平安海進時の下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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縄文時代に海面が上昇していたことは有名であるが、平安時代(8から12世紀)にも4m位、海面が上昇していたと言われている。wikiによるとロットネスト海進と呼ばれ、12世紀ころ世界の平均では高々50cmの上昇であった!潮位の干満の差が3m、波や風の影響などを考えて、最高潮位を4mの上昇として考察する。

下関市大字福江の郷土の伝承などにも水田の奥地の八貫堤(堤自体は江戸時代初期に築造)まで舟が登ってきたことが語られている。

そうすると、弥生時代の条里制水田遺跡である綾羅木の水田地帯は海面下に沈むことになり、条里制水田の記憶を失う可能性がある。また、東海岸の長府から小月までの古代山陽道も一時的途絶えることになる。


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右側が弥生時代の条里制水田、左側が響灘

綾羅木川と国道191号線とJR線の間が、まるで堤防かの様に海抜が高くなっている。綾羅木の弥生時代の条里制水田が現在まで続いていると言うことは、平安海進時に堤防があり、水田を守ったからであると思われる(参考)。

時代に齟齬があるが仲哀天皇の穴戸の開削工事伝説とは、この時代の綾羅木川の護岸工事に関係しているかも知れない(参考)。


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平安海進時に長府と小月を直通する古代の山陽道は使い辛い。安定的な通行には、県道33号線、34号線と247号線を遠回りしたようである。後には、また海沿いの山陽道に復帰したと考えられる。


参考

① 縄文海進と平安海進(
参考)

日本列島の海水準の上昇(海進現象)は、現在の「間氷期」になってから起きた6000年前の『縄文海進』で10mほど海面が上昇した。8~12世紀にかけ『平安海進』で4mほど上昇している。


② wikiにおける平安海進

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③ 平安海進時の下関市

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下関市全体

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北浦海岸側の綾羅木から安岡、福江

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周防灘側の長府周辺、古代の山陽道は一部水没していたと考えられる。(注意: 国道2号線と9号線から東側は現代の埋立地であり、無視すること)


④ 海面上昇計算地図(参考)


⑤ 平安海進と吉見の塩田(参考)