中古日本語は唐の長安で喋られていた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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遣唐使が停止する頃の9世紀末頃から11世紀の国風文化にあった中古日本語は、記紀万葉に見られる上代日本語の八母音の特殊仮名遣いが無くなり、そして、現在と同じく、オとヲ、イとヰ、エとヱ、そしてエとヤ行の区別が無くなった。その後、武家(主に東国の武士)の影響を受けた中世日本語に移行する。

ここで議論する日本語とは文書に残った都の言葉であり、都の支配者の方言によって容易に変化することである。都の周辺の民衆の口語の方言はまた別である。

上代日本語は白村江の戦いに負けた直後に書かれた記紀万葉に出てくる日本語であり、日本に渡来してきた百済人が文書を書いたと考えられている。

遣唐使は白村江の戦いを乗り越えて、894年に菅原道真公によって停止されるまで継続し、唐の文物の他、多くの殷人の末裔を連れて帰ってきた。彼らが政権の中枢に参画した時期が国風文化にあたると考えられ、彼らの唐の長安で使っていた原日本語が中古日本語になったのでは無かろうか。

そして、京都の政権の力が衰え、東国の武士が台頭した平安時代末期から鎌倉幕府が成立した頃の中世日本語は東国の武士の原日本語の方言の影響が大きかったと考えられる。ちなみに彼らは新羅からの渡来人のようだ。



注意

都の外の地方の方言としての日本語は文書としてはほとんど残っていないと考えられ、現代日本語の方言分布をもとに渡来人の居住地の広がりと渡来時期と絡めて考察しなければならない(参考)。


参考

① 中古日本語(wikiより)

平安時代の初期(9世紀)に日本語を記したものは漢文・変体漢文と訓点資料(漢文訓読を記号・文字で記した資料)・古辞書を除いて残存資料に乏しく、実態ははっきりしない。一方平安時代末期(11世紀末ころ〜12世紀)には中期とは異なる現象が現れ始め、「院政期」と呼ばれる。院政期は後の鎌倉時代と似た特徴を持ち、「院政鎌倉時代」と一括して考えることがある。

従って「中古日本語」という時は平安時代の中期を中心に、初期も含めるが、院政期を除いて考えるのが一般的である。そして院政期は「中古」に対して「中世前期」と呼ばれる。

上古日本語は漢字を借用し日本語を写していた (万葉仮名) 。平安時代の9世紀中期には遣唐使が途絶し、服装も独自の変化を遂げるような国風文化のもとで、表記の面でも万葉仮名からひらがなカタカナという表音文字へと変化した。漢字も残し活かしたこの発展は日本語の表記を簡略・豊潤にし、文学の新時代を現出し、『竹取物語』、『伊勢物語』、『土佐日記』などの古典を生み出した。更に仮名交じりによる新たな文体も生み出されるようになった。

・ア行の「オ」とワ行の「ヲ」の区別は11世紀初めには語頭において混乱を始め、11世紀後半には区別がなくなった。但し「イ」と「ヰ」、「エ」と「ヱ」の区別はしばらく保たれた。

・ア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別は10世紀半ばまでは区別されていた。

上代特殊仮名遣の区別はほとんどなくなり、9世紀にわずかに「コ」の甲乙の書き分けが見られる程度である。


② 8世紀の記・紀・万葉集などにある万葉仮名には8母音あると言う上代特殊仮名遣い(上代八母音)は白村江の戦いに敗れで後に渡来した百済人の日本語か!(参考)


③ 中世日本語(wikiより)

12世紀末は貴族による専制政治から武士階級の封建社会への過渡期であった。中世初期には一時、政治の中心が京都から関東(鎌倉幕府)に移ったため、関東方言が中央語に影響を与えることもあった。この時期には仏教の新宗派が数多く興り、その勢力の拡大は識字人口を増やすこととなった


④ 東国の武士は新羅からの渡来人だった(参考)


⑤ 日本語の起源(参考)、、、日本語は東アジアに広く喋られていた。地域によって違う方言が出来ており、百済、新羅、高句麗、唐においても異なる方言の原日本語が喋られていたようだ。彼らが日本列島に戻って定住した場所により、現在の日本語の方言が生まれた。


⑥ 遣隋使・遣唐使は多くの殷人の末裔を連れて帰った