(この本から一部引用)
安らかに死ねない時代
今、病院は高齢の入院患者であふれています。
口からものを食べるのではなく、お腹に開けた穴から胃の中に
人工栄養を入れられ、寝返りも打てず、黙ってじっと横たわって
いるしかない人たちが、三十万人とも四十万人ともいわれています。
アンケートによれば、自分に寿命がきてもう先がないとわかったら、
胃ろうのような延命治療を受けて生き存えるようなことはしたくない、
と圧倒的多数の人が考えています。
それなのに、たとえば認知症の高齢者が誤嚥性肺炎を起こすと、
判で押したように胃ろうを勧められます。
もはや口から食べられない状態だと判断され、認知症高齢者の
場合、約七割の方に胃ろうが付けられています。
自然な天命を待つのではなく、人工的に栄養を摂取させられて、
生かされているのです。
こんな国は、世界でも我が国だけです。
その措置が本人のためになるのか、人生の終末期に、そのような
〝治療〝が必要なのか、一番よくわかるのは医師のはずです。
どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。
これには理由があるのです。
延命治療法は進歩しました。しかし世の中のルールを決めている
法律は、延命治療がなかった時代のままです。
命を延ばす方法があるのであれば、それをしないと「不作為の殺人」
になる。医師はそれを恐れているのです。
八割の人が自宅で死にたいと願いながら、八割の人が病院で亡くなって
いるのが実情です。
肺炎を治す医師、胃ろうを造る医師の本音
ある日、一本の電話がかかってきました。
「私は○○病院(地域の基幹病院)の呼吸器内科の医師です。
先生の本を読みました。考えるところがあるので、ぜひお目にかかって
先生とお話したいのです」、それは強い意思を感じさせるしっかりした
声でした。「ええ、喜んでお会いしましょう」と私は答えました。
「今、私がいる病院の呼吸器内科の入院患者は九割以上が高齢者の
誤嚥性肺炎です。我々は肺炎を治します。私は肺炎が治るまでの十日
か二週間だけの主治医です。なぜ今この人がここに来て肺炎の治療を
受けているのか、このあとどこへ行ってどのように扱われるのか
知りません。
患者さんは肺炎が治ったあと、決まって消化器外科へ送られます。
私は医者になって六年目、まだ駆け出しです。『余計なことを考えない
で、一生懸命肺炎を治すことに専念しろ』と言われればそのとおりかも
しれません。
しかしそれでよいのでしょうか。これが一生懸命勉強して、なりたいと
思ってなった医者なのでしょうか。このごろ、強い疑念を感じずには
いられないのです」
私は胸ぐらをつかまれたような気持ちになりました。
専門医としてその場限りの対応だけに追われ、ほとんど機械的に患者
を消化器外科へと送り出す。そのことに葛藤を感じている医者も
このようにいるのです。
二〇一一年八月、日本消化器内視鏡学会で胃ろうの適応が問われる
パネルディスカッションがありました。
その席で、一人の外科医がこんな発言をしました。消化器外科で実際に
胃ろう造設手術に携わっている医師の声です。
「私は週に二、三例の胃ろうを造ります。そのほとんどは、高齢者で、
誤嚥性肺炎を起こして呼吸器内科へ緊急入院された患者さんです。
その方たちが、胃ろうを造るために回ってくるのです。
本人の意思確認はできず、家族による代理確認がほとんどです。
正直言ってこの人に胃ろうを付けてよいのかと迷います。
病院には平均在院日数の問題があります。入院期間が長くなると、
病院の病床稼働率が下がり、採算性に影響します。早く次の施設へ
転院していただくために、胃ろうを付けることになります」
こうして書きながら、今から十年以上前の自分を思い出します。
私は急性期病院の外科医として長く働いていました。当時の私の頭に
あったことといえば、「とにかくこの手術が問題なく済んで、患者の病気
が治ること」。そこにすべてを懸けていました。
ときどき介護保険に関わる要介護認定の書類が回ってくると、はっきり
言って自分には異質な〝雑用〝が迷い込んできたと思っていました。
そのようなことにかかずらわされるのは、命に関わるところでギリギリの
闘いをしている外科医の自分の務めではないという思いで、「そんなこと
をしている暇はない、事務方さんよろしく頼みますよ」と思っていました。
思えば傲慢な話です。私のところに書類が回ってきたのは、その人の
今後について、私が一番判断できる立場にあったからだったわけです。
『「平穏死」のすすめ』を読んだある病院の院長から手紙が来ました。
私も元外科医です。今は二百二十床の病院の院長をしています。
ここ数年、高齢者でかつ認知症の患者さんが増え、胃ろうのことを
考える機会が増えています。
患者さんに胃ろうを付けた家族は、「無理矢理生かし続けているのでは
ないか、苦しめているのではないか」と思うことがある一方、
胃ろうを付けなかった家族は「自分はじゅうぶんなことをしなかった、
私が命を縮めた」と悔いが残ります。いずれにしても家族を苦しめて
います。
家族もスタッフも自然に看取ることを望んでも、それができる環境に
ありません。施設に医師がいて日ごろからみんなで考えていれば、
看取る覚悟もでき、ちょっとした病変で病院に連れて行くこともなくなる
と思います。
いずれ自分も先生のような特養の常勤医師となって、施設で老衰の
終末期の方、またそのご家族を支える仕事に就きたいと思っています。
院長の立場の方がこのような考え方をしてくださると、とても心強い
です。私はすぐに共感の返事を書きました。私はこういう人がもっと
増えていただきたいと思って叫び続けています。そんな私の声が
きちんと届いている医療関係者もいるのです。
食べる喜びを失って生き続けるということ
脳と胃は密接に連携しています。食べ物を味わって食べる機能を
取り上げられると、生きる意欲を失います。
脳の機能が低下し、胃自体の機能も低下します。
食べ物を味わって食べないで、ただ機械的に胃に注入されると、
消化管粘膜は萎縮します。その上、胃ろう造設のとき腹壁に固定された
胃は動きが制限され、内容物の停滞が起こります。腸も胃と連携して
いますから動きが悪くなります。胃ろうのもう一つの合併症は便秘なの
です。
胃ろうを付けた高齢者は、口を半分開けたまま魂を抜かれたように
黙って横たわっています。やがて手足はだんだんと拘縮していきます。
こんな姿で生の時間だけを延ばされて、誰がうれしいでしょうか。
ある意味、〝生ける屍〝にされたようなものです。
口からものを食べられなくなるということは、人間として根源的な喜びを
奪われてしまうということなのです。
こう言いますと、「いや、そんなことはない、胃ろうを付けることによって
元気になって、また口から食べられるようになる場合がある」と言う方も
います。確かにそのような場合はあるでしょう。しかしそれは、老衰期の
人ではなく、まだ自力でものを食べ、自力で生きる活力が体内に残って
いる方の場合です。
私はそれもやめろと言っているわけではありません。
痛みがない!麻薬が要らない!
私がホームの常勤医になって六年余りが過ぎました。これまで百人
近くの方々をホームで看取ってきました。しかしあらためて考えてみる
と、この間に誰にも痛み止めの麻薬を使ったことがないのです。
死ぬ時、人間は必ず苦しむものだ、できるだけ緩和しなければならない
と思っていました。
老衰での終焉の場合も、痛み苦しむようであれば麻薬を使って苦痛なく
最期を迎えさせてあげようと考えていました。
ですから私は芦花ホームの常勤医になることが決まった時に、急いで
緩和ケアの勉強をしました。
しかし実際には、いまだかつて一度も、薬による緩和ケアが必要となった
ケースがないのです。
がんの末期には痛みが付きものです。ホームにはがんで亡くなった人も
います。しかし驚いたことに、がんで亡くなった方たちも苦しまれず、
モルヒネなどを使わないまま最期を迎えられました。
膵臓がんのような腫瘍が大きくなると、普通ならば内臓の被膜が引っ張
られ、周りの神経を圧迫してかなりの痛みを生じるはずなのです。
しかし老衰になっている体は、どうも痛みがないらしいのです。
それは体内に、鎮痛作用があり「脳内モルヒネ」ともいわれる
エンドルフィンという神経伝達物質が発生して、痛みを緩和しているから
だと言われています。正直言ってその理由は憶測でしかないのですが、
事実です。そうして二〇一一年の九月に、最期は食べなくなって眠るよう
に息を引き取られました。
食べさせないから死ぬのではない、死ぬのだから食べないのだ
医師であれば一度は読むハリソン内科教科書(死を迎える人は、命を
終えようとしているのだから食べないのだ。食べないから死ぬのでは
ない。このことを理解することで、家族や介護する人は悩みを和らげ
られる)とあります。
そもそも老衰末期にはもう食べ物を受け付けなくなっています。
なのに、なぜ我々は入所者に、もっとがんばって食べてと無理強い
するように栄養や水分を与えようとするのでしょうか。
食べさせないと餓死して死ぬのではない。もうまもなく死ぬから食べ
ないのです。もう締めくくりなのです。「食べる必要がない」のです。
認知症で言葉や意思として「食べたくない」と伝えることはできなく
ても、体が食べたくないと反応しているのです。
それなのに私たちは、「食べさせなければ死んでしまう」と一方的に
思い込み、何とか食べさせようとして誤嚥させ、肺炎を引き起こしていた
のです。
(ここまで)
考えさせられます。
一つ言えることは、それぞれが自分の保身を考えていると
いうことですね。
胃ろうを付けられている本人の意思は置いてけぼりで
医師は自分が罪に問われたくない。
家族も自分が責任を負ったり、悔いを残したくないという思いで
いるということですね。
結局は、誰が責任を取るのか?という所で
本人が責任を取るというのが一番いいわけだけど
その本人が認知症だとかで判断できない状態だったりする。
家族も、医者から、このままなにもしなければ餓死しますと
言われれば、なんかしないといけないと、とっさに思ってしまう。
後から冷静に考えたら、これでよかったのかと悩む。
ということだと思う。
死ぬ原因が老衰であってはいけないという思い込みも
問題だと思う。
なにか病名がないといけないような錯覚がある。
老衰というのが、この文明、医療が発達した時代にあっては
ならないという思い込みがあると思う。
でも老衰というのが一番いいことであって
一番本人も家族も苦しまない死に方であるということを
みなが知るべきだと思います。