の立場では衆生に渇仰(厚く信仰する)の心を起こさせるための方便であることを、宣言しています。

 仏といっても永遠に死なない存在ではなく、ふつうの人間と同じように死ななくてはならない。しかし、仏の肉身は滅びても、その教えた法は永久に残り、衆生を救う働きをしていきます。

 死ぬということも、仏にとっては、衆生を救う働きの一つの形態にほかならないのです。つまり、仏の死によって、かえって衆生は渇仰の心を起こすことになるからです。

 以上、①②③のグループを通して、一個の人間生命に内在する仏の生命の尊厳さと壮大さとを、ある時には空間的に、またある時には時間的に、縦横無尽に説き明かしてきた法華経は④のグループにおいて、その仏の生命を基調にして、衆生救済の実践に励む菩薩の姿を説いていきます。

 すなわち常不軽菩薩、薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩などのさまざまな活躍を通して、法華経が、単に、すべての人々の内奥に存する仏の生命を賛嘆するだけに終始するのではなく、その生命を限りなく汲み出していこうとする現実変革の経典であることも、明確に示しています。

 以上で、法華経二十八品の大まかな流れをたどりましたが、八万法蔵の中で、これほど一個の人間生命の尊さと偉大さとを賛嘆し、謳い上げた経典はほかにはありません

 古来、法華経が「諸経中の王」としてたたえられたのも、宜なるかなです。

 さて、二十八品の後には、結経・普賢経がきます。これは、結びにふさわしく、二十八品の内容を要約した経典です。

 四方十方を、自由に往来するという普賢菩薩が、妙法蓮華経の一法を持して、これを世界中のあらゆる地域、民族に広め伝えていくことを説いた経典です

 これは、人類共通の"生命"に根ざした妙法蓮華経が、民族、人種の皮相的な差異を超え、全世界に流布していくという、世界性と普遍性を宣言したといえるでしょう。