この世を眺めれば、人は多かれ少なかれ、洗脳状態の中で生きている。一見無関係に見えるスポーツなどもそうだ。おまえは選ばれた人間だ。必ずおまえは出来る。この場面は、選ばれた人間だけが体験できるステージなのだ……etc。


 恋もそうだ。互いに相手に催眠を掛け合うのが恋愛ということもできる。


 基本的にオウムの信者は真面目な人々なのだろう。


 だからと言って、真面目じゃなければ変な宗教には引っかからないのだから、不真面目に生きればいいんだと考える人はいないだろう?


 おじさんは人は皆、神の子であり、基本な性情は善と考えている。性善説というやつだね。


 一説には、地球は宇宙で最も過酷な学校だという。


 つまり、肉体という物理的な躰(からだ)に押し込められ、厳しい人間関係、社会環境、二元論の世界で苦しみ藻掻(もが)きながら生き抜くことは、所謂(いわゆる)あの世でいるよりも比較にならないぐらい(魂の)成長が早いのだそうだ。


 そういう視点に立てば、オウムの連中は強く人とは何かを学ぼうと志して、足下を掬(すく)われたと見ることが出来る。


 彼らはまた、今生は明らかに失敗だったけれど、来世は似たような環境を設定してやり直すだろう。


 そう、死後には地獄も極楽もなく、悪人が地獄に堕ちることなどないんだ。ただ死後、今生を振り返った際、自分が設定したテーマをクリアしていないと知り、今世と同等かさらに過酷な設定で生まれ変わろうとするかも知れない。それがある意味で前世のカルマの報いを受けたと、見える人には見えるのかも知れない。


 しかし、地獄はないと言ったが、人が地獄を創り出すことはある。多数の魂が生前地獄を信じイメージしていると本当に地獄が創造されるようだ。


 神は自分に似せて人を創られたと言う。その意味は、人が念じることは実現するということにほかならない。だから地獄に堕ちた人が抜け出るには、発想の転換が必要なのだが、あの世ではなかなか難しいらしい。


 臨死体験というものがある。医学的に死を宣告された人が息を吹き返し、その間の体験を語るとき、大体似たような体験になると言う。


 そこで面白いのは、日本人の臨死体験は三途の川が出てくることが多いそうだ。渡ると親戚が出てきたり、光りのトンネルがあり、親戚がまだ来るのは早いから帰れと言われたという体験談が幾つもあり、光りのトンネルはそこへ入ると何故かもう戻れないと分かるのだという。


 今、おじさんが言いたいのは、外国の人だと、大筋は似ているのだが、少し異なるところがあり、それは生前の宗教体験に関係しているのではないか、と研究者は考えているということなんだ。


 つまり自分が信じる死後の世界がそこに現れるという事だね。ここでは死へ至る道程ということだが。


 まあ、否定論者は脳内麻薬(ホルモン)の影響で幻覚を見ているだけで、人種によって変化することが、魂がないことの証拠だと言う。


 もう少し丁寧に説明すると、臨死体験というのは、肉体が瀕死の状態か、死へとハンドルを切っているのに、当人は覚醒していて肉体で生きていたときよりも、開放感があって頭も明晰になっている、と答えることが多いんだよ。


 おじさんたちスピリチュアル論者は、これこそが魂の存在の証しと考えるが、否定論者は、それなら国籍や人種によって体験が異なる事がおかしいと考え、逆に純粋な脳内の幻覚現象の証拠であると主張するんだね。


 スピリチュアル論者は、脳内麻薬に頼らなくても、十分にモルヒネなどを射たれているケースにもかかわらず、その間だけ、臨死の間だけ、覚醒し痛みも何もない状態になり、戻ったときにまた薬物により朦朧となったり、痛みが襲ってくるのは説明がつかない、と主張し、否定論者は、いや、死という最大のストレスに対して、肉体がそのような反応をしてもおかしくはない、と反論する。


 まあ、上記の最後の段落は、スピリチュアル論者と否定論者の議論を推定して書いたものだが、おじさんはもう否定論者との議論は不要だと考えている。



  ※2012年6月22日 文書一部訂正

  ※2018年5月2日 文書一部訂正