今、オウム事件の最後の重要手配者2名のうち、菊池が逮捕されたので、ブログでちょっと横道に逸れてオウムについて語りたいと思う。




 オウム真理教というカルト教団が、サリンを地下鉄に撒いたことは、かなり前の事件だから、ネットをご覧の方の中には、当時まだ幼くて記憶が定かじゃない人や、まだ生まれていなかったという人もあるだろう。


 凶悪犯罪を犯して潰(つい)えたかに見えたオウムも、どっこい今も残党は生きているようである。


 オウムが何を信じているのかは知らないが、信者が尊師と呼んでいた麻原彰晃、本名松本 智津夫(まつもと ちづお)は、最初、ムーか何かの雑誌に座禅を組んでジャンプできるということが珍しくて、取り上げられたように記憶している。


 その時は、ヨガを基礎とする求道者という扱いだったが、その後、しばらくその存在を忘れていた。


 次に現れたのは、多くの洗脳された信者を擁する白装束の不気味な集団として、マスコミに取り上げられた時だ。


 イニシエーションと称する儀式や日常の生活の中で信者を洗脳し、ポアと称して、殺すことがその人のためになるという屁理屈をこね上げ殺人を犯してみたり、ついにはサリンという毒ガスを自らの手で製造し、テロに走った。


 信者の中には慶応大出の医者や早稲田出の男等々、知的エリートが幹部クラスを占め、逆に興味をもった人もいたようだ。


 やがて頭に脳波測定器のようなものを被らせたり、ロシアから武器を購入しようとした形跡があることが暴かれ、毒ガスを使用するに及んで、ついに国民は彼らがテロを企てるカルト教団だと知った。


 この神の問題でおじさんが最初から言っているように、個人を崇拝させる所から宗教はボタンを掛け違えたんだ。


 教祖が洗脳された信者の目にどれほど光輝に溢れて見えたとしても、端(はた)から冷静な眼で眺めれば、ただの小太りのむさ苦しいおっさんでしかない。


 神がある宗教に命じて、あの人間は殺した方が本人の為だから殺せということなどあり得ない。そんなものは神ではない。


 仮にちょっと人より優れたことが出来たとしても、だから神とは言わない。一言で言えば、信じる者の神の定義が低すぎるのである。低いというのが失礼なら、卑近(ひきん)と言い換えてもいい。


 オウム事件というのは、宗教が最悪の形で出た事件である。いや、宗教は常に信者を増やし、組織を作る。信者には神の繁栄のために幾ばくかの金品を納めるよう要求し、その金を元手に立派な宗教施設を建て、さらに信者増大に力を注ぐ結果、やがて強大なパワーとして、政界に影響を及ぼす存在になる。


 つまり、立派な教義を唱える者がいて、信者はそれを広めたいと欲する。広めるために組織を作るようになる。そのように運命づけられていると言っても良い。


 やがて組織の維持繁栄が教義と相容れないような事態になったとき、もっともらしい屁理屈をひねりだし、組織の維持の方を選択するのである。


 冷静に中世から近代までの戦争を見て欲しい。必ずといっていいほど背景に宗教がある。ヒトラーなどは宗教とは無関係に見えるが、おじさんは神の裏返しの悪魔信仰の結果と考えている。


 このように戦争には何らかの形で神というものが関わっている。誤解の無いように大急ぎで付け加えるが、だから神が悪いというのではない。その様なものと定義してきた宗教が悪いのである。


 日本人はその点、有利である。これまでの神の概念を苦労して変更したり捨てなくてもいいからである。


 イスラムについては分からないので、キリスト教でいうとニーチェが宣言した「神は死んだ」という有名な台詞は、神との長い葛藤の末に発せられた決別の言葉だ。


 日本人は、生まれながらにニーチェの決別後の位置に立っている。だから、とても恵まれているのである。


 そう言うことを考えたこともない輩が、偽物の神に近づいてしまうのだ。


※記憶を呼び起こしながら時間をかけてしまっているうちに、最後の高橋も逮捕されてしまった。f^_^;

※タイトルを含め「オーム」を「オウム」に訂正した。(2012-06-14 10:52:43)