遣隋使・遣唐使は文物だけで無く、多くの殷人の末裔を連れ帰った! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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飛鳥時代の藤原京は694年から710年の16年、奈良時代の平城京は710年から784年の75年、平安時代の平安京は794年から1869年まで1075年のあいだ都であった。

頻繁な遷都と敷地拡大の理由は色々説明されているようだが、都の人口について、飛鳥時代(622年)はおよそ5万人、平城京(奈良時代、750年)はおよそ10万人、平安京(800年)はおよそ20万人と言われ、予想を超える急激な人口増加に対応する為に、都の収容人数を増やす必要があったと考えるのが分かりやすい。

 また、日本の全人口について、奈良時代以前はおよそ80万人、奈良時代(725年~)はおよそ450万人、平安時代(794年~)はおよそ500~600万人と言われて、都の人口増加以上に急増している。その後の成長率は鈍化して、725年から794年の間なら高く見積もって0.42%/年程度となる。奈良時代初期(725年)から900年の間の日本全体の人口増加率は0.20%/年となっている。

以上の人口増加があった期間は遣隋使・遣唐使を派遣した時期と一致するが、これに対し、菅原道真公が遣唐使廃止を提案した894年の前後あたりから日本全体の人口は停滞に転じて、雅な国風文化が花開く時代となった。

ここで、飛鳥時代から平安時代末期まで、気候の寒冷化や温暖化が極端に来襲しており、海外との交流を断絶した場合には人口の自然増加は見込めなかったことを指摘したい。すなわち、前期の人口増加は海外からの流入があった為、後期の人口の停滞は、都ではむしろ人口が減っており、海外からの流入が止まった為と考えられる。

以下、急激に人口が増加していた飛鳥時代から奈良時代について増加率を計算して、具体的に比較検討する。

日本全体の人口を奈良時代725年に450万人、以前の100年前(*都の人口増加から判断、この間に白村江の戦いがある)に80万人と仮定すると、日本全体の人口増加率は1.74%/年と計算される。ちなみに、都の人口を622年に5万人、750年に10万人とすると、都の人口増加率は0.55%/年であった。

すなわち、都の頻繁な遷都で収容人口を増やす以上に、日本全土の人口が急激に増加していた。これは、後の平安時代の約8倍以上の増加率となっていた。この時期には百済や高句麗の滅亡があり、多くの遺民が日本に流入していた。


雑談1

奈良時代に0.42%/年程度、平安時代の894年の遣唐使の停止までで0.2%/年程度の日本全体の人口増加率があった。この時期の遣唐使の帰国時にも、ある程度、人を連れ帰っていたのではなかろうか!ウドンや素麺の加工技術が唐から入って来たのは、小麦の食料化の為であったようだ。

香川の讃岐ウドン、奈良の三輪素麺などは当時の渡来人の地域の産物かも知れない。


雑談2

日本列島の在来の縄文人、渡来系弥生人、古墳時代人の渡来人より多くの民が隋・唐の時代に渡って来たことになる。菅原道真公が894年に遣唐使を止めたのは、最早、中国大陸には残留民はいないと判断したからであろう。

これほどの大規模な渡来人が日本列島に上陸しているのに国風文化になったと言うことは、すなわち、国風文化とは丸々、唐に残っていた殷の末裔の文化であったのではあるまいか。

唐文化と言っても漢民族の文化と殷の末裔の文化が対立しながらも共存していたが、唐帝国の崩壊により前者が中国大陸を占め、後者が日本で再興されたのであろう。


雑談3

現在、チベット辺りを除いた中国大陸にY-DNAハプログループDを持つ男性が皆無に近いのは、遣唐使と言う引き揚げ事業による結果であろう。厳密には、同族の羌族の末裔の西夏が唐の崩壊後に成立したし、また、他に契丹とか鮮卑など同族の国があったが、やはり最終的には全て消滅した(民族浄化された)ことになる。


雑談4

これだけの大事業を行ったのは、唐の皇帝と日本の天皇、特に中大兄皇子(天智天皇)との間の密約で、日本海を国境にして漢民族と日本民族を平和裡に分離する為であろう。

唐の滅亡後の中国の動乱の歴史を振り返ると、正解であった。

唐が滅んだ後、小さな国に再分裂している。


雑談5

百済人や高句麗人は殷人の末裔であった(参考)。

大勢の百済遺民の定住先としては関西や関東辺りとなるが、現在の関西弁は主に百済遺民に由来すると考えられる(参考)。

関東以東に定住した新羅人達の末裔が東国の武士になった(参考)。

高句麗人らも関東に定住している(参考)。


雑談6

平安時代は極端な寒冷化と温暖化に襲われた。寒冷化では作物が育たないのはよく理解出来るが、逆に温暖化なら作物が出来そうたが、そうでは無く不作となった。

実は、平安時代の温暖化では、干ばつの他、平安海進で水田が海水で没した箇所があった。例えば、下関市の延行条理遺跡は弥生時代からの水田であり、今でも稲作を継続しているが、平安海進の時は過半が海水に没した(参考)。


雑談7

気候変動と同時に疫病(伝染病)の発生も、人の移動を即し、中国大陸から日本列島への渡来の要因であった(参考)。奈良時代の天然痘での約百万人もの死亡があっても、日本の全人口が増えても減ることは無かった。


参考

① 日本の人口推移、平安時代の人口

平安時代キャンパス(参考)


平安時代(794年~)の全人口はおよそ500~600万人と言われています。

 

とは言えこれはあくまで推測に過ぎず、さまざまな研究者が当時の人口に関する論文や書籍を出しており、正確な数字は判明していません。

 

時代ごとの推移について見ていくと、奈良時代(725年~)の人口はおよそ450万人、奈良時代以前は80万人と言われています。

 

つまり、奈良時代になるまでには爆発的な増加があったものの、奈良時代から平安時代までは50~150万人程度しか増えていないことがわかります。



② 奈良時代初期(725年)〜900年間の人口増加率が0.20%/年である。


千葉の空、日本(列島)の人口推移(古代:渡来人数の人口増加率からの一考察・試算)より(参考)



③ 藤原京・平城京・平安京の人口推移


近代以前の日本の都市人口統計(wikiより)


日本においては律令国家成立期に戸籍が作成されたものの、今日までその詳細がほとんど残っていない。よって推定人口は、戸数・人口の記録と伝聞、都市域の面積、支配地域の推定総人口などをもとに研究されてきた。

以下にターシャス・チャンドラー英語版による16世紀までの主要都市の推定人口をまとめる。




④ 縄文人と同族の殷人の末裔は滅びることなく日本に帰化(渡来)した(参考)


⑤ 日本語の起源(参考)、、、原日本語を喋る同族は大陸にも大勢いた。


⑥ 鑑真和尚は殷人の末裔で原日本語を喋っていた(参考)


⑦ 源氏物語絵巻の雅な世界は唐から渡って来た(参考)


⑧ 仮名文字は遣唐使が唐から持ち帰ったものだった(参考)


⑨ 飛鳥時代から平安時代は寒冷期から温暖期に大きく振れて、人口の自然増加は期待出来なかったようだ

吉野正敏 (参考)

大化の改新から約100年間、すなわち7世紀前半から 奈良時代の初頭までは寒冷であった。この寒冷期は.、江戸時代の小氷期ほどではないが、日本の古代においては最も顕著な低温期であった。言い換えれば、飛鳥時代は寒冷時代で、安田(2004) は「大化の改新寒冷期」または「万葉寒冷期」と名付けた。その後、後述するように 8 世紀から ヨーロッパの「中世の温暖期」と呼ばれる時代に対応して、12 世紀または13 世紀まで温暖な時代が続いた。安田(2004)は「大仏温暖期」と呼んだ。


10 平安時代後期の人口停滞

NATIONAL GEOGRAPHIC(参考)

鬼頭宏

再び気候変動が起こる。今度は、温暖化だ。この温暖化によって、西日本はとくに乾燥が進み、水田などの水の確保が不安定になっていったという。弱体化した国家では、新たな農地灌漑をおこなう余裕もない。こんなふうにして、日本全体が、末法思想の広がりにみられるように未来に失望する停滞ムードに包まれ、人口停滞を招いていった。

この時代は、気候変動による飢饉や天然痘の大流行などの記録も残っています。


11 5世紀から8世紀までの渡来人の来朝についての年表(参考)

記録に残る人数は数十人、数百人、千人の単位となっているが、家長を1人としても、家族や家臣の合計は数10人から数100人にはなるはずで、実際には一度に数万人の渡来があったと推測される。

現代の自治会員名簿でも、世帯主の名前しか載っておらず、全人口は推定出来ない。また、お寺の檀家、農事組合員、神社の氏子、その他の名簿も同様である。


12 日本で唐(トウ)の国を「から」と呼ぶのは、自分達の先祖が唐(から)から渡来して来たから(参考)


13 平安時代の遣唐使と一緒に、ウドンや素麺に加工することで小麦を食べられるようにする技術と加工職人など庶民が渡来してきた