広布の礎、文化活動
広宣流布ということは、始終口に言われることである。あたかも広宣流布といえば、日蓮大聖人様のためにやるとか、日本民衆のためにやるとか、また学会の目的達成のためにやるように考えている人もあるが、私が『広宣流布せよ』と諸君らに言う意味は、自分自身の幸福のためにしなさいということであります。
広宣流布には、とうぜん、折伏がともなう。その折伏により功徳を受けるのは、いうまでもありません。しかしながら、広宣流布した暁を考えてごらんなさい。これから二十数年のあいだの大闘争に、ひとりひとりが広宣流布の闘士として働いた名誉は、どれほど大きく、どれほどの功徳を受けることでありましょうか。また広宣流布の暁に、この大闘争に加わることのできなかった人々の悲しみは、さぞやどれぐらいでありましょうか。時にめぐりあうということは重大なことであります。
皆さまのなかにいるかもしれませんが、だいたいは、おらないのではなかろうかと思います。
今、世界で有名なアインシュタイン先生が、今から三十余年前に、日本にこられて、慶応大学の講堂で講演なされた時に、故初代会長といっしょに、アインシュタイン先生の講演を聞きました。あの世界的有名な大学者の声を目のあたりに聞いたというこの喜びは、皆さまには味わえるかどうかわかりませんが、初代の会長がおられた時に、だれも牧口先生の偉大さを知らない。
いまに牧口先生こそ、世界の大哲学者として、歴史のうえに残る人であるということを、私がいくたびも言うた。その時には半信半疑でおられたことでありましょうが、故牧口先生に親しく指導を受けた誇りを持つ者が、このなかに幾人いるでしょうか。(私見:池田大作(先生)、原田稔会長、 牧口先生の偉大さが分かりますか。分かっているなら創価学会員に、そして日本人に教えてください。
池田大作(先生)、あなたがいろいろ言ってこられた、話されてきたことは、牧口先生の価値論の思想ではなく、カントの考え方ですよ。(言ったことを人それぞれ理解するが、解釈するのはそれぞれの人の責任だ、私ではない。)これでしょう。そして、コヴィー氏が言う「自己中心的な人は、影響の輪が関心の輪よりも大きくなる場合がある。これは、人や社会に対して無責任な状態であり、本来、自分が解決できる問題をも無視してしまう結果である。」
これを解決?(幸福への効果)?できるのは牧口先生の価値論が人々の基礎になければならない)
今、ここに、広宣流布の時きたって、その広宣流布の闘士として、これから、百年、二百年の後に『あれみよ、あの人々は、広宣流布のために働いた人々である。広宣流布の闘士であったよ』と、後の世の人にうたわれ、かつはまた、大御本尊様にほめたたえられる人が、幾人あることでありましょうか。
さりながら、広宣流布といえども、一朝一夕になるものではありません。私は以前にこういうことを聞いたことがあります。今より数年前に御本山において、ある僧侶が『今でこそお山は、このとおり貧乏しているけれども、広宣流布の暁には、天皇陛下がお寺を建ててくださって、そうして、りっぱになるのだ』と、あぐらをかいて、悠然と、たばこをのみながら言われたそうである。
これには、じつに驚いた。今、かりに、広宣流布ということが現実に行なわれたとする。勅宣・御教書を賜わって、御本山が広宣流布の姿をとって、大客殿に大御本尊様がお出ましになったとする。だれが大御本尊様のありがたさを日本国じゅうの人に伝えるでしょう。
すると、信心なき者がたくさん参詣にくる。そうして、この信心なき人々が、どれほど御本尊様を粗末にすることでしょうか。
あたかも身延の山へ行って、あるいは成田山へ行ってお札をもらうがごとく、御本尊様をいただいてきて、隣近所にみやげにくれてやる。もらったほうの人たちは何幅も御本尊様をもらって『なんだ、またか』ということになる。こうして、御本尊様を粗末にするものが日本国じゅうに充満するでしょう。その時には、せっかく広宣流布の姿をとりながら、しかも日本国じゅう、謗法となり、日本亡国の姿が厳然と現われるのです。
こんなことになっては、たいへんです。それがために、本門戒壇建立の前提として、真の広宣流布のために、本尊流布をしなければならないのであります。日本国じゅうの人々が『いかに大御本尊様がありがたいか』ということを肝に銘じてこそ、真の広宣流布ができるのであります。
広宣流布の姿におきまして、また広宣流布の途上におきましては、経済界に、あるいは新聞社において、あるいは雑誌において、または、これに類似する文化活動において、あるいは映画において、あるいは政治において、また会社の重役といえども、会社の小使といえども、皆、御本尊様のありがたいことがわかって、これらの人々のなかから国会議員が出て、本門戒壇の請願が出され、国会で可決され、天皇陛下も、また、この御本尊様のありがたさを知ってこそ、初めて広宣流布ができるのです。
これがためには、なまじっかの闘争では、けっして広宣流布はできない。そこで、この一端として文化部が創設され、文化活動のうちの政治活動が、最初に打ち出されたのです。
このような文化活動は、私の理想からいうならば、全国で五十数人の文化部員が、政治活動に参与しだしたということは、広宣流布の大闘争よりいえば、豆粒のようなものであります。
ただ、ここに一言ことわっておかなければならないことは、文化部員の闘争は政治のための政治ではないということです。ある人は、そういうものならば、創価学会党というものが出現して、そこで広宣流布するのではなかろうかと考えるかもしれませんが、けっして政治のための政治ではありません。一党一派に偏するものではありません。文化部員のなかで、ひとりが社会党であり、ひとりは自由党であり、ひとりは民主党であり、なかには共産党がいても、いっこうに、さしつかえないのであります。
それは政治のための政治ではなく、広宣流布のための政治であるからです。
この意味におきまして、このたびは、どうか、じゅうぶんに悔いなき闘争ができるようにと、日夜祈っているしだいであります。
昭和30年3月27日
鶴見支部第四回総会
星薬科大学講堂