小諸、マリリン・モンロー、ブルース・スプリングスティーン、島崎藤村、北原白秋、井上陽水、千曲川、信濃川、ちゃっきり節、夜明け前、小室、中秋の名月、信州、長野県、小諸城、上田城、懐古園、川中島の戦い、上杉謙信、武田信玄、仙石秀久、徳川家康、関ヶ原の戦い、歌謡曲、洋楽、ロック、民謡、邦楽。
 

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音路89.往にし方(いにしへ)にかえる ~ ムーン・リバー

(カエル コネクション.8)



前回コラム「音路88.文豪とかえる ~ ハレルヤでかえる(カエル コネクション.7)」に引き続き、今回は連載の第8回となります。


◇楽器も、未来も背負う

前回コラムの「阿波踊り」の話しの中で、民謡「よしこの節」のことを書きましたところ、学生さんの読者の方々から、阿波踊りの曲が民謡であることを知らなかった…、民謡を初めて耳にした… など、思わぬご感想を頂戴しました。

民謡は、今でも、支持者の多い音楽分野ではありますが、たしかに、一般の支持者の多くは、昭和のベテラン世代なのかもしれません。
若手の伝統和楽器ミュージシャンも生まれてきてはいますが、邦楽分野全体が、何やら、音楽界の端に追いやられているように感じなくもありません。
最近は、テレビやラジオの古典邦楽や民謡番組も、結構、端に追いやれているようにも感じます。
若い世代は、ひょっとしたら、想像以上に「民謡離れ」を起こしているのかもしれません。

新世代による和楽器の斬新な邦楽演奏は、今や、世界的に高い評価を受けており、何やら古い時代の日本の古典音楽というイメージは受けません。
のんびりとした…、もったりとした…、歌詞もよくわからない…、退屈な音楽… 時に若い世代は、古典邦楽や民謡にそうした印象を持っているかもしれません。
ただ、一部の若者には、和楽器や邦楽の持つチカラ強さに気づき始めた方も少なくないと感じます。

民謡は、激しいロックもあり、ポップな楽しいノリもあり、哀愁や郷愁が漂う感動のバラードもあり、やさしい子守唄のようなものもあり、雄大で荘厳な曲もあります。
たしかに、言葉使いが古く わかりにくいものもありますが、その歌詞内容は現代人の感覚と同じだと思います。

日本に暮らしているのに、邦楽や和楽器サウンドを体験しないのは、もったいない!
…そう感じます。

「歴音fun」では、これまで若手の邦楽ミュージシャンのお話しも、時折 書いてきました。
「音路」シリーズではなく、歴史のお話しが中心の「歴路(れきろ)」シリーズのほうですが、ロックファンの方も、クラシック音楽ファンの方も、歌謡曲ファンの方も、よろしかったら どうぞご覧ください。

歴路1.ヤタガラスからの伝言【前編】あの邦楽に(1)琴編

歴路2.ヤタガラスからの伝言【中編】あの邦楽に(2)琴編

歴路3.ヤタガラスからの伝言【後編】あの邦楽に(3)琴編

* * *

前回コラムの最後部でも追記しましたが、今は、若手ミュージシャンによる、民謡や邦楽の演奏会が、各地でたくさん行なわれています。
日本の民間の民謡教室の数は知りませんが、ピアノ教室の数ほどではないでしょうが、それ以外の楽器のそれぞれの教室数は軽く上回るでしょう。
だいたい、教室ではない、個人道場のようなものはたくさんあると思います。
レコード会社にも、民謡歌手専門の部門がしっかりあります。
民謡で鍛えた歌唱力により、民謡歌手出身で、成功した演歌歌手はたくさんいますよね。
今、ポップスのボーカルを勉強している方々も、一度、民謡の歌唱教室を体験してみても面白いかもしれませんね。

「民謡」という少し古い感じのする音楽ジャンル用語ではありますが、「MINYO」は決して現代に合わない音楽ではないと感じます。
演奏スタイルや表現スタイル、そして和楽器も、これからますます多様化するでしょうし、何より歌唱力と演奏力を問われる分野ですから、優れたミュージシャンがたくさんいますね。

下記は、民謡歌手の「おもだか秋子」さんのブログに書かれていた記事です。
今の若者ミュージシャンの多くは、この記事の写真のように、専用の四角い大型ケースや、ギターケースのような形状のものに和楽器を入れ、背負うことが多くなっています。
東京などでは、こうしたミュージシャンの姿を、結構 目にします。
自身の背丈と変わらないほどの大きさの楽器ケースを背負う若者たちの姿を見ると、次の時代を頼むよと言いたくなってきますね。
がんばれ、音楽人たち!
背負っているのは、楽器だけではありませんね!

おもだか秋子さんのブログ記事



◇蛙が鳴くんて、雨ずらよ!

そういったことで、今回のコラムも、まずは、昭和時代になってから作られた、蛙とつながった「新民謡」のお話しから始めます。

新型コロナで亡くなられてしまわれた、コメディアンの志村けんさんが、昭和の時代に日本中で流行させた「東村山音頭」という民謡風の楽曲がありますが、そのメロディのもとは、静岡県に絡んだ民謡風の楽曲「ちゃっきり節(茶切節)」です。
文字どおり、お茶の大産地である静岡の「お茶畑」での光景を盛り込み、静岡の方言を使って作られた、昭和時代の新民謡です。

1927年(昭和2)、静岡に開園した「狐ヶ崎遊園地」のPRソングとして、静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)が、当時の有名詩人・歌人・作家の北原白秋(きたはら はくしゅう:1885年・明治18 ~ 1942年・昭和17)に歌詞を依頼しました。
白秋は、知り合いの民謡研究家で、音楽家でもある町田嘉章に作曲を依頼しました。

* * *

静岡県など東海地域の方言に、語尾に、「〇〇ずら」「〇〇ら」「○○り」などを付けることがあります。
歌の歌詞「雨ずらよ」も、そうした言い方ずら。
家康も、きっと使っとったずら!

また、静岡では、「かえる」は「きゃある」、「鳴くんで(鳴くので)」は、濁点のない「鳴くんて」と言うのだそうです。
「蛙(かえる)が鳴くので、雨になりますね」は、静岡では「蛙(きゃある)が鳴くんて、雨ずらよ」となります。

この名フレーズは、実は、白秋が泊まった静岡の宿の老女が、たまたま窓の外を見ながらクチ走った ひと言から生まれました。
窓の外を眺めながら、「蛙(きゃある)が鳴くんて、雨ずらよ」。

九州の熊本生まれで、福岡の柳川育ちの北原白秋です。
この静岡の言葉には、さぞ「ふて~がって~な!」。

さすが、白秋先生… 「きゃある」という用語は聞き逃しませんでした。
ナニ! きゃある!?
よくぞ、蛙たちも、その時に鳴いてくれました。

ここは、歌手の「勝太郎」さんとともに、芸者姿で歌う「市勝時代」を築いた市丸さんの歌唱で…。
市丸さんは、長野県松本市出身で、浅間温泉で芸者さんをされ、1931年(昭和6)に歌手デビュー、80年代の昭和50年代頃まで、歌謡界で大活躍した歌手です。
彼女の代表曲のひとつです。

きゃあるが鳴くんて、雨ずらよ!

♪ちゃっきり節(茶切節)

 


◇白秋の蛙が鳴くから…

前述のような「蛙が鳴くから…」という言い回しは、昭和の時代に、世間でよく耳にしましたね。
特に、下記の歌の歌詞にある言い回しは、戦前、戦中の世代の方々がよく使っていましたね。

作詞は、やはり北原白秋。
作曲は、山田耕作(下記映像は、耕作自身のピアノ演奏)。

♪蛙が鳴くから、帰ろ…
そこの旦那はん、早よ、家に帰りなはれ!

1926年(大正15・昭和1)の録音音声です。

♪かへろかへろと

 


◇高浜虚子家族は信州へ

さて、前回コラムで書きました夏目漱石の親友で俳人の正岡子規の弟子であり、子規と同じ愛媛県松山市出身の俳人である高浜虚子(たかはま きょし / 1874年・明治7 ~1959年・昭和34 / 本名は清)は、太平洋戦争中の1944年(昭和19)から1947年(昭和22)まで、家族とともに、長野県の小諸市(こもろし)に疎開していました。
その時の信州(長野県)を表現した句をご紹介します。

下記のサイトページ(虚子の「六百句」の一覧)の、昭和19年9月からの句の中に、信州(長野県)の東信地方(小諸を含む)の風景や暮らしを表現した句がたくさんあります。

六百句

高浜虚子や、彼の師匠の正岡子規らの蛙のお話しは、次回以降にあらためて書きます。


◇信州の東信地方

信州(長野県)の東信地方とは、小諸・上田・佐久・蓼科・軽井沢・八ヶ岳・浅間山・野辺山・菅平・別所温泉などの地域で、その中心を千曲川(ちくまがわ)が流れています。

小諸を中心に位置関係を説明しますと、小諸の北東の山麓が浅間山、東に軽井沢、南に佐久、北西に上田があります。
上田のあたりが、戦国武将の真田一族の中心地です。
上田の南西に「信州の鎌倉」と呼ばれる別所温泉があり、上田のさらに北方の先に、明治から昭和の時代に華々しい繁栄をした「戸倉上山田温泉」があり、そのさらに北方に善光寺のある長野があります。

甲武信岳(こぶしだけ)の山麓から始まる千曲川は、佐久、小諸、上田、戸倉上山田と順番に流れ、長野、小布施、中野、飯山、さらに新潟方面に向かいます。

東信地方は、戦国時代には、真田十勇士や真田幸村で知られた真田氏や、名門源氏の村上氏の本拠地があり、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、領地の奪い合いの激戦を行なっていた地域です。
武田軍団の重要な武将たちがたくさん戦死した地域で、真田軍団の活躍した地域です。

* * *

江戸時代の最強大相撲力士といわれる雷電為右衛門(らいでん ためえもん)は、小諸と上田の間にある、現在の東御市(とうみし)の出身です。
先日、NHKテレビのニュースで、2022年9月4日に小諸市で開催された伝統行事「小諸八幡宮・八朔(はっさく)相撲」という子供たちによる土俵入りの映像を見ました。
江戸時代から続く伝統行事で、雷電為右衛門も子供の頃に出場したそうです。

八朔相撲のことを書いた「東信ジャーナル」様のブログ

 

* * *

日本には「五稜郭(ごりょうかく)」が二つ存在しています。
ひとつが北海道の函館、もうひとつが、この東信地域の佐久市(さくし)の五稜郭(龍岡城址)です。
これまで、佐久のその史跡の上には小学校が建っていましたが、今は学校が廃校となり、今後、整備が進められると聞いています。

五稜郭は、幕末頃の西洋近代兵法でつくられた軍事施設でしたが、未完成で実戦不足であったこともあり、幕末の日本の戦乱ではほぼ通用しませんでした。
旧幕府軍側も、明治政府軍側も、長い間、本格的な戦争をしていなかったこともあり、文献や教科書で兵法を にわか勉強しただけでは、すぐに実戦を行なえないことを痛感しましたね。
実際の戦争は、教科書どおりに上手くはいきませんね。


◇小諸城から懐古園へ

「関ヶ原の戦い」の時に、真田家(真田昌幸・幸村の親子)が、関ヶ原に向かおうとした徳川秀忠の大軍を、上田城周辺で戦闘で足止めさせ、徳川家康がいる関ヶ原での本戦に間に合わせなかったことは有名ですね。

この「第二次 上田合戦(上田城攻防戦)」で、その名を上げた武将が徳川秀忠の東軍の中にもいました。
戦国武将の仙石秀久(せんごく ひでひさ)です。

彼は、もともと美濃国(岐阜県)の土岐源氏(ときげんじ)の流れをくむ武家で、斎藤龍興の家臣でした。
美濃の斎藤家は、戦で織田信長に敗れますが、信長は、敵側の仙石秀久を気に入り、信長配下の秀吉の家臣とします。
信長の素晴らしさは、有能な者たちを、自身の身近に置くのではなく、最前線の現場に惜しみなく送り込むところにある気がします。
今でいえば、事件や事故、政治の最前線に、ベテランキャスターやベテラン記者を次々に送り込むようなことです。
織田軍団では、最前線から有能な家臣が次々に台頭してきましたね。

仙石秀久は、その後もずっと秀吉の重要な家臣として活躍しますが、ある失敗で秀吉の逆鱗にふれ、秀久は失脚します。
その後、名誉挽回のチャンスとなったのが、秀吉の「小田原城攻め」です。
その戦いでの功績で、秀久は、信州の小諸の地を拝領します。
ただ、この時点で、名を秀久から「秀康」に…、えっ!「康」の文字!?
秀吉の「秀」と、家康の「康」が、名前に…!

実は、仙石家も、真田家と同様に、豊臣と徳川の東西両軍に一族を分け、どのような状況になっても生き残ることができる両天秤戦術をとります。
特に、上杉家も、武田家も、北条家も、今川家も、織田家も東日本から失脚した中で、東日本の信州の地で、徳川家に真っ向対峙するなど考えられません。
当時の各地の武家では、当然の戦略です。

* * *

秀吉が亡くなり、いよいよ徳川家康が動き出し、「関ヶ原の戦い」で、仙石秀久は、豊臣方の西軍ではなく、家康の東軍に組します。
家康の後継者になる予定の徳川秀忠は、中山道から関ヶ原に向かう途中にある東信の地域で、秀久のいる小諸城に、徳川本軍の本陣を置き、隣の上田城の真田家を攻撃することになります。
徳川家にとって因縁のにっくき上田の真田家を撃破したとなれば、秀忠には大勲章ものです。
家康を継ぐ身の上としては、どうしても欲しい実績です。
この時、真田家の長男、真田信之(信幸)は、徳川秀忠のいる東軍側にまわり、父親の昌幸と幸村は西軍側として上田城に立てこもります。

* * *

あまりにも巨大な徳川秀忠の大軍団ではありましたが、上田城での戦闘では、劣勢の苦戦続きでした。
それでも一向に引かない秀忠を説得し、上田をあきらめ、秀忠を関ヶ原に急いで向かわせたのが仙石秀久です。

ですが、秀忠は、嵐のため、信州の木曽の山中で足止めをくい、徳川の巨大本軍は、関ヶ原の戦いに、結局 間に合いませんでした。
家康の当初の作戦は少し変更になりましたが、秀忠の徳川大軍団がいつやって来るのかわからないという心理作戦は、西軍側に、あまりにも大きな効果を与え続けていました。
石田三成の心を、完全に読み切っていた家康でしたね。

間に合わなかった秀忠への家康の怒りはすさまじく、その親子のとりなしを行なったのも仙石秀久です。
秀久は、秀忠にとっても、徳川家にとっても、ある意味、恩人の武将となりました。

* * *

伏見城に盗みに入った石川五右衛門を捕縛した伝説や、箱根の「仙石原」の名称の由来となった戦国武将の仙石秀久は、徳川家、特に秀忠への貢献により、江戸時代の小諸藩の初代藩主となりました。

美濃で滅んだ斎藤家の家臣の身の上から始まったと考えたら、城主で藩主という、異例の大出世ですね。
平安時代以来の小諸城をしっかりとした戦闘用の城にしたのは武田信玄ですが、今の小諸城の城郭は、武田の築城術を活かして、仙石秀久が整備したものです。

世の中が徳川政権になってから、にっくき上田城本丸は徹底的に破壊されました。
真田家の中で、家康の東軍側についた真田信之の本拠地は、今の群馬県の沼田城に…その後は、信州の松代に。
真田氏による上田城の並外れた戦闘防御機能をよく知る仙石氏は、小諸から上田に移され、かつての上田城を再建します。
つまり、真田家のつながりを、この東信地方から完全に排除し、上田城を徳川用につくりかえました。
豊臣の大坂城を、徳川の大坂城につくりかえたのと同じです。

そのため小諸藩は消滅し、小諸の地は、徳川家の天領となり、松平氏、酒井氏、青山氏などの幕府の有力武家が小諸を管理し、その後に、越後から牧野家が移り、明治の廃藩置県をむかえます。

明治時代になり、明治政府による廃藩置県での廃城令により、日本中の城が、一部を残し、売却や破壊されますが、これがなかったら、相当な数のお城が残っていたことでしょう…。
小諸城も、旧藩士に売り渡され、その名を「懐古園(かいこえん)」と改名し、軍事や政治用の城の役目を終えました。

* * *

数年前に、長野盆地の千曲川で大洪水が起こり、新幹線基地が水没するなどのテレビニュースを記憶されている方も多いと思いますが、短時間での猛烈な豪雨の影響で、山あいを流れてきた千曲川の大量の水が、一気に、広い長野盆地に流れ込み、さらにその先の山あいの谷にすぐに流れる込むことができず、大洪水を起こしました。
河川洪水の減災機能である「信玄堤(しんげんづつみ)」もさすがに機能できず、大洪水となってしまいました。

この千曲川は、昔から洪水を何度も起こす暴れ川で、流域のお城は、何度も洪水の被害を受けています。
小諸城も、過去の洪水等の災害で、建物がほとんど残っていませんが、千曲川の断崖を利用した堅牢な地形はそのままで、城址からの千曲川や山々の風景は、江戸時代とそれほど違わないかもしれません。
ただ、川の流れのルートは変わっています。

小諸城址である懐古園は、古い時代の「古城」の雰囲気や、いにしへの人たちの思いを、現代人にも感じさせてくれます。
「懐古(かいこ)」とは、昔の時代を、昔の出来事を、なつかしく、いとおしく思い出す、思いをめぐらすという意味です。

本コラムの冒頭写真は、小諸城(懐古園)の「三の門」ですが、「懐古園(かいこえん)」と書かれた額がかかっています。
この「懐古園」の文字は、徳川政権が続いていたら、徳川16代将軍になっていたであろう徳川家達の筆です。
なぜ、家達の書なのか…。
徳川家と真田家の死闘を思い出すには、やはり彼の書こそ ふさわしい…。

三の門は、まさに「往にし方(いにしへ)」へ入るための門!
「いにしへ」の時代に帰る入口なのかもしれません。

皆さまも、何かを懐古するのに、どうぞ、この城址に…。

 


◇小室武士と小室節

「小諸(こもろ)」という不思議な地名について、書いてみたいと思います。

「大室(おおむろ)」という言葉がありますが、これは 山の斜面に大きな穴を掘ったような窪地(くぼち)の地形のことです。
古事記には、土地の形状表現として「大室」の言葉がすでに登場します。

実は、山間地を流れる大きな河川は、その激流で、岸壁に大きな穴や窪みをたくさんつくります。
つまり、お城の水堀や空堀を、川が勝手につくってくれるのです。

実は「小諸城」の別名のひとつに「穴城」という名があります。
まさに山の傾斜に穴を掘って削られたような地形に建つ城が、この小諸城です。
今の小諸城も、門をくぐる時に、何か大きな窪地に降りていく感覚になります。

実は、今の小諸の市街地は、この小諸城(懐古園)よりも標高の高い位置にあります。
ですから、城下町からお城に向かって、坂を下って登城するということになります。

実は、長野県のような山麓や河岸段丘の多い地域のお城には、こうしたケースがないわけではありません。
武田の築城術は、そうしたことも活用し、城や城周辺の地形を利用して、戦闘を行なうように設計されています。

上田城も似た構造をしており、徳川の大軍団が、上田城に苦戦したのもよくわかります。
山を制した、山の軍団が、武田軍団でしたから、山あいの地で武田の城と対峙する怖さを、徳川秀忠は知らなかったのかもしれません。
徳川秀忠は、山あいの上田城で、真田家と戦っていただけでなく、武田信玄とも戦っていたのかも…。

織田信長は、武田軍を攻める際に、絶対に自身は甲斐国(山梨県)に入りませんでした。
山での武田軍の猛烈な強さを調べ上げ、熟知しており、周到な準備をしてから、家臣たちを武田の甲斐国に送り込みました。
逆に、武田信玄は遺言で、信長とは、絶対に甲斐国の外で戦ってはいけないと言い残しましたね。
信長も、家康も、実は山での戦闘は得意ではありません。

* * *

さて、奈良時代の信濃国のこの地には、人々が多く暮らす大きな集落「大村郷(おおむらごう)」があり、平安時代に「大室郷」と改称し、京に「小室の御所」が造られた時に、配慮して「大室郷」の「大」の文字を外します。
後に「室」の文字も「諸」に変更します。

「大村郷」から分かれた「小村郷」も、後に「小室」と呼ばれ、この「小室(こむろ)」という呼称は関東各地や東日本に広がっていきます。
前述の「室」から「諸」への漢字変更とあいまって、ここに「小諸」が生まれたように私は感じます。
はっきりとはわかっていませんが、大村・大室・小村・小室・小諸はつながっていると思います。

地名の「小諸」も、姓名の「小室」も、実はつながっており、信濃国のこの「小室」が、日本各地の「小室」の起源ともいわれています。

* * *

平安時代、この小諸(旧小室)の地の武士であった「小諸太郎光兼(こもろたろう みつかね)」は、木曽義仲(源義仲)の家臣として活躍し、義仲が源頼朝らに討たれた後は、頼朝の家臣として鎌倉御家人になります。
この小諸氏こそ、清和天皇の子孫の源氏である本姓・滋野氏のことです。
つまり、歴史をさかのぼれば、頼朝も、光兼も、同じ清和源氏です。

1197年に頼朝が、長野の善光寺にお詣りに行く際に、この小諸太郎光兼の小諸の屋敷に宿泊しました。
どれほど深い信頼関係か わかりますね。
鎌倉時代に、小諸さん、小室さんといえば、信濃国の小諸をおさめる、まさに泣く子も黙る源氏の名門武家!
由緒ある「小諸」「小室」の名称ですね。

* * *

民謡「小室節」の発祥の記念碑が小諸市内にあります。
♪正調「小室節」


ここから、民謡「小諸馬子唄」と、盆踊りうた「信濃追分」が生まれたようです。

♪「小諸馬子唄」と「信濃追分」

 

 

「小諸」という不思議な漢字と呼称ですが、歴史の中で、エピソードが次々に登場し、その面白さは格別ですね。


そんな小諸の地に、明治時代、後に文学者となる、ひとりの教師が赴任してきました。


◇島崎藤村の「夜明け前」

江戸時代から明治時代になり、小諸に、後に文学者となる、ひとりの教師が赴任してきました。
小諸と同じ、信州の木曽の「馬籠(まごめ)」出身の島崎藤村(しまざき とうそん / 1872年・明治5 ~ 1943年・昭和18)です。

馬籠は、2005年まで、長野県に属していましたが、その年に岐阜県中津川市に編入されました。
もともと江戸時代までは、馬籠は美濃国(岐阜県)の管轄地域でした。

* * *

島崎藤村の代表作の小説「夜明け前」には、有名な冒頭のフレーズがありますね。
「木曽路はすべて山の中である。」

彼は、かつてキリスト教徒でもあり、西洋文学に深く傾倒しています。

* * *

ローマ帝国の、今でいう裁判所は、人間の処刑判決を昼間にしか行なうことが許されていなかったようです。
その日、裁判所は、夜明け前には、イエス・キリストの処刑をほぼ決定していましたが、最終的な判決は夜明けに行なわれます。

キリストのゴルゴタの丘での処刑が執行された日や時刻には、さまざまな説がありますが、公開処刑ですので、昼間であったと思われます。
一説には、その日に、日食か月食があったとも言われており、相当に暗くなる時間帯があったかもしれません。
「夜明け前」という表現は聖書などの多くで登場し、「夜明け前が一番暗い」という表現も、そうした背景から生まれてきたのかもしれません。

* * *

前述の「夜明け前」の「夜明け」とは、人間の生活する時間帯を意味するものではありませんが、江戸時代の夜の表現は下記のようなものでした。

深夜午前1時から3時までの時間帯は「丑の刻(うしのこく)」で、いよいよ、わら人形に五寸釘を打ち込む「丑の刻参り」の時間帯。
特に、午前2時から2時半までの時間帯は「丑三つ時(うしみつどき)」で、幽霊さんのご登場時刻。
この時間帯に、「合わせ鏡」は絶対にいけません。
私も、子供の頃に、部屋の四方に肖像画や鏡を置いてはいけないという言葉とともに、親によく言われました。

今、放送関係者や気象関係者は、午前3時頃から6時頃までを「明け方」と呼びますが、古くは、「あけぼの」、「あさぼらけ」とも呼びました。

午前4時は、江戸時代には「後夜(ごや)」と呼ばれ、夜明け前の勤行(ごんぎょう / 仏前の朝のお勤め))の開始!
午前5時から7時は「卯の刻(うのこく)」で、江戸時代までのたいていの日本人は、「後夜」のあたりで起き、卯の刻には、ウサギさんのように、ぴょんぴょんと行動を開始しないと、日暮れまでに仕事を終えられませんでした。
電気の照明器具のなかった時代のお話しです。

島崎藤村の「夜明け前」の感覚を、もし時刻でたとえたなら、前述の午前2時から2時半までの「丑三つ時(うしみつどき)」から、午前4時頃の「後夜(ごや)」のあたりかもしれません。
午前5時から7時の「卯の刻(うのこく)」が、明治維新の「夜明け」なのかもしれませんね。

* * *

日本では、「夜明け」という言葉を、希望に満ちた新しい時代の幕開けの意味で使うことが多いですね。
シェイクスピアの「マクベス」に登場する言葉「The night is long that never finds the day.(日本語訳:明けない夜はない)」も、よく知られています。
直訳では、「夜明けの来ない夜は長い」ですが、「明けない夜はない」は日本的な希望を込めた表現にも感じます。
「止まない雨はない」、「朝の来ない夜はない」などの類似型もありますが、素晴らしい日本語表現に感じます。

* * *

幕末から明治維新にかけての激動の時代は、一般庶民も、自身の意識や思想の転換に苦しむ人が続出した時代です。
明治維新は、強制的な「夜明け」です。
江戸時代の時の意識や思想が転換できず、思わぬ暴挙や外国人襲撃、世をあきらめたような奇妙な踊りなどを行なう庶民がたくさん出てきます。
武士社会への回帰を目指す極端な動きもありました。

江戸時代に生まれ育ち、明治の時代に突然に放り込まれた庶民の苦しみや葛藤、社会の不安定さを描いた小説が、藤村の「夜明け前」でしたね。
この小説の主人公のモデルは、藤村の父親です。

あなたにとっての「夜明け」は…。


◇島崎藤村の「かわずの声」

この連載は「カエル コネクション(かえるとつながろう)」ですので、蛙のお話しです。
実は、島崎藤村は、蛙に関する文章「かわずの声」を残しています。

このような文章を読んで育った子供たちが、蛙を嫌いになるとは思えません。
豊かな心と、発想力を身つけないはずはありませんね。

下記サイトで、いくつかのお話しを読むことができます。
「かわずの声」は前段のほうにあります。

「力餅」の中の「かわずの声」


◇島崎藤村の小諸

島崎藤村は、明治5年に、今の岐阜県中津川市の馬籠(まごめ)に生まれ、明治14年には上京し、銀座の泰明小学校に通います。
キリスト教徒になり、西洋文学と同時に日本の古典文学も学びます。
その後、教師となりますが、あるトラブルの責任をとりキリスト教を棄教します。

1896年(明治29)には、教師として、一年ほど仙台に暮らし、詩集などを出します。
1899年(明治32)に、長野県の小諸に、英語教師として赴任します。
1905年(明治38)に出版した詩文集「落梅集(らくばいしゅう)」の中に、信州の小諸のことを描いた「小諸なる古城のほとり」や「千曲川旅情の歌」があります。

藤村が、小諸に教師として赴任し、懐古園(小諸城址)から山や川の風景を眺め、歴史や自然に思いをはせ、自身の人生とも重ねながら、あの有名な文章をつくります。

 

「千曲川旅情の歌」朗読

 

この詩文には、後にさまざまなメロディがつけられ、音楽曲となっています。
その中から、弘田龍太郎がメロディをつけた楽曲を…

♪小諸なる古城のほとり

 

島崎藤村は、その後、文学者として活躍し、ヨーロッパでの滞在の後、日本に戻り、1929年(昭和4)から1935年(昭和10)まで、前述の小説「夜明け前」を、雑誌「中央公論」で連載しました。

* * *

ここで、千曲川を歌った昭和歌謡の大ヒット曲を…。

1975年(昭和50)に五木ひろしさんが歌って大ヒットしましたが、この曲の作詞は、さまざまな職業をされ、いろいろな世界に顔が広かった女性の山口洋子さんです。
この楽曲の歌詞は、童謡のよう郷愁と哀愁、日本の原風景のような山、川、空、草花、里の灯が登場します。
まさに「懐古(かいこ)」する名曲です。
山口さんの、何かの「あこがれ」も含まれていたでしょうか…

 

♪千曲川

 


◇千曲川・信濃川のドローン旅

前述しましたとおり、信州(長野県)の東信地方には、千の数ほどか、それ以上に曲がる河川の千曲川があります。
長野県の流域は千曲川と呼ばれ、新潟県に入ると信濃川と名をかえ、日本海まで注ぎます。

その流れは、山あいの地域を、激しく蛇行しながら、山肌を削り、多くの崖をつくります。
長野盆地を越え、北信濃の地域を通り、新潟方面に向かいます。

ここからは突然、千曲川と信濃川の流域旅です。
源流の甲武信岳(こぶしだけ)から、川の上空をドローンに乗って旅してみましょう。
下記に解説を加えました。

 


上記映像の3分57秒の映像の千曲川(千曲川にダム堰があります)の右側に広い農地らしき場所がありますが、その農地のさらに右方向に小諸城址(懐古園)があります。

4分58秒の映像の千曲川にかかる赤色の橋(令和元年に台風で流された橋)の右奥(画面右端)の緑の木々のある場所が、真田氏の居城の上田城です。

5分54秒の映像の画面左上の山の斜面が、姥捨山(うばすてやま)の棚田で、長野盆地の夜景で有名な「姥捨駅」があります。


【日本の戦国史上に燦然と輝く、川での大戦闘】

6分25秒の映像の画面右端の千曲川のすぐ横にある緑の丘が、「第四次 川中島の戦い(1561年)」で上杉謙信が、武田信玄の大要塞の直前で、急に右に折れ、本陣を置いた妻女山(さいじょざん)です。

6分32秒の映像の千曲川の右岸が、信玄の大要塞があった場所です。
このあたりの千曲川を、上杉軍が霧の中、妻女山を密かに下り、川を渡って、映像の千曲川の左側に向かいました。

6分39秒の映像に川中島の古戦場史跡公園が出てきますが、このあたりが、霧の中から上杉軍が、武田軍の眼前に突如出現したあたりです。
武田軍の山本勘助や、信玄の弟の武田信繁が討死したのも、このあたりです。
信玄を討つ一度だけのチャンスを成功できなかった上杉謙信は、ここから千曲川に沿って、下流(映像前方)の新潟方面に脱出逃亡します。

6分53秒に、千曲川の左側から犀川(さいがわ)が合流しますが、この二つの川に挟まれた中洲(島)が、「川中島」という場所です。

* * *

武田信玄が川の霧を利用した戦術を使うと読んだ上杉謙信は、逆に、武田の大軍団を二つに分裂させ、信玄の周囲の兵力を減らし、敵が霧を使うのと同時刻に、その霧を使って、敵の大軍団の中枢(信玄のみ)に少人数で斬り込むという一度だけのチャンスに勝負を賭けました。
謙信らしい、想像を超えた奇抜さと大胆さの作戦でした。

上杉謙信は、今でいうジェンダーでしたが、男性武将でさえしないような、自身単独であっても、ド派手な衣裳で、敵に猛烈に突っ込むような武将でした。
ファッションや、周囲からの見え方にも気を使い、子供を残さず、本当の意味で死を恐れなかった、まさに別世界から来たような武神でした。
武田信玄は、上杉謙信の何をもっとも恐れていたのか…。

* * *

ともかく「第四次 川中島の戦い」は、謙信にとって、分単位の精密なスケジュールと、チャンスの時のスピードが命の作戦です。
こんな一発勝負の捨て身の作戦を、たいていの他の武将は行ないません。

地元の農民たちであれば、次の日の朝に霧がどの程度の量で発生するか、おそらくは、すぐに判断できたはずです。
霧が晴れた瞬間の、武田軍の驚きはたいへんなものだったでしょう。
なぜ、ここに謙信が立っている!
おそらく、謙信が信玄を討つチャンスは数分程度しかなかったでしょうが、かなり近いところまで接近したようです。
それも謙信ら数騎のみで…。

実は、謙信には、こうした大胆突撃は一度や二度ではありませんでした。
あの、ほっかむりのような頭にかぶる頭巾も、突撃用ファッションから生まれたものです。

上杉軍得意の、味方の犠牲を出しながら、討ち取る最少人数の部隊だけを、敵の大将のもとにしっかり送り出すという、軍団が車輪のように回転する、すさまじい「車懸かり」戦術でした。
織田信長でさえ、このような一発勝負の作戦は「桶狭間の戦い」の一度しか行なっていません。
その時の信長は、人生最大の成功!

謙信は、一度だけのチャンスを失敗したら、すぐに千曲川に沿って撤退する計画です。
とにかく、最悪でも、謙信だけは越後(新潟県)に、千曲川を使って、落ち延びさせる作戦です。

こんな大胆突撃ですから、そりゃあ、武田の名将たちが次々に死ぬはずです。
とはいえ、この上杉の猛突撃を耐えた武田軍のチカラも、すさまじいものでしたね。
この勝負… どちらに軍配?
実は、ここから武田軍の衰退が…、とにかく名将たちを失いすぎ!

* * *

6分53秒の画面の左側のさらに奥に行った場所に、善光寺があります。
上杉謙信は、善光寺から、この川中島の信玄の大要塞に向かって、誰もが無謀にも思うような、直進をしてきました。
なぜ、武田軍は、その怪しい動きに気づけなかった…、おそらくは、あまりにも優勢な兵力と強大な要塞、そして山本勘助の頭脳に、過信と油断が…?


【長野盆地から新潟方面へ、そして日本海へ】

7分25秒あたりの映像の地域が、令和元年の千曲川大洪水の地域です。信玄堤の形状が見て取れます。

7分40秒の映像の左端中央あたりに、洪水で水没した新幹線の車両基地が見えます。
千曲川の右側は、栗と葛飾北斎で有名な小布施町です。

このあたりの画面左側の奥に向かって、千曲川を離れ、飯縄山、黒姫山、妙高山を左に見ながら、ずっと行った先に、上杉謙信の本拠地の上越市の春日山城があります。

8分29秒の映像の地域が、次回以降のコラムに登場する飯山市のあたりです。

* * *

10分33秒と11分59秒の千曲川の左側が、新潟県との県境にある長野県の栄村の中心地です。
ここを過ぎた先から新潟県となり、名称が信濃川にかわります。

新潟県に入って、すぐの地域が、あのお米の名産地「魚沼(うおぬま)」の地域です。

小千谷(おじや)、長岡を通り、16分47秒で信濃川は二手に分かれます。
三条や新潟での洪水を防ぐため、一部の川の水を、左側の「大河津(おおかわず)分水路」から日本海へ送ります。
えっ、河津!カエルちゃんです。
地球温暖化により短時間での雨量が増大する今日ですが、分水路が必要な河川が増えてきそうですね。

本流は、三条、新潟へ向かい、まだまだヘビのように蛇行します。
日本海に到着!


◇人生は川の水のごとし…

ここからは、川の名曲を少しだけ…。

私なりの概要意訳
♪そこのあんた、私のために、川のように涙を流して、大泣きすればいいのよ。
♪今さら、私を愛してるだなんて、どのクチが言ってるのよ。
♪そこで、川のように涙を流してなさいよ。
♪私がこれまで、どれほど あなたのために大泣きしてきたと思ってるのよ。

そうそう、言っちゃえ、言っちゃえ!

ジュリー・ロンドンさんの1955年(昭和30)のヒット曲。

♪クライ・ミー・ア・リバー

 

* * *

恋は、川の流れとともに流れちゃった…、あの幸せな愛の時間は帰ってこない… 涙の河。
マリリン・モンローちゃんの河に帰らない男がいるとは…。

1954年(昭和29)の米国映画「帰らざる河」の主題歌のモンロー版。

♪帰らざる河

 

この映画の川(河)のロケ地は複数あるようですが、カナダのロッキー山脈の街、バンフやジャスパーに近い「ボウ川」が有名ですね。
バンフ近郊にある壮大な古城のホテル「フェアモント・バンフ・スプリングス」に、モンローも宿泊したと聞いて、30年程前の話しですが、私は、宿泊はしませんでしたが、わざわざ見に行ってしまいました。
ボウ川もすぐ下に流れています。
当時、バンフ周辺は、街なかでも、やたら大きな鹿が歩いていて、小動物もそこらじゅうにいました。
氷河の氷も今よりも、はるかに多かった頃です。

日本の小諸もどうですか?…千曲川と小諸城で。
The Fairmont Banff Springs

 

ロバート・ミッチャム版とモンロー版の歌唱
♪River of no Return(帰らざる河)

 

* * *

豪華でもない、観光地でもない、何の変哲もないホテル… でも、そこは 愛と哀愁のリバーサイド(川沿い)!
あの川沿いのホテルのこと…、どこ?

井上陽水さんの1982年(昭和57)のヒット曲。
♪リバーサイド・ホテル

 

* * *

川が「ザ・ボス」を呼んでいる。
ロックな人生は、川から始まった…。
「ザ・ボス」こと、ブルース・スプリングスティーンさんの1980年(昭和55)の名曲。
♪ザ・リバー

 

* * *

私は、故郷の信州(長野県)を離れて、ウン十年 経ちます。
信州の人間の多くは、そこに高い山があれば その山を越え、そこに深い谷があれば それを遠回りしてでも渡り、そこに川があれば、舟で、それを下って海を目指そうとします。
信州でなくとも、山国の生まれの人間は、みな そうかもしれません。

人生は川の水のごとし…、流れた水も時も帰ってきません。
「往にし方(いにしへ)」とは、往ってしまった、あの方向にある時間や郷愁、人々のことかもしれません。

その門に立って、その方向を眺めた後は、もう一度 振り返って、しっかり前に向かって歩いていきたいものです。
越えていけば…、流れに乗っていけば…、いいのですよね。


◇中秋の名月

今年2022年の「中秋の名月」は、9月10日です。
文豪の夏目漱石は、あるとき、英語表現の「I love you」を、「月がきれいですね」と翻訳しました。

英文の和訳は、その翻訳者が何を見ているのかによって大きく異なりますね。
月の姿を観ているのか、月の輝きを観ているのか、月を美しいと感じる心を観ているのか、月を遠いと感じているのか、月を眺める二人の愛を感じているのか…。
今夜、「美しい月でも観に行きませんか」と誰かに誘われたら、それは…。
ええ、ごいっしょに… (*´∀`*)ノ

文豪の二葉亭四迷(ふたばてい しめい)も、英語「Yours(私はあなたのものよ)」を、「もう死んでもいいわ」と翻訳したそうです。
日本人の感性は、もちろん西洋人とは大きく異なり、クチに出す言葉も行動も違っていますね。
山や川、空や海、虫や鳥…、そして、往にし方(いにしへ)の考え方も、日本人独特のものがあります。

今日は、川べりで、静かな流れの音を耳にしながら、名月でも眺めてみましょうか…。

月がきれいですね。
オードリー・ヘップバーンさん

 

♪ムーン・リバー

 

2022.9.10 天乃みそ汁
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