遣唐使を止めたら国風文化が花開き、唐風文化が日本文化に消化・吸収される中で、中国の漢文が日本的な漢文へと変化し、9世紀に仮名文字が生み出されとされている。特に女流文学の為の文字として普及したとされている。
しかしながら、8世紀中頃の新羅で仮名文字の使用の実例があった。実は、漢字の起源の甲骨文字を発明した殷人が原日本語を喋り、殷人または彼らの末裔が漢字・漢文の他、仮名文字を発明していたようだ。
この仮名文字が日本に渡って来たのは、遣唐使の帰国時であった。
従来、平仮名は弘法大師(空海)が作ったもの、片仮名は吉備真備が作ったものとも伝えられていたが、俗説に過ぎないと検討もされずに無視されていた(wikiおよび下記参照)。彼らは遣唐使として唐に渡って、唐の文化や仏教の奥義を持ち帰ったが、唐に置き忘れていた仮名文字も持ち帰っていたのであった。そして、その普及は国風文化が花開いてからであった。
参考
漢字の歴史や起源とは?
前半省略
漢字が中国から伝わると、日本人は日本独特の漢字も作りだし、それまで口伝えで伝えていた日本語の音を表記するために万葉仮名(まんようがな)が作られました。
万葉仮名は、漢字の表す意味とは無関係に、言葉の音に当てはめたものです。
例えば、「やま(山)」を「也麻」、「はる(春)」を「波流」のように、1字1音節となっています。
万葉仮名がいつごろ生まれたのが定かではありませんが、「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」が発掘されたことから、5世紀には使われており、正倉院(しょうそういん)に残された文書や資料の発掘などにより、7世紀ごろには成立していたと考えられています。
ひらがな、カタカナの歴史や起源とは?
吉備真備(きびのまきび・695年~775年。奈良時代の学者)がカタカナを作り、空海(くうかい・774年~835年。後の弘法大使)がひらがなを作りだしたという伝承がありますがこれは俗説にすぎません。
後半省略
② かな文字とは
人間科学大辞典 Jinkawiki(参考)
漢字を真名(まな)というのに対して、奈良時代の万葉仮名の後、一般には平安初期に漢字から生まれた簡易で便利な表音文字である平がな、片かなを指す。そして、かな文字は日記や物語文学を発展させた。 かな文字の発達は、国風文化の国風化をあらわす。
・国文学の発達
平がなや片かなの字形は11世紀はじめにはほぼ一定になり、広く使われるようになった。その結果、日本人特有の感情や感覚をいきいきと伝えることも可能になった。このことは国文学をおおいに発達させた。
・平がな
平安初期、万葉仮名の草書体である草がな(草体がな)を簡略化した日本文字のこと。つまり、日本語を表記するために作り出された表音文字のこと。特に女性に用いられ、女手(女文字)とも呼ばれた。その様式の美しさが芸術的に工夫されて、その一方では日本文学の発展に貢献をした。草がな(草体がな)から平がなへの早期の資料として、9世紀半ばの讃岐国司藤原有年の文がある。
・草がなとは、古くは、篆隷(てんれい)という中国で秦以前に使われた書体、を簡略にしたもの。後代には、行書(ぎょうしょ)をさらに崩して点画を略し、曲線を多くしたもののこと。
・片かな
奈良期以後、僧侶の仏典訓読の便利さのために、漢字の偏・旁(つくり)・冠などの一部を表音符号として始まるもの。
平がなと片かなの誕生
かな文字は、日本語を表記するために作り出された表音文字であり、古くには漢字を表音文字的に用いた万葉仮名が使われていた。その万葉がなは5世紀頃から見られているが、本格的には8世紀後半に成立した「万葉集」において発達したと考えられている。その後、国語自体にも変化が多少みられたこともあり、9世紀初めころから、平がな・片かながともに生じた。
平がなは弘法大師(空海)が作ったもの、片かなは吉備真備の作ったものとも伝えられているが、真偽は疑わしいとされている。
弘仁・貞観文化の時代に入って、唐風文化が日本文化に消化そして吸収される中で、中国の純粋な漢文が日本的な和様漢文へと変化していく過程で、国語表記のひとつの方法として現れた。ただし、それは、当初、官庁や寺院内で非公式に使われるようになったものと思われ、公式な文書には用いることがなかったとされている。
③ 片仮名の起源(参考)、、、片仮名は9世紀に作られたとされていたが、遅くとも8世紀中頃の新羅で使用されていた。
④ 遣唐使を止めたら国風文化が花開いたと言うが、国風文化は唐から持ち帰ったものだった(参考)
⑤ 日本語の起源(参考)、、、、古代の原日本語は東アジアに広く喋られており、漢字のほか、仮名文字も発明されていても可笑しくない。
⑦ 仮名文字は3600年前の殷王朝の甲骨文字と同時期には作られていた