漢及び後継国家の呉は銅鏡を作れたが、魏は銅が不足して鏡を大量生産する力はなかった!すなわち、卑弥呼は魏から鏡を100枚も鋳造してもらえれば、最恵国待遇です。ほとんどの銅鏡は鋳潰されて、銅銭になったと思われる。
卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡と云われれるが、他の形式のものについても舶載鏡は少なく、国内産がほとんどである。舶載鏡にしても仲の悪い呉で製造した三角縁神獣鏡をなんらかのルートで製造させて倭国内で配布した。魏国内で三角縁神獣鏡が出土しない理由であるる。卑弥呼に下賜した大元の100枚の鏡だけは魏の誇りをかけて呉製ではなかろう!
漢鏡については、本来、九州の呉系弥生人が漢から下賜、または自作していた。ヤマトの邪馬臺国が力を持った以降は、九州から技術・材料を横取りしたと考えられる。その他の多くの各種、文化・技術を九州の呉系弥生人経由で受け継いだのであろう!
参考
魏における銅銭経済
董卓の五銖銭改鋳や、魏において銅銭の普及が進まなかった事を、銅の不足に求め、赤壁の戦いに到った理由を銅山を欲していたからとする意見も、一部で見られる。
確かに、魏が領した境域では、呉蜀に比して鉱山等が不足しているらしく、魏において銅の供給が不足していたという意見は、一定の蓋然性が在る。今回は、銅の不足が、どういった影響を及ぼしたのか、何故銅銭が普及しなかったのかを考えてみる。
董卓の改鋳については以前述べたので、主として考えるのは、魏における銅銭普及である。魏では、黄初二年三月に五銖銭を再発行したものの、同年十月に、穀物価格の高騰を以って、五銖銭を廃止している。
以前も述べたが、取引量が一定であるとすれば、価格は貨幣供給によって変化する。
M=kPY
M:貨幣供給,k:マーシャルのk,P:価格,Y:生産
M:貨幣供給,k:マーシャルのk,P:価格,Y:生産
穀物価格が高騰したという事は、穀物の生産が低下したか(飢饉)、貨幣が選好されなくなったか(kの低下)、或いは貨幣の供給が増加したか(Mの増加)である。穀物価格の高騰が確認されたのは10月であるから、丁度収穫は終わっている。或いは、穀物価格の低下に、穀物生産の低下が原因としてあったかもしれない。しかしながら、天候不順であったとか、そういった記述は特に見られない。
従って、貨幣が過剰に供給されたか、市場で貨幣が選好されなくなったかのどちらかであろう。
魏では既に、董卓の改鋳以降銅銭があまり用いられなくなっており、布帛や穀物などによって代用されていた。曹丕の発行した五銖銭と、これらの貨幣が並んで用いられていたとすれば、五銖銭を流通させた事自体が、貨幣の供給を増加させた事になる。しかしながら、銅の産出が少なく、十分な貨幣を供給できなかったとするならば、この五銖銭の発行が物価水準に与える影響は限定的なものに留まるはずである。
少し話がそれるが、董卓の改鋳に関しては、これがインフレをよく説明できる。
董卓は粗悪な貨幣を流通させたが、こういった貨幣は偽造が容易な為、私鋳、すなわち貨幣の私的な鋳造を促す。悪銭を大量に流通させた事によって貨幣供給が増加し、更に悪意在る人々によって私鋳銭をも市場に供給されたが為、更に貨幣供給が増加する。また、粗悪な貨幣は貨幣の本源的価値(銅としての価値)も低く、市場における貨幣の選好を低下させる。こういった作用によって、董卓の改鋳によるインフレーションは爆発的に進んだと考えられるのである。
この私鋳銭による弊害が、当時の魏でも起こったとは考えられないだろうか?
魏において銅の供給が不足していたとするならば、五銖銭を大量に発行するには、銅の含有量を低下させる必要が在る。董卓ほどではないにせよ、そうした行為によって私鋳が促されたとすれば、実際に供給した以上の貨幣が、意図せずに市場に供給される事となり、物価水準の上昇に繋がっただろう。
また考えられるのは、市場において貨幣が選好されなくなったという事である。当時は、董卓の改鋳によって穀物価格が異常な高騰を見せてから二十数年。未だ、中原の人々が銅銭に対して危機感を持っていた可能性が在るだろう。となれば、五銖銭に限ってみれば、貨幣に対する選好が著しく低下しているという事になる。
そうした事が起こっていたとするならば、市場では五銖銭は選好されず、布帛や穀物に対する五銖銭の価値は大きく低下するだろう。つまり、穀物価格の高騰は、魏の経済全体で生じた事ではなく、あくまで発行した五銖銭に対する価格の高騰が起こったと考えられるのである。
② 漢の鏡について