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歴音4.豆のうた ~ どうぞマメに!

(節分コラム 第四弾・完)



今回は、連載「節分コラム」の「第四弾」で、四部作の最終回です。
昨年のコラムに、加筆修正して掲載させていただきます。

 


◇節分

今年も、いよいよ2月3日の「節分(せつぶん)」の日をむかえます。
「豆まき」を行う節分の日ですね。

日本の四季である、春・夏・秋・冬の、それぞれの季節の初日を「立◎」と呼びます。
今年2024年の立春(りっしゅん)は、2月4日。
同年の立夏(りっか)は、5月5日。
同年の立秋(りっしゅう)は、8月8日。
同年の立冬(りっとう)は、11月7日。
その年によって異なります。

「節分」の日とは、立春の前日のことで、同じ季節の境目でも、特に大切にされています。
「立◎」が、何か肌感覚の季節感とズレているような気がしますね。
それは、後ほど説明します。

* * *

季節の暦ともいえる「二十四節気(にじゅうしせっき)」では、「立春(りっしゅん)」は、その年の四季の始まりを意味しています。

今の正月の一月一日に近い意味あいがあり、ものごとの始まりや、基準になる日が立春です。
二十四節気では、立春の日から、5月初旬の立夏(りっか)の前日までが「春」とされています。

* * *

中国では、2024年の「春節」は2月10日ですが、日本の正月元日にあたるような日です。
2月10日から17日までがお休み期間になり、多くの人が故郷に帰省したり、旅行に出かけたりします。
日本の年末年始のお休みの感覚に似ています。
中国発祥の数千年の「春節」の歴史を、そうそう変えることはできませんね。

一年の四季を「24」に分けた「二十四節気」については、後ほど書きます。

その前に、明治時代の初め頃まであった「旧暦」のことを、少しだけ述べませんと、「旧暦」と「二十四節気」の関係性が理解しにくいので、旧暦のことを少し書きます。


◇旧暦

日本は、明治5年(1872)に、「旧暦」から「新暦」への移行を決定しました。
ようするに、世界基準の「西暦」にあわせたのです。
がらりと、一年間のカレンダーの形式が変わったということです。

中国や日本など東洋の古来の「旧暦」は、月の周期活動も基本に考えられています。

新月(地球・月・太陽の順に一直線に並び、地球から月が見えない)の日が、各月の一日となります。
旧暦(太陰暦)では、1年が約354日で、新暦(太陽暦・西暦)では365日です。

ですから、旧暦の1月1日は、新暦にあたる その日が、その新暦の年によって異なります。
ここでは、うるう年、うるう月の話しは割愛します。

ちなみに、旧暦の1月1日を「旧正月」といいますが、中国では「春節」、韓国では「ソルラル」、他にもシンガポール、ベトナム、マレーシアなどの国もお祝いの日となっています。

* * *

日本では、明治5年(1872)12月2日(旧暦)の翌日を、明治6年(1873)1月1日(新暦)とし、暦を「旧暦」から「新暦」に変更しました。
旧暦の場合の明治5年12月3日が、新暦の明治6年(1873)1月1日になったということです。

ですから、明治5年12月3日から、明治5年12月31日は存在しません。
明治6年1月1日は、旧歴でいえば、まだ明治5年12月3日だということです。

つまり、東洋の古代からの暦の形式である「旧暦(太陰暦)」の使用をやめ、「西暦(太陽暦)」に則した「新暦」に大転換し、年号を使う日にちも新暦にあわせたということです。

* * *

日本では、諸外国のような「旧正月」と呼んで お祝いすることを廃止し、いわゆる「正月」は、転換した新暦の1月1日のことになりました。

ちなみに2024年の場合、新暦(西暦)2024年2月3日は、旧暦にあてはめると12月24日となります。
旧暦の1月1日を、2024年の新暦にあてはめると2月10日となります。
その年によって変わってきます。

日本が旧暦のままでしたら、今の2月初旬は、年末だということです。

歴史の史料などの日本の旧暦の日付と、今の新暦の日付には、季節感にズレが生じているのです。
おおよそ20日から一ヵ月ほどのズレが生じます。

前述の、立春、立夏、立秋、立冬の日付を、一か月ほど後にズラしてみてください。
何か、文字通りの季節感を感じませんか。


◇信長と家康

たとえば「関ヶ原の戦い」は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(旧暦)と記録されていますが、新暦では1600年10月21日となります。
有能な戦国武将が、台風の多い、新暦の9月中旬に大戦などするはずがありません。

徳川家康は、新暦10月後半の関ヶ原地域の農家の稲刈り終了を待って、地元民を安全な場所に移動させてから本戦「関ヶ原の戦い」を行いました。
戦闘で荒れてしまう土地の保証と回復を、地元民と事前に約束し、戦前から地元の民衆を味方につけてから、稲刈り終了後の新暦でいう10月21日に戦闘することを設定し、計画的に調略と暗躍を行い、その前日に、関ヶ原の指定した場所に、石田三成をおびき出しました。

石田三成は、他の地域でも、地元農民をほぼ無視した戦法を各地で行ない、土地を荒れ放題に荒らし、各地で大不興を買っていましたね。
日本全国の武将たちは、そのことを、よく知っていました。

農家の大切な農繁期を無視した戦い方や、田や畑、米蔵などに放火したり、農地を水害にさらすような武将は、たいてい敗退・没落していきましたね。

* * *

織田信長の「桶狭間の戦い」は、旧暦では永禄3年5月19日で、新暦でいう6月12日でしたが、夏の本格的な暑さの直前の時期の、夕方に不安定な天候になる一週間ほどの時期をあえて選択し、確実に夕方に短時間のゲリラ豪雨がくることを、その日の朝にしっかり確認してから、ゲリラ豪雨が起こる時刻の数十分間に最終攻撃時間を決め、分単位の行動で決着を付けました。
つまり、その日の、その時間に、今川義元が桶狭間のその場所にいるように、数か月前から仕組んだのです。

織田信長も、前述の家康と同様に、「桶狭間の戦い」に向けて、地元民の取り込みや、敵軍へのスパイの送り込みをしっかり行ない、網の目のような情報網を構築していました。
そうでないと、敵の今川義元を、その日の、その時間の、その場所に、宴会気分にさせて、とどまらせることはできません。

戦国時代は、たいてい こうした用意周到な武将が勝利するものですね。

「自然の偉大な いとなみ(摂理)を無視する者は、自然が許さない」とでも言っていいのかもしれませんね。

* * *

織田信長には、大切な戦闘に出発する前に舞う「幸若舞(こうわかまい)」の「敦盛(あつもり)」が有名です。
「人間五十年、下天(化天)の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の歌詞部分が有名な、今でいう、流行の最先端ダンス音楽舞踊の「舞い」です。

つまり、信長の言う「50年」は旧暦計算ですので、現代の50年よりも、約10日×50年=500日分だけ短いことになります。
信長の享年は数え年で49歳とされていますが、これは旧暦計算の暦年年齢ですので、当時の表記では誤りではありません。
ただ、現代の新暦感覚(1534年6月23日生まれ~1582年6月21日死去)では、47歳となります。

そして、「本能寺の変」は新暦の1582年6月21日ですが、旧暦では天正10年6月2日です。
信長の誕生日は、新暦の6月23日ですが、旧暦では5月12日です。
誕生日の2日前に亡くなったという表現は、まさに現代の感覚のものですね。

織田信長、上杉謙信、真田幸村などの享年49歳と、現代人の享年49歳は、生きた日数が違うということです。
日本の歴史上の人物の享年は二通りの表記がある場合がありますので、注意したいですね。

* * *

人間の年齢計算方法と、暦の計算方法は、今現代でもそうですが、深い関係性を持っています。
みな、暦の一年で、一歳分、歳をとりますから、一年の日数が異なる「旧暦」と「新暦」には、少し悩まされますね。
後ほど、くわしく書きます。

制作:黎音舎
♪敦盛

 


◇新暦と旧暦の季節感のズレ

今現代の新暦2月4日に「立春」といわれても、現代の日本人が少し違和感を持つのは仕方のないところです。
「大寒(だいかん:2024年は1月20日でした)」の時期よりは、少しは温かい空気を感じることもありますが、まだまだ寒い時期ですね。

新暦の2024年2月4日は、旧暦にすると12月25日です。
新暦の2024年3月12日が、旧暦の2月3日に相当し、立春は、おおよそ例年 2月4日です。
ちなみに来年2025年3月2日が、旧暦の2月3日に相当し、立春は2月3日です。

さすがに、3月初旬から中旬となれば、現代人の感覚でも、「春」を強く感じますね。
地球温暖化の進んだ近年なら、桜が咲いています。

* * *

明治維新より前の日本史を考える場合に、史料にある旧暦の日付は、今現代の同一の日付の季節感よりも、おおよそ20日から一ヵ月は早いと考えていいと思います。

旧暦2月の行事は、今の暦の一ヵ月程度あとくらいの季節感の中で行っていたということです。

旧暦の日付と、新暦の日付の、季節感のズレは、これを考慮すれば理解しやすいと思います。


◇かつては、暦も、季節も、スタートはいっしょ!

冒頭で書きましたが、日本では古来から(中国から伝来)、一年間の季節を、「春夏秋冬」の四季に分け、さらに各季節を6つの呼び名で分け、「二十四節気」というかたちで表現しました。
つまり、一年を季節感で「24」に分けてあるということです。
その「二十四節気」の最初の正月節が「立春」です。
「二十四節気」の24番目の最後が「大寒」です。

「立春」とは、季節でいう一年の始まりであり、暦の正月元日のような意味あいです。

「二十四節気」では、立春の日から、5月初旬の立夏(りっか)の前日までを「春」としています。
四季でいえば、一年は「春」から始まるのです。

* * *

「立春」から何日目が、どういった時期で、どういった事柄を行うかが示されている言い方が、昔から ありますね。
立春から、「八十八夜(霜がおりる時期が終わり、稲の苗代づくりや、茶摘みの目安)」、「二百十日(いよいよお米ができ始める直前の、稲の開花の季節で、台風に注意する時期の目安)」などの言い方は、すべて「立春」が基準日となります。
「立春から何日目」… 自然と上手に付き合おうとした日本人の知恵ですね。

* * *

「立春」は、「旧暦」の「暦(こよみ)」ですと、12月の終盤から1月中旬の、ある特定の日になります。
2024年2月4日は、旧暦にすると12月25日です。

旧暦の「暦」の年末年始の日にちと、二十四節気の「立春」が、非常に近い日にちであることがわかりますね。

「二十四節気(にじゅうしせっき)」では、「立春(りっしゅん)」は、その年の四季の始まりを意味していると前述しましたが、旧暦の「暦」の年末年始の時期とほぼ重なります。

旧暦の「おおみそか」の12月31日と、二十四節気の「おおみそか」ともいうべき「節分(立春の前日)」が、非常に近い日にちで、両者とも、一年の終わりという意味では、ほぼ同時期です。

つまり、月の周期活動の「暦」と、太陽の光量をあらわすともいっていい季節の移ろいの「二十四節気」は、非常に深い関係性をもって形づくられていたということです。
もともと、「節気」の「気」は、「季節」の「季」ではなく、太陽にもとづくエネルギーを表現した「気」です。

ちなみに新暦2024年を旧暦にあてはめると、新暦の2024年2月10日が、旧暦の1月1日にあたります。
中国の2024年の「春節」も、もちろん同じ日ですね。
二十四節季の「立春」が、新暦の2024年2月4日ですから、6日しかズレていません。

新暦の感覚ですと、正月1月1日と2月4日は、一か月以上もあいていて、相当に遠い日付に感じますね。
ですから、新暦の感覚ですと、暦の「正月」と、季節の始まりの「春」は結びつきにくい気がします。

ですが、旧暦なら、「正月」と、春の始まりである「立春」が、ほぼ同時期の「スタート」を意味していることが、わかります。

今現代の日本では、教育でも、ビジネスでも、会計年度でも、春の4月1日を、一年のスタートとしていることが多くありますね。

新暦の正月の元日は、文字通りスタートを強く感じますが、春にスタートを強く感じる方が、日本に多いのは、こうした暦文化の歴史が大きく影響しているのだろうと感じます。

このあたりで、春の始まりの予感を…

南 沙織
♪春の予感(1978・昭和53)

 


◇新年の迎え方

さて、日本の年賀状は、今現代のかたちとは異なりますが、平安時代まで さかのぼるともいわれています。

新しい年の始まりに、何かのあいさつを交わしたくなるのは、人間の性(さが)!

今のような、葉書での書面状「年賀状」は、明治時代初頭に郵便制度が始まった後に、明治6年(1873)に郵便はがきが発売されてから、一般に広く普及していきました。
つまり新暦に移行してからです。

今でも、年賀状に「賀正」などの文字とともに、「迎春」、「新春」、「賀春」などの「春」の文字が入ることがありますが、おそらくは旧暦と二十四節気の深い関係性から生まれた、「正月」と「春」の関係をあらわした年始の挨拶言葉が、今でも引き継がれているからのように感じます。

* * *

日本が旧暦を使い始めたのが、もし神武天皇の紀元前600年あたりからだとすると、日本人は、2600年くらいの間、旧暦とともに暮らしてきたことになります。
日本での月と暦の関係性の歴史から考えると、さらに数千年は長いかもしれません。
日本の新暦の150年ほどの年月と比べても、あまりにも長い期間です。

日本では旧暦での「旧正月のお祝い」という呼び方は、ほぼ消えましたが、実は、「節分」のお祝いとして、「旧正月(旧暦のお正月)」をお祝いしたいという思いが残されているのではないだろうかと、私は感じています。

いくら新暦になったとはいえ、日本人の中で数千年にわたって培われた旧暦の感覚は、そうそう消えるとは思えません。

春の始まりを告げる「立春」の、その前日であることを意味する「節分の日」ですが、今現代の「節分」の各種行事は、実は東洋に古来から伝わる「春節」や「正月」に関連した行事の名残であり、今は「正月」とは切り離されたとはいえ、日本にしっかり残されている行事だということだと感じます。

まさに、年の終わりの「おおみそか」に行う行事が、今の節分行事だろうと感じます。

今の「節分」行事は、「おおみそか」、「正月」、「年賀の挨拶」と深くつながっているのだろうと感じます。

* * *

実は、古代から、東洋でも西洋でも、一年間を経て、年が切り替わる前日と当日にかけて、何かの宗教的行事を行うことは、たくさんあります。
新年を、清らかな気持ちで迎えたいという思いは、洋の東西に共通するものだろうと思います。

今現代でも、年賀状、おめでとうメール、新年へのカウントダウン・イベント、年またぎの初詣などが、新年を迎える特別な行事として定着しています。
年を越えるときに、家族、友人、知り合いが集まってお祝いするという感覚は、今の時代も変わっていないのだろうと思います。
新年を明るく、希望を持って迎えたいという気持ちは、古代人も現代人も同じ!

日本の正月の風景は、まるで春…

アバ
♪ハッピー・ニュー・イヤー(1980・昭和55)

 


◇人間の年齢も、月と季節といっしょ!

さて、日本では、年齢の数え方として、古くから「数え年(かぞえどし:暦年計算)」が採用されていましたね。
生まれた年が1歳で、毎年、元日に、みな一斉に「一歳」歳をとっていきました。
誕生日はそれぞれですが、年齢は、みな一緒に進むのです。

つまり、前述しました、「月」の周期基準の旧暦の「暦」や、季節の「暦」と、人間がいっしょに年を経ていくということを意味しています。

* * *

日本の年齢算出方法は、1950年(昭和25)に、法律により「満年齢」で統一され、それぞれの誕生日が基準となり、新暦計算で一歳 歳をとるかたちになりました。

ですが、戦前生まれの方々の中には、「数え年」のほうが理解しやすく、昭和の時代には、日常会話の中で、「満年齢は何歳で、数え年だと何歳」という会話がたくさんありましたね。
おそらくは今でも、さまざまな書類の年齢欄に「満」と わざわざ書かれている書類が多いですが、うっかり数え年を書くと、満年齢とズレます。
かつて、アフリカなどに、数百歳の人がいましたが、つまりは年齢算出方法が違うのです。

* * *

このように、「数え年」という発想は、月の周期基準の旧暦の「暦」も、二十四節気を基準とする季節の「暦」も、人間の年齢も、みないっしょに、歳(年)を経ていくということを意味しています。

日本の、かつての旧暦の「節分」は、四季の始まりの「立春」の前日であり、「旧暦」の「おおみそか」に近い意味あいがあり、そして、人間の誕生日の前日のような意味あいもあったのではないかと感じます。

新しい年を、新しい季節を、新しい年齢を、暗たんたる不安の中で迎えたくはありませんね。

「おおみそか」に、何かしなくては…。
新しい一年の「四季」が始まる前日に、何かしなくては…。
ひとつ歳をとる前日に、何かしなくては…。

そうです… 節分の日は、何かをする日なのです。


◇節分の「豆まき」

さて、大昔から、中国や日本では、季節の境目に、邪気・悪鬼がやって来ると信じられています。

「大寒(だいかん)」を乗り越え、「立春」の季節である、新暦の2月初旬、旧暦の年末年始あたりの季節を過ぎて、少し寒さが緩み、少しずつ春の予感がしはじめ、寒さと暖かさが乱高下するような時期になると、人は 身も心も不安定になったりします。
今の日本人でも、四季の変わり目に体調を崩す方が多くいますね。

現代人なら医学的な発想をしますが、そもそも江戸時代頃までの庶民は、医学という思想を持っていません。
経験からくる対処法、薬草、祈祷、祈願などで、何とか健康を維持しようと考えます。
病気や禍(わざわい)、災害などは、どこかの魔物の仕業と考えるのも無理はありません。

* * *

日本では、奈良時代頃より、中国から伝わった儀式として、節分に「土牛童子(どぎゅう どうじ)」と呼ばれる、牛をひく子供の土製の人形を皇居の各門に飾り、邪気・悪鬼が皇居の中に入り込まないようにする儀式などを行うようになります。

平安時代には、陰陽師(おんみょうじ)たちが儀式を取り仕切り、彼らのチカラは絶大なものとなっていきました。

そうした「土人形(つちにんぎょう)」が、そのうちに「桃」の樹木の枝を飾るかたちにかわり、「桃」の木の枝が「柊(ひいらぎ)」の枝に変わり、鰯(いわし)の悪臭をただよわせ、室町時代には、炒った豆をまく「豆まき」という、しっかりした かたちに変わっていったようです。

ひょっとしたら、妖術使いのような「陰陽師」たちの、魔法の言葉に逆らうことはできなかったのかもしれません。
平安時代の陰陽師、安倍晴明(あべのせいめい)の言葉に、異を唱えることなど、鬼に逆らうようなこと…?

 

* * *

 

実は、古代中国では、その年の最終日に、後に日本で「追儺(ついな)」と呼ばれるようになる、魔物を払う儀式を行っていました。

 

「追儺」は別名「儺遣(なんやらい)」「鬼儺(おにやらい)」。

 

「儺」とは「難(なん)」のこと…災難、疫難、海難、救難、男難…一難さってまた一難!

「にんべん」のついた「儺」とは、さまざまな「難事」を寄せ付けない儀式全体のことで、一年の中で、必要な時に行われていました。

 

数人の人間に、さまざまな「難」を象徴するような、まさに「鬼」のような、おそろしい姿の「儺人」の格好をさせ、それを特別な方法で退治するのです。

ここで、陰陽師たちが大活躍!

「追儺」は、一年の最終日に行う大切な儀式になります。

 

平安時代以前は、「追儺」や「難除け」に、「豆まき」はしていなかったはずです。

 

前述の「鬼儺(おにやらい)」の「やらい」とは、「馬やらい」「犬やらい」など一般用語としても使われるように、何かからよける、避ける意味あいの言葉ですね。

馬や犬は「やらい」で、鹿(しか)の場合は「鹿威し(ししおどし)」…カ~ン♪

 

日本の陰陽師たちは、中国の古代の風習を上手に取り込み、「豆まき」という、人気イベントに成長させたのかもしれませんね。

 

安倍晴明は、相当なアイデアマン!

やりやがったな!晴明!

豆まきは、日本史上の最大のヒット イベント企画!?

 

陰陽師稼業は大忙し! 商売繁盛で、豆 持ってこい!

…晴明はん、ほめてますよ!

 

* * *

鬼の目を「魔目(まめ)」とし、鬼(邪気・悪鬼)を排除することを「魔滅(まめつ)」と言うようになり、つまり「まめ(豆)」を鬼(魔物)に投げつけて、追いはらう「豆まき」というかたちになりました。

豆を、鍋で煎るのは、「魔目(鬼の目)を(矢で)射る」ところからきているという説があります。

「なんだ ダジャレかよ」と思われるかもしれませんが、医学も科学もない時代に、人間が病気になったり、自然災害や飢饉などを、頭で理解するのは無理です。
得体の知れない「魔物」を封じたいと、どのくらい 心から願っていたかが、よくわかりますね。

冗談や座興ではなく、真剣に、本気に、心を込めて「豆まき」を行っていたのかもしれません。


◇豆まきは、千年以上の歴史?

今でも、節分祭では、「弓矢」や武術に関連した儀式を行う神社もたくさんありますね。

京都・下鴨神社の節分祭

 

日本には「五穀(米、麦、ひえ、あわ、豆)」は、生きるための基本食物として崇める風習が古代からあります。
「五穀豊穣を祈願する」などと いいますね。
五穀には、神聖な霊力があると信じられ、鬼をも打ち払うと信じられていたようです。

* * *

節分に「豆まき」を行なったという最も古い皇室の記録は、室町時代初期の1425年の儀式「抑鬼大豆打事」だとされています。

実は、それより以前の平安時代に、そうした「豆まき」の起源があったともいわれています。

平安時代の宇多天皇(867~931年)の頃に、京都の鞍馬で、鞍馬山の僧正谷にいる鬼が、京の都を襲撃しようとしたので、たくさんの豆を投げつけ、鬼の目をつぶして打倒し、都への襲撃を防いだという伝説があります。

この「節分コラム」の連載の中の「笑音10.鬼さんこちら!」で、平安時代の「鬼退治のプロ!剣豪6人衆」として鬼退治の話しを書きました。

1.源 頼光(みなもとの よりみつ)…清和源氏 三代目ここにあり!後に頼朝、義経らを生む名門!
2.渡辺 綱(わたなべの つな)…東京の三田綱町から、源氏武者が、いざ参陣!羅城門で鬼の腕斬り!
3.坂田金時(さかたの きんとき)…足柄山の金太郎さん!まさかり担いで、いざ参陣!
4.碓井貞光(うすい さだみつ)…平氏から、いざ参陣!
5.卜部季武(うらべ すえたけ)…平氏から、俺も参陣!
6.藤原保昌(ふじわらの やすまさ)…藤原道長どの、妻の和泉式部…見てくれ、俺の笛吹童子の姿!

これは京都府北部の福知山の大江山での鬼退治のお話しですが、その大江山の鬼たち(悪の集団)が京の都に頻繁にやって来ていた時期と符合します。

悪党一味の一部が、京の都の近くの鞍馬山にアジトを作っていても不思議はありません。
平安時代の絵巻物「大江山酒天童子絵巻物」には、都を襲撃する鬼が描かれています。

歴史上のこの手の話しは、たいていモデルになった実話があったりしますが、この鬼を倒した武将は誰なのか?
どんな手を使って、鬼たちを倒したのか…?
豆とは、何のことなのか?
前述の「6人衆」の中の誰かが、鞍馬山の鬼を急襲したのかもしれません。

* * *

他にも、ちょうど同時代に、藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)という、さまざまな武勇の伝説を残す、周囲からその強さを恐れられた武将も、関東にいました。
陰謀や謀略にも秀でていたといわれています。
940年に、関東で平将門を罠にはめ、討ちとり、将門の首を 京に運んだのが、この秀郷です。
その首は、宙を飛び、関東に戻って、今は東京 大手町に…。

今、ちょうどNHK大河ドラマ「光る君へ」を放送していますが、藤原道長(966~1028年)も、藤原秀郷(891?~991?)も、10代くらいさかのぼれば、「大化の改新」の藤原鎌足につながります。
道長のほうは高級官僚貴族で、陰謀まみれの権力闘争…、秀郷のほうは強力な関東の武士で、軍団同士の大武力闘争…、同じ藤原一族でも、相当に違いますね。

大河ドラマ「光る君へ」には、源 倫子(みなもとの ともこ、演:黒木華)も登場しますが、前述の宇多天皇のひ孫にあたります。
主人公のまひろ(紫式部、演:吉高由里子)とは、後にたいへんな関係に…。

* * *

いずれにしても、誰かが、京の鞍馬山で、鬼に何らかの目つぶし攻撃を行い打倒!
京の平安を守ったのは、いったい誰なのか…。

「鬼退治6人衆」なのか?
藤原秀郷なのか?
はたまた、他の武人なのか?

節分の「豆まき」の由来は、平安時代の、この鞍馬山での、鬼の目に豆を投げつけるという攻撃であるという説があります。
室町時代には、すっかり年中行事のひとつとなるまで、成長したのかもしれません。

今の大河ドラマの舞台の平安時代から、今現在まで続いている「豆まき」行事ですね。
「豆まき」が、千年を超える歴史イベントだったとは…。

海外の人たちから見たら…
日本人… 豆まきって、何してんねん!?
でも、千年も ずっと行っているとは、すごすぎ! マメすぎ!

今年も、来年も、永遠に… 日本人は豆をまく!


◇柊鰯(ひいらぎいわし)

今でも、神社では「節分祭」、寺院では「節分会」などと呼ばれる儀式等が行われていますね。

「福豆」「福茶」「恵方巻」「クジラ料理」「厄除け饅頭」など、日本各地に、それぞれの名称で、関連した食文化が残っていたりします。
魔除けの行事も、日本各地に、それぞれの形式と名称で残っています。

とにかく、「魔」を払いのけろ!追い出せ!近づけるな!

* * *

「柊(ひいらぎ)」の枝に、魚の鰯(いわし)の頭を刺したものを、家の門戸や玄関口に飾って魔除けを願う風習はよく知られており、今も、スーパーでは、柊の飾り物を、この時期に売っていますね。

先ほど、古代は「桃の木の枝」を飾ったと書きました。
「歴音fun」では、これまでにも、桃という植物が、古代から日本でどのくらい重要な樹木と果実であったかを書いてきましたが、奈良時代あたりまでは、基本的に桃園は皇室の管理下にあり、桃は薬用の特別な食物でした。
一般の者が入手するのは相当にむずかしい樹木です。
武家や庶民が、いわゆる「桃の木の枝」を入手するのは、まず不可能だと感じます。

一方、「柊(ひいらぎ)」は、鬼に立ち向かう武器にもなるような強力な「トゲ」のある葉を持っていますね。

「ひいらぎ」とは、「ヒリヒリと痛い」という意味の、かつての言葉「ひひらく」に由来する名称だといわれています。
そして、この「柊(ひいらぎ)」には、別の呼び名もあります。
「鬼の目突き」です。

先ほど、鬼の目である「魔目」と、鬼を排除退散させる意味の「魔滅」の話を書きましたが、この柊(ひいらぎ)の別名こそ、鬼の目をそのトゲで突き、退散させるという意味の「鬼の目突き」という武器ではなかろうかと感じます。

柊(ひいらぎ)の枝に、何かの生きものを突き刺すというのは、相手への威嚇(いかく)としては、相当な視覚効果ですね。

* * *

私の想像ですが、絶大な霊力を持ってはいても入手がたいへんむずかしい桃の木の枝から、ある時代に「柊(ひいらぎ)」の枝に変更されたのは、そうしたことからではなかろうかと感じています。

貴族や庶民からの人気や信用を必要とする、陰陽師たちなら、このくらいのアイデアを思いつくかもしれません。
「柊の枝と、鰯の頭で、魔を打払うのじゃ!」

さすがに現代の都会では、本もののイワシの頭を刺して、玄関に飾っている家は見ませんが、地方には残っているところも多いかもしれません。

大昔は、海のない山間地域では、イワシの代用品も使われていたようですし、「柊鰯(ひいらぎいわし)」と同じ役目の別の魔除けの品が飾られている地域もあるようです。

* * *

昔から、洋の東西を問わず、匂いの強烈なもので、邪悪なものを家の中に入れないという風習はたくさんありますね。

イワシの生の頭… 臭いのなんのって!
さすがの鬼も逃げらあな!

今現代の家屋でも、泥棒や強盗と鉢合わせした時に、敵を卒倒させるような猛烈な悪臭攻撃は有効かもしれませんね?
パパの靴下も…、柊鰯(ひいらぎいわし)と いい勝負?


◇「恵方詣り」と「恵方巻」

さて、大正時代に、鉄道会社によって作られた「お正月の初詣」というイベント企画が世の中に定着するのと同時に、関西の節分恒例の行事「恵方詣り(えほうまいり)」が衰退していきました。
前述の「新暦」が定着してきたことで、年の始まりの感覚が変化したのかもしれません。

古くから、関西、名古屋、福岡などを中心に、節分(新年・正月)の時期に、いくつかの寺社へお詣りする「節分のお詣(まい)り」がありましたが、「新暦のお正月の初詣」という鬼(?)に蹴散らされたのかもしれません。

日本古来の正月の「お詣り」は、旧暦正月の節分行事であったはずなのですが…。

* * *

とはいえ、今は、各地の神社や寺で「豆まき」の風習が復活し、今や「正月の初詣」に負けない大行事になっていますね。

それよりなにより、関西地域で大復活し、盛り上がってきた、節分に「恵方巻(えほうまき)」を食べるという風習が、今や東京だけでなく、日本全国にも広がりました。

「恵方詣り」はしなくとも、「恵方巻」を食べながら、もろもろ お願いしたい…。
まずは「腹ごしらえ」してから…。

* * *

コラム「笑音7+歴音.祈りの炎、祈りの歌 (能登半島地震によせて)」で書きましたが、「恵方(えほう)」とは、その年の女神「歳神(としがみ)さま」がおられる方向のことです。

2024年の節分は、2月3日で、恵方は東北東、さらに微東です。
「微糖」ではありません。
お間違いなきよう!

私の勝手な想像ですが、おもろいこと好きの関西商人ですから、「豆まき(蒔き)」があるんなら、「恵方まき(巻き)」で商売したってええやろ… だったのかも?
関西の「恵方巻旋風」は、全国に猛拡大中!

うちの母ちゃん… 今年も、豆はまかぬが、海苔はまく!
「鬼」より「食」やて…。

* * *

現代の節分行事は、つまりは、かつての年の瀬の「大みそか」に、豆をまいて、玄関に飾り物をして、新年に邪悪な鬼が家に入ってくるなと祈る意味だと思えばいいのかもしれません。
ついでに、「大みそか」に、縁起物の恵方巻のご馳走を食べ… ご機嫌!

いずれにしても、1月の「初詣」、2月の「豆まき」…、新旧の「年の始め」の厄除け、厄払い、祈願という、日本の大切な行事ですね。

豆まかな、「鬼」が来るで!
豆まかな、「福」は、けえへんで!


◇「えほん唱歌」の「まめまき」

さて、戦前の昭和6年から8年(一部は12年まで)にかけて「音楽教育書出版協会」から出版された児童・幼児向け唱歌集に「えほん唱歌」があります。

戦前の義務教育の学校での音楽教育は、文部省による「唱歌」指導方針にそって行われていました。
「えほん唱歌」も、「文部省唱歌」と同様に、作詞作曲者は秘密にされ、楽曲の権利は国にありました。
特に、歌詞については厳しい検閲が行われ、修正されていきました。
戦後になり、戦時内容の歌詞を作りかえたものも少なくありません。
後に、よほどの地位の有名音楽家でないと、作詞作曲者名は判明していません。

90年以上も愛されている、この楽曲の作詞作曲者名が確定できていないとは…。
音楽家や音楽作品を何だと思うとる… 豆まいたろか!

「えほん唱歌」の中で、もっとも有名な曲が、この…
♪まめまき

 


◇豆をまく日は、豆のうた!

ここからは、「豆のうた」です。

こういう音楽が、スーパーでよく流されていますね。
♪ハロー大豆のうた

 

よくできた動画です。
世界の軍事情勢とは、つまりはこうしたものですね。
♪おまめ

 

* * *

ここからは、納豆のうた!

原曲は、「おかめ納豆」で有名な企業の「タカノフーズ」の歌。
人気者「ののちゃん」が歌います!
♪なっとう なっとう

 

Dressing〔ドレッシング〕が歌います。
納豆のイメージアップ行進曲!
♪ネバネバ行進曲

 

「うめねばちゃん & ねば~る君」が歌います。
茨城パワー炸裂!
まさか、納豆ソングで、ほろっとさせられるとは…。
♪ぼくはなっとう

 

* * *

ここで、ちょっと豆知識… のうた!

このバンドは、ちょっと妙な方向性のタイトル曲が多いですが、才能を感じる、この反骨精神が いい!

こういう若者たちこそ、世の中に、豆をまけ!
Non Stop Rabbit〔ノン・ストップ・ラビット〕が歌います。

ためになる? 賢くなりそ~じゃん!
(注:歌詞の豆知識内容に確証はありません。)
♪豆知識

 

彼らの他の曲を…
意外と しっかり大人のビジネス戦略… きゅんです!
尊いオオタニさ~ん! きゅんです!
♪推しが尊いわ

 


◇鳩と豆のうた

下記の歌は、ハトの歌なのか…、豆の歌なのか…?
ハトと豆の歌かも…。

1911年(明治44)の文部省唱歌。
前述のとおり、当時の文部省唱歌の権利は、すべて国にあり、作詞作曲者は秘密とされていました。
一応、今でも作詞作曲者不明曲。
一時、「ハトポッポ」と改名されていました。


♪鳩

 

* * *

前述の楽曲「鳩」は、下記の楽曲「鳩ぽっぽ」をベースに作られたとも いわれています。
大御所二人の作った楽曲を、別人が後で変更するとは考えにくい気もしますが…。

ただ、下記の曲「鳩ぽっぽ」の作曲者の 瀧 廉太郎は1903年に亡くなっており、1911年まで少し年月がありますね。

二曲を比較すると、「東くめ」と「瀧 廉太郎」の作った下記の楽曲「鳩ぽっぽ」のほうが、歌詞もメロディも、数段、音楽性に優れている気がします。
下記楽曲「鳩ぽっぽ」の歌詞のほうが、鳩と豆の描写が優れていますね。
ただ、有名なのは、子供が歌いやすい上記楽曲「鳩」のほうです。

文部省が、「文部省唱歌」を制作するにあたり、楽曲「鳩ぽっぽ」をベースに、誰かに新曲「鳩」を作らせたのかもしれません。
よく わかっていませんが、たしかに、幼子たちには、前述の楽曲「鳩」のほうが、かんたんに歌いやすい気もしますね。

下記動画は、その二曲が連続で登場します。

1900年(明治34)
作詞:東くめ、作曲:瀧 廉太郎
♪鳩ぽっぽ

 


◇マメに元気で…

最後は、中高年の皆さまが、マメに(元気に、達者で)過ごしていけることを願いつつ…。

皆さま…「お疲れナマです」!
楽曲は、竹内まりや「元気を出して」。
CM

 

明るい平田勝男コーチが、以前に阪神タイガースの二軍監督だったとは…これなら強くなるわ!

まだまだ、言ってみるもんやで! 豆まいてみるもんやで!

おつかれナマです! おつかれマメです!
CM

 

* * *

親の介護はたいへんな仕事ですが、どうか みんなで助け合いながら…。
清水由貴子
♪お元気ですか(1977・昭和52)

 

* * *

吉田拓郎の、名アルバムではなく、1980年(昭和55)のシングル曲のほうです。
♪元気ですよと、答えたい!
♪元気ですよと、答えよう!

吉田拓郎
♪元気です(1980・昭和55)

 

生涯、元気で、恵方巻を食べましょう!
生涯、元気で、豆を まきましょう!

生涯、マメに生き抜きましょう!


その豆は、あなたのたね! 次代のたね!
「福」も「鬼」も、あなたのウチにいる…。

節分に「豆まき」をした、次の日は…、
そうだ… ♪春だったね(1972・昭和47)

 

連載「節分コラム 四部作」は、これで、豆了!

2024.2.2 天乃みそ汁

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「節分コラム」四部作!