私は渋谷で小さな会社を経営していたことがあります。

そのときに、商工会議所の人に言われたことは、

「渋谷で成功する会社というのは、次の3つのどれか、あるいは全部、がある会社です」

 

1.資本金が多い

2.売り上げが多い

3.社員が多い

 

「あなたの会社は、そのどれもがありませんね」と。

 

そのときに私は

「増資したいか」(当時はIPOブームだった)

「売り上げを増やしたいか」

「社員を増やしたいか」

と考え、どれも「私はいらない」と思い、「成功しなくてもいいや」と結論づけました。

そんな経営者でも数億円の売り上げを達成し、

やりたい仕事もそこそこにできて、

社員もそれぞれ頑張ってくれていました。

でも、「やりたい仕事」ができることと、「給料」の話は別で、

やりたい仕事をするからタダでもいいなんていう奇特な人はめったにいないし、

稼ぐためには嫌な仕事もしなくてはいけないのは世の常です。

 

でも、お金って、そんなに必要なんだろうか。

お釈迦様のように私は自問していました。

 

そんな私が「ああ!」と思わず胸を熱くした出会いが

「現代手芸考~ものづくりの意味を問い直す」という一冊の本でした。

 

この本では「手芸」は「芸術」とどう違うのかとか、
伝承や技能によるところの手芸の意味などを

いろいろな研究者や専門家が論じているわけですが、

そのなかにインドのラバーリーという山間部の女性たちの話が登場します。

彼女らは技術的にはシンプルではあるけれど、

色彩豊かで精密な刺繍を施した布を創造しています。

それらのものにはスピリチュアルな意思が込められているようにも思えるのですが、

都会的な(いわゆるコンサルタントのような)人々は、それらを地域資源として売り物にしようとします。

ところが、ラバーリーの女性たちにとって、刺繍は自分たちのものであり、商売のためのものではないのです。

「刺繍をする」ための時間をわざわざ作るのではなく、

日々の生活のなかの隙間の時間に刺繍をするため、

ひとつの作品には何年もの年月を要することもあります。

だからといって、それらがものすごい価値がある、というものではないと、作り手たちは思っています。

 

あれ?

なんだか、同じような話が?

 

たしか、グランマ・モーゼスも、塔本シスコも、

「商売のために絵を描く」のではないというようなことを言っていたのではなかったっけ。

 

「世界の民族大図鑑」という本には、

世界各地の民族衣装が網羅されていますが、

多くは見事な刺繍が施されており、

当然ながら、その丹精込めたニードルワークは「お金のため」ではなく、必需であった!

 

話はラバーリーの女性に戻りますが、

彼女らは刺繍布が商売になるとわかったときにどうしたかというと、

商売用には手を抜いて、

それまでのものはきちんと作っているのだそうです。

 

あれ?

 

昔、農家さんが「売り物」と「自家製」を分けているという話がまことしやかに語られていましたが、

なんだか似ていますね。

 

そして、「ミシンの見る夢」という小説。

これは十九世紀末のイタリアが舞台で、

貧しい暮らしをしている「お針子」の話。

生計を立てるために裁縫の技術を子供のころから身につける。

仕事は安価で決していい条件ではない。

食べるものがなくなったり、食事抜きで働いたりというような話があるなかで、

「生きる」ことのプライドが見え隠れする。

この小説のなかで針仕事(裁縫)は生きるための技術ではあり、

実際にそれを「仕事」として報酬を得ることにつながっているのだけれど、

「お金のために働く」ということではない「生き方」の信条がある。

 

これらの3冊はめちゃくちゃ面白いので、

絶対に手にとってほしいし、

どれもちょっとお高くはあるけれど、

新刊で購入していただきたい本です。

(こういういい本を作る出版社などをなくさないためには新刊を買わなくてはいけません)