青山圭秀氏ははしゃぐことなく、浮かれることなく、インドについて、サイババについて書いておられたので、非常に好感がもてた。


 その後、氏は数冊、発表されその中に『アガスティアの葉』という、インドの聖人アガスティアが書き残した占いがある事を知った。


 実は、おじさんは霊魂同様占いについても、統計学的な範囲で当たることもあるという程度にしか捉えていなかった。


 ところがアガスティアの葉と言われるものは、スケールがまるで違う。アガスティアは夥しい予言をし、それを植物の葉に古代タミル語で書き残したという。


 その葉が保管されている確か『館』は、数十箇所あり、自分の葉を探しに行った人は、場合によっては空振りすることもあるという。


 ではどうしてそれが自分の予言だと分かるのかという疑問を当然持たれると思うが、検索のキーは指紋だという。どっちがとっちか忘れたが、男女で異なる片手の指紋を採られ、それを持ってリーダー(読む人)が倉庫へ入っていき、幾つか持って出てくるという。


 番号が呼ばれ、大学を出ているかとか、兄弟は3人かとか、質問をされ、それが自分の葉であることがはっきりと分かるくらい詳しく書かれているという。青山氏が自分のケースについて書かれていたので、興味のある片はお読みになったらいいだろう。


楽天はこちら




 アマゾンはこちら


アガスティアの葉[完全版]―未来のゆくえ、それは運命か、それとも自由意志か






 名前が呼ばれ、その人のものだと判明したら、リーダーが読み現代タミル語に翻訳して伝えてくれる。


 葉には、いくつも種類があり、知りたい未来によって読む葉が違うらしい。


 何しろ古い記憶なので上っ面を撫でたような紹介しか出来ないが、おじさんの中で占いが格上げされた記念すべき書籍である。






 臨死体験を魂が存在する証明だとおじさんは考えている。


 宗教と魂は切っても切れない関係がある。


 宗教とは「如何に死の恐怖を克服するか」の為に生まれたと言ってもよく、そのためには肉体が滅びても生き続ける「何か」が必要であった。


 その「何か」が魂であり、その存在は死後も人は生きている事を言うために是非とも必要なアイテムであった。


 おじさんは、魂の存在を信じるまでに相当な期間を要した。怪談のようなものとか、一応学問的に書かれている本とか、おびただしい本を読んだが、そこでは信じることは出来なかった。


 その内、証拠のようなものを探し求めてもダメなのではないかと思い始めたものの、信仰者が神を信じるようには信じられなかった。


 おじさんが霊魂を信じるようになったきっかけは、はっきりしないがサティア・サイババの事績を読んだあたりではないかと思う。


 日本人には手から灰を出したり、口から宝石を出したりする奇跡の人サイババとして記憶されていると思うけれど、おじさんは誰かが書いた本の裏表紙の折り込まれた部分に、大きなアフロヘアーに、名前は忘れたが鮮やかなオレンジの衣装を身にまとったサイババの立ち姿の写真が載っており、何故か懐かしいという感情が湧き起こった事を鮮明に記憶している。


 これまで名前を聞いたこともなく、姿を見たこともなかった筈なのに、この懐かしいという感情は何故湧き起こるのか、どこから来るのか。


 これが、デジャブというものだと思うが、一説よれば、それは過去に経験した記憶がふとした拍子に蘇っているんだという。


 このように、サイババとの出会いはそんな具合であった。


 残念ながら、その本はサイババが奇跡を起こす人であることを強調した筆致(ひっち)で書かれていたので、大勢の中から呼ばれて、数人で別に会うことが出来たことや、その時に口から大きな丸い宝石を出して貰っている人がいたとか、自分が貰った物は手から突然飛び出して来たが、握ってもとても片手で覆いきれない大きさだったとか、書かれていたように記憶している。


 おそらく著者はサイババを崇敬し、インドまで行くほどの人だから、どれほど感動したかを書きたいと思うのはやむを得ないし、書く資格は当然ある。


 ただ、おじさんはサイババが何と言ったかを知りたかったのでちょっと隔靴掻痒のいらいらが募った。


 そしてサイババの書籍を買い集めたいと思ったけれど、なかなか見つからない。少し間をおいて青山圭秀という人が『理性の揺らぎ』という著書を発表し、おじさんは飛びついた。


 キリスト、イスラム、ヒンズーなどの宗教を統合した教えを述べている事を知った。


 そして「私は神」だ、と言い、それに続けて「あなたも神だ」と言った事を知り、この人は信頼できる人物だと直感した。


 つまり、神は一つであり、偏在するというおじさんの仮説そのものを言っていると思ったからである。


 しかし、不思議なのは、会いにインドへ行こうとは思わなかった。


 お金がないこともあったが、何か面倒くさいというか、行く必要がないと感じたんだね。


 サイババが偉大なマスターであることは否定しないし、現在、最高の賢人であることも否定しないが、何故か会いに行きたいとは思わなかった。


 当時、サイババの灰を出す儀式?について、テレビではマジックで可能だと説明しているマジシャンもいた。奇跡の真偽について放映されてもいた。


 おじさんはそんな事はどうでもよかった。仮に自分の言葉を伝えるためにマジックを見せても構わないし、金属の塔のような物を貰った人が、後日、分析に出し、これは相当な設備がなければ加工できないものだと証明されたということだが、これでサイババが奇跡を起こしたことになるのだろうか。


 事実、海外のメディアでは、宝石を毎回与えているんだから、それを作っている業者が居るはずだと、何日も張っていたが、ついに見つからなかった、という話も当時出ていた。


 彼が言っていた言葉と、行っていた事績を見れば、いかに偉大な人物かは分かりそうなものである。



 

 


 この世を眺めれば、人は多かれ少なかれ、洗脳状態の中で生きている。一見無関係に見えるスポーツなどもそうだ。おまえは選ばれた人間だ。必ずおまえは出来る。この場面は、選ばれた人間だけが体験できるステージなのだ……etc。


 恋もそうだ。互いに相手に催眠を掛け合うのが恋愛ということもできる。


 基本的にオウムの信者は真面目な人々なのだろう。


 だからと言って、真面目じゃなければ変な宗教には引っかからないのだから、不真面目に生きればいいんだと考える人はいないだろう?


 おじさんは人は皆、神の子であり、基本な性情は善と考えている。性善説というやつだね。


 一説には、地球は宇宙で最も過酷な学校だという。


 つまり、肉体という物理的な躰(からだ)に押し込められ、厳しい人間関係、社会環境、二元論の世界で苦しみ藻掻(もが)きながら生き抜くことは、所謂(いわゆる)あの世でいるよりも比較にならないぐらい(魂の)成長が早いのだそうだ。


 そういう視点に立てば、オウムの連中は強く人とは何かを学ぼうと志して、足下を掬(すく)われたと見ることが出来る。


 彼らはまた、今生は明らかに失敗だったけれど、来世は似たような環境を設定してやり直すだろう。


 そう、死後には地獄も極楽もなく、悪人が地獄に堕ちることなどないんだ。ただ死後、今生を振り返った際、自分が設定したテーマをクリアしていないと知り、今世と同等かさらに過酷な設定で生まれ変わろうとするかも知れない。それがある意味で前世のカルマの報いを受けたと、見える人には見えるのかも知れない。


 しかし、地獄はないと言ったが、人が地獄を創り出すことはある。多数の魂が生前地獄を信じイメージしていると本当に地獄が創造されるようだ。


 神は自分に似せて人を創られたと言う。その意味は、人が念じることは実現するということにほかならない。だから地獄に堕ちた人が抜け出るには、発想の転換が必要なのだが、あの世ではなかなか難しいらしい。


 臨死体験というものがある。医学的に死を宣告された人が息を吹き返し、その間の体験を語るとき、大体似たような体験になると言う。


 そこで面白いのは、日本人の臨死体験は三途の川が出てくることが多いそうだ。渡ると親戚が出てきたり、光りのトンネルがあり、親戚がまだ来るのは早いから帰れと言われたという体験談が幾つもあり、光りのトンネルはそこへ入ると何故かもう戻れないと分かるのだという。


 今、おじさんが言いたいのは、外国の人だと、大筋は似ているのだが、少し異なるところがあり、それは生前の宗教体験に関係しているのではないか、と研究者は考えているということなんだ。


 つまり自分が信じる死後の世界がそこに現れるという事だね。ここでは死へ至る道程ということだが。


 まあ、否定論者は脳内麻薬(ホルモン)の影響で幻覚を見ているだけで、人種によって変化することが、魂がないことの証拠だと言う。


 もう少し丁寧に説明すると、臨死体験というのは、肉体が瀕死の状態か、死へとハンドルを切っているのに、当人は覚醒していて肉体で生きていたときよりも、開放感があって頭も明晰になっている、と答えることが多いんだよ。


 おじさんたちスピリチュアル論者は、これこそが魂の存在の証しと考えるが、否定論者は、それなら国籍や人種によって体験が異なる事がおかしいと考え、逆に純粋な脳内の幻覚現象の証拠であると主張するんだね。


 スピリチュアル論者は、脳内麻薬に頼らなくても、十分にモルヒネなどを射たれているケースにもかかわらず、その間だけ、臨死の間だけ、覚醒し痛みも何もない状態になり、戻ったときにまた薬物により朦朧となったり、痛みが襲ってくるのは説明がつかない、と主張し、否定論者は、いや、死という最大のストレスに対して、肉体がそのような反応をしてもおかしくはない、と反論する。


 まあ、上記の最後の段落は、スピリチュアル論者と否定論者の議論を推定して書いたものだが、おじさんはもう否定論者との議論は不要だと考えている。



  ※2012年6月22日 文書一部訂正

  ※2018年5月2日 文書一部訂正


 

 

 




 今、オウム事件の最後の重要手配者2名のうち、菊池が逮捕されたので、ブログでちょっと横道に逸れてオウムについて語りたいと思う。




 オウム真理教というカルト教団が、サリンを地下鉄に撒いたことは、かなり前の事件だから、ネットをご覧の方の中には、当時まだ幼くて記憶が定かじゃない人や、まだ生まれていなかったという人もあるだろう。


 凶悪犯罪を犯して潰(つい)えたかに見えたオウムも、どっこい今も残党は生きているようである。


 オウムが何を信じているのかは知らないが、信者が尊師と呼んでいた麻原彰晃、本名松本 智津夫(まつもと ちづお)は、最初、ムーか何かの雑誌に座禅を組んでジャンプできるということが珍しくて、取り上げられたように記憶している。


 その時は、ヨガを基礎とする求道者という扱いだったが、その後、しばらくその存在を忘れていた。


 次に現れたのは、多くの洗脳された信者を擁する白装束の不気味な集団として、マスコミに取り上げられた時だ。


 イニシエーションと称する儀式や日常の生活の中で信者を洗脳し、ポアと称して、殺すことがその人のためになるという屁理屈をこね上げ殺人を犯してみたり、ついにはサリンという毒ガスを自らの手で製造し、テロに走った。


 信者の中には慶応大出の医者や早稲田出の男等々、知的エリートが幹部クラスを占め、逆に興味をもった人もいたようだ。


 やがて頭に脳波測定器のようなものを被らせたり、ロシアから武器を購入しようとした形跡があることが暴かれ、毒ガスを使用するに及んで、ついに国民は彼らがテロを企てるカルト教団だと知った。


 この神の問題でおじさんが最初から言っているように、個人を崇拝させる所から宗教はボタンを掛け違えたんだ。


 教祖が洗脳された信者の目にどれほど光輝に溢れて見えたとしても、端(はた)から冷静な眼で眺めれば、ただの小太りのむさ苦しいおっさんでしかない。


 神がある宗教に命じて、あの人間は殺した方が本人の為だから殺せということなどあり得ない。そんなものは神ではない。


 仮にちょっと人より優れたことが出来たとしても、だから神とは言わない。一言で言えば、信じる者の神の定義が低すぎるのである。低いというのが失礼なら、卑近(ひきん)と言い換えてもいい。


 オウム事件というのは、宗教が最悪の形で出た事件である。いや、宗教は常に信者を増やし、組織を作る。信者には神の繁栄のために幾ばくかの金品を納めるよう要求し、その金を元手に立派な宗教施設を建て、さらに信者増大に力を注ぐ結果、やがて強大なパワーとして、政界に影響を及ぼす存在になる。


 つまり、立派な教義を唱える者がいて、信者はそれを広めたいと欲する。広めるために組織を作るようになる。そのように運命づけられていると言っても良い。


 やがて組織の維持繁栄が教義と相容れないような事態になったとき、もっともらしい屁理屈をひねりだし、組織の維持の方を選択するのである。


 冷静に中世から近代までの戦争を見て欲しい。必ずといっていいほど背景に宗教がある。ヒトラーなどは宗教とは無関係に見えるが、おじさんは神の裏返しの悪魔信仰の結果と考えている。


 このように戦争には何らかの形で神というものが関わっている。誤解の無いように大急ぎで付け加えるが、だから神が悪いというのではない。その様なものと定義してきた宗教が悪いのである。


 日本人はその点、有利である。これまでの神の概念を苦労して変更したり捨てなくてもいいからである。


 イスラムについては分からないので、キリスト教でいうとニーチェが宣言した「神は死んだ」という有名な台詞は、神との長い葛藤の末に発せられた決別の言葉だ。


 日本人は、生まれながらにニーチェの決別後の位置に立っている。だから、とても恵まれているのである。


 そう言うことを考えたこともない輩が、偽物の神に近づいてしまうのだ。


※記憶を呼び起こしながら時間をかけてしまっているうちに、最後の高橋も逮捕されてしまった。f^_^;

※タイトルを含め「オーム」を「オウム」に訂正した。(2012-06-14 10:52:43)




 大きな話が卑近(ひきん)な話になって恐縮だが、貧乏神とのつきあいは長い。


 少し生活が上向いてくると、借金の申し込みや、保証の依頼があり、余分な部分を取り除いてくださる。


 だが、この神様、どうやら金持ちには絶対にしてくれないが、路頭に迷わすこともないようだと気付いてから、気をつけて観察していると、相当ピンチに陥ったときも、ギリギリの所で仕事が入ったり、収入があったりして助けてくれる。


 それでこの人生はこんなものかと思っていたら、どうやら貧乏神さん、知らない間におじさんを見限ったらしく、土壇場のお助けがなくなっていた事に気付いた。


 結局、おじさんが悟り?に近づくにつれ、いつしか離れていったものと思われる。


 それは自分が経験する総ての出来事は、自分が招いていると悟った時期とほぼ同じ頃である。


 その間、約30年近くお付き合いが有ったわけだが、損をさせられたのと瀬戸際で踏ん張ったのと、どちらが多かったかと考えれば、それは助けて貰った方が多かった。


 次に、おじさんは、結婚をした。


 明るくて、やさしく強い人だったが、おじさんのせいで、貧乏をさせてしまった。


 まあ、お互い貧乏が顔に出ないタイプだから、お金がないと言っても誰も信じて貰えない恨みはあるのだが……。


 こんな何もないおじさんが結婚できたことが不思議だが、家今後、一応、少し神から離れて、勉強に精を出した時期があって、それで今でも生活している。


 次は、ちょっと神に対する変遷を中断して、オームのことについて書いてみたい。






 大それたタイトルで始めた記事が、おじさんの予想を超えて終わらなくなっている。


 もっと簡単に、多くてもせいぜい2記事くらいの分量で終わるはずが、神の後押しなのか、変な半生記風になってきているのが恐ろしい。


 さて、ツキと運の話に戻すと、おじさんは小さな運に恵まれているようだ。


 具体的には、ビンゴで大した商品ではない物が当たるとか、年賀状で切手シートが確率よりも多く当たっているといった具合である。


 そのきっかけになったのは、二十歳の頃の麻雀での出来事である。


 その頃、かなりの打ちで手と自負していたおじさんは、いつしか無謀にも雀荘で知らない人と打ったりしていた。


 大きく勝ちもしないし、負けもしない、それにイカサマもするようには見えないし、悪い感じを与えないからか、雀荘に遊びにいっていると、メンツが足りない宅に呼ばれることが多かった。


 そんなある日、雀荘とは無関係に、アルバイト先の支店長を含むメンバーと誰かの歓迎麻雀を打つことになった。


 初顔合わせだったが、一目見て、申し訳ないが、このメンバーでは負けることはないだろうと、おじさんにしては、強気に打ち回してっていたところ、リーチが掛かり、不要牌をツモ切りをしたところ、一発で振り込んだ。


 打ち方と捨て牌から、これはないと瞬時に判断して切った牌が当たったので、ウっと思ったが、シャボテンの片方が空の待ちで、役も何もないニンロクの安い振り込みだった。


 その後、他家のリーチ後、ツモる牌がすべて安牌なので、ツモ切りしたら、すべて一発で振り込みになり、3度続くと、おじさんは不運を嘆くより、連続一発振込みの記録を作りたいと思ってしまった。


 結局、その晩は二十数回一発で振り込んだ。


 何か憑いてるんじゃない? とみんなは心配してくれたが、結局、半チャン4回ほどして成績はわずかにマイナスといったところで、生意気なおじさんは、俺のことより自分の心配でもしてな、と内心思っていた。


 おかげで、そのアルバイト先では、へぼ雀師で通ってしまったらしく、以後、彼らrは気の毒がって、二度と誘っては来なくなった。
本当は誘ってくれた方が有り難かったのだが……。 


 その後、何かに憑かれたといった彼らの冗談は本当になり、もともと大勝ちも大負けもしなかったものが、さらに勝ち負けの振り幅が狭くなり、ある意味、雀荘ではさらに凄い打ち手と思われてしまうというおまけがついた。


 確かに憑かれたと思う。憑いたのはおそらく貧乏神という神様だと思う。


 そんな神に憑かれると、やることなすことすべてうまく行かないように思うだろうが、さにあらず、この貧乏神様、粋な計らいをしてくれた事があり、おじさんに子供ができる時から、2年ほど一度もマイナスになったことがなかった。


 出産費用としばらくの育児費がこれで賄えたのである。




神について 8


 さて、このツキというものの正体はなにか。


 ツキを上げるとか運気を上げるという事は、ギャンブラーにとっては当然の事で、ゲンを担ぐとかケチが付くという言葉が昔からのあるように、ギャンブラーのみならず、誰でも気に留めていたようである。


 おじさんに言わせれば、その言葉は、世間の人々が神仏に現世利益を求める身勝手の最たるもので、靴を左足から履くとか、畳の縁を踏まないとか、人がどんなに笑おうと馬鹿にしようと、現にそういうものがある以上、ツかないよりツいていた方がいいに決まっている。


 それが何の神様の霊験によるものかは知らないが、何という神様でも良い、自分にプラスになるように人生が回れば、それは良い神様だという訳である。


 神様仏様と困ったとき、自分に都合のいいときに拝み祈り、普段は知らぬ顔を決め込む。


 これも半分は神仏を信じていないからだし、もし霊験が得られたら信じてもいい、といったギブアンドテイクの関係も、先にギブするのは神さんあんただよという姿勢である。


 ここには神は人間よりも力があるけれど、創造神といった大層なものではなく、時に怒って仕返しすることもありそうな、いたって人間らしい神様がいる。


 八百万の神々という日本らしい信仰(無信仰?)の様子がかいま見られる。


 もちろん、おじさんが神と言うときは、万物の創造神の事を指している。


 ここで疑問が出てきた。それは運不運とかツくツかないの場合は、この世、つまりこの3次元空間に内在しているシステムの表れで、神とは無関係と考えていいのだろうか、という点である。


 当時、おじさんは、絶対神の神のほかに、人よりも少し優れた力を持つ諸神がいて、その違いはレベル(格)の違いに起因すると想像してみた。


 世間一般の神様像のように、創造神に遠く及ばない、諸神の一面、諸神の力の一面が表出していると考えるのだ。


 ただ、その場合、創造神がいるのかそうでないかによって、奥行きが違ってくる。


 創造神がなければ、嫉妬深く器量の小い人間的な神々だけとなり、これが人の及ばぬ力を持っているだけに質が悪い。


 下手に機嫌を損ねようものなら、なにをされるか分かったものではない。だから、人々が恐れ、腫れ物に触るような扱いをするのも頷ける。


 創造神が存在する場合は、諸神も神の手の内にあり、まあ、俗に言う睨みを利かせている状態である。


 結局、神など存在しないと言い、ツキやら運やらも単に偶然の確率がそうさせたに過ぎない、という無神論の立場に立てば、何も悩むことはない。


 自分がこの世にいるのは、偶然、今の親から生まれただけのことだ、と割り切ることが出来る。


 一方、信仰心の厚い人も、神に身を委ねているのだから、こちらも安心だ。


 困るのは、おじさんのように、神は否定しても、身近に起きる運や不運がとても偶然とは思えないタイミングで起き、その原因が何処にあるのか、とつい考えてしまう質の者である。




 そもそも一番解決が出来なかった疑問は、全知全能の神が何故(なにゆえ)人を創る必要があったのか、という点だ。


 お遊び? それとも他に何か理由が?


 お遊びというアイデアはかなり本質に迫っていているのではないか。そうであれば、平等に愛を注ぐという仮定もなくなるし、今の見たままの世界が説明できる。


 結局、神を持ち出さなくても、大多数の無神論者の考えそのものなのだが……。


 ここで神は存在しないという結論を得て、無神論者として世を渡っていれば、もう少しましな地位を得たかも知れない。


 だが、おじさんには、同じく片付けなければならない問題が残っていた。


 それは一言で言えば、オカルト全般の理由付けである。


 不思議現象の解明である。


 そのとっかかりは、麻雀であった。


 麻雀をする人は多いと思うが、いわゆるツキというものの存在を否定することは難しいだろう。


 純正九蓮宝燈(チューレンポウトン)をフリテンなしでテンパったとたん、下家に間三萬をツもられたり、一日中、リーチ一発で振り込み続けたこと等々、絵に描いたような不運を目の当たりにする。


 それと神とどんな関係が? と思われるでしょうが、それは後ほどお話ししたいと考えている。





 神へのアプローチは宗教しかないのか、ということだが、おじさんは、こんな風に考えたんだ。


 神は人を平等に愛している筈だ。


 人にはそれぞれ長所・短所がある。


 頭のいい・悪いがある。


 美醜がある。


 それなら、誰もがそれぞれの方法で神へ近づく事が出来るはずだ。


 なのに、既存の宗教に入信しなければ、神へ近づけないのだとしたら、神は一つの方法でしか自分に近づく方法を用意していない存在だとなり、おじさんの中ではかなり評価が下がる。


 例えば、風の音に突如として悟りを得るとか、作曲中に神を感じたとか、科学者が啓示に似たひらめきを得て世界的な発明をしたといった具合に、誰でも悟りを得るチャンスを有していると仮定してみた。


 そのころの、おじさんはまだ自分と神という対立的な関係として捉えていた。当時はヤスパースの『哲学入門』に書かれてあったと記憶する宇宙意識とか、親鸞の他力本願などが、同一のものを指していると解釈していた。


 ただ、まだ、神とは自分の外に存在するものとの制約から脱してはいなかった。


 いずれにしても、皮肉なことだが、神が宗教でしか自分にアプローチさせるすべがないのなら、今風に言うと、なんかチッちぇー、と考えたんだね。


 この世界を創り上げた全知全能の神にしては、細かいところに拘りすぎるし、禁忌(タブー)を設け、ああでもない、こうでもないといちいち煩(うるさ)い。


 こんなことを言って大丈夫かなと少し頭を過(よ)ぎったが、もし罰が当たるようなら、それはそれで逆に証明されることになるなどと、開き直っていた。


 自分の様な者に神が愛情を注いでくれている筈はないし、神がいない証拠なら、いくつでも出せる。 


 例えば異なる一神教の信者同士による戦争。


 生まれる前に死ぬ(殺される)子共。


 生まれたとたんに死ぬ子供。


 病を持つ子供。


 餓死する子供。


 何処に神がいるというのか。不公平きわまりないではないか。もし気が狂って神のことなど考えられなくなった人が、どうして神に近づくことができるというのか。



 当時のおじさんには、如何に考えても、それに対する納得のいく回答は与えられなかった。




 
 ここまで書いたものを読み返してみると、おじさんは若い頃から神について考えていたんだと、嬉しい誤解をしてしまう読者がいるといけないので、お断りしておくが、いつも異性にもてることばかり考えていたし、多分にポーズの要素が強かった。


 ちょっと小難しい本を片手に電車にのると、格好がいいような気がしてたんだね。


 本題に戻ると、考えた結果、神は存在しないという結論に達してしまったんだ。


 例えば、人間が到達した最高の言葉である聖書を読解すると、カトリックの総本山、ローマ法王を中心とした教会組織の在り方になると思われるが、その歴史を見ると、十字軍の遠征や魔女狩りなど、キリスト教以外の宗教ばかりではなく、同じ宗派の信者の中でさえ、異端だ魔女だと牢獄に送ったり火あぶりの刑に処したりしている。


 神というのはそれほど狭量で残虐なのか、とおじさんは疑問を持った。


 人に置き換えればよく理解できるだろう。とにかく融通が利かない。偏屈で、怒りっぽく、命令するのが好きなだけでなく、命令に違反すると命まで危うくなるような力があり、自分を信じる者には天国行きを約束し、異教徒や無神論者には虫けらのような運命を用意している。


 こんな人間のそばに居たいかな。


 結局、今テロだ報復だと言って戦争をしている原因は、すべて宗教に起因している。ジハードという神のための戦いで死んだ者は天国が約束されている。イスラム教のコーランに書かれているそうだね。


 これでは、永遠に戦争はなくならないよ。仮にどちらかが正しく、どちらかが間違っているとしても、異教徒を排除してしまう神とはいかなる神なのか。


 次は神への道には、宗教しかないのかを考えてみる。