水稲稲作文化と梅雨 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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梅雨(バイウ、つゆ)の季節となると、何故、梅の雨と呼ぶのか疑問になる。中国でも日本でも漢字で梅雨と書く。

実は、梅の原産地から植生地域、米の生産地域、梅雨の降雨地域が一致し、また、照葉樹林帯に一致しているのであった。そして、梅雨の季節に水田で田植えをする渡来系弥生人の故郷(揚子江中下流域)とも一致していた。

この弥生人が水稲の他に芋、茶、蚕、雑穀、味噌、納豆、、、などを持ち込んだが、同時に梅も持ち込んだと考えられる。この梅を収穫する時期に降る雨が梅雨であり、田植えをする時期でもあったのである。

また、カビが生える時期でもあるから漢字の黴(かび、バイ)の字も梅の字の代わりに使われたようだ。


参考

① 「入梅」の時季とそのいわれを教えてください。また、梅雨に旬の「うめ」の原産地と出荷量が多い都道府県も教えてください。

農林水産省・消費者の部屋(参考)

回答

【入梅とは】 「入梅」は、暦の上では梅雨入りの最初の日(今年は6月11日)をいいます。天気予報がない江戸時代には、田植えの日を決める目安となっています。 「梅雨」という言葉は、昔、中国でうめの実が熟する頃の雨を「梅雨(めいゆ)」と呼び、それが日本に伝わったといわれています。また、この時季は黴(かび)が生えやすい頃なので「黴雨(ばいう)」と名付けられたようですが、ちょうどうめの実が収穫される頃にあたることから、「梅」の字をあてて「梅雨」と書くようになったともいわれています。 なお、「つゆ」と読むのは「露」やうめの実が熟して潰れる時季であることから「漬ゆ(つゆ)」など、諸説あります。

【うめの歴史】 うめの原産地は、ヒマラヤ山脈の東側、中国の山奥にある雲南省、四川省、チベットの山岳地帯です。中国では、紀元前2,000~4,000年前から栽培されており、うめの実は食用や薬用として、重宝されてきました。 日本では、木の破片や種などが弥生時代の遺跡で発見されており、その頃には既に中国から伝わったと考えられています。 奈良時代には、僧侶たちによって実が薬になる薬用果樹として新たに伝えられました。平安時代には、貴族たちの間で、花の美しさから観賞用の花木として人気が高まりました。特にうめの花を愛した貴族として有名なのが、学問の神様「天神様」として名高い菅原道真です。 うめの実の代表的な加工食品である「梅干し」は、日本では室町時代から作られてきましたが、当初は上流階級の人々の薬として珍重されていました。庶民が梅干しを食べるようになったのは、うめの栽培が盛んになった江戸時代からといわれています。 

【うめの出荷量】 農林水産省の統計によると、平成30年産のうめの出荷量は、全国で99,200トンです。出荷量の一番多い都道府県は、和歌山県で70,600トンと全体の約7割を占めています。 うめの実に含まれるクエン酸は、食欲増進や殺菌効果、疲労回復の効果が高いといわれています。梅雨の時季は体調を崩す人が多いので、是非、梅干しを上手にとりいれて、バランスのよい健やかな食生活を心掛けましょう。

参考資料うめの歴史「そだててあそぼう  ウメの絵本」吉田雅夫編  社団法人  農山漁村文化協会発行
 日本の年中行事や食文化、うめの出荷量の詳細については、当省HPにおいてご案内しています。


https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/sakumotu/sakkyou_kazyu/attach/pdf/index-31.pdf「令和元年産平成30年産びわ、おうとう、うめの結果樹面積、収穫量及び出荷量」

回答日

令和元年5月


② 照葉樹林帯と日本人(参考)

横山 智によると、アジアの照葉樹林帯に沿って存在する文化の特徴として、
⑴ 野生のイモ類やカシの実などの堅果類を水にさらしてアク抜きする技法
⑵ 茶の葉を穴の中で発酵させ、それを、加工して飲用する慣行
⑶ 蚕をはじめとする絹糸虫(カイコガ)の繭から糸を引いて絹をつくる技術
⑷ ウルシノキの樹液を用いて漆器をつくる技法
⑸ 柑橘とシソ類の栽培とその利用
⑹ 雑穀や米を粒のまま麹を用いて発酵させて酒を醸造する方法
⑺ 最近までイモ類の他、雑穀類(アワ・ヒエ・モロコシ・ソバ・陸稲)を栽培する焼畑耕作がひろく分布し生活を支えてきた
⑻ 雑穀類や稲の中から、粘性の高いモチ澱粉を有する品種(モチ種)をつくり出し、粘性に富む特殊な食品を数多くつくり出した
⑼ 味噌や納豆などのような大豆の発酵食品がひろく分布し利用されてきた
⑽ モチ米と魚肉を交互に桶の中に漬け込んで発酵させたナレズシが少数民族の間に点々と分布
11 河川で鵜を使って漁労を行う鵜飼の習慣が中国西南部・長江流域・日本でみられること
などを挙げている。

照葉樹林帯

この照葉樹林帯はヒマラヤ山脈に遮られた気流が南から北東に伸びる温暖・多雨な豊穣な地域であった。この地域に定住した民は水稲の稲作の恵みにより、西はインドのタミル地方から東は日本列島、朝鮮半島に進出した。

彼らが日本の水稲稲作農業の基礎を築いた揚子江中下流域から来た弥生人となった。彼らが日本の弥生時代の銅剣・銅鐸文化圏の人々である。彼らの日本語への寄与が大野晋の日本語の起源として報告されている。

同時期、照葉樹林帯より北の民、すなわち縄文人が日本列島のみならず古代中国大陸にも存在し、農耕や遊牧を行い、殷の時代に漢字を作ったりして日本文化と日本語の大枠を造った(参考)が、彼らと交流して互いに切磋琢磨した結果が現在の日本文化になったと考えられる。


③ 梅雨前線の雲

2011年6月7日の梅雨前線の雲。九州や四国は見えないが、関東や北陸は透けて見えていて、雲には厚い部分と薄い部分がある。(気象庁ホームページより)