上代日本語八母音の起源 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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上代特殊仮名遣い(古代八母音説)がどのように成り立っているかの解説を読んだ。日本語の成立過程で動詞から名詞を作る過程などで母音の連結(連音)から自然に甲類と乙類の二種類の母音が発生するらしい。すなわち、日本語が進化する初期の段階で8母音が発生することになる。

だから、この上代特殊仮名遣い(古代八母音説)が正しいなら、

1. 記紀・万葉集が書かれた当時以前は日本列島の言葉には方言は無く、均一に日本語が進化して8母音化し、記紀・万葉集が書かれた数十年後に5母音化し、その後、地方毎に方言化する。

または、

2. 記紀・万葉集が書かれた当時以前は日本列島の言葉に既に地方毎の方言ができあがっており、文字として残ったのは都の記紀・万葉集の8母音のみで、数十年後に5母音化した。地方については同じルールで8母音化し、次いで同じルールで5母音化した時期は分からないが、結果的には現在は全て同一の5母音になってしまった。

の二つが考えられる。

しかし、この二つとも奇妙である。1.に関しては、色々な渡来人が波状的にやって来て各地に居住したのに関わらず、1300年前の百済人が渡来した直後に均一な統一日本語が出来上がり、直ぐに8母音化し、数十年後に5母音化したはとは考えにくい。2. に関しては、現在の日本列島から8母音の方言が消失して、互いに理解できる同一の5母音の方言になっていることの深い考察が必要となる。

著者の考えは、上記2.を熟考して、

原日本語はアフリカを出てから数万年かけて東アジアに広がり、2600年前頃から1300年前頃までに日本列島に集中した(参考)。この数万年の長きに渡るグレートジャーニーの初期の段階で8母音の原日本語が出来上がっていた。この8母音の原日本語について百済人は最後まで保持していたが、その他の渡来人達は日本列島にたどり着く前に乙類の3母音が消失して5母音化していた。

すなわち、日本列島にたどり着いた渡来人達はそれぞれ異なる方言を喋っていたが同一の5母音の日本語ではあった。そして、最後に渡来した百済人が8母音の方言を喋り、統一日本の歴史書の記紀・万葉集を書いたが、周辺の影響を受けて急速に5母音化してしまった(参考)。

と考えられる。

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万葉集(コトバンクより)


参考

日本語の論点
上代特殊仮名遣い(古代八母音説、参考)

① 上代特殊仮名遣(上代8母音説)の本質は連音

上代特殊仮名遣(上代8母音説)は、上代には今日のaiueoの5母音(甲類)以外に、ieoに別種(乙類)があり、全部で8母音だったという説である。この説に関するこれまでの議論はWikipediaに解説されている。しかし、それを見ても、なぜ古代のある時期に日本語の母音が増えるのか、その理由の説明は全くなくて多くの読者の疑問は晴れないのではないかと思う。

じつは、上代特殊仮名遣でいう乙類音とは、結局のところ連音であるというのが大野晋氏や阪倉篤義氏(故京都大学教授)の共通の理解であり、発生のメカニズムについても大野阪倉両氏の著作に説明がある。まずこれを押さえておかなければならない。 ここでは、上代特殊仮名遣について簡単な説明をした後、大野氏阪倉氏の説明を参考として示す。 

・上代特殊仮名遣の基本的な説明

例としてツキ(月)を取りあげる。月はツクヨミ、ツクヨという語にあらわれるように、本来「ツク」であった。これは「点く(点灯する)」であると思うが、満ち欠けをするから「尽く」だという説もある。どちらでもよいが、いずれにしても「ツク」は動詞である。動詞と名詞が未分化であるのは幼児語や未開言語に見られる特長だが、日本語ではその発達のある時期に、名詞にはモノ・コトを表す母音iを付して名詞であることを明示するということを行ったらしい。

つまり、月を表す時には、ツクに物体を表すiを付した。

tuku+i → tukui (月)

このuiが一音化する過程にある音(連音)が乙類イである。

エとオについては次ページで述べる。

・大野晋・阪倉篤義氏らの認識(大野晋『日本語をさかのぼる』岩波新書・1974)

……「身(ム)」という語と「身(ミ)」との関係……「ムザネ(身実)」「ムクロ(身体=ム(身)クロ(幹)の意)」「ムサ(身狭=地名)」「タム(田身=地名)」など「ム(身)」という語があるが、これと「ミ(身)」との関係は、…「身」については、おそらくmuが古形で、mI(Iで乙類イを表示)がその変化形である。その変化は、muの後ろに、独立名詞を作る接尾辞iが加わってmui→mIという変化が生じたものと思われる。それと同様に、カミ(神)のkamIという形は、おそらく古形kamuの下に、独立する名詞を作る接尾辞iが加わって、kamui→kamIという変化の結果生じたものであろうと思う。(同書 p192-193)(阪倉篤義『語構成の研究』角川書店・1966 )

万葉時代は、すでにこの段階にはいっていたのであって、iによる名詞の形成が、まさにもっともさかんな生産力を示したのみならず、すでにu接尾形で用いられていた語にも、これにさらにiを添加して、その名詞性を明確にすることが行われたと推測される。たとえば月・神・茎などは、東国方言や、ツクヨ・ツクヨミ、カムサビ・カムナガラ、ククタチ・ククミラなどの複合語には、なお古形ツク・カム・ククを存しているけれども、中央語の名詞としては、すでに「ツき」「カみ」「クき」の形が用いられるようになっていた。このツき・カみ・クきは /tuku/+/i/, /kamu/+/i/, /kuku/+/i/という接合の結果あらわれてきた形であって、そのキ・ミが乙類音(クキのキも多分)であるのは、大野晋氏の説かれた/ui/>/i/という音韻変化の結果であろう。一拍の語ではあるが、ム(身)と「み」の間にも同様な関係が考えられる。 (同書 p286


② 乙類音とは(エ列・オ列)

・エ列音の甲類・乙類

エ列音からみていこう。古語辞典を繰ってみればわかるが、エ列音エ、ケ、セ、テ、ネ、ヘ、メ、レ、ヱのページはわずかしかなく、しかも見出し語の多くは、漢語である。エ列音の多くは、語中・語尾にあらわれ、語頭にはほとんどこない。というのは、「エ」という音は大和言葉にはじめからあった母音ではなく、他の母音から合成されてできた母音だからである。

「エ」の形成には、次の二つのケースがある。

第一は、ia→eである。たとえば、「咲きあり」が「咲けり」となる。 sakiari → sakeri 

第二は、ai → eである。「嘆き」という語は、「長息」がつづまってできる。 nagaiki → nageki 

同様の変化は、漢語の上にもあらわれ、「大概taigai」がテェゲェとなったりする。江戸弁で大工をデエクというのも同じである。

第一の方が、エ列音甲類に相当し、第二の方がエ列音乙類に相当する。 

ia →e 甲類 
ai→e 乙類

では、iaからできたeと、aiからできたeはどう違うのだろうか。aと iの発音をくらべると、a の方が口の開きが大きく、i の方が口の開き が小さい。

ia → i(小)a(大)…口を開ける動作〈甲類〉
ai → a(大)i(小)…口を閉じる動作〈乙類〉

となる。発声の時、口を開けながら行うのは自然だが、閉じながら発声するのはかなり窮屈である。つまり、iaはすぐに一音化してeになるが、口を閉じる動作となるaiは簡単にはeとならず、デエクdeekuのようにai→eeとなり、二音節分の長さが保たれる。

つまり、甲類e が、現在われわれが発音している「エ」と同じものであるのに対し、乙類e は、ee(エエ、二音節のエ、もしくは口ごもったエ)と考えられる。これがエの甲乙二類の区別である。

なお、エの起源をai、iaの二種とするのは大野晋の論に従ったものだが、私はoi→e、ui→eという変化があったものと考える。「背se」の古形はsoであり、soi →seと変化したことが考えられる。また、手はtui(付くもの)、筒(け)はkui(凹んだもの)と推定される。ui→[e乙]が乙類の大部分であろう。

・オ列音甲類・乙類

では、乙類のoを考えていこう。乙類oを含む語として、「持つ(motu)」を例とする。「モツ」の古形は、「ムツ」だと思われる。大国主命を別名「オホナムチ(大穴牟遅神)」という。「オホナ」は「大地」、「ムチ」は「持ち」であり、オホナムチとは「大きな土地持ち」と解される。これは、「大国主」と同義であり、大国主の異名としてうなずくことができるだろう。

この「ムツ」は、

ムツ(持つ) ム(身)ツ(付) 身体に付ける。

と解される。しかし、日本語の発達のある段階で、ムという動詞形で名詞を表すのではなく、名詞らしい語形にする欲求が生じた。そういう操作として、oを付すことにした。

モツ(持つ)   mu(身)+ o + tu(付)

このmuoが一音化する過程にある音が、乙類のオである。従って、イ列乙類とオ列乙類は、

カミ(神)のミ       mu(身)+i →mui (ミの乙類)
モツ(持つ)のモ mu(身)+o →muo (モの乙類)

であり、本質的に同じものと捉えられる。同様のモには、モガリ(殯)があり、

モ(身)カリ(離る)   霊魂が人体から離れる

と解される。 ムツというと、ムツ(睦)もある。これは、

mu(身)+ tu(付)  身体をくっつけ合う

である。この場合、mu(身)には変化が施されていないが、ムツ(睦)とムツ(持)を区別し語彙を豊富化するということには役立っている。

なお、o母音の本来の役割について述べておこう。

つぎの語を見てほしい。

オク(置く) オス(押す) オツ(落つ) オフ(負ふ) オル(降る)

これらの語に共通していることは、「対象に上からかぶさっていく動作」であるという点である。他には、

オク(起く) オユ(老ゆ)

があるが、これは「上方に動く」である。(老ゆは、歳が上になること)

オのつく二音節動詞は、以上ですべてである。これから判断すると、オは、「上になる、上に向かう」の「上」を意味していることがわかる。このオは、オモテ(表)などの語を作るとともに、 

o = 上に、外に、外接して

の意を表す接尾辞としても機能したようである。だから、モツ(持)は、

mu(身)+ o (外接して) + tu(付)

というのが本来だった可能性がある。 また、古代の衣装で「装」といわれるものがある。腰から下にまとった衣装である。この「裳」も、 同様に、「身体を(mu)覆うもの(o)」と解される。

いづれにしろoの発音は、iの発音と同様、二重母音が一音化する過程にある音ということができる。

なお、ナダ(宥)→ノド(長閑)の場合には、nada→naudau → nodo のように、ナの長音化によって、乙類音ノができたと考えられる。乙類音のすべてが、接尾辞によるというわけではない。

いずれにしても、乙類音は、二重母音もしくはそれが崩れて一音化しつつある過度的な音だといえる。


③ 古代母音論争とは何だったのかー松本克己の大野晋批判

・マスコミがきっかけ 

1970年代に古代母音論争がマスコミを巻き込んで話題になったことがある。前項で述べたように、上代特殊仮名遣いの本質は連音であり、大野晋氏や阪倉篤義氏もそれを認め、その認識は古代語の発達の点からも納得性があると思う。ですから筆者としてはこの論争は不可思議なのであるが、まずその経過を述べたい。

昭和五十年一二月一日の「毎日新聞」夕刊に、「万葉人も母音は五つ/上代特殊仮名遣い/波紋を呼ぶ新学説」と題する記事がのった。通説の八母音説に対して金沢大学の松本克己教授が五母音だとする論文を発表した。それを新聞が紹介したのである。これをきっかけに、通説の立場で大野晋氏が批判をよせ、それに松本氏が応酬するという形で、新聞紙上で「古代母音論争」がくり広げられた。

この記事を書いたのは、毎日新聞学芸部で古代史・考古学を担当する岡本健一記者である。岡本記者は、松本論文紹介のきっかけを次のように述懐している。

「もう国語の常識といっていいだろうが、通説によると、奈良時代の日本語の母音は、現代日本語の五母音のほかに、i、e、oという三つの母音があった、つまり、八母音だった。…… ところが、五十年夏のある日、金沢大学から学芸部に送られてきた紀要を開くと、『古代日本語母音組織考』と題した論文が目についた。筆者は言語学の松本克己教授。百ページになんなんとする力作で、前書きと結論の部分だけを拾い読みすると、なんと『上代特珠仮名遣は一見、八つの異なった母音を書き分けているように映るけれど、それは日本人の発音の癖を中国人の耳で聞き取り、正確に写したものにすぎない。万葉時代の母音の数は、現代と同じ五つだ』と、喝破しているではないか。

古代日本語の公理ともいうべき〈上代特殊仮名遣〉ーー少なくとも、その解釈が覆されようとしている!私は大急ぎで読もうとしたが、いかんせん、言語学・国語学の素養のない悲しさ、なかなか論証の筋道がたどれない。とりあえず、二、三の言語学者・国語学者に電話を入れて、松本論文の評価を尋ねたが、どなたも読んでおられない。 …… 

それならば、と、こんどは言語学の第一人者、服部四郎東大名誉教授の見解をうかがった。先生は、『君、その論文をどこで知りましたか。えっ、読んでもよく分からないって?そりゃ、当然です。日本の学会で分かる人は二、三人しかいないんだから』と、早口でまくすように話されたあと、『君、よろしいか、私のいうとおり、ノートしなさい』と命じられた。『松本克己君の論文は、昭和初年の有坂芳世博士いらい五十年ぶりに現れた、国語学史上の画期的な発見である。 ……』 

服部教授は電話の向こうで、学生にノートをとらせるように、講義調でコメントをつづけられた。」 

こうして、大学の紀要という地味な場所に発表された論文が、にわかに世間の注視を集めることになった。この論争は、さらに舞台を雑誌「言語」誌上に移して続く。翌年六月、日本言語学会の公開シンポジュウムが、同テーマで開かれ学会始まって以来の盛況となった。 

この論争はその後数年続く。そして今日でも膠着状態にあるようにみえる。 

・大野晋氏の説明にも問題があった

大野晋氏は石塚龍麿を再評価して上代特殊仮名遣いを唱えた橋本進吉の弟子である。橋本は八母音と考えていたようである。橋本説を受け継ぐ大野晋は、乙類音の音価を乙類オをドイツ語のo、あるいはフランス語のoに近い音とし、乙類iとeとは、現代東北地方の人々の発音するイとエとに近いとした。

松本克己の批判:

しかし、松本氏によれば世界の各言語の母音体系には一般的な原則があるが、大野氏の主張するような発音体系は、その原則に反しており、ほとんどありえないという。

松本説は、甲乙二類の書き分けを母音の相違ではなくて、子音の調音差であり、「変異音」現象の反映とする。この変異音というのは、同じ音(=音素)が、環境によってちがった発音であらわれるものであり、たとえば朝鮮語でラ行子音にあたる音素が、語中の母音間では[r]音節末では[l]の発音であらわれる類のものだという。

[大野晋の問題]大野晋氏は、論争の際にもっとこの母音が発生した理由について述べたほうがよかった。乙類音が連音だとすれば、その発音は自ずと類推可能であり、日本語では奄美方言のティ(手)、ムィ(目)などがそれをとどめている。しかるに、大野氏がドイツ語やフランス語と似た音と説明したのは適切ではなく無用の混乱をまねいた。そのために松本氏のような批判が出たわけであるが、松本氏のように、八母音を日本語の一般的な母音体系を構成するとみなした上での大野説の批判はあたっていない。乙類音は母音連続で生じた過度的な音に過ぎないのであるから。乙類音の実体がわかった上で言えば、松本氏が変異音だとしたのは、現象のみに着目したもので事実の影(実体とは遠い一側面)を論じたものと振り返ることができよう。

上代特殊仮名遣い論争というのは、松本氏が大野説をよく読まず、また大野晋氏も必要な説明を十分行わなかった結果生じた論争だといえる。(何なのこれは)

しかし、未だにことの本質が理解されておらず、誤解の多い議論が目に付くのは残念なことである。

(終わり)