日本語の起源を求めて遡ると、日本列島の縄文人と大陸の殷人が同じ原日本語を喋っていた。この殷人の末裔が秦帝国の人々(秦氏)や斉国の人々であった。
中国大陸の春秋戦国時代の戦乱で最初期に敗れて日本列島に渡来して来たのが、揚子江中下流域で水稲稲作をしていた弥生人で九州を中心とした銅剣文化圏の人々と近畿を中心とした銅鐸文化圏の人々であった(参考)。
そして、ほとんど最後まで勝ち残った斉は秦に敗れ、最後まで残って帝国を作った秦の人々も漢帝国に滅ぼされ、やはり日本列島に渡来して来た。弥生時代後期に山陰側に渡来して来た弥生人とは、この斉や秦の人々であった。彼らは殷人の末裔であり、日本列島ではヤマト朝廷の主流となったのであった。
山陰地方の弥生遺跡から弥生人が演奏した土笛(陶塤)が出土する。wikiによると中国大陸の秦、漢の時代以降は、主に宮廷音楽(雅楽)に用いられるようになったとか!
すなわち、弥生時代後期に山陰地方に渡来して土笛(陶塤)を演奏していた人々は、斉や秦の貴族階級の人々だったのかも知れない。
参考
① 土笛(陶塤、参考)
北九州の宗像以東、下関市綾羅木郷遺跡から山陰沿岸に出土する土器が、鳥取県の青谷上寺遺跡からも出土している。
青谷上寺地遺跡で出土した土笛のモデル
②-1 斉は秦と同族の民(Y-DNA D2)が山東半島で稲作を身につけ、また海人族からの海の幸と交換する経済を確立していた!この斉は秦に滅ぼされて、海人族と共に日本の山陰沿岸に渡来した(参考)。
②-2 縄文人と同族の殷人の末裔が秦や斉の民で、Y-DNAハプログループD2を持ち、滅びることなく日本に渡来して来た(参考)
②-3 遣隋使・遣唐使は文物だけで無く、多くの殷人の末裔を連れ帰った (参考)
③ 青谷上寺地遺跡で出土した渡来系弥生人の男性は縄文人と同じY-DNA D2を持っていた(参考)
④-1 日本語の起源(参考)
日本語はY-DNA D2を持った縄文人と渡来人が喋っていた。
④-2 響灘文化(参考)
土井ヶ浜遺跡のある北浦海岸(響灘)に渡来した弥生人の文化は北部九州の弥生人の顕著な差異があり、山東半島の臨淄あたりの古代の斉国から渡来した人々であった。彼らは斉国、秦帝国の人々の末裔であり、Y-DNAハプログループDを持っていた。
彼らは縄文人と同族の殷人の末裔であった。
西日本の山陰地方を除く地域に先行して渡来していた銅剣・銅鐸文化圏の人々で、大野進先生の日本語のタミル語起源説で説明される言葉を喋っていた。
⑤ 塤(しゅん、けん、wikiより)
中国では陶器製のものを「陶塤」(タオシュン、táoxūn)といい、他にも材質によって、「石塤」(シーシュン、shíxūn。石)、「瓷塤」(ツーシュン、cíxūn。磁器)、「骨塤」(グーシュン、gǔxūn。獣骨)、「漆塤」(チーシュン、qīxūn。漆器)、「貝塤」(ベイシュン、bèixūn。貝殻)などがある。
起源は、狩猟の際に獲物を呼び寄せたり、反応を探るために使った管楽器と考えられている。骨で作る管状の呼び笛を「骨哨」といい、陶器製の「陶哨」も作られるようになった。中国浙江省の河姆渡文化や河南省の仰韶文化の新石器時代遺跡から、吹き穴だけの陶器の管楽器が出土しており、音色からこのような用途であると考えられる。
夏代には指穴2つのものがあり、音が4種出せたと伝えられている。殷代には陶器、石、骨で作られ、多くは底が平らな卵形に作られている。戦国時代には指穴4つになり、多くは平底卵形となった。漢代の『爾雅』の記述からも、陶器製で、大きさは大きい物ではガチョウの卵ほどで、上部は尖り、底は平らで、はかりのおもりの様な形で、穴が6つあり、小さいものでは鶏卵ほどの大きさであったことが分かる。多くの音が出せるようになったことから、秦、漢以降は、主に宮廷音楽(雅楽)に用いられるようになった。
その後廃れたが、1970年代以降、出土された楽器から再び注目されるようになり、新たに作成されたり、演奏が行われるようになった。現代のものでは穴が増やされ、7個から10個の指穴が開けられている。
⑥ 全国で初めて出土した土笛(下関市綾羅木·昭和44年)(下関・豊浦の100年より)(彦島のけしきより)
ほぼ鷲鳥の卵くらいの大きさで、中国古代国家における祭肥用の笛 「陶填」と酷似していることが判明し、大陸文化との関わりが学界でも注目された。