何故、唐(トウ)のことを「から」と呼ぶのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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ヤフー知恵袋に『遣唐使などがありましたが、唐(トウ)という字を「から」と読みますよね。どういう経緯で、こういう読みになったのか疑問です。』と言う質問があった。

例えば、

・唐芋(からいも、
薩摩芋(さつまいも)、またはトウイモとも呼ばれ、熱帯アメリカの原産で日本には17世紀に伝わった)
・唐揚げ(からあげ、江戸時代初期に中国から伝わった普茶料理にあった)
・唐衣(からごろも・からぎぬ、万葉集にも出てくる唐の衣装や平安時代の十二単の上衣)
・唐傘(からかさ、洋傘に対する和傘の総称。唐より舶来したものとされる)
・唐物(からもの、中世から近世にかけて尊ばれた中国製品の雅称である。唐から直接に来たものでは無い)

などがある。

ちなみに、漢字の唐の音読みは漢音で「トウ」、訓読みで「から」となっている。(注: 唐・宋音は後の時代の音読み)

これは、古代中国の秦を秦人自らは「しな(支那)」と呼び、漢民族は「シン」と呼んだが、同様に、唐を日本に渡来した人自らは「から」と呼び、唐の現地に住んだ漢民族は「トウ」と呼んだことに由来する。

実は、古代中国の秦や唐の支配階級は殷人の末裔で原日本語を喋り、秦と唐は夫々、訓読みの「しな」、「から」が自らに対する正式な読みであった。そして、彼らは日本に渡来して来て、故国を夫々「しな」、「から」と呼んだのであった。

すなわち、秦の末裔達と、遣唐使が唐に訪れた時代に日本に渡来して来た人々が人数的に圧倒的に多かったことを示唆している。


雑談1


唐傘(からかさ)は番傘や蛇の目傘の元となる傘。

昔のまだ傘が日本になかった第29代天皇(欽明天皇、539年頃)の時代に、中国大陸から輸入されたのがこの唐傘だった(参考)。注: 厳密には唐より前の時代である。


雑談2

現在、支那人と言う言葉は中国人を差別したり、揶揄する時に使用するが、本来の意味からすると自分達を貶めていることになる。

通説とは逆の説明になるが、自分達の国を支那(しな)と呼んだ他に震旦(しんたん)とも呼んでいたので、これから秦(シン)の国名が生まれたようだ(参考)。


参考

① 日本語の起源(参考)、、、古代、東アジア全体で原日本語が喋られていた。例えば秦が原日本語を喋る代表であり、日本の渡来人の秦氏が秦の末裔であった。


②-1 漢字の訓読みも古代中国大陸から渡って来た(参考)


②-2 漢字の起源の甲骨文字に音読みと訓読みがあった(参考)


③ 隋や唐の皇帝は秦と同様に縄文人と同族の殷人の末裔であり、原日本語を喋っていた(参考)


④ 遣唐使は先進世界の文物や仏教を持ち帰っただけで無く、多くの民を連れ帰っていた(参考)


⑤ 古代中国の殷は縄文人の同族の国で、秦も唐の支配階級は殷人の末裔であり、原日本語を喋った。そして、彼らは最終的に日本に帰化(渡来)して来た。