投下の日~悪魔のささやき(鎮魂.1)
シューベルト「魔王」、ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」、原爆の日、黒い雨、織田信長、武田信玄、ガンズ・アンド・ローゼズ、インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア、広島市、長崎市、クラシック音楽、ロック、映画音楽、洋楽。トップページ・プロフィールこれまでの曲目リスト歴音243. 投下の日 ~ 悪魔のささやき(鎮魂.1)1945年(昭和20)8月6日は、広島に原爆が投下された日です。1945年(昭和20)8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。日本の8月は、毎年、特別な鎮魂・慰霊の大切な月ですね。子供たちに その歴史や精神を語り継いでいくことはもちろんですが、大人たちこそが、核兵器や被爆についての” 学び ” を忘れることなく、正確に理解し、未来に何を残していくのかを深く考えていかなければいけないのだろうと思います。人は、天使にも、悪魔にもなれます。8月6日の広島での出来事と、8月9日の長崎での出来事に、無関心・無意識であることは、まさに、悪魔の ”ささやき” に乗せられ、彼らに心を奪われてしまうようなことかもしれません。あなたは、天使と悪魔の、どちらと握手したいですか…。「核」は、電力エネルギーとしての天使の性格と、核兵器という悪魔の性格の両方を持っています。両方の性格が、隣り合わせで存在しています。ですが、もともとは自然界にある、ひとつの自然現象です。二つの姿に仕立てたのは、人間です。その日に何があったのか…、何が起きたのか…、人間は何をしたのか…、何をされたのか…、毎年のこの両日に、失われたものをしっかり理解し、鎮魂・慰霊の思いを新たにしたいと思います。「原爆投下の日」の、今回のコラムは、シューベルトの歌曲「魔王」と、ロックバンド「ローリング・ストーンズ」の有名な楽曲「悪魔を憐れむ歌」をとりあげます。連載「鎮魂」は、今年2026年は、断続的に三回の連載で掲載させていただきます。今回は第1回です。過去のコラムを、加筆修正して掲載させていただきます。◇魔王・信長「歴音 fun」は歴史コラムでもありますので、まずは、少しだけ歴史のお話しを書きます。日本でもっとも有名な「魔王」といえば、おそらく大勢の方が、戦国武将の織田信長と答えるかもしれませんね。日本史の中には、魔王のような暴君が何人かいました。平清盛、足利義満、織田信長も、天皇の上の、実質的に日本のトップを目指した暴君でしたね。三人とも、まっとうな最期ではありませんでした。この三人の中で、周囲が陰で「魔王」と噂するならまだしも、自身を自ら「魔王」と名乗った人物は、織田信長しかいなかったと思います。戦国時代から、「魔王」といえば「信長」でしたね。ですが、言ってみれば、なりゆきで生まれた「魔王」という、信長への呼称なのです。人には、生まれながらの「魔王」はいませんよね。「魔王」は、自他ともに認めるか、自覚してそうなるのかもしれません。織田信長が「魔王」と呼ばれるようになった「いきさつ」を書きたいと思います。* * *織田信長は、身の危険のあった足利義昭を助け、「室町幕府」第15代将軍につかせました。それにより、信長は、畿内地域を掌握した後、室町幕府を後ろ盾に、自身に味方しない仏教勢力への攻撃を始めます。信長は、当時の最新兵器を大量に抱える、京都の日蓮宗の本能寺を自身の軍事基地として、武力での支配の拡大を行ないます。それまで公家や寺社が持っていた利権や特権も、自身のもとに集約しはじめます。すると、公家や武家、寺社など、信長に反感を持つ「反信長勢力」がどんどん増えていきます。反信長勢力は、「信長包囲網作戦」を何度か実施しようとしますが、すべて失敗します。信長の武力攻撃から身を守るには、もはや最強軍団の甲斐国(山梨県)の武田信玄に頼るしかなくなります。武田信玄こそが、反信長勢力の軍事の中心であり、彼のもとに多くの仏教勢力、公家勢力、武将たちが集結し、信長を打倒する計画でした。信長打倒を目指して、東から武田信玄、北陸から朝倉勢、大阪や奈良・南紀からの勢力が、信長を取り囲む「信長包囲網作戦」を実施し始めた矢先に、信玄は、京都に向かう途中、今の名古屋の手前のあたりで、病気で亡くなってしまいます。胃癌(いがん)といわれています。* * *信長は、武田信玄の病死後、天台宗の比叡山延暦寺、浄土真宗(一向宗)の本願寺、真言宗の高野山を攻撃し、そして日本の源氏武士たちにとって大切な臨済宗の恵林寺(えりんじ)までも攻撃し、恵林寺を焼失させました。これは、日本中の多くの地域を支配する源氏勢力を打倒する意思のあらわれでした。源氏とは、平安時代に天皇家から派生した、天皇を守る巨大な武家勢力です。信長は、日本の基本構造を変えようとしたのです。そして、その行動は、大昔から存在する日本の仏教界の拠点を次々に攻撃するという、まさに「魔王」にしかできないような「罰あたり」にも見える所業に拡がりました。すべての仏教を崩壊させようとしました。日本のさまざまな権力構造を、根底からつくり直すという、信長の信念からくる行為でもありました。信長は、自身に反抗する戦国武将たちも、次々に撃破していきます。武田信玄も、毛利元就も、上杉謙信も、信長と直接対決する前に病死し、信長には、もはや大した強敵はいなくなります。武田信玄の病死後、甲斐国(山梨県)に残っていた武田家は信長に滅ぼされました。源氏のトップである足利将軍家は、実質的に軍事力を持っておらず、源氏の雄であった甲斐国の武田家もいなくなり、もはや強力な源氏武士は見当たりません。小田原の北条氏や、バラバラの九州勢や関西勢では、信長に歯が立ちません。禅宗である臨済宗の拠点のひとつで、甲斐源氏の拠り所であった甲斐国(山梨県)の恵林寺を焼きつくし、禅宗に敵意を向けた信長を、源氏を先祖とする日本中の源氏の武将たちが黙っているはずはありません。源氏武士にとって、禅宗、特に臨済宗は特別な教えです。信長が、比叡山や本願寺を攻撃するのとは、意味がまったく違っていましたね。一応、平氏の子孫だと名乗り、「魔王」の平清盛を尊敬していた織田信長は、源氏の流れの有力武家だらけの日本で、たいへんな地雷を踏んだのかもしれません。いにしえからの源平合戦を甘く見てはいけません。さすがに、団結した源氏勢力を敵に回すと、たいへんな目にあいます…。武田も、朝倉も、浅井も、もういない…。家康ではまだ、信長に歯が立たない…。さあ、源氏武士の誰か…立ち上がってくれ!そうだ…、正統派のバリバリの源氏武士である、美濃国(岐阜県)の「水色桔梗」のあいつが、信長のすぐ近くにいるぞ!甲斐国の恵林寺焼き討ちの二ヵ月後に、その大事件は起きます。仏教と禅を信仰する日本中の武士たちの亡霊が、京都にいる「魔王」のもとにやって来ました…。敵である「魔王」は、本能寺にあり!魔王の、爆発炎上の中での最期でした。◇「天台座主沙門」の信玄さて、前述の「信長包囲網作戦」を実行に移し、いよいよ武田信玄が、信長打倒に向けて進軍を開始する頃のお話です。武田信玄は、織田信長の強さを十分にわかっていましたので、信長を倒す「信長包囲網作戦」に相当に時間をかけ準備を行ないます。この「時間のかけすぎ」が、後に命取りとなります。信長の宿敵である天台宗の比叡山や、大坂(大阪)の本願寺は、武田信玄と密接に連携し、その時を待ちます。浅井氏、朝倉氏、六角氏などの源氏系エリート武将も連携します。武田信玄は、信長に、ギリギリまで明確な敵意を示しませんでした。ですが、準備が整った段階で、ある時、ビシッと「最後通告(宣戦布告)」を、手紙で、信長に叩きつけることになります。その宣戦布告の通達文書の中で、信玄は自身のことを「天台座主沙門(てんだいざす しゃもん)」と表現しました。* * *「天台座主」とは、天台宗の総本山である比叡山延暦寺のトップの役職名です。天皇家や摂関家、将軍家の者が就任することもあるほどの地位で、還俗(げんぞく)して将軍になった者もいる重要な地位です。信玄の言う「天台座主沙門(てんだいざす しゃもん)」とは、その「天台座主」に従う修行僧という意味です。この手紙の場合は、言ってみれば、「天台座主」の一番弟子、親衛隊長、軍事部門の総司令官という意味にとらえていいと思います。仏教界を代表して戦う「軍人・軍神・武神」という意味あいもあったでしょう。この部分の手紙文章の意味あいとしては、「天台宗の比叡山、ひいては仏教界は私(信玄)が守ってみせる」という信玄の決意表明です。「これからお前(信長)のところに行くから、首を洗って待っていろ」…という意味あいもあったはずです。* * *後世の人間として第三者的にみると、信長に対して、これだけの強気の、上から目線の挑発文章は、相当に危険ですね。この頃の織田信長のチカラであれば、自分(信玄)に十分に勝算があると、信玄は思っていたと感じます。心配なのは、自身の体調… 信玄は、健康面で、相当な ”あせり” がありました。個人的には、戦闘能力という点では、信玄よりも、信長のほうが少し上だったと感じます。というよりも、戦い方に関する、時代の最先端の発想ができたのが信長といえます。最先端の音楽やファッションを好んだ信長だったからこその「戦いの思想」ともいえますね。新兵器、新戦法、連合軍思想、心理誘導作戦、専門職業軍人、ニセ情報乱発の情報戦、スパイ諜報活動、大規模土木工事作戦、陸軍と海軍の連携、防衛拠点網の構築、お手柄の廃止、高価値の名品外交、各種専門職人集め、女性の活用、神頼みではない医薬品・医療の思想、新市場構築で軍資金集め…、新しいことだらけでしたね。今現代の戦争形態にも通じる、近代兵法を行っていたのは信長のほうです。当時、武田信玄のような「戦いの思想」の時代は、終わりかけていたようにも感じます。ただ、織田信長は、武田信玄や上杉謙信などが持っていたような、古き良き「常軌(じょうき)」や「人の道」を逸することのない「戦いの思想」を持っていなかったとも感じます。◇「第六天魔王」の信長さて、話しを戻します。武田信玄から織田信長への宣戦布告文書を読んだ信長は、大激怒します。信長は、信玄が「天台座主沙門(てんだいざすしゃもん)」と書いてきたため、対抗して、返書の中で、自分自身を「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と表現しました。「第六天魔王(だいろくてんまおう)」は正確には、「第六天魔王波旬(だいろくてんまおう はじゅん)」といいます。それを略して、「魔王」、「天魔」などと表現します。* * *「第六天(だいろくてん)」とは、欲にまみれた俗世界を意味します。崇高な仏教界とは対極にある世界です。人間社会にも通じる意味あいがあるとも思います。そこに君臨する支配者が「魔王」です。仏教にとって、「修行」とは「悟り」につながる非常に重要な事柄です。仏教の世界では、人間が行なう、その修行を妨げる邪悪な「魔物」こそが、この「魔王」なのです。信玄が「天台宗の比叡山や仏教界全体を守る」と言うのなら、信長は「オレは第六天魔王(俗世界の王)となって、仏教の教えを忘れ、武装化し、俗まみれになった比叡山延暦寺を猛攻撃する」、「修行僧だという信玄の修行を止めてやる」という意味あいの返答を行ないました。今の時代も、戦争をする当事国同士は、強烈な言葉表現で、相手国に通告しあいますね。それと同じです。二人とも、「勉強魔」で、相当に教養が高かったこともあり、このような、むずかしい仏教用語による問答が生まれましたね。強烈な内容のやり取りですが、知性やセンスもあって、さすが最強武将の二人です。この「手紙戦争」は引き分け…。* * *私の個人的な解釈にはなりますが、信長の言う「魔王」は、「第六天(俗世界)」の支配者(魔王)であるのは間違いないのですが、信長からしたら、信長なりの「正義感を持った絶対的な王」ともいえるのかもしれません。その時の信長の心境は、次のようなものだったのかもしれません。「僧侶は、仏教や人間社会を守るべきはずの存在なのに、どいつもこいつも、僧侶たちは、その教えに背いている者たちばかりだ。オレが天誅(てんちゅう)を下す!わが子を守るためなら、時に、母は 鬼にも蛇にもなるのだから、オレは魔王となって、邪悪を倒す!」。いずれにしても、徹底的な合理主義、現実主義をつらぬき、迷いなく、自身を「魔王」と名乗る信長でしたね。この時の信長は、自身が「魔王」になることに躊躇(ちゅうちょ)はなかったでしょう。◇本ものの魔王?武田信玄は、会ったことのない、若い青年武将の信長の人間性や性格などについて、猛烈に情報収集をしています。武田家に残る古文書を、現代語風に意訳してみます。(現代風意訳)あの若者は、何かよくわからん音楽を聴いて、変な衣装で踊っているらしい…新人類の妙な若者じゃな。でも、あの聡明さ、意志の強さ、細かいところまで見通す眼力、周到な備え、団体の心理や行動を自在にコントロールするチカラは、決してあなどれない。* * *信玄にも、「桶狭間の戦い」での信長の見事すぎる作戦が詳しく伝わっていたはずですが、それ以前から、信玄の人間を見抜く「一隻眼(いっせきがん)」の見事さにも驚きます。信玄が、信長との戦いに慎重になったのも、よくわかります。信玄は、信長の持つ新兵器・新戦法・新システム・新思想を、恐れていたのかもしれません。信玄は言ったかもしれません。「あいつ(信長)は、本当に魔王の生まれ変わりなのかもしれない…」。こうして、信長、信玄、仏教、比叡山が絡んで、日本の有名な「悪逆非道の、魔王・信長」のイメージが確立していったのだろうと思います。織田信長が、いつから魔王に支配されていたのか…、いや、いつから魔王に身を変えてしまったのか…。今となっては、是非もなし!◇自分の中の悪魔実は、「桶狭間(おけはざま)の戦い」の頃までの信長には、後の、誰もが恐れる冷酷な「魔王」のイメージはまだありません。周囲の裏切りや不誠実を何度も体験し、ある頃をきっかけに、「冷酷な魔王」化していくのです。当初は、どちらかというと、風変りな言動が時折あっても、頭脳明晰で、やたら声のでかい、やたらダンス音楽好きの、やたら気配り上手の、やたら演出好きの、やたらリーダーシップの強い青年武将というイメージです。ですが、「桶狭間の戦い」の頃を境に、信長の魔王の部分が表にあらわれるようになったのだろうと感じます。信長は、時に、やたら怖く、やたら非情で、やたら無慈悲な鬼にもなるということを、周囲は、よくわかっていたはずです。武田信玄との対決を覚悟した信長が、「魔王」という言葉を自身にむけて使ったということは、信長自身が、すでに「魔王」を肯定し、自分自身の中に、「魔王」の片鱗を感じていたのかもしれませんね。最終的に、あそこまで「魔王」に染まってしまわなければ、彼には、また別の人生が待っていたでしょうに…。自身のチカラだけで、自身の中の「魔王」や「悪魔」を封じるのは、やはり無理なのでしょう。◇シューベルトの「魔王」さて、クラシック音楽の世界の「ロマン派音楽」の代表的作曲家に、シューべルトがいますね。彼の有名な歌曲に「魔王」があります。この歌曲の冒頭は、作曲手法の「三連符(さんれんぷ)」を効果的に使用し、「魔王」の雰囲気や恐怖感がたっぷりと表現されています。* * *この歌曲の歌詞は、4人の登場人物の台詞で構成されています。ですから、ひとりの歌手が、4人の台詞を、4人の声色と歌唱で歌うことになります。場合によっては、4人の歌手が別々に、それぞれの歌詞を歌う場合もあります。歌詞内容は、ある父と息子が、嵐の中を、一頭の馬に乗り、ある場所を目指して疾走します。この父子は、ある会話をしながら突き進みます。その会話の中に、「魔王」が登場し、魔王の言葉が述べられていきます。そして、父子が、目的地にたどり着いた時に…、という歌詞内容です。歌詞に登場するのは、父、息子、魔王、ナレーター(解説者)という4名です。下記は、和訳付きの音楽動画です。シューベルト♪魔王(和訳付き)下記は、4人の歌手とピアノ演奏です。♪魔王(4人歌手)◇オレは、オーストリアのシューベルトこの歌曲「魔王」は、シューベルトがなんと18歳である1815年に作曲されました。そして何度か内容が改変され、1820年に私的な夜会で初披露された後、一般に公表されました。今現代でいえば、超大ヒット歌謡曲といったところです。現代人にとっても、この楽曲は、相当に耳に残りますね。* * *シューベルトは、子供の頃、今のウィーン少年合唱団を、「声変わり」により退団した後、作曲家としての道に進みます。10歳台のうちに、なんと交響曲やミサ曲までつくります。何という才能でしょう。当時、音楽大学の例のあの有名なサリエリ先生は、「先人の大作曲家たちのマネをするな」と、またまた、ねたみ、やっかみ(?)でした。一方、ベートーヴェンは、この若き音楽家の才能のすごさを ”熱ベン(熱弁)”していましたね。シューベルトのほうも、尊敬する偉大な作曲家のベートーヴェンにしっかり敬意をはらい、失礼なことはしませんでした。若きシューベルトにとって、ベートーヴェンは、越えたくても越えられない、偉大過ぎる「巨大な壁」でした。ですが、シューベルトは、ベートーヴェンのようなドイツ色の強い音楽を、あまり好みではなかったようです。やはり、ドイツ音楽とは違う、オーストリアの民族性を表現した音楽を、彼は目指したのかもしれません。彼も、音楽家にありがちな、束縛のない自由を強く求めるタイプの音楽家でしたね。「あまりにも偉大な先輩音楽家ベートーヴェンを越えることはむずかしいことだが、 オレならできるかもしれない」と、シュ―ベルトは思っていたのではないかとも感じます。「でも、オレは同じ土俵では勝負しない。得意分野で、独自の手法で越えてみせるさ…」だったでしょう。* * *「歴音fun」では、これまで、「神聖ローマ帝国」のこと、ドイツ系民族のオーストリア支配のこと、ベートーヴェンが「ロマン派音楽」の扉を開いたことなどを書きましたが、オーストリア出身のシューベルトは、モーツァルトやハイドンなどのオーストリア出身の音楽家の音楽のほうが好きだったようです。当時、同じドイツ中心の「神聖ローマ帝国」ではあっても、ドイツとオーストリアは、やはり音楽性が大きく違っていたといえます。今現代でも、ドイツとオーストリアのオーケストラの音色や演奏も大きく異なりますね。少し お堅く、暗く、荘厳なドイツ音楽よりも、自由で優雅なオーストリア音楽のほうが、シューベルトは好みだったのだろうと思います。とはいえ、彼にとって、ドイツ風のテクニックは欠かせなかったでしょう。◇シューベルトの死シューベルトは、10歳台の頃から、音楽に関するさまざまな才能を開花させていた、まさに天才肌の音楽家でしたね。彼は、音楽仲間を集めては、夜な夜な、音楽パーティーを開いて楽しんでいました。もともと合唱団出身の人物ですし、音楽仲間が かなりたくさんいたようです。そうした夜会は「シューベルティアーデ」と呼ばれていました。たくさんの音楽仲間とともに、歌曲「魔王」を歌い、こんなことを言い合いながら、盛り上がっていたのかもしれませんね。「シューちゃん!そうそう、この三連符の馬の疾走感…まさに魔王に追いかけられている雰囲気だよね!」* * *シューベルトは、ベートーヴェンの葬儀に参列し、帰路の酒席で、こんなことを言います。(意訳)「偉大で不滅のベートーヴェンに…、そしてこの中で一番先に死ぬ者に…、献杯!」。シューベルトは、自身の病気の状況を把握しており、死の予感を感じていたことでしょう。彼は本来の持病だけでなく、伝染病にもおかされ、この翌年の1828年に、仲間が病床に近づけないまま、亡くなってしまいます。シューベルトは、ずっと越えたかった偉大なベートーヴェンの死の翌年に、その後を追ってしまいました。享年31歳。◇歌曲「魔王」の歌詞さて、この楽曲「魔王」の歌詞内容の最後は、ハッピ―エンドではありません。死の淵で もがく息子に、父親は 励まし続けます。息子の目の前には、魔王が何度もあらわれ、「ささやき」を続けます。まさに、その魔王は、わが子を むかえに来た「死神(しにがみ)」のようです。* * *こうした親から わが子への励ましという光景は、今も昔も、人生の中で幾度となく起きますね。何かにおびえ、何かを恐れ、何かと戦う…そんな者たちに、周囲のものは寄り添い、応援し、支えます。この歌曲の歌詞は、そんな場面や、人間の心を描いたものです。「むなしさ」の中にも、何かを私たちに訴えてきますね。* * *この詩を書いたのは、文豪ゲーテです。このゲーテの詩には、多くの音楽家が曲をつけたのですが、やはり、シューベルトが秀逸ですね。シューベルトは、自身が曲をつける詩の内容には、特に「こだわり」をもっていました。ゲーテ(1749~1832)の ”人となり” については、ここでは書きませんが、「神聖ローマ帝国」時代のドイツのフランクフルトに生まれた、 詩人、劇作家、小説家、科学者、政治家、法律家、思想家でしたね。ベートーヴェン(1770~1827)が、クラシック音楽の「古典派」の代表なら、ゲーテはドイツ文学の「古典派」の代表です。シューベルト(1797~1828)は、古典派の影響を大きく受けた「ロマン派音楽」の代表です。「厳粛・格式・様式美・教え」から、人間の内面の「ロマン」の時代へ…。悪魔は、それを待っていた…?* * *さて、子供たちには、一定の年齢までに、ものごとへの「怖さ」や「恐れ」を認識させることも大切なステップですね。人は、世の中に怖いものはない…、恐れるものはない…という、極端な「恐れ知らず」のままでは、自身の傍若無人さを抑えきれなくなったり、他人を思いやる感情が育ちにくくなりますね。ある意味、恐怖心は、自身の身を守ることにもつながりますし、それを乗り越えることで「人間力」や「愛情」が成長していきますね。人は、若い年齢のうちに、身につけておかなければいけないことがたくさんあります。どうしても できないこと…、やってはいけないこと…、やり過ぎないこと…、歯止めを利かすこと…、自身がすべての中心で最強ではないということ…、世の中には 恐れなければならないものが存在すること…、「悪魔」はいつでも、人間のすぐ近くにやって来ること…。そして、人間は、「悪魔」や「魔王」を払いのける「勇気」を持つことができること…。この歌曲の歌詞により、ゲーテは、私たちに、いろいろなことを語りかけてきます。あなたにも、気がつかないうちに、「悪魔のささやき」が届いているのかもしれませんよ!◇悪魔のささやきいつしか大人たちは、子供の頃の「恐れ」を忘れ、傍若無人に振る舞い始めることがあります。「悪魔」を見抜くチカラを失い、むしろ従ってしまう大人も出てきます。昔の人は、科学技術は知らなかったかもしれませんが、自然界に住む「悪魔」、人間の中に潜む「悪魔」の存在を、よく知っていたのかもしれません。この歌曲「魔王」を、今、昔のように、日本の義務教育の現場で聴かせているのかどうかを、私は知りません。昔、日本のお寺には「地獄絵図」の本が、あたり前のように置いてあり、私も子供の頃に、怖いもの見たさで、よくその本を見たものです。そこから、「罰(ばち)があたる」、「お天道様がどこからか、しっかり見ている」、「生きている時に、正しい行ないをしなかった者は地獄に落ちて、地獄でも苦しみを味わい続ける」などを、自然に身につけていったような気がします。* * *日本人は、「悪魔」や「魔王」と耳にすると、日本人が抱く特有のイメージがあったり、前述した織田信長を思い起こしたりします。あまりにも恐ろしい悪魔や魔王…、悪魔や魔王に飲み込まれてはいけない…、悪魔のささやきに従ってはいけない…、そんなことを思ったりもします。さまざまな恐怖や悪行に、慣れっこになってしまったり、無反応になってしまってはいけませんね。それこそが、悪魔に飲み込まれるということかもしれません。悪魔は、人間の心や社会にある隙間からやって来ます。悪魔は、気が付かないうちに、自分の隣に立っていたりします。悪魔の「ささやき」に、惑わされてはいけません。悪魔を近づけてはいけません。悪魔に付いていってはいけません。自身が悪魔になってはいけません。悪魔は、本当に恐ろしい魔物ですね。いろいろなことを訴えかけてくる、シューベルトの名曲「魔王」です。ピアノと歌唱ではない、オーケストラと歌唱のバージョンで…。シューベルト♪魔王◇悪魔を憐れむ歌さて、現代の英国のロックバンド「ローリング・ストーンズ」にも、「悪魔のささやき」の有名な楽曲があります。楽曲「悪魔を憐れむ歌(Sympathy For The Devil)」 です。1968年(昭和43)に発表された、彼らの代表曲のひとつです。ロック音楽史の中の名曲のひとつともいわれていますね。当時から現在まで、彼らのコンサートでは欠かすことのない楽曲です。もう50年以上も、コンサートの度にアレンジを変え、毎回、相当に凝った演奏を聴かせてくれます。ストーンズファンの楽しみのひとつですね。* * *ボーカルのミック・ジャガーの作詞作曲ですが、曲が生まれた当初は、当時流行のフォ―クソング調の曲調だったのですが、ギターのキース・リチャーズのアイデアで、サンバ調のパーカッションを盛り込み、悪魔的・呪術的な雰囲気を全体に施しました。そうしたことで、あの有名なフレーズ「ウッフー(woo,who?)」の部分が生まれてきます。まさに悪魔的な雰囲気を、見事に表現したといえます。この独特な雰囲気が、音楽ファンの心をワシづかみにしました。今現代でも、古さを感じさせない見事な楽曲ですね。シューベルトの発想力やアイデアにも負けていませんね。彼が現代に生きていたら、同じような奇抜なアイデアを、きっと生み出したような気がします。* * *このサウンドアイデアを実現させたのは、この楽曲「悪魔を憐れむ歌(Sympathy For The Devil)」の独特な歌詞です。この歌詞は、すべて「悪魔」からの言葉です。「悪魔」が、人間たちにむかって、これまでの世界史の中の有名な悪行の数々を自慢するのです。そして、人間たちに、こう語るのです。「お前ら、オレのことを知らないとは言わせない。オレに共感し、礼を尽くせ。オレの言葉に従わない奴は、魂を取ってやる」。「魔王・信長」の言葉かと思ってしまいました。おそらく世界史や日本史の中に、同じような言葉を吐いた暴君たちはたくさんいたのだろうと思います。もちろん、この歌詞は、悪魔を礼賛するものではなく、その恐ろしさを伝える内容です。シューベルトの楽曲「魔王」に通じるものがありますね。ローリング・ストーンズらしい、いかにもロック音楽の歌詞です。ボーカルのミック・ジャガーが、まさに悪魔に見えてくるような歌唱ですね。ローリング・ストーンズ♪悪魔を憐れむ歌(和訳付き)♪悪魔を憐れむ歌(2006年ライブ)なつかしい東京公演…♪悪魔を憐れむ歌(1990年 東京ドーム)* * *この楽曲は、俳優のトム・クルーズやブラッド・ピットが出演した、1994年(平成6)の衝撃的な内容の映画「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」の主題歌にも使われました。人間たちが次々に餌食になる、不死身のヴァンパイア(吸血鬼)のお話しでした。他の映画では なかなか見ることのない、トム・クルーズと、ブラッド・ピットの、ものすごい迫力の吸血鬼姿がありましたね。この映画の主題歌では、ローリング・ストーンズではなく、ロックバンド「ガンズ・アンド・ローゼズ」が演奏しましたが、そのバージョンも相性抜群の名演奏でしたね。実は、この楽曲カバーがもとでトラブルとなり、このバンドは、一端、空中分解します。やはり悪魔のチカラはすごい…。ガンズ・アンド・ローゼズ♪悪魔を憐れむ歌さて、2021年(令和3)、いわゆる「黒い雨・訴訟」と呼ばれる、戦時中の原爆被害者に対する救済に関する裁判で、日本政府は それまでの方針を転換し、救済の方向に動き出しました。まさに「悪魔」から「天使」への方針転換のようにも感じます。時代は、少しずつですが、変化を続けています。悪魔を近づけてはいけません…。悪魔に支配されてはいけません…。悪魔や魔王を「憐れむ(飲み込まれ、共感し、同調する)」人たちは…、やはり、ウッフー(woo, who)! 誰?◇鎮魂・慰霊テレビ報道では、今年で、「原爆死没者名簿」の人数が35万柱を超えたと伝えています。実際には、それをはるかに超える数の犠牲者でしょう。一発の投下が、これほどの数の命を奪い、どれほど多くの人に苦しみを長く与え続けていることか…。まさに、悪魔・魔王の所業…。* * *今回は、コラム前半で、「魔王・信長」のことを書きましたが、彼には、魔王・悪魔という存在に関する教養があり、自身が魔王になるという自覚がありました。さまざまな悪逆非道も理解した上でのことでしょう。でも、もっとも怖いのが、ひとりの人間が、自覚も意識もないまま悪魔化すること…。周囲が気がついた時には、もはや遅し…ということも少なくありません。「悪魔のささやき」が聞こえていたはずなのに、何も手を打たなかった…。聞こえていないフリをしていた…。これが、もっとも恐ろしいのかもしれませんね。* * *今の日本は、戦後80年を過ぎ、思想において、大きく三つの方向に分裂し、政治の世界でも、戦後もっとも大きな再編と変革が始まっているのかもしれません。いずれにしても、核兵器を使用したことで、どのようなことが起きるのか…、どのような悲劇が生まれるのか…、どのような苦しみが生まれるのか…、さまざまな思想とは別に、「原爆投下の日」に起きた出来事を、確かな事実として、しっかり残していかなければ、また繰り返されてしまう… そんな気がしています。1945年(昭和20)8月6日の広島でいったい何が起きたのか…若い世代の方は、悪魔たちの ”ささやき” に惑わされることなく、しっかりと学んでいってほしいと思います。歴史は証明しています。◎世界の人類は、大切なことを忘れ、過ち(あやまち)を何度も繰り返す…。◎世界の人類は、過ちを繰り返さない術(すべ)を、まだ見つけられていない…。◎惨禍を語り継いでいくことが、どれほど むずかしいことか…。特に、被爆国の日本は、繰り返してほしくはありません。8月の、6日と9日は、特別な鎮魂と慰霊の日… 誓います! 祈ります!♪一本の鉛筆連載「鎮魂」の次回コラムでは、8月9日の長崎のお話しを書きます。2026.8.6 天乃みそ汁『夏は、裸足で糺す(ノスタルジック夏メロ.5)』夏ソング、糺の森、一青窈、鬼束ちひろ、元ちとせ、中島美嘉、梓みちよ、上賀茂神社、下鴨神社、みたらし団子、御手洗祭、河合神社、京都市、鬼門除け、裸足の歌手、歌謡…ameblo.jpトップページ・プロフィールごあいさつ【ご意見・ご感想・お問い合わせ】書き込みフォーム(非公開)*アメブロ会員の方は、アメブロの「メッセージ機能」をお使いください。