出雲地方出土の景初3年の三角縁神獣鏡は魏の皇帝から卑弥呼に下賜された鏡の一枚だ | 日本の歴史と日本人のルーツ

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島根県の出雲地方の神原神社古墳から、昭和47年(1972)に発掘調査が行われ、被葬者を納めた棺の中から、景初三年(西暦239年)という魏(ぎ)の年号が入った三角縁神獣鏡の紀年銘文鏡が出土した。

魏の景初三年とは、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝に使者を派遣し、皇帝から銅鏡100枚を下賜された年であった。この魏の皇帝が下賜した紀年銘文鏡は舶載鏡として、鏡の銅の合金成分から明確に判別できる。この様な卑弥呼の鏡が出雲地方から出土し、しかも神社の御神体の古墳に埋葬されていたことが、注目に値する。

ところで、出雲地方は神々の故郷として、古事記や出雲国風土記に出雲神話が詳細に書かれている。また、出雲地方を含む山陰海岸は九州から近畿の銅剣・銅鐸文化とは異なる別の弥生文化の地域であり、さらに方言的には出雲地方は特異で、縄文語の名残があると考えられている。

すなわち、出雲は古墳時代最初期のヤマトにあった邪馬台国の女王卑弥呼の直接の先祖の地であり、その縁で件の鏡を現地の首長に下賜したと考えられる。

ちなみに、武家の毛利氏の先祖の公家の大江氏や菅原道真公の菅原氏のルーツは土師氏であるが、この豪族は出雲族であるとされている。


参考

① 神原神社古墳の被葬者はだれ?

これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト) 歴史の幸(参考)

斐伊川の支流である赤川の下流域に築かれた神原神社古墳は、出雲地方でも早い段階で築かれた前期古墳です。以前、この古墳の上に神原神社の本殿が建っていたことから名づけられました。

この古墳は、赤川の改修工事に伴って、昭和47年(1972)に発掘調査が行われています。この時、被葬者を納めた棺の中から、景初三年(西暦239年)という中国の年号が入った鏡が出土したことで、神原神社古墳の名は一躍全国に知られるようになりました。実は、景初三年とは、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏(ぎ)の皇帝に使者を派遣し、皇帝から銅鏡100枚を下賜(かし)された年です。このことから、神原神社古墳から出土した「三角縁神獣鏡」は、このうちの一枚ではないかと大きな議論を呼んでいるのです。

さて、ヤマト王権が国々をまとめあげる途上にあった古墳時代の前期、力のある豪族の墓として前方後円墳や円墳が各地に造られていました。ところが、なぜか出雲ではこの時期、前方後円墳ではなく、方墳や前方後方墳といった方形の古墳が造られていたのです。神原神社古墳もその一つであり、長さが29m×25mの方墳でした。

被葬者は、割竹形木棺とよばれる棺に納められていました。割竹形木棺とは、一般的には長大な木を二つに割って木の中身を刳り抜き、併せて棺と蓋にしたものをいいます。神原神社古墳では、この木棺の長さが約5.7mもありました。木棺を納める石室には、この木棺を地面に直接置くのではなく、丸くなっている木棺の下部がきちんと接地するよう、粘土で窪みのある床が設けてありました。粘土床とよばれるこの方式は、出雲にはなく、畿内の前期古墳に採用されているものでした。

神原神社古墳 竪穴石室の内部


時期によって違う古墳の石室

ところで、一口に古墳といっても、造られた時期、つまり古墳時代前期(およそ4世紀)と後期(およそ6世紀)では大きな違いがあります。前期の古墳にみられる竪穴式石室は、竪に穴を掘って棺を納め、周りを石や粘土で囲った後、盛り土をして二度と墓を掘り返すことはありません。一方、古墳時代後期になると、墓の横に入り口が設けられ、その奥に被葬者が埋葬される石室(横穴式石室)が設けられます。この入り口は、一旦閉じられますが、その後、再び石室に出入りすることができるのです。これによって、被葬者のほかにも、親族を追葬することができるようになりました。

神原神社古墳に納められた副葬品

さて、神原神社古墳から出土した副葬品は、鏡だけではありません。棺の中には被葬者に副えて多くの鉄製品が納められていたのです。主なものとして、大刀、鉄剣、鉄鏃、などの武器や、鏨、錐、鎌、鋤先といった農工具類があげられます。このうち、とても興味深い副葬品に鉄鏃があります。出土したほとんどの鉄鏃は、鑿頭式(さくとうしき)とよばれる先端が鑿のように水平になった鉄鏃でした。調査の結果、この鉄鏃は、地元ではなく畿内で製作され、神原に持ち込まれたらしいことがわかったのです。

このようにみてくると、埋葬法や副葬品からは、畿内の香りが漂っているともいえそうです。「三角縁神獣鏡」とともに眠っていた神原神社古墳の被葬者は果たして、在地の豪族であったか、それともヤマト王権から派遣された人物であったかなど、謎は尽きません。

左上:鉄鏃 中央:大刀 右上:農具類 右下:三角縁神獣鏡


② 神原神社(wikiより)


大国主神磐筒男命、磐筒女命を祀る。

出雲国風土記大原郡条の神原郷の項に「所造天下大神之御財 積置給處也」とある。当初は大国主神のみを祀ったものと見られるが、宝永5年(1708年)に三刀屋天満宮宮司の広沢漆拾がまとめた『神原神社縁起』では祭神が磐筒男命・磐筒女命とされている。

『出雲国風土記』には「神原社」と記され、神祇官に所属しているとある。延喜式神名帳に「神原神社」と記されている。慶長16年(1611年)の棟札には「神原松井大明神」、前述の『神原神社縁起』では「神原神社松井大明神」「松井神寶大神宮」、享保2年(1717年)に出された『雲陽誌』には「神寶明神」と記されている。

明治4年12月に村社に列せられた。現在の社殿は後述の赤川の改修工事に伴い昭和47年(1972年)に遷移されたものである。


神原神社古墳


旧社地は古墳の上にあった。この古墳は方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定される。島根県では最古に属する前期古墳である。

昭和47年(1972年)の赤川斐伊川水系)の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査が行われた。竪穴式石室からの出土品の中に「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡があった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。出土品は国(文化庁)所有で、島根県立古代出雲歴史博物館に保管。石室は移築された社殿の東側に復元されていて自由に見学できる。

赤印: 神原神社、島根県雲南市加茂町神原1436


③-1 纏向遺跡が卑弥呼の都であった(参考)

③-2 三角縁神獣鏡は国内産の仿製鏡と魏の皇帝から下賜された舶載鏡に区別される(参考)


③-3 魏の曹操も日本と仲良かったし、原日本語を喋っていた(参考)


④-1 出雲方言が縄文語に最も近い(参考)

④-2 日本語の起源(参考)

④-3 邪馬台国の女王卑弥呼と魏の皇帝は共に原日本語を喋っていた(参考)

⑤-1 山陰地方の弥生時代の遺跡で出土する土笛(陶塤)が出雲地域に多く分布する(参考)

⑤-2 出雲に近い鳥取県の青谷上寺地遺跡で出土した渡来系弥生人の男性は縄文人と同じY-DNA D2を持っていた(参考)


⑤-3 下関市の土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人は縄文人と同じ特徴を持っていた(参考)


⑥-1 専ら皇室で読まれた古事記は出雲神話について多く書いている(参考)


⑥-2 出雲族について(wikiより)



⑦ 魏の紀年銘文鏡が山陰海岸経由で畿内まで分布していることが、卑弥呼の鏡の証拠(参考)

ヤマトと魏の国の往復路は山陰海岸を辿ると考えられる。例え、卑弥呼の時代は倭大乱後で鎮まったとしても、未だ瀬戸内海航路は銅剣・銅鐸文化圏の揚子江中下流域からの稲作弥生人が勢力を保ち危険と考えられる。


注: 紀年銘文鏡一覧(参考)