神へのアプローチは宗教しかないのか、ということだが、おじさんは、こんな風に考えたんだ。


 神は人を平等に愛している筈だ。


 人にはそれぞれ長所・短所がある。


 頭のいい・悪いがある。


 美醜がある。


 それなら、誰もがそれぞれの方法で神へ近づく事が出来るはずだ。


 なのに、既存の宗教に入信しなければ、神へ近づけないのだとしたら、神は一つの方法でしか自分に近づく方法を用意していない存在だとなり、おじさんの中ではかなり評価が下がる。


 例えば、風の音に突如として悟りを得るとか、作曲中に神を感じたとか、科学者が啓示に似たひらめきを得て世界的な発明をしたといった具合に、誰でも悟りを得るチャンスを有していると仮定してみた。


 そのころの、おじさんはまだ自分と神という対立的な関係として捉えていた。当時はヤスパースの『哲学入門』に書かれてあったと記憶する宇宙意識とか、親鸞の他力本願などが、同一のものを指していると解釈していた。


 ただ、まだ、神とは自分の外に存在するものとの制約から脱してはいなかった。


 いずれにしても、皮肉なことだが、神が宗教でしか自分にアプローチさせるすべがないのなら、今風に言うと、なんかチッちぇー、と考えたんだね。


 この世界を創り上げた全知全能の神にしては、細かいところに拘りすぎるし、禁忌(タブー)を設け、ああでもない、こうでもないといちいち煩(うるさ)い。


 こんなことを言って大丈夫かなと少し頭を過(よ)ぎったが、もし罰が当たるようなら、それはそれで逆に証明されることになるなどと、開き直っていた。


 自分の様な者に神が愛情を注いでくれている筈はないし、神がいない証拠なら、いくつでも出せる。 


 例えば異なる一神教の信者同士による戦争。


 生まれる前に死ぬ(殺される)子共。


 生まれたとたんに死ぬ子供。


 病を持つ子供。


 餓死する子供。


 何処に神がいるというのか。不公平きわまりないではないか。もし気が狂って神のことなど考えられなくなった人が、どうして神に近づくことができるというのか。



 当時のおじさんには、如何に考えても、それに対する納得のいく回答は与えられなかった。