日本が単一の言語・文化にまとまった理由 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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現在のパプアニューギニアには数百もの言語が相互に孤立して話されている。日本列島に於いても、海で隔てられた孤立した環境であるなら、放送や教育の無かった縄文時代には既にパプアニューギニア的な状況が生じていても可笑しく無いと考えられる。

(wikiより)

弥生時代以降、中国大陸から多様な渡来人がやって来たが、その中に何らかの支配的文化が無ければ、いわゆる日本文化と言う一つの言語・文化にまとまることは無かったと考えられる。

実は、中国大陸には縄文人と同族の殷人がおり、今日に至る日本語と漢字の文化を完成させていた。彼らが唐の時代までに日本に渡来してくれたお陰で、平安時代の国風文化となって日本列島の文化を一つにまとめ、単一言語・文化で成り立つ国家が出来たのであろう。

ところで、別の見方をすると、旧石器時代には既に黒曜石と鹿が大陸と交易され(参考)、縄文時代には宝貝の文化が殷王朝と日本に共有されており、縄文時代末期までには原日本語と言う単一文化を海を越えて共有していた基盤が既に出来上がっていた(参考)。弥生時代以降の多様な渡来人達を抑え込んで、在来の縄文人の末裔と渡来して来た殷人の末裔によって日本列島全域が殆どムラなく均一化した日本語になってしまったとも考えられる。


雑談1

日本列島が完全に単一言語にまとまらずに、パプアニューギニア的な多言語になった可能性の証拠として、琉球語やアイヌ語の存在を挙げられるかも知れない。


雑談2

平安時代の東北地方には蝦夷がおりヤマト政権に服従していなかったとされるが、蝦夷は縄文人とアイヌの中間に位置する人々とされるが、当時の日本語とは既に異なった言語を喋っていたようだ。

原日本語を喋る古代中国の殷人や同族の縄文人と日本列島東北部からオホーツクあたりの縄文人とは相互に交流がほとんど無く、互いに孤立語となったようだ(参考)。


雑談3

白村江の戦いの敗戦後、東国の人を防人として北部九州に派遣した。彼ら防人の万葉歌が残されており、教養のある上級の防人は完璧な日本語を喋っていたようだ。


雑談4

四川省の少数民族にチャン族があるが、祖先は羌族と呼ばれていた。彼らから斉国の祖の太公望が生まれたと言われている。その斉国の民の一部が日本の土井ヶ浜の弥生人として渡来して来た(参考)。

彼らのY-DNAハプログループはD1a1(新表記)であり、日本人(Y-DNAハプログループD1a2(新表記)と同族であると言っても間違いでは無いが、しかし、現在のチャン族の言語は異なったものになっている。また、同族のイ族とも言語・文化が異なっているようだ。

ただし、「日本の歴史学者が長年の研究の末、日本の言語や習慣が四川省の涼山に住むイ族とかなりの部分で似ていることを発見したと説明。実際に現地調査に訪れたところ、現地のイ族の人たちは日本語の発音に違和感を覚えず、一部の発音は日本語とほぼ同じであり、いくつかの日本語の意味も理解できたことから歴史学者が大いに驚いたと伝えている。」(SEARCHINA、2018-08-30、参考


雑談5

コロポックルは、アイヌの伝承に登場する小人である。アイヌ語で一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解されているが、滅びた少数民族であったかも知れない。

また、九州の熊襲や隼人も元々は異なる言語を喋る異民族と認識されたが、日本語の文化に吸収されたようだ。


雑談6

台湾が中国人に支配された現在、台湾閩南語が75%を占める。しかし、残り25%は台湾固有の少数民族の言語で、23語も存在する。

台湾諸語(Formosan languages、wikiより)

高山語台湾原住民語ともいわれ、言語学上はオーストロネシア語族(古くはマレー・ポリネシア語族)に属す台湾原住民の言語である。かつては高砂語といわれていた。これは下位の「アタヤル語群」、「パイワン語群」、「ツォウ語群」からなり、23の言語が存在する。


雑談7

中国の少数民族の言語分布を見ると、漢民族と言う支配民族の力が及びにくい辺境の地や山岳地帯に集中している。

中国本土の言語分布図(参考)


雑談8

現代中国語においても、通訳を必要とする程に大きく異なる方言に分化している。

(wikiより)


雑談9

現代日本語の方言も、古代の東のアジアに広がっていた原日本語の方言の分化の過程から生じたと考えられる(参考)。そして、明治維新以降の標準語教育などで、現代日本語が生まれたとも考えられる。


参考

① 「日本」形成における中国文明の働き

子欲居的東アジア世界(参考)

2017年12月29日ブログ掲載 2018年1月1日本ページ掲載

中国文明の日本への影響について言及した時、少なからぬ人が、日本の文化的要素は「色々な所」から来たのだと反論する。筆者は、中国大陸の色々な要素が伝わった言うべきではないかと考えるわけだが、ここで忘れてならないのは、中国漢字文明の役割である。

そもそも、ある一定地域の住民が、例えば中国、日本、朝鮮、越南とか言った規模で、国家なり民族なりの統合を実現するためには、文明というものが必要である。文明とは、言うなればそれを誕生させるに足るだけの生産力であるが、その中でも文字は必要不可欠の要素であり、一般に文字の発生をもって文明発生の標示とする。この文明が、内藤湖南流に言えば「にがり」の役割を果たして、これら国家・民族が統合・形成されるわけである。

たとえ、列島に様々な要素が渡来したとしても、それだけでは「日本」などといったものは形成されない。そもそも、縄文期の日本列島が周辺から孤立していたというのは、前にも述べたように一種の「現代の神話」(信仰)に過ぎないが、たとえ周囲を海に囲まれて孤立した環境があったとしても、そのような状況は民族の統合を妨げるだけだろう。

実際、大陸から離れ基本的に孤立していた環境と言えば、まず思い浮かべられるのはパプア・ニューギニアであるが、ここでは人々は数十、数百人程度の少人数の部族に分かれて生活し、それぞれの部族ごとに言語、習慣、伝統が異なっており、人口600万人に対して、言語の数は800以上にもなり、そのうち130の言語の話者が200人以下であり、290の言語の話者が1000人以下であるという。

なお、パプア・ニューギニアでは言語の84%は「パプア諸語」と呼ばれるが、これは非オーストロネシア系の「先住言語」を「その他多数」と一くくりにしただけの話で、「パプア諸語」間の単語や文法など、相互関連性は皆無に近いという。(ウィキペディア「パプア・ニューギニア」)文明の洗礼を受けた現代においても、なおこの数字である。そもそも、原始時代においては、人々は上のような小規模単位で生活していたのであり、縄文期の列島の人口は最盛期で26万人というから、もし一つの部族の人口を単純化して500人とすれば、実に500ぐらいの部族(言語)が存在していた頃になる。

もし列島が大陸から孤立していたとしたら、このようなニューギニア的状況が現出していたのであり、そこには日本民族なり国家なりの統合は存在しようもなかったであろう。様々な要素が伝播しただけでは、日本のようなものは形成されない。繰り返すが、そのような統合を実現したのは中国文明の伝播であったのである。

思うに、中国周辺で日本、朝鮮、越南が現在独立し、一定規模の民族と国家を形成しているのも、中国からの距離という相対的「孤立」性と共に、中国文明が伝わらない絶域ではないという相対的「開放」性の結果であろう。むしろ、日本だけでなく朝鮮、越南も海を通じて中国と密接に結びついていたのであり、そのような海を通じた開放性が、かえって中国奥地の少数民族地域より、中国文明の伝播に有利であり、その結果、かえって国家・民族の独立が促されたのではないだろうか。

 最後に、指摘しておくが「日本」という名称自体、漢語つまり中国渡来であり、「ひのもと」という訓読みも、列島に存在していたわけはなく、「日本」を訓読(翻訳)した結果、生まれたものであろう。そもそも、列島を「日の本」(太陽の下=東方)と認識するのは、西方大陸の中国人であり、列島から見れば、「日の本」は太平洋である。これは決して列島で生まれたものではなく、列島で生まれたのだとしても、これは渡来した西方中国人の認識であろう。


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② 日本語の起源(参考)、、、東アジアに広く原日本語が喋られていた。



③ 縄文人と同族の殷人は滅びることなく日本列島に渡来(帰化)して来た(参考)



④ 遣隋使・遣唐使があった期間、多くの殷人の末裔が日本に渡来して、急激に人口が増加した(参考)



⑤ 隋・唐の支配者階層は殷人の末裔で原日本語を喋っていた(参考)



⑥ 殷王朝の甲骨文字に音読みと訓読みがあった(参考)



⑦ 中世日本語は唐の長安で喋られていた(参考)



⑧ 漢字の起源、、、殷王朝が甲骨文字を発明した