富海海岸を走る山陽本線、防府市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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○富海~戸田 昭和50(1975) 年2月10日撮影:林暁

山口県下で防府市の東方に位置する富海地区には、砂浜に小舟を留め置きする小ぢんまりとした漁村がある。

大阪と九州を結ぶ山陽特急としては、最後まで気動車で運転されていた「かもめ」が海沿いの区間を行く。


○富海~戸田 昭和50 (1975)年2月10日 撮影:林暁

山陽本線西部で海岸沿いを走る戸田~富海間。

「なは」は山陽本線、鹿児島本線を走破して、新大阪~西鹿児島間を結ぶ昼行特急として、昭和43(1968)年より気動車で運行を開始した。昭和48年に485系へ置き換わった。


(山陽本線 昭和の思い出アルバムより)(彦島のけしきより)

撮影場所: 
防府市大字富海2480−15


参考

① もちろん山陽本線が開通していなかった江戸時代、富海の飛船が瀬戸内海を疾走していた(参考)

1780年頃、河内屋平左衛門が萩飛脚を大阪まで受けあうことに始まり。主に米20俵が積めるくらいの小型船だった。富海の飛船は多いときは60隻~80隻くらい活躍していた。帆に風を受けて走り、風のない時は前と後ろに船頭がいて、ろを漕ぐ。飛ぶように速く航行したことから『飛船(とびふね)』と呼ばれるようになった。順調に進んだときは、4~5日で大阪に着いたという。また、萩藩の役人達も利用し各地へ往来し、幕末には志士の活動にも飛船が利用されるようになった。


② 伊藤博文と井上馨が長州ファイブとして留学したイギリスから帰国し、長州に上陸した地(参考)