古代日本への人々の渡来は、気候変動、伝染病などを原因とした社会体制の混乱が要因か! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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隋の煬帝末期の610年から唐初期の648年の約40年間には、7回も疫病が大流行した。隋も瘟疫(うんえき、瘧、熱病、マラリヤ?)で倒れた。

これに対し、蘇我氏を645年に打倒した中大兄皇子と中臣鎌足らは、大化の改新を断行し、古代の倭を大宝律令を柱とする日本と言う法治国家とした。701年に完成した大宝律令には、医疾令という医療制度が盛り込まれていた。

663年の白村江の戦いもあるように、海外との交流が盛んになるにつれ、大陸の唐や新羅への遣唐使、遣新羅使の一行などが疫病を持ち帰ることが増えた。奈良時代を中心とする100年間に疫病は約40回発生したとされ、735年に始まった天然痘の流行も、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる100万–150万人が感染により死亡したとされているが、大陸からの人の移動が原因と考えられている。

中国大陸での伝染病などの流行が隋から唐に国家体制を揺り動かしただけで無く、日本にも伝わり、日本も揺り動かしていたことになる。

この時代、飛鳥時代から平安時代、すなわち7世紀から12世紀の間、全地球的な気候は寒冷化から温暖化と急変して、冷害・旱魃・飢饉・伝染病など疫病の発生などが日本だけで無く、中国大陸を含む全世界的に発生していたが、それにも関わらず日本の人口は増加していった(参考)。

中国大陸での冷害・旱魃・飢饉・伝染病など疫病の発生が国家体制を揺り動かし、大陸より相対的に条件の良い日本列島への人々の移動(渡来)を促したことになる。


参考

① 奈良時代のパンデミック…「大陸からの感染症」に次々と倒れた藤原氏一族

PHPonline(2020.03.17、参考)

奥田昌子(内科医・著述家)


新型コロナウイルス禍が日本全体に大きな影響を及ぼし、世界各国でも感染者を急増させ、感染症の恐ろしさを示している。

医学の視点から、日本人の体質を踏まえた予防医療を考え続ける、医師で著述家の奥田昌子氏は著書『日本人の病気と食の歴史』にて、感染症に苦しめられる歴史はすでに縄文時代からあったことを示している。

本稿では同書より、日本で感染症が流行しそれにより政治に大きな影響を与えた歴史に触れた一節を紹介する。

※本稿は奥田昌子著『日本人の病気と食の歴史』(ベストセラーズ刊)より一部抜粋・編集したものです。

日本でも珍しくなかったマラリア

蘇我氏の本流を645年に打倒した中大兄皇子と中臣鎌足らは、大化の改新を押し進め、古代日本は大宝律令を柱とする法治国家に生まれ変わります。

701年に完成した大宝律令には、医疾令という医療制度が盛り込まれていました。

国として医師を養成し、全国に配置しようという画期的な制度でしたが、興味深いのは医師の専門分野です。

内科、外科、小児科、耳鼻科、眼科は当時もありました。これに加えて鍼灸(しんきゅう)と按摩(あんま)、このあたりはわかるとして、もう一つ、「呪術」があったのです。

朝廷の役人を治療する医師は10 人と定められており、そのうち2人が呪術の専門医でした。


次々と感染症に倒れた藤原氏

海外との交流が盛んになるにつれ、大陸の唐や新羅への遣唐使、遣新羅使(けんしらぎし)の一行が疫病を持ち帰ることが増えました。

奈良時代を中心とする100年間に疫病は約40回発生したとされ、735年に始まった天然痘の流行も、大陸からの人の移動にともなうものと考えられています。

このときは、中臣鎌足あらため藤原鎌足の子、藤原不比等と、その4人の息子が相次いで天然痘で死亡しました。

感染の拡大を食い止めようと、数百人規模の僧が宮中で読経し、ときの聖武天皇は大赦を行い、全国に国分寺、国分尼寺を設立し、さらには東大寺に大仏を建立するなど思いつく限りの手を打ちました。

それまで豪族が私的に信仰していた仏教は、奈良時代には国家仏教へと変化して、国が寺を建立し、天皇が国家の鎮護を願うようになっていたのです。

全国で猛威をふるう天然痘だけでなく、限られた地域で発生する疫病もあり、湿地ではマラリア感染が頻繁に起こりました。マラリアは、奈良時代には瘧(おこり)と呼ばれ、大宝律令は重要な病気の一つに瘧をあげています。

マラリアというと熱帯の病気と思われがちですが、マラリア原虫に感染した蚊が湿地で繁殖するため、水田が広がる日本では昭和時代の終戦後までありふれた病気でした。

国内で最後までマラリア感染が残っていたのは、水路が発達した琵琶湖のほとりだったようです。

さらに、らい病、現代でいうハンセン病、フィラリア原虫による寄生虫症、結核、赤痢、腸チフス、急性胃腸炎などの感染症、脳卒中、脚気(かっけ)なども日常的に発生しました。

加持祈祷だけでなく、医療知識の集積始まった

これらの病気が相手では呪術も読経も効くはずがありません。とはいえ、当時も加持祈祷だけに頼っていたわけではなく、735年に始まった天然痘の大流行の際には、朝廷は医術にもとづく通達も出しています。

おなかと腰を温め、生ものを避けて粥や重湯を食べ、海藻ないし塩を口に含ませよ、などの指示が記されていました。

体を温かくして消化によいものを食べるのは体力をつけてウイルスを撃退するため、海藻や塩を口に含ませるのは、発熱が続いて汗を大量にかき、脱水になるのを防ぐためと考えられます。

どれも回復を促す効果が期待でき、取りうるなかでは最善の対処法といえそうです。

薬草を使った薬酒も作られるようになっていましたし、日本各地の物産、草木、伝説などを記載した風土記の編纂も進められ、病気の治療法と、各地に自生する薬草が数多く収録されました。

呪術医や僧の力にすがる一方で、その力が万能ではないことを痛感していたのでしょう。

756年に崩御した聖武天皇の遺物をおさめた東大寺の正倉院には、大陸や、遠くはインド原産の薬が約60種類伝えられており、一部は鑑真和上が持参したものではないかといわれています。

鑑真は聖武天皇の招きで苦難の末に来日し、仏教だけでなく医術、薬学を広めました。おそらくは、全国から選び抜かれた秀才たちが、病に打ち勝つ手がかりを求めて、鑑真が伝える最新の知識を熱心に学んだと思われます。


② 歴史も証明。中国という国を滅ぼしかねぬ新型肺炎という「疫病」

MAG2NEWS(参考)

by 黄文雄『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真…


中国の武漢市を中心に猛威を振るう新型肺炎。1月25日の春節を含む大型連休には億単位の中国人が移動するとも言われ、パンデミックの可能性も囁かれていますが、過去にも中国から多くの疫病が世界に広がったとするのは、台湾出身の評論家・黄文雄さん。黄さんは自身のメルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』で、中国の「疫病史」を紹介するとともに、現在も複数存在する「中国発の疫病」が世界に広がる要因を記しています。

※本記事は有料メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』2020年1月22日号の一部抜粋です。

プロフィール:黄文雄こう・ぶんゆう

1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』(徳間書店)など多数。

【中国】「中国発パンデミック」はなぜ厄介なのか


中国湖北省武漢市を中心として広がる新型肺炎の感染が止まりません。ついに死者は17人、発症者540人超にも拡大しました。ついにアメリカでも武漢を訪れていた男性1人の感染者が確認されました。中国以外では、アメリカ、日本、韓国、タイで発症者が出ています。WHO(世界保健機関)が緊急事態宣言を出す可能性も出てきました。

死亡率は現在のところ2%でまだ低いですが、これから上昇していく可能性もあります。ちなみに、SARS(重症急性呼吸器症候群)も中国の広東省を発端として各国に広がりましたが、このときは発症者8,096人のうち774人が死亡しています(致死率9.6%)。


また、2012年から中東やヨーロッパで発症例が報告され、2015年には韓国でも流行したMERS(中東呼吸器症候群)は、2,494人が発症し、そのうち死者は858人(致死率34.4%)でした。


これに比べれば、まだまだ致死率は低いものの、前回のメルマガでも書いたように、これから旧正月によって一気に拡大する可能性があります。

かつてユーラシア大陸で流行った疫病は、必ずといっていいほど日本に入ってきています。江戸時代には天然痘(疫病)、麻疹(はしか)、赤痢が見られ、このうち天然痘は18世紀前期に大流行。麻疹も同時期に2~3回大流行し、赤痢は18世紀から19世紀にかけて大流行しました。いうまでもなく、中国からの伝染です。

中国では、1880年に広東と寧波でコレラが大流行。翌81年には北京でも大流行しました。この感染経路は、発源地を広東とする2003年のSARS流行とそっくりです。そして、中国でのコレラ大流行直後の1882年10月~11月の中旬、日本でもコレラが大流行することになります。北里柴三郎や初代内務省衛生局長であった長与専斉によれば、その日本侵入経路の起点は中国で、これがまず長崎に入り、そうして日本全国へ広がったといいます。

日本では、これに対処するため、1885年に函館、新潟、横浜、神戸、下関、長崎の港に常設の消毒所を設置。その後、1899年に「海港検疫法」が公布されるなどして、検疫制度が確立していきます。こうした取り組みが中国からの疫病侵入を防ぐ力となったのは言うまでもありません。しかし、一方の中国は、現在に至るまで根本的な対策は取られないままできているのです。

この日本と中国の衛生観念や防疫意識の違いは、台湾にも如実に見て取れます。日本植民地時代の台湾には、疫病の大々的な流行がほとんど見られませんでした。というのも、総督府は1900年代に入ってすぐに、都市計画に始まって衛生教育に至るまでを徹底して実施。北里柴三郎に依頼して、その一番弟子を台湾に呼んでまで、防疫をはじめとする公衆衛生に取り組んできたからです。

それが終戦で一変しました。日本が台湾から引き上げ、かわりに中国軍が台湾に進駐したとたん、すでに絶滅していたはずのコレラ、天然痘、ペスト、チフス、マラリアといった疫病の大流行が台湾全島を急襲したのです。1946年にはペストとコレラの、翌47年には天然痘の大流行に見舞われています。台湾から見た中国人とは、まさに疫病神以外の何者でもありませんでした。

中国でも日本軍が進出した際、地方の農民が大歓迎するケースも少なくありませんでした。それは、日本軍が通過した地方は、かならず伝染病が消えていき、衛生の問題と課題が消えるからでした。


中国の疫病流行は、すでに史前から甲骨文に刻まれています。現在、その甲骨文から確認できる殷周時代の古代人の疫病は約16~20種類もあります。そして、周初から漢代に至る「大疫」(疫病大流行)の記録では、しきりに「死者万数」「人多死」「士卒多死」「其死亡者三分有─」と、多くの死者を出したことを示す文言が繰り返し出ているのです。

中華帝国以後の中国は二千余年間、周期的、加速的に水害、旱魃等の天災に見舞われてきました。そして、旱魃の後に大飢饉が、水害の後に大疫病が発生するというのが、いわば「定番」になっています。歴代王朝の「正史」には疫病の大流行が数年ごとに、時には連年で記録されていることが、それを証明しています。

中国の歴代王朝は、実際には「大飢」や「大疫」によって滅ぼされた場合が多くあります。「大飢」によって生まれた流民が「大疫」の媒介や運び役となって世界へ拡散していくのです。

たとえば明の滅亡については、政治腐敗と、それに蜂起した農民反乱軍によって滅亡したと語られていますが、実は、それだけが要因ではありません。明末には「大疫」や「大飢」が間断なく襲い、餓死者や疫死者が続出。流民、流賊、流寇もあふれていたのです。これもまた、農民が反乱する要因にもなっていました。

ことに明末の万暦、崇禎年間(1573~1644年)には、華北地方で疫病が猛威をふるい、少なくとも1,000万人の死者が出ました。主にペストや天然痘です。明王朝は、実はこの大疫によって倒れたのであり、清に滅ぼされたわけではないのです。

また、黒死病(ペスト)といえば、中世のヨーロッパを襲った恐るべき流行が、史上でもっとも有名で、1348~51年の3年間で、人口の3分の1を死に至らしめています。その伝染経路については諸説があありますが、もっとも有力なのは中国大陸を発源地とするものです。

最初に大流行したのは南宋王朝です。この時、南征中だったモンケ・カーン(チンギス・カーンの孫、フビライ・カーンの兄)が病死していますが、その病気がペストだったとも指摘されています。南宋と戦っている間にモンゴル軍に伝染したのです。

このモンゴル軍の遠征を通じて、ペストは西アジア、クリミア、ベネチア、北アルプスを経て北上し、やがて全ヨーロッパに伝わっていきました。

元末の至正年間(1344~62年)の間には、「大疫」だけでも11回も起こっています。中華帝国の人口は、1200年には1億3,000万人いたとも推定されていますが、ペストの大流行によって、すでに1331年の時点で3分の2が死んでいます。ユーラシア大陸の東西ともにペストに襲われ、人口が大量に減ったのです。

また、それより以前、隋の煬帝末期の610年から唐初の648年の約40年間には、7回も疫病が大流行。隋も瘟疫で倒れています。

その他、インフルエンザ系の疫病はSARSに限らず、その発源地はほとんどが中国です。たとえば、1918年の秋に全世界で猛威を振るったインフルエンザ。感染者は地球人口の20~40%にも及び、感染からわずか4ヵ月で2,000万人が死亡し、その死亡率は約2.5%でした。日本でも2,000万人以上が感染し、死者は約40万人に上っています。

これが「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザで、名称からスペインが発源地であると誤解する人が多いですが、実は、これも中国が発生源でした。そもそもは、1917年に中国の南方で発生したものが、船便を通じて世界各国へと拡散したのです。

中国で医療衛生が制度化されたのは、なんと20世紀になってからのこと。義和団事件後に変法派官僚によって、やっと天津に衛生総局が設立(1902年)されたのです。それも、中国から世界にペストがばら撒かれることを危惧した列強からの強い要請があって、ようやく重い腰を上げたというのが本当のところです。外国人を排斥する大事件が引き金になって、その外国の圧力によってようやく医療衛生が制度化されるという、皮肉な話です。


一方、儒教の影響が現在も色濃い中国では、医師の社会的地位は非常に低いものです。たとえば日本と台湾では、通常、成績がいい学生が大学の医学部へ進みますが、中華の世界ではまったく逆で、成績の悪い学生が医師になるのです。だから、中国では現在も医者は軽んじられる存在なのです。

たとえば、中国では医者に対する患者の暴力行為が頻発しており、「医閙(イナオ)「医傷」などと呼ばれています。その件数は年間数万件にも及ぶため、中国政府は2018年に、毎年8月19日を「中国医師の日」にすることを定め、医者を尊重するよう呼びかけているほどです。

また、2012年の調査によると、臨床医の初任給は1カ月あたり平均2,339元ですが、中国の新卒の平均的な初任給は1カ月あたり3,051元であり、医師と看護師がもっとも低水準なのです(「中国網」2013年10月8日付)。このような状態であるため、誰も医師になりたがらないし、医療体制も低いままなのです。

また、日本のような医療保険制度がほとんど普及していない中国では、高額な医療費のために、病気になっても医者にかからない人民も多い。そのため、疫病が拡大してしまうのです。

もちろん、中国は言論統制の国であり、また、WHOまでもカネの力で牛耳っているため、事実隠蔽が平然と行われ、そのために被害が大きくなってしまうという点も重要です。

このように、中国発の疫病が世界に広がる要因は複数存在しています。日本人にとって、これからもっとも注意すべきは、パンデミックの流行です。中国への渡航、あるいは中国人観光客が多く集まる場所へ出かけていく場合には、十分に気をつける必要があります。

image by: Hung Chung Chih / Shutterstock.com


③ 天平の疫病大流行(wikiより)

735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。