日置氏(へきうじ、へきし、ひおきし)は古代の高句麗の地に活躍した秦氏の一派であり、日本海を越えて日本列島に渡来した天孫の出雲臣族である。
参考
①-1 日置氏(へきうじ、へきし、ひおきし、wikiより)
高句麗系渡来人の末裔とされる古代日本の氏族
② 日置氏(族)とは(参考)
日置族は出雲臣族
このうち紀伊・日置首は天照大神の子天穂日命の後裔で、大江・秋篠・菅原朝臣と同祖です。また、京師・日置臣は菅原朝臣を賜り、土師宿禰と同祖です。さらに日置部の伴造である幣岐君は応神天皇の子大山守命の後裔です。
従って、日置族は天照大神、応神天皇の子孫ということになります。
901年藤原氏によって太宰府に流された日置族(土師族)菅原道真に縁の山口県の防府天満宮を建立したのは同族の周防国司・土師信貞です。
また、長州の毛利氏は山城国の日置族大江広元の四男李光の子孫であり、薩摩藩主の祖島津忠久は武蔵国の日置族比企禅尼の長女丹後局の子(ほかに比企禅尼の甥鎌倉御家人比企能員の娘説あり)ですから、薩長連合による明治維新は日置族が起こしたことになります。
古代日置氏族の集住した地として伝わる日置郷は、『和名抄』には大和国葛上郡、和泉国大鳥郡、伊勢国一志郡など、千葉県から鹿児島県にかけて広く分布している。
山口県では周防国佐波郡日置郷(佐波郡徳地町)と長門国大津郡日置荘(長門市日置)の2ヶ所が記載されている。
日置(へき)の語源は古事記では幣伎(へき)、和名抄では比於木(ひおき)とある(長門市日置町歴史資料館より)。
ここ長門市日置に集住した古代の日置氏は、油谷から深川までの広い地域を日置荘とし、隆盛していたとある。その基盤となったのは、堀田遺跡から出土された「ふいご口」、鉱滓などから推定されるよう、たたら製鉄・鉄冶業を本来の職掌としながら、日読み(暦作成)をも司ったことによるだろう。八幡人丸神社のある三佐崎山は御陵山ともいい、往古にこの地にあった豪族・日置氏の陵墓として造築されたものと考えられる。
長門市には、鍛冶屋、鑪、火渡、金焼などの鉄冶業関連地名も多く残り、室町初期(1350年頃)には、これら金屋職人をたばねる金屋大工所が瀬戸崎(長門市仙崎)に置かれている。金屋大工所は他に須佐(萩市須佐)・津波木(萩市椿)・厚狭(山陽小野田市)・肥中(下関市豊北町)にも配され、金屋浜町(下関市長府)に惣官所が置かれている。
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⑤ 日置氏とは、東アジアに広く分布した秦氏の一派である。秦の始皇帝、天照大神、応神天皇らの子孫であり、Y-DNAハプログループD2(旧分類)に属した。