桜を愛でる国風文化も遣唐使が持ち帰ったものだ! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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遣唐使を廃止した時期から唐風文化が廃り、国風文化が盛んになったと定説になっている。また、桜を愛でる日本の文化についても、「日本が遣唐使の派遣を廃止し、唐朝が滅亡するようになると、唐風文化は廃れていく。平安時代になると国風文化が栄え、桜の人気もそれに応じて高まっていった」と言われている。

そうであろうか?何故、国風文化が盛んになると桜の人気が高まるのであろうか?何故、唐風文化に勢いがあった時は梅を好まれ、桜の人気は無かったのであろうか?遣唐使や遣隋使などが実施される前には、桜が好まれた時期が若干でもあったのであろうか?

実は、遣唐使が中国大陸内に残された殷人(縄文人と同族)の末裔の文化(日本の国風文化、漢民族の文化では無い)を唐時代の中国大陸から日本に無事に移植した結果、国風文化が日本において盛んになったのであり、桜を愛でる文化が花開いたのであった。

梅も桜も中国大陸から渡って来たもので、桜の原産地はヒマラヤのネパールであったので、桜の花の存在は唐の人々にも知られて、愛でられていたはずである。また、国風文化に特徴的な和服のデザインも中国南部の少数民族のミァオ族の服などに見いだすことが出来る。

それまでの唐風文化や古墳時代の埴輪に見られるユダヤ人風の文化は、当時の支配者である渡来人の出身地で流行した文化であったのであろう。


雑談

隋や唐の時代の中国は、漢民族の民衆を非漢民族の皇帝と多くの民族から科挙で選抜された官僚が支配しており、民衆の漢民族の文化と支配階層の文化は異なっていた。実は皇帝は殷人の末裔であり、縄文人の末裔でもあったので、日本列島の縄文人と親和性のある文化、すなわち国風文化を保っていたのであった。だから、唐の国が崩壊したと同時に国風文化が中国大陸から消滅したと考えられる。

 似たような事情は後代の清王朝時代にあった。民衆は漢民族の文化であったが、皇帝は紫禁城の中では満州族の文化を保っていたのであった。漢文の文書も満州語などで解釈していたと言われている。また、現在の北京語は以前の中国語に満州語が混じったものらしい。


参考

① 桜の原産地は、ヒマラヤの国ネパールだった

写真家 有賀正博が撮影現場で書いてるブログ(2015年3月7日、参考)


ヒマラヤの国、ネパールの桜は秋に咲く。

11月にアンナプルナ ヒマラヤの麓の村々をトレッキングしていたら、農家の庭先に咲いている白い桜を見かけた。ネパールの桜は一旦咲くと、かなり長いこと咲いたままで、なかなか散らない。

桜の原産国はネパールだった

ところで、桜は日本の国花だが、原産地はどこの国なのだろう?

桜は、日本をはじめ温帯地域に自生する樹木で、ものすごく種類が多い。そして近年、日本、韓国、中国など、温帯の各国に自生する桜のDNAを解析して明らかになった事実は、桜の原産国はここネパールの山地だった。

ネパールは実は温帯の国だった

ネパールは、8000m峰を14座も擁すヒマラヤ山麓の国。高地には氷河や永久凍土があることから極寒の地だと思われている。

しかし実は、ネパールの国土の大部分は高地でも低地でもない、丘陵地帯だ。気候は主に温帯に属し、日本よりもやや暖かい。首都のカトマンドゥの平均気温は年間を通して東京をやや上回る。

下の写真はいかにも「ネパールらしい」風景。ヒマラヤ山脈を背景にして、民家の庭先にはバナナの木が生えている。温帯といっても亜熱帯に近い。なにしろネパールは奄美大島と同じ緯度にあるのだ。

桜の起源は、数千万年前にここネパールの丘陵地帯で生まれた山桜だった。

それがビルマの山岳地帯→中国雲南省→福建省→日本へと続く温帯ベルトを鳥に運ばれてきた。それは人類発生よりも遙か以前のことだ。そして何百万年を経てから、日本で人々にことさら愛され国の花となった。


各地の桜の染色体を調べて、ネパールと日本の桜の染色体の数が同じで、近い種であることを発見したのは東京農業大学の染郷正孝博士。博士は研究のために幾度もネパールを訪れたそうだ。

桜が春に咲くのはどうして?

桜は、原産地のネパールでは秋に咲く。

しかし、ほとんどの日本の桜は春に咲く。日本人は「桜は春の花」だと思っている筈だ。もともとは秋の花だった桜が、なぜ日本では春に咲くようになったのだろうか。

春の千鳥ヶ淵

これも研究によってあきらかにされている。

ネパールの丘陵地帯は、温帯といっても亜熱帯に近い。首都のカトマンドゥに雪は降らないが、カトマンドゥを囲む山々にはまれに積雪する。ぼくも周囲の山が真っ白になるのを街中から見たことがある。

このように、雪がぎりぎり降らない温暖な地域で生まれた桜が、日本に来て遭遇したのが想像を絶する(笑)厳冬。これを乗り切るために冬になると葉を落として基礎代謝を落とし冬眠することを覚えたのだ。そして、暖かくなってから花を咲かせるようになった。

生命の適応力はすごいね。日本にも「十月桜」や「寒桜」のように秋から冬にかけて咲く桜があるが、それらは祖先の姿を残している桜なのだ。

特筆したいのは、1968年に、ネパールのビレンドラ王子(後に国王)からヒマラヤザクラの種900粒が日本に送られたこと。その種から育った原木がいまも静岡県立熱海高等学校門前にあり、毎年11月に開花している。詳細は熱海市のサイトで


② 日本文化の中の桜 無常を感じさせる美観

チャイナネット(2012.4.10、参考)


「花」が梅から桜に変わるまで

日本で最も古い史書「古事記」と「日本書紀」には、すでに桜に関する記載がある。日本で最も古い詩歌集である「万葉集」にも、桜を詠んだものがある。とはいえ奈良時代の和歌において、「花」といえば梅を指していた。「花見」は奈良時代の貴族が行ったのが起源だが、その時代に鑑賞していた花とは、中国から伝わった梅だった。桜に取って代わったのは平安時代のことである。この変化は「万葉集」から見ることができる。「万葉集」で梅に関する詩歌は118首あるが、桜のそれは44首しかない。平安時代の「古今和歌集」で、その数は逆転する。日本が遣唐使の派遣を廃止し、唐朝が滅亡するようになると、唐風文化は廃れていく。平安時代になると国風文化が栄え、桜の人気もそれに応じて高まっていったのだ。

桓武天皇が平安京に遷都したころ、大内裏正殿紫宸殿の前には、玉座からみて右側に橘の樹が植えられ、「右近橘」と呼ばれた。左側には梅が植えられ、「左近梅」と呼ばれた。しかし桜が好きだった仁明天皇が在位していた時代に梅が枯れ、桜に植え替えられた。これを「左近桜」と呼ぶ。これもまた、時代の変化を示す象徴的な出来事であり、日本人の美意識の変遷を示すものである。現在、京都御所もかつてに倣い、左近桜と右近橘が植えられている。

平安時代以降、「花鳥風月」の「花」は、桜を指すようになった。この時代以降から、桜を歌った詩歌はますます増えていく。和歌の詩人のうち、特に平安時代の西行法師は桜をとても愛した。「願はくは花の下にて春死なん」という一首が有名である。今に伝わる地方の民謡にも「どうせ死ぬなら桜の下よ、死なば屍に花が散る」という歌詞があり、日本人の桜への愛着がうかがわれる。

平安時代の嵯峨天皇は桜を非常に愛したことで知られる。「日本後紀」には、嵯峨天皇が812年、神泉苑で花宴を行ったと記載されている。記録上、最初の「花見」である。831年、花見は宮中に舞台を移し、天皇主催による定例の催しとなった。この情景は、「源氏物語」の「花宴」で描かれている。

江戸時代以前には「花は桜、人は武士」という言葉がすでにあった。「花」といえば桜というイメージが、この頃すでに日本に根付いていたことになる。そして各地に多くの桜の名勝が出現した。園芸面での開発も大いに進み、様々な桜の花を楽しめるようになった。江戸時代末期前には、すでに300種類以上の桜が存在しており、現在は600種類以上になっている。江戸時代末期、「ソメイヨシノ」が作られた。現在日本で最も広範囲で咲き、最も日本人に愛されている桜である。明治時代以降、さらに多くの場所に桜が植えられた。この頃、全ての階層が「花」といえば桜を指すようになった。


③ 唐の皇帝は殷人の末裔で、縄文人の末裔でもあった(参考)


④ 日本に渡って来られた鑑真和上も殷人の末裔で、縄文人の末裔でもあった(参考)


⑤ 和服(呉服)によく似た服装は中国南部のミャオ族に見られる(参考)


⑥ 神社や宮中の服装の斎服(狩衣)は中国北部のモンゴル族や南部のチャン族に見られる(参考)


⑦ 遣唐使を止めたら、国風文化が花開いた