羌族は3000年以上前から存在し、縄文人のルーツであり、春秋戦国時代の斉を建国し、秦の国も同族の国で、ついには斉、秦は日本列島に渡来し、邪馬臺国からヤマト朝廷になりました。
我々の本家である羌族を調べる。
参考
① 中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史(参考)を丸々コピぺし、新知識を挿入しました。
この「羌」とは一体何者なのか?調べてみました。
>古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。
>羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。→ 斉、秦のルーツ
その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。
② -1 wikiによると現在の男系男子の子孫、チャン族の生活
②-2 チャン族の生活(参考)
主に四川省アバ・チベット族チャン族自治州内の茂県、汶川県、理県及び松潘県、更に綿陽市内の北川チャン族自治県に住んでいる。
チャン族は中国の古い兄弟民族であり、古くは殷代の甲骨文字の中に、羌人に関する記載がある。古代の羌人は分布が広く、中国の西北,西南,中原の一部の地方にもその活動が見られた。その後、時代を経て古代羌人の一部は現在のチベット・ビルマ語族の中の各族に発展変化し、別の一部はその他の民族、とくに漢族と融合した。ただ、岷江上流域の渓谷に生活する一部の羌人はさまざまな要因によって今日までその姿をとどめている。
2008年の四川大地震で激しい被害を受け、チャン族の文化は保護復興事業の対象にされている。
トウモロコシ、大豆を主とする農業に従事している。チャン族の人たちの生活しているところは山峰が幾重にも重なりあい、河川が縦横に流れており、またパンダとキンシコウの主な生息地でもある。
チャン語を使い、この言葉は漢・チベット語系、チベット、ミャンマ語族、チャン語派に属する。南、北の2種類の方言があり、一つの方言は5つの地方の言葉に分かれている。チャン族の人たちのほとんどは漢語に通じている。チャン族には自民族の文字がなく、なが年漢語の文字を使っている。
チャン族の人たちは昔から万物に霊魂があるとする原始宗教を信仰してきたが、チベット族の人たちと一緒に暮らしている少数のチャン族の人たちはラマ教を信仰している。
②-3 チャン族の同族
チャン族のもう1系統は、西南へ移動した。今日の中国西南部のイ族(彜族)、ダイ族(傣族)、ぺー族(白族)、ハニ族(哈尼族)などは、歴史の記載と風習からみて、チャン族の末裔であろう。
イ族は「羅羅」と自称するが、『山海経・海外北経』に「羅羅」の記載がある。『漢書・地理志・張掖郡・番和』ではチャン人を「羅虜」と呼び、『大明一統志』では四川省のイ族を「羅蛮」、雲南省西部のイ族を「羅羅」と呼ぶ。『華陽国志』も『後出師表』も雲南省、四川省、貴州省のイ族を「青羌」と呼ぶ。『蛮書』ではイ族の先祖は「羌虜」であるとさらにはっきりと指摘している。典籍を調べれば、「羌戎」と「羅羅」は実際には同一であることが分かる。
風習から見れば、イ族の火葬やたいまつ祭り、儺の仮面や儺祭りで踊る大鑼笙舞やヒョウの舞、トラの舞、ぺー族の多神教の習俗、万物に霊魂があるという信仰など、すべて古代チャン人の習俗と一脈通じる。今日まで伝えられている『哈尼阿培聡坡坡』という古い歌曲は、祖先の引越しの歌である。遡って追跡すれば、茶馬古道は実は古代チャン人の西遷の神秘な道であると思っている(参考)。
③ wikiによるとタングートや西夏も羌族の後裔
⑦ 秦も同族だった
⑧ 秦氏の由来
⑨ 太陽暦
イ族が発明したといわれる『十月太陽暦』は、実は古代チャン人の聡明な知恵の産物であり、秦の時代に実施された『十月太陽暦』の源はここにあると考えている(参考)。
注③ 現在の太陽暦はローマ時代、西暦紀元前45年にシーザーによって制定された。日本へは江戸時代に入ってきた。中華文化圏、イスラム諸国は太陰暦を採用してきた。
注④ 星の位置は一日周期の他、一年周期で変化します。すなわち海人族には太陽暦が必要であり、航海の吉凶と太陽暦による占いに関係がありそうです。季節の変化は太陽暦であり、季節風の風向きの変化、台風の時期の予測などが代表的です(参考)。
注⑤ 太陽暦の普及の歴史
11 チャン族の生活
12 チャン族の街並み