臨死体験を魂が存在する証明だとおじさんは考えている。


 宗教と魂は切っても切れない関係がある。


 宗教とは「如何に死の恐怖を克服するか」の為に生まれたと言ってもよく、そのためには肉体が滅びても生き続ける「何か」が必要であった。


 その「何か」が魂であり、その存在は死後も人は生きている事を言うために是非とも必要なアイテムであった。


 おじさんは、魂の存在を信じるまでに相当な期間を要した。怪談のようなものとか、一応学問的に書かれている本とか、おびただしい本を読んだが、そこでは信じることは出来なかった。


 その内、証拠のようなものを探し求めてもダメなのではないかと思い始めたものの、信仰者が神を信じるようには信じられなかった。


 おじさんが霊魂を信じるようになったきっかけは、はっきりしないがサティア・サイババの事績を読んだあたりではないかと思う。


 日本人には手から灰を出したり、口から宝石を出したりする奇跡の人サイババとして記憶されていると思うけれど、おじさんは誰かが書いた本の裏表紙の折り込まれた部分に、大きなアフロヘアーに、名前は忘れたが鮮やかなオレンジの衣装を身にまとったサイババの立ち姿の写真が載っており、何故か懐かしいという感情が湧き起こった事を鮮明に記憶している。


 これまで名前を聞いたこともなく、姿を見たこともなかった筈なのに、この懐かしいという感情は何故湧き起こるのか、どこから来るのか。


 これが、デジャブというものだと思うが、一説よれば、それは過去に経験した記憶がふとした拍子に蘇っているんだという。


 このように、サイババとの出会いはそんな具合であった。


 残念ながら、その本はサイババが奇跡を起こす人であることを強調した筆致(ひっち)で書かれていたので、大勢の中から呼ばれて、数人で別に会うことが出来たことや、その時に口から大きな丸い宝石を出して貰っている人がいたとか、自分が貰った物は手から突然飛び出して来たが、握ってもとても片手で覆いきれない大きさだったとか、書かれていたように記憶している。


 おそらく著者はサイババを崇敬し、インドまで行くほどの人だから、どれほど感動したかを書きたいと思うのはやむを得ないし、書く資格は当然ある。


 ただ、おじさんはサイババが何と言ったかを知りたかったのでちょっと隔靴掻痒のいらいらが募った。


 そしてサイババの書籍を買い集めたいと思ったけれど、なかなか見つからない。少し間をおいて青山圭秀という人が『理性の揺らぎ』という著書を発表し、おじさんは飛びついた。


 キリスト、イスラム、ヒンズーなどの宗教を統合した教えを述べている事を知った。


 そして「私は神」だ、と言い、それに続けて「あなたも神だ」と言った事を知り、この人は信頼できる人物だと直感した。


 つまり、神は一つであり、偏在するというおじさんの仮説そのものを言っていると思ったからである。


 しかし、不思議なのは、会いにインドへ行こうとは思わなかった。


 お金がないこともあったが、何か面倒くさいというか、行く必要がないと感じたんだね。


 サイババが偉大なマスターであることは否定しないし、現在、最高の賢人であることも否定しないが、何故か会いに行きたいとは思わなかった。


 当時、サイババの灰を出す儀式?について、テレビではマジックで可能だと説明しているマジシャンもいた。奇跡の真偽について放映されてもいた。


 おじさんはそんな事はどうでもよかった。仮に自分の言葉を伝えるためにマジックを見せても構わないし、金属の塔のような物を貰った人が、後日、分析に出し、これは相当な設備がなければ加工できないものだと証明されたということだが、これでサイババが奇跡を起こしたことになるのだろうか。


 事実、海外のメディアでは、宝石を毎回与えているんだから、それを作っている業者が居るはずだと、何日も張っていたが、ついに見つからなかった、という話も当時出ていた。


 彼が言っていた言葉と、行っていた事績を見れば、いかに偉大な人物かは分かりそうなものである。