邦楽、琴・筝、琉球王国と沖縄県、天皇と音楽、六段の調べ、松竹梅、童神、ヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲イ短調」、平安時代の紫式部、生田流筝曲、雪月花の三庭苑、京都・北野天満宮、広島・厳島神社、曲水の宴、中城城、Rin'、しまんちゅ、やまとんちゅ。
 
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歴路(2)
ヤタガラスからの伝言【中編】
~あの邦楽に(2)琴編~

 


◇あの邦楽の方角に

前回コラム「ヤタガラスからの伝言【前編】」では、日本神話の時代から存在した楽器「和琴(わごん)」のこと、奈良時代の遣唐使たちによって、中国の唐からもたらされた「琴(きん)」や「筝(そう)」のことを書きました。
奈良時代の大政治家「吉備真備(きびの まきび)」の琴演奏のことも書きました。

本コラムは、特に音楽好きの方々に多く読んでいただいています。
音楽は聴くことだけでも楽しいことなのですが、もし目の前に楽器があったら、まず手にとって、どんな音色なのかと、奏でてみたくなるのではありませんか…。
歴史の中のいつの時代であっても、そうしたものだろうと思います。

今回のコラムも、前回に引き続き、「中編」として、琴のこと、音楽のこと、歴史のことなどを中心に書いていきたいと思います。


◇天皇と楽器

さて、今現在の皇族の方々も、それぞれに楽器を演奏され、時折、そのお姿をテレビで拝見させていただいています。
皇族の方々が音楽文化を愛する方々であることは、国民にとってもうれしいことです。
そして、それは、国際的な外交の面でも、各国の王室間交流においても、非常に意味のあることですね。
外国の王室やトップから、皇室に楽器が贈呈されることも少なくありません。
返礼として、その楽器演奏をされたり、宴(うたげ)の席でそれぞれ自国の音楽のお話しに花が咲いたりと、音楽は人と人の間にも、なくてはならない存在ですね。

もちろん、音楽は個人の趣味という側面もありますが、国を代表する公人の素養として、国民に範を示す振る舞いとして、時に大切な意味を持っているのであろうと感じます。
令和の時代になり、新天皇即位関連の行事の中で、披露される音楽を聴きながら、感動の表情を浮かべられた天皇皇后両陛下の姿には、テレビを見ていた私たちも感動するものがありましたね。

音楽そのものを楽しむのはもちろんですが、それを満足感いっぱいの表情で聴いている人の顔を見ることも、演奏者のさまざまな感情のこもった表情を見ることも、とてもうれしいものですね。

* * *

上皇様の楽器は、チェロ。
上皇后様は、ピアノ。
天皇陛下は、ヴィオラ。
皇后陛下(雅子様)は、配慮されてなのか、ピアノからフルートに変更。
愛子様はチェロですので、上皇様からチェロの指導を受けられているのかもしれません。

皆様、クラシック音楽系の西洋楽器ですね。

* * *

実は、前回コラムでの神話のお話しでも書きましたが、天皇家は、楽器と非常に深いつながりがあります。
神話の中の「天孫降臨(てんそんこうりん)」のお話しの中に、すでに「和琴(わごん)」を思わせる「琴」が登場します。

大阪府の羽曳野市(はびきのし)にある巨大古墳で知られています、応神天皇(おうじんてんのう:15代天皇・400年頃か?)について、こんな話しが残っています。

当時、朝鮮半島の南東部にあった「新羅(しらぎ)」国の使者が、ある時、船で日本にやって来たのですが、港に停泊中に、その木造船が炎上してしまいます。
おそらくは犠牲者もあったのでしょう。
その燃えた船の残骸の中に、燃えなかった木材があり、応神天皇はその木材で楽器の「琴」を作らせたというのです。
私のあくまで想像ですが、その琴の音色で、鎮魂、慰霊を願ったのではなかろうかと感じます。
おそらくは、外国である「新羅(しらぎ)」への配慮として、大きな慰霊行事を行なったでしょう。
応神天皇が、琴という楽器や音楽が持つチカラを理解し、愛していたようにも受けとれます。
国のトップの思想や行動が、国際的な外交につながっているのは、今現代でも同じですね。

音楽によって、一族内を…、配下との結びつきを…、国の文化統治を…、外国との外交などを深めていったとも考えられます。
そして、天皇自身の心や精神の糧(かて)、思想の柱として、音楽が存在していたのかもしれませんね。

今回のコラムは、琴を中心に楽器の歴史のお話しから始めます。


◇天皇が自ら演奏する時代へ

奈良時代以前、2000年以上前の弥生時代や古墳時代の埴輪や土器には、すでに和琴(わごん)に似た楽器が登場しています。

風が吹けば音が聞こえ、雨や雷は、音そのものです。
海の波は、音にリズムがあり、強弱があり、静寂でさえ何かが聞こえてきそうな気もします。

幼児が、棒などを手に、本能のまま、ものを叩く行為をしますが、そこには すでに音楽の源があるようにも感じます。
床を踏み鳴らす音、刀剣がぶつかる音、ペンを走らせる音、咳払い、ため息…、ものを伝える言葉の声よりも、音のほうが、感情を伝えられることを多くあります。
古代人も、現代人も、同じ人間として、音や音楽を感じるチカラに違いはないように感じます。

* * *

とはいえ、そこは古代です。
弦楽器のような、それなりのレベルの高度な楽器となると、高貴な立場の人間にしか持てなかったとは思います。

奈良時代に、中国から、新楽器や音楽文化が続々と入ってくると、急速に「音楽人」が増えていったはずです。
貴族層はもちろん、音楽や楽器の魅力に猛烈にはまっていく人間が多くいたことでしょう。

基本的に、奈良時代以前の天皇(神様)は、おそらく自らは楽器を演奏せずに、配下の者たちに演奏させ、その音楽を耳にしていたのではと感じます。
ひょっとしたら、自身で楽器を触ってみたいのに、立場的にそれが許されていなかったかもしれませんね。

* * *

歴史の中の、歴代の天皇の中には、とりわけ音楽が好きだった天皇が何人かおられます。

奈良の平城京から、長岡京を経て、京に平安京をつくった、平安時代の桓武天皇(かんむてんのう:50代天皇)は、それはそれは音楽好きであったようです。
文献の中に「なら丸を御師として、御筝に長ぜさせをはします」とありますから、音楽家から楽器「筝(そう)」を学び、その演奏力が非常に高かったことが想像できます。
ただ、公式行事や祭事で、自らが演奏したという記録を、私は知りません。
そして、この「なら丸」が、個人名なのか職業名なのかも、私はわかりません。

* * *

いずれにしても、桓武天皇の音楽好きは、自身の子や孫たちにしっかり受け継がれていきます。

桓武天皇(50代天皇)の息子の嵯峨天皇(さがてんのう:52代天皇)は、自身のひ孫にあたる清和天皇(せいわてんのう:56代天皇)に「宝琴」を贈っています。

無類の猫好きで知られる宇多天皇(うだてんのう:59代天皇)も、音楽や楽器も相当にお好きであったようです。
きっと、溺愛するペットの黒猫にも、音楽をたくさん聴かせていたのだろうと思います。

宇多天皇の息子である醍醐天皇(だいごてんのう:60代天皇、在位897~930年)は、音楽好きを通り越して、天皇としては、おそらく初めての公式の場での楽器演奏を披露します。
913年の宴(うたげ)での和琴(わごん)の演奏だったようです。

* * *

平安時代(794~1185年)の、天皇を始めとする宮廷の宴(うたげ)を「御遊(ぎょゆう・おんあそび)」と呼びますが、平安時代あたりから使われ始めた言葉だともいわれています。

「御遊」の内容は、雅楽や和歌、花々を愛でるなどを、大勢の人が集まって楽しむもので、今でいう、もてなしや交流の意味を含んだ、趣向を凝らしたパーティーとでも言っていいのかもしれません。
祝賀はもちろん、神事と結びつける場合もあったとは思います。
今現代でも、天皇・皇后様が主催する「園遊会」が、春と秋に開催されますよね。
祝賀や交流の意味の「晩餐会」も、たくさん開催されますね。

* * *

前述しました、自らが和琴演奏をされました醍醐天皇の息子の村上天皇(62代天皇、在位946~967年))は、琴(きん)、筝(そう)、和琴(わごん)に加え、「笛」も達人であったようです。
「糸竹の宴」では、自らが演奏されたようです。

今現代でも、天皇陛下がヴィオラ演奏をされた内容は、歴史にしっかり刻まれていきますね。
数百年後、数千年後の人たちは、その史料を「なるほど」と言いながら、読むことになります。
「令和時代に、当時の米国のトランプという大統領から、天皇にヴィオラが贈られたってよ…。トランプって人名なの…!?」。

天皇という最高位の立場ではあっても、配下の者たちに楽器を演奏させ、演奏中の彼らの満足気な表情を見たら、自らが演奏してみたくなるのが道理ですよね。
それに、人前で演奏し、多くの人に喜んでもらえたときの快感は忘れられなかったはずです。

「朕(ちん)にも、その楽器を触らせてもらえないか」…、そんな言葉をもしかけられたなら、音楽家冥利に尽きますね。


◇楽器の王様の座が…

ここで、村上天皇の「笛」が登場してきましたね。

琴や筝(そう)などの楽器は、自分ひとりで運べないほどの大型楽器ですが、軽量簡便な「笛」は、いつでも近くに置け、持ち運びも簡単。
好きな時にすぐに演奏できます。
音色も美しく、味わい深い音楽表現も可能です。

奈良時代から平安時代の頃までは、楽器の王様は「琴」「筝」「和琴」であったのですが、この「笛」が時代の音楽楽器の人気の座を奪っていきます。
平安時代の後期あたりから、笛の名手の天皇や貴族が続出してきます。

* * *

平安時代のある頃からは、天皇が天皇である素養のひとつに、音楽に親しみ、楽器演奏ができるということが加わります。
趣味として音楽好きかどうかではなく、得意か不得意かでもなく、身につけておくべき文化的素養のひとつとなります。
そして、それぞれの時代により、天皇が演奏する楽器が変化していきます。

琴が楽器の王様であった時代から変化し始め、笛の名手、琵琶を弾く名手などの天皇が、歴史上に徐々に登場し始めます。
本コラム冒頭で、今現代の皇族方が演奏する楽器を紹介させていただきましたが、こうした歴史の延長上にあると考えていいのだろうと思います。

やはり、楽器は、演奏者がひとりで運べるか、一定の場所にある程度の数で普及していないと難しいですね。

* * *

平安時代の後期から戦国時代あたりまで、貴族はもちろん、武士も、笛の愛好者が急増していきます。
笛と同時に、「琵琶(びわ)」や「尺八(しゃくはち)」なども繁栄していきますね。
平敦盛(たいらのあつもり)や牛若丸は笛を吹き、琵琶法師が平家物語を語り、戦国時代の忍びのスパイたちは、誰の楽器の音色なのか聴き分けられなければ仕事になりません。

鎌倉時代から戦国時代頃までの武将たちを描いたテレビドラマでは、武将が演奏する楽器も、たいていは笛ですね。
武将たちの不遇時代の心のよりどころが、笛の音であったりもします。
悲劇の武将には、これまた、さみしい笛の音が似合います。

「琴(こと)」が登場してくる武将といえば、平安時代の優雅な平家、駿河の今川家、越前の朝倉家、奥州藤原家、他には公家にルーツを持つ武家や、大きな役所が置かれた大宰府(だざいふ)があった福岡などに限られてくる気がしますね。

「琴」や「笛」ならともかく、「琵琶」や「尺八」は、武家の楽しい宴会やもてなしには少し向いていないかもしれませんね。
特に「琵琶」は、武家の滅亡をイメージさせます。
雅楽専用の楽器や太鼓などの打楽器は、今現代でこそ趣味の楽器として楽しめますが、祭礼や宗教行事のような公式行事の意味あいの歴史が長かったですね。

楽器の流行をたどることは、歴史の出来事をたどることとつながっていると、私は感じます。


◇曲水の宴

さて、今現在でも、平安時代の「御遊(ぎょゆう・おんあそび)」を思わせる「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」の行事が残っていたりします。
地域の観光行事として開催していることも多いですね。

「曲水の宴」の再現とは、平安時代にあったような、水の流れのある庭園で、その水の流れの縁に宴の出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに和歌を読み、その盃の酒を少し飲み、その盃を次の者のもとへ流し、後で、その和歌を披講するという内容です。
たいていは、雅楽演奏や演舞があり、琴のBGM音楽も欠かせません。

安土桃山時代の豊臣秀吉の、奇妙なほどにも感じる「平安好み」は特に有名ですが、建物デザインから、文化イベントまで、平安色がいっぱいでしたね。
「あこがれ」が度を越して、贅沢の極みに向かいます。

今現代に、神社、政治家の一部、伝統を守る文化芸術団体ならともかく、プライベートで、こうした内容のパーティーの宴を開催する人は、まずいないと思いますが…、やってみますか?

それでは、平安貴族の御遊の再現である、現代の「曲水の宴」の映像を…。
牛若丸のような格好の子供たちが、いい味出していますね。
京都・城南宮の「曲水の宴」

 


◇平安時代の演奏って…

ここで、興味深い音楽映像をご紹介します。

京都市立芸術大学の「日本伝統音楽研究センター」で、平安時代末期・鎌倉時代の雅楽譜にもとづく再現演奏が、2012年に行なわれました。
それが、この映像です。

現代の雅楽とも少し違う雰囲気がありますね。
とはいえ、日本人として、何か親しみを感じる音色とメロディです。
平安時代の歌謡曲だといわれたら、そうとも聴こえてきます。

さすが、京都の大学です。
歴史ファン、音楽ファンとして、応援したい!
♪再現演奏

 

同大学の解説サイト


◇平安のこと、紫式部のこと

「琴」の大繁栄時代であった平安時代のことを、もう少しだけ書きます。

奈良時代に中国から次々に新楽器が日本に入ってきますが、平安時代には貴族層に相当に楽器や音楽が普及し、日本独自の音楽思想がかたちづくられていたようです。
日本の場合は、武術やスポーツ、お茶、お花(華)と同じように、音楽にも「音楽道」のような感覚が少し残っていますね。
ルーツは平安時代かもしれません。
道を求め、道を歩き、道を極めることが好きな「探求民族、凝り性民族、ガラパゴス民族、the 日本人」の真骨頂のようにも感じます。
外国からは、「日本的求道」を排他的だと批判されることもありますが、ある意味、大陸と離れた独自文化として、誇ってもいい気もします。
とはいえ、ほどほどに…。

* * *

紫式部(むらさきしきぶ:誕生年不明 970頃?~逝去年不明1019年?)も、その生涯が完全に平安時代に入ります。
彼女が書いた「源氏物語」にも、相当にたくさんの楽器が登場し、相当な数の絵も残っていますね。
琴(きん)、筝(そう)、和琴(わごん)は、まさに当時の楽器の王様として君臨し、音楽や楽器が、式部の文章と融合し、見事な音楽文章を構成しています。

紫式部は、どうも、楽器演奏や音楽鑑賞が相当に好きだったようで、人間の心の機微や、味わいのある風情を、音楽を使って巧みに文章表現しています。
当時の貴族文化の中のひとりとして、自由を好み、流行を好み、前衛的な文化芸術を好む、感性豊かな文学女性を想像しますね。

* * *

源氏物語の中の男性の「光源氏」も琴の名手で、楽器演奏が上手な女性に相当に興味を持ちますね。
「男たちって…、もう!」…紫式部さん、どうぞ落ち着いて…。

物語の中には、「明石の君が琵琶、紫の上が和琴、明石の女御が箏、女三の宮が琴」と四人で合奏する場面も登場します。

紫式部の日記には、下記のような、ちょっと他人には聴かせられないような音で、ひとりで琴をかき鳴らしたという記述もありますから、相当な音楽好きで、楽器演奏でストレス発散をしていたとも想像できます。
日記の一節です。

「風の涼しき夕暮れ、聞きよからぬひとり琴をかき鳴らしては、なげきくははると聞きしる人やあらむと、ゆゆしくなど覚え侍るこそ、をこにもあはれにも侍りけれ。さるはあやしう黒みすすけたる曹司に、筝の琴、和琴調べながら心にいれて」。

他方の一節です。
「雨降る日、琴柱(ことじ)倒せなどいひ侍らぬままに、塵つもりて立てたりし厨子と、柱のはざまに、首差し入れつつ琵琶も左右にたて侍り」。
この記述がありますので、琵琶も何本か所有し、琵琶演奏もできたのかもしれませんね。
「もう、楽器なんて見たくない」…こんな心境の時もあったのでしょうね。

* * *

実は、平安時代頃は、天皇に限らず、貴族層でも、和歌を詠む素養と同じように、楽器演奏も一般的に身につけておかなければならない素養のひとつでした。
ただ、音楽に興味のない貴族層ももちろん多く、そうした人物が残した文章には、音楽がただの記録としてだけしか登場しません。
文章の中で感情豊かに音楽の魅力を表現できた、多彩な才能を有した紫式部でしたね。

彼女の演奏…、いったいどんな演奏だったのでしょうね?
時には、やんちゃな演奏も…?
あなたは、今の時代の、どの女性ミュージシャンが似ていると思われますか…?
私のイメージは、夜会の好きな、あの女性ミュージシャン…。


◇雪月花の三庭苑

さて、前回コラムでは、中国の唐の時代の詩人である「白居易(はくきょい:別名 白楽天)」の、琴と月が登場する漢詩をご紹介しました。

そして先日、テレビニュースを見ておりましたら、京都の北野天満宮に、長く失われていた梅の花の名苑の「花の庭」が再興されたと報道していました。

「花の庭」とは、江戸時代の京の人気スポット「雪月花(せつげつか)の三庭苑」のひとつで、妙満寺(みょうまんじ)の「雪の庭」、清水寺成就院の「月の庭」とあわせて、セットで「雪月花の三庭苑」と呼ばれていました。

この三つの庭は、どれも見た瞬間に、「なんて、やさしい お庭」と叫びたくなるような、ほっこりとした空間です。
この場合の「ほっこり」の意味は、「ほんわかした、やさしい安心感」に包まれたような安堵の状況の意味として、私は書きました。
今は、日本全国が、そのような意味あいで使っている言葉「ほっこり」ですね。
実は、大もとの京都弁の本来の意味は、それとは若干ニュアンスが異なると以前に聞きました。

「今日は、朝からしんどい仕事が多くて、ほっこりした」。
「歩き疲れて、ほっこりしたから、そこの庭に行って休みましょうよ」。
本来は、このような言葉の使い方でした。

つまり、「ほっこり」とは、身体をかなり動かしたことで「ほっこり」温かくなり、少し疲れた状況を意味しています。
ただ、それほど大きな苦痛を意味しているようにも思えません。

「京ことば」は、外部地域の人からすると、それでなくとも、全体的にやさしく上品な雰囲気を感じます。
京都の外の人たちが、京都の人たちが使う「ほっこり」という言葉を聞いて、その時の柔和な表情を見て、「ほっこり」を少し違う意味に感じてしまってもおかしくはない気がします。
今後、どのような意味での使い方になっていくのか、少しだけ興味があります。

日本語は、時代によって、意味あいが真逆になることも多く、微妙なニュアンスを言葉で感じたり、「言葉遊び」をするのが好きな日本人ですね。
ちょっと ヤバいよ…、日本人!
それって、どっちの意味のヤバい…?

* * *

この「雪月花」とは、前述の中国の詩人である「白居易」の漢詩「寄殷協律(殷協律に寄す)」の中の一節から来ています。
「協律(きょうりつ)」というのは、音楽をつかさどる、中国の古い官の役職のことです。
つまり、「(友人である)音楽担当役人の殷さんに宛てて…」という詩集の意味です。

「雪月花」が登場する部分は…

琴詩酒伴皆抛我、雪月花時最憶君。
「琴詩酒(きんししゅ)の友は皆、我を抛(す)つ。雪月花(せつげつか)の時、最も君を憶(おも)ふ。」

私の個人的な意訳です。
琴をいっしょに弾いたり、詩を詠みあったり、酒を酌み交わした友人は、私の元から去っていってしまった。
雪・月・花を眺める時にこそ、あなた(友人)のことを懐かしく思い出します。
友は、今頃、どうしているのかな~。

そんな「雪月花」の風景を具体的に再現したのが、この三庭苑ということですね。

さて、あなたは、この庭を眺めて、誰のことを思い出しますか…。
「ほっこり」したら、「ほっこり」するために、どうぞ三庭苑へ…。

* * *

松永貞徳(まつなが ていとく:江戸時代前期の俳人・歌人、1571~1654年)の作った庭。
「雪の庭」ですが、夏も素晴らしい…
妙満寺(みょうあんじ)「雪の庭」


小堀遠州(こぼり えんしゅう)か、松永貞徳のどちらかの作。
清水寺「月の庭」


松永貞徳の作。
北野天満宮「花の庭」


北野天満宮では、今年2022年の3月に、前述の「曲水の宴」を予定しているそうです。
見に行かれる方は、どうぞコロナに気をつけて…。

さて、「雪月花」ときたら、次はこの三拍子「松竹梅」です。


◇松竹梅

ここで、江戸時代の琴の古典邦楽曲のお話しを…。

先ほど、平安時代に大繁栄をした「琴」や「筝」が、以降の時代に、他の楽器に人気の座を奪われていったことを書きましたが、不穏で不安定な長い戦国時代が終了し、時代に平和と安定が戻って来た江戸時代になって、「琴人気」が再び復活してきます。
日本では、「平和・安定」と「琴」がつながっているのかもしれませんね。

「琴」の音色が自然と聴こえてくる時代… それは平和と安定の時代?

* * *

下記の地歌・筝曲の楽曲「松竹梅」は、江戸時代の後期に、関西を中心に活躍した、三橋勾当(みつはし こうとう:1780~1832年?)が作った作品で、松には鶴、竹には月、梅にはうぐいす…と花鳥風月をうたった有名な曲です。
平安時代の「宴」が戻って来たようなイメージの楽曲ですね。

後で紹介します、江戸時代初期の筝曲家の「八橋検校(やつはし けんぎょう:1614~1685)」と、この江戸時代後期の三橋勾当(みつはし こうとう:1780~1832年?)の存在は、江戸時代の「琴文化」に相当に大きな影響を与えたのであろうと想像します。

どの時代もそうですが、ある特定の音楽スタイルの分野が隆盛になるには、必ずその分野に大作曲家である「メロディ・メイカー」が生まれ、人気曲が存在するものですね。
その時代には、その隆盛となった音楽スタイルにあわせた、すぐれた演奏家が山のように登場してきます。

* * *

下記映像の楽曲「松竹梅」の演奏年は、私にはわかりませんが、2000年よりも以前の、昭和か平成の時代のものだと思います。

最前列で三弦(三味線)を演奏される「米川敏子(よねかわ としこ)」というお名前と、琴を演奏される「米川文子(よねかわ ふみこ)」というお名前は、江戸時代から続く生田流筝曲(いくたりゅう そうきょく)で受け継がれる名跡(みょうせき)です。

尺八演奏者の「青木鈴慕(あおき れいぼ)」というお名前も、江戸時代から続く尺八の「琴古流(きんこりゅう)」の名跡です。

日本古来の和楽器音楽界の大半には、「〇〇流」という名称が存在し、それぞれに素晴らしい魅力があり、魅力を伸ばし合い、凌ぎ合って、各流派が成長していきましたね。
日本の筝曲界は、生田流のほか、いくつかの流派があり、山田流もよく知られています。

* * *

さて、一般の音楽鑑賞者たちは、古典邦楽でも、歌舞伎でも、オペラでも、歌詞内容が理解できないと、なかなか親近感がわいてきませんね。
下記に、この楽曲「松竹梅」の歌詞を記しました。

下記の演奏映像「松竹梅」では、歌詞の紫色部分が、うたわれます。
映像に合わせて、歌詞も読んでいただけると、この楽曲の歌詞内容と、場面ごとの演奏内容が理解しやすくなると思います。
現代語訳はつけませんが、おおよそ内容はつかめると思います。

琴、三弦(三味線)、尺八による、まさにオーケストラ演奏です。
生田流の、「そうそう」たる方々による筝曲演奏です。
それにしても、「尺八」以外、女性ばかりの「華の苑(演)」。

♪松竹梅


【「松竹梅」の歌詞 】

立ちわたる 霞を空の 標(しるべ)にて
長閑けき(のどけき)光 新玉の
春立つ今朝は 足引きの
山路を分けて 大伴の
三津に来鳴く 鶯の
南より笑ひ初(そ)む 薫りに引かれ
声の麗らか(うららか) 羽風に
散るや花の 色香も なほし栄(は)えある
この里の 浪花は梅の名所(などころ)

君が代は 濁らで絶えぬ みかは水
末澄みけらし 国民(くにたみ)も
げに豊かなる 四つの海

千歳限れる 常盤木も
今世の皆に 引かれては
幾世限りも 嵐吹く音
枝も栄ゆる 若緑
生ひ立つ松に 巣をくふ鶴の
久しき御代を 祝ひ舞ふ

秋はなほ 月の景色も面白や
梢々に さす影の 臥所(ふしど)にうつる 夕まぐれ
そともは 虫の声々に

かけて幾世の 秋に鳴く
音を吹き送る 嵐につれて
そよぐは 窓のむら竹



◇六段の調べ

江戸時代の「琴の復活」の立役者とされている人物が、江戸時代初期に活躍した「八橋検校(やつはし けんぎょう:1614~1685年)」です。
クラシック音楽界でいえば、J.S.バッハのような存在かもしれません。

古典邦楽にあまり興味のない方々でも、昭和のテレビドラマの中の和室での「お見合い」シーンのBGMなどで、この楽曲を耳にされた方も多いはず…。
実際のお見合いのことを私は知りませんが、あくまでイメージでの演出使用でしたね。
時折、庭の「鹿威し(ししおどし)」の「♪カン」という音も聞こえたりして、二人の緊張感は最高潮の六段目に…。

この楽曲名の「六段の調べ」とは、筝曲という音楽の場合、基本的に、52拍子(小節)で一つとなっている「段」が、一曲の中に六つあり、歌声のない純粋な楽器演奏として構成されている楽曲という意味です。
今風の言い方でしたら、「The ソング」、「The 六段」、「The 筝」というような、まさに「これぞ」というタイトルです。

「六段」のほか、「八段」「十段」などの形式もあります。
西洋音楽とは、音階も楽譜も異なります。

日吉章吾(ひよし しょうご)さんの演奏で…
♪六段の調べ

 

* * *

江戸時代の、多くのお殿様たちも、この調べを、おそらくは耳にしていたはず…。
江戸城大奥でも聴こえていたはず…。

歴史ファンの多くは、それぞれの時代の音楽と史実が、密接な関係にあると考えていると思いますが、耳にする音楽によって、各時代の人たちの思考が変わっていったことは、おそらくは間違いないような気がします。

織田信長の好きだった「幸若舞(こうわかまい)」は、今現代でいえば最新流行のダンスミュージックでの音楽ステージ…、だからこそ、彼はあの衣装を好み、あの奇抜な発想ができましたね。
少し年上世代の武田信玄は、若者世代の信長を「変わった音楽と格好が好きじゃの~、でも こいつは決して侮れん!(現代語表現)」と言っていましたね。
「幸若舞」は、ド派手な「歌舞伎」へと進化していきました。

信長が好みそうな古典打破(?)… 下記は、琴とピアノのコラボ演奏です。
NHK-FMラジオ番組「弾き語りフォーユー」でおなじみの小原孝(おばら たかし)さんがピアノを弾いています。
琴演奏は、大川義秋さん。
♪六段の調べ

 

小原さんは、音楽ジャンルを見事に飛び越えていってくれますね…。
♪いい日旅立ち(原曲歌唱:山口百恵)

 

* * *

別の方のピアノソロ演奏で…。
この楽曲をピアノで演奏したいという方がけっこういると耳にします。
♪六段の調べ

 


◇ただただ是とする

ここで、世界にその名を知られた生田流筝曲家の(故)唯是震一(ゆいぜ しんいち:1923~2015)さんと、彼の奥様の中島靖子さんの作品をご紹介いたします。

中島さんは、前述の映像「松竹梅」の中でも演奏されていました。
中島靖子さんは、昨年2021年10月にご逝去されました。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。

それでは、中島裕康さんによる琴演奏で…。

唯是震一(ゆいぜ しんいち)さんが作曲した作品「神仙調舞曲」より第一楽章「羽根つき」。
お着物の子供たちが、楽しそうに…
♪羽根つき

 

昭和初期の詩人、八木重吉の二行詩「えんぜるになりたい、花になりたい」をモチーフに、中島靖子さんが筝曲作品にしました。
♪二つの無言歌

 


◇クラシック音楽の方角に

下記は、クラシック音楽の作品である、ヴィヴァルディの「ヴァイオリン協奏曲イ短調」の第三楽章を、琴と尺八で演奏した映像です。
前述の中島靖子さんの生前のインタビュー映像も含めた映像です。

下記映像の22分18秒から、その楽曲演奏となります。
映像には、他にも楽曲が入っています。

♪ヴァイオリン協奏曲イ短調の第三楽章( 映像作品「箏 桐韻会の軌跡」)

 

* * *

原曲を、クラシック音楽のヴァイオリン演奏で… ヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲イ短調」の全曲(全三楽章)。
第三楽章は、4分57秒から。
♪ヴァイオリン協奏曲 イ短調

 

東洋であろうと、西洋であろうと、音楽スタイルや楽器、音階、音色が違っていても、そこは音楽…、演奏できないはずはありませんね。
私には、西洋のクラシック音楽と、日本古来の和楽器の邦楽音楽は、それほど遠い存在だとは思えません。


◇やまとんちゅの笛と、コリアンの琴で、うちな~んちゅの楽曲を

先ほど、平安時代後期に、「笛」が、楽器トップの座を「琴」から奪ったような書き方をしましたが、本来、楽器は、仲良く共鳴しあうものですね。
ライバル関係などは、本来はないのかもしれません。
ここで、せっかくですので、笛と琴が仲良くコラボする映像をご紹介します。

下記の演奏シーンも、立派な「現代の音楽の宴(うたげ)」ですね。
横笛が狩野嘉宏さん、筝が津野田智代さん、十七弦が和久文子さんです。
♪道化師(作曲:沢井忠夫)

 

* * *

下記の楽曲映像は、日本古来の笛の「篠笛(しのぶえ)」と、韓国の伝統の琴「伽倻琴(かやきん・カヤッコ・カヤグム)」での演奏です。
この伽倻琴の独特の音色が好きな方も、非常に多いですね。

「篠笛」は、中国から伝来した「龍笛(りゅうてき)」の構造を簡素化し、世の中に広まったものではないかともいわれています。
現代は、楽器として高度に進化しています。
戦国時代を描いたドラマで武将が吹く笛は、たいてい「篠笛」あたりではないでしょうか。

楽曲「童神」(わらびがみ)は、沖縄県の女性歌手、古謝美佐子(こじゃ みさこ)さんが歌って人気になりましたね。
2001年のNHKの朝ドラ「ちゅらさん」の中でも使われました。

「Sora(そら)」のお二人による、篠笛と伽倻琴の演奏で…。
広島の厳島神社のある「宮島」の、大聖院の「萬燈会」での奉納演奏の模様です。
宮島の神様方に捧げられました…
♪童神(わらびがみ)

 

古謝美佐子さんと夏川りみさんで…。
♪童神

 

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古謝さんが手にする楽器は、沖縄の楽器「三線(さんしん)」だと思われます。
沖縄には三味線に似た楽器の「三線(さんしん)」がありますが、この楽器は、大昔の中国生まれの「三弦(さんげん)」が伝わったもので、日本本土では「沖縄蛇味線(おきなわじゃみせん)」とか「中華三味線」と呼んだりしますね。
沖縄では「三線(さんしん)」、奄美諸島では「蛇皮線(じゃびせん)」などと呼ぶようです。
日本本土では、三味線に使用することがまずない、蛇(へび)の皮が使われています。

* * *

楽曲「童神」の歌詞にある「ゆ~いりよ~や」は、「芯のしっかりした善良な人物」という意味だそうです。
この歌は、自身が産んだ赤子が、立派にしっかり育っていってほしいということが歌われています。


◇消滅危機言語

ちなみに、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によって、沖縄周辺地域やアイヌ、八丈島の言語について、次のように定めれています。
日本の地域に残る、一部の独自言語が、「世界消滅危機言語」に指定されているのです。
ユネスコでは、その国の主要言語と方言を明確には区別してはいませんが、本土、北海道、九州、四国のさまざまな方言については、もはや全体として日本語と言ってもいいようにも感じますね。
平安時代あたりから始まる武将たちの「天下取り・天下統一・転封政策(知行地移転)」や、明治政府の政治・教育方針が、言語も統一させていった気がします。

*ユネスコが指定した消滅危機言語
【極めて深刻】アイヌ語 (北海道)

【重大な危機】やえやま語(八重山諸島)、よなぐに語(与那国島)

【危機】はちじょう語(東京都の伊豆諸島の八丈島)、あまみ語(奄美諸島)、くにがみ語(沖縄本島北部)、おきなわ語(沖縄本島の那覇を含む中南部)、みやこ語(宮古島)

どこの言葉でも、方言でも、その地域の人間が使わなくなってしまうと、消滅危機は加速していってしまうのでしょうね。

* * *

沖縄では、「おきなわ語」による表現を「うちな~ぐち」といい、沖縄の人間を「うちな~んちゅ」と言うそうです。
日本本土の日本語表現を「やまと~ぐち」といい、日本本土の人間を「やまとんちゅ」と言います。

この「やまとんちゅ」の「やまと」とは、おそらくは、「琉球民族」に対する「大和民族」ということだと思いますが、「大和」の元は、古代からの「ヤマト政権(大和の漢字は奈良時代から)」のことですね。
琉球の方々が、どのくらい古い時代から「やまと」という用語を使い続けているのか…。そして今でも…。
「やまとんちゅ」の私としては、古い呼び方過ぎて、それって誰?

* * *

先ほど、「京ことば」の「ほっこり」のことを書きましたが、大もとの京都とそれ以外の地域とのギャップをどのように考えていったらいいのか…、こうした現象は日本中の方言にもあります。
大阪の人以外は、東京で、地元の方言をまず使いませんね。
私も地方出身者ですが、東京で、もう何十年も方言を使っていないため、ほとんど忘れてしまいました。
もはや、よく思い出せません。

前述の楽曲「童神(わらびがみ)」には、「おきなわ語」の歌詞もあります。
音楽の歌詞に残しておくのも、ひとつのアイデアかもしれませんね。

地域ごとに異なる言葉の文化と歴史は、どうか残っていってほしいと思います。


◇琉球王国

ここで、ちょっとだけ「三山時代」からの沖縄史を…。
沖縄の島は、14世紀頃に、北部の「北山(ほくざん)王国」(名護市あたりが中心地・今帰仁城)、中部の「中山(ちゅうざん)王国」(宜野湾市あたりが中心地・浦添城)、南部の「南山(なんざん)王国」(糸満市あたりが中心地・島添大里城)の三国に分かれていました。
沖縄史の1322年から1429年までを、三つの地域での王国支配による「三山(さんざん)時代」といいます。

1406年に、南山王国にいた武将の「尚(しょう)」氏が、中山王国の王家を滅ぼし、自身の父親を国王にします。
中山王国の都を浦添から首里(那覇)に移転させます。

1416年に、尚氏は、北山王国の王家も滅ぼし、自身の息子に支配させます。
1421年になって、父親の死去後、尚氏は中山王国の国王になります。

1429年に、いよいよ尚氏は、南山王国も滅ぼし、ここに統一された「琉球王国」が誕生します。
首都は、中山王国にあった首里(しゅり:那覇)で、すでに存在していたであろう首里城をさらに堅固に整備します。

日本本土でいえば、織田信長のような存在の尚氏なのかもしれません。

この1429年は、日本本土では、室町時代で、あの絶大なチカラでの恐怖政治を行なった足利義教(よしのり)が6代足利将軍になった年です。
琉球王国は、ここから1879年(明治12)まで、江戸時代よりも200年程長い450年間、琉球を安定政権でおさめることになります。


◇しまんちゅ

もともと琉球王国は、大和、中華、台湾の、真ん中の場所ですね。
「琉球(りゅうきゅう)」という名称は、中国側からの呼称にすぎません。

かつての古代中国は、日本人の住む国のことも「倭(わ)」と呼んでいましたね。
中国から見たら、「中国人に従順に委(ゆだ)ねさせる民族」という意味だったのかどうか…?
日本国内では、当時から通常、「倭(わ)」なんて漢字は使ってはいません。
日本人の「わ」は「和」であり、それはいつか「大きな和」の国「大和」になりますね。

うちな~んちゅ(沖縄の人)
しまんちゅ(島の人、沖縄の人)
うみんちゅ(海の人、漁師さん)
かみんちゅ(神職の人)
たびんちゅ(旅人)

みやこんちゅ(宮古島の人)
しまっちゅ(奄美諸島の人)
やまとんちゅ(日本本土の人)
…。

沖縄のこの島は、もともと「琉球」や「沖縄」という名称でもなく、本来は、広大な海と空に囲まれ、東西南北、自由に海を渡る人たちによる「うちな~んちゅ…、しまんちゅの国」なのだろうという気がします。

歴史の中で地政学的に、たいへん苦労の多い島ではありますが、世界の「ちゅ」たちが見つめる重要な島であり続けるのは間違いありません。
愛すべき人々…、尊敬すべき島…、それが、しまんちゅの国!


◇Rin’(リン)

さて、前回のコラム「ヤタガラスからの伝言(前編)」の中で、和楽器音楽グループ「Rin'(リン)」のことを紹介しましたら、彼女たちを知らない中高年層の読者の方々から、素晴らしいという多くのご意見を頂戴しました。

中高年層は、思い出の懐メロ曲ばかりを求めているわけではありませんね。
新しい時代の、聴いたことのない音楽から、新しい刺激を、時に求めているのだと感じます。

今は、世代を越えた歌謡曲や演歌のヒット曲が生まれにくい時代になりましたが、和楽器ミュージシャンたちの音楽は、世代も、時代も乗り超えてくれそうな気がしています。

読者の方々から、和楽器音楽グループ「Rin'(りん)」の楽曲のことを、もっと書いてほしいとご要望がありましたので、これからの「歴路(れきろ)シリーズ」の中で、歴史のお話しとともに書いていきたいと思います。


◇宝輪に守られて…

今回のコラムの最後は、その和楽器音楽グループ「Rin'(りん)」の、素晴らしい演奏映像をご紹介します。
この映像は、文化庁の協力のもと製作されました。

この演奏をする場所は、沖縄の「中城城(なかぐすくじょう)」の城跡です。
前述の沖縄史の中では、「中山王国」にあった城です。
ひょっとしたら、首里城の焼失がなかったら、首里城での撮影だったのかもしれません。
とはいえ、「中城城(なかぐすくじょう)」での映像は迫力満点です。
むしろ、建物が何もない風景のほうがいいかもしれません。

名称に「城」の文字が二つ入っていて妙に感じるかもしれませんが、沖縄では「城」のことを「グスク」と呼びます。
ですから、「中城(なかぐすく)」が、日本的な呼称にあわせて「なかぐすく城」となっています。
日本に「利根川リバー」、「姫路城キャッスル」、「マウント富士山」、「琵琶湖レイク」があるようなことと同じかな…。

「中城城(なかぐすくじょう)」は、琉球王国が、江戸幕藩体制のもとで鹿児島の「薩摩藩」の支配下に組み入れられた時代に、中国と琉球国が、首里城で独自外交等を行う際、薩摩藩の兵たちが身を隠して様子をうかがっていた城ともいわれています。

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この演奏は、まさに「琉球王国」そのものを感じる城「中城(なかぐすく)」での、「Rin'(りん)」による、あまりにも、「やまとんちゅ風(和風)」のサウンドです。
ロック音楽が好きな方々…、Rin'のこのパワフルなサウンドは、まるで プログレッシブ・ロック!

この音楽ステージ映像全体のタイトルの「宝輪(ほうりん)」とは、五重塔のてっぺんにある、九つの輪「九輪(くりん)」が段状に重なっている、あの相輪(そうりん)のことも示していると思います。
仏教では、宝輪は、いろいろな形に変化し、悪行や災難から人々を守ってくれる意味あいも含まれていたと記憶しています。

未来永劫、沖縄の地が、「宝輪」で守られんことを…。
祈りを込めて…
♪宝輪

 

演奏曲
1.時空、2.紫のゆかり ふたたび、3.歳々年々、4.飛鳥、5.Will、6.光明、7.宝輪、8.平安

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「歴路(3)ヤタガラスからの伝言【後編】」につづく


2022.1.29 天乃みそ汁
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