ネパール(Nepal)後編からインドへ再入国~ヒンズー教最大聖地ワラナシ(Varanasi)まで950km(3/15~22)
(Pokhara郊外から見たアンナプルナ山系のマチャプチャレ山。標高6,993m)
走行ルートは以下の通り。 ブッダ(Buddha)にゆかりがある地3カ所を訪問する巡礼のようになる。
ポカラ(Pokhara)~ローアームスタング(Lower Mustang)アドベンチャーコースの途中を目指すが途中で断念~ルンビニ(Lumbini)=ブッタ生誕地~ネパール出国/インド再入国~クシナガール(Kushinagar)=ブッタ入滅の地~ワラナシ(Varanasi)=ヒンズー教徒聖地/サルナート(Sarnath)=ブッタが最初に説法をした地
(ネパールとインド北部の地図。赤線がツーリングルート。ポカラは一番上の赤線上の最も左側で赤丸をした場所。マーカーで印した場所は宿泊地)
ポカラでオートバイの調子が悪い
エアークリーナーを新品に交換後、当方のオートバイのエンストは直ったように見えたが、オートバイを信号待ち等で停止中、エンジンがアイドリング状態でエンストするようになってしまった。
ポカラ(Pokhara)からの出発を延期して滞在中に知り合ったバイク修理店Raju Bulat Surjeryへ当方のバイクを持ち込んだ。
バイク修理店でアイドリングの調整(エンジン回転数を高めに設定)とエンジンのバルブ・クリアランスの調整を行った。バルブ・クリアランスの調整は走行距離約5.8万kmで初めて行った。この調整後、約2週間経過するが、エンストは再発していない。
(当方のオートバイの修理を行ったメカニックBaju Bulat Surjery氏と当方のYAMAHAセロー250)
(当方のオートバイの修理調整をしていたら、後輪タイヤに長さ3cmくらいの釘が刺さっていたことを発見。持参のパンク修理キットで直す)
ネパール北部山岳地帯のムスタング行きを計画したが、出発して序の口の段階で断念する。
当方のオートバイの修理を行ったバイク修理店は外国人むけにネパールでオートバイツーリングのツアーを行う業務を行っていた。オートバイで山岳地帯の悪路をガンガン走行するアドベンチャーツーリングだ。
本格的なモトクロッサーのようなオフロード・オートバイのレンタルも行う。
標高7,000m~8,000m級のアンナプルナ山系があるポカラの北部にムスタング(Mustang)と言う秘境の町がある。
通常,観光客は飛行機でムスタングへ行くのだが、悪路の山岳道路でも繋がっている。
ただし,外国人はムスタングへ行くためには同地域の自然保護とトレッキング費用として入場料約500米ドル(6万円)程支払うことになる。
ムスタングへのツーリングは約6万円の入場料がかかるが、その手前のローアー・ムスタング(Lower Musutang)なら6千円程度の入場料で済む。ローアームスタングでも標高3,800mの峠道がある。
ローアームスタングでもアドベンチャー気分は十分に味わえ、アンナプルナ山を始めヒマラヤ山脈が目の前姿を現す絶景がみれるとバイク修理屋のガイド兼メカニックのアシスタントに言われ、当方は当初の計画を変更してローアームスタングへ2泊3日で行く計画を立てた。
その計画変更で、ビザ期限の延長と同地域への入場許可証の入手手続きを行った。ビザ期限の延長と入場許可証の費用は約1.2万円。
その夜になって翌日以降の同地域の天気と気温をインターネットで調べると、同地域の気温は0℃~5℃と東京の真冬並みの寒さに加え、雨天が続く予報になっている。 この情報でやる気がすこし失せてきた。
その翌日の早朝、エンジンの調子が良くなったオートバイでローアー・ムスタングへとポカラ(Pokhara)を出発した。
最初の60km距離は舗装道路で順調に進むが、ローアームスタングよりかなり手前の一泊目の目的地Leteの遥か手前から凸凹のダート道が始まり、その後、山からでる水で道路がぬかるみと泥道となり、更に進むと大きな水たまりが連続するダート道となった。
明日から連日の雨天になれば、この道路の状況がもっと酷い泥道になるだろうと考え、すっかり気が萎えてしまった。こんなことなら事前にもっと調べて、同地域へのツーリング計画を立てるべきだったと反省しつつ、あっさり道路をUターンしてポカラへ戻ることにした。
折角のビザ期限の延長と入場許可証が無駄になってしまった。
(アンナプルナ山系がある地域の地図。地図中央の赤丸印の場所がローアー・ムスタング=Lower Mustang地域の目指した場所)
(山間部でスクールバスを待つ子供達。ネパールの生徒は制服を着用する)
(川に沿った谷間の道路を走行する。ローアームスタングへ向かう途中)
(長さ100mぐらいのつり橋上を荷物を背負って運ぶ地元の女性)
(河原では死者を火葬していた)
(ローアームスタング方面へ向かう道路。山から出る水で道路はぬかるむ)
(ローアームスタングへ向かう道を更に進むと、山から出た水で水たまりが多くなった)
ブッダゆかりの地を訪問する半巡礼ツーリング
3月上旬に訪問したインド・ビハール州のブッダガヤ(Buddhgaya)はシダルータ(覚りを開きブッダになる前の名前=Shiddartha)が菩提樹の下で覚りを開き、ブッダ(=覚りを開いた人)になった地であった。
訪れた場所は仏教の聖地となっているが、ブッダ生誕地のルンビニ(Lumbini)を除けば、巡礼者や観光客の数は多くなく静かな場所であった。ヒンズー教やキリスト教の聖地と比較すると寂しい感じだ。
巡礼地その① ルンビニ(Lumbini)とその郊外のTilauratとKudan
インドとのソナウリ(Sonauli)国境に近いルンビニ(Lumbini)は身ごもっていた母親が実家へ里帰りする途中にシッダ-ルタを生んだ場所であった。
シッダ-ルタは紀元前6世紀(BC6th Century)当時サクヤ王国(Sakya Kingdom)の王子として生まれた。ここには生誕地を記念してその後に建てられた寺院跡が残っている。その寺院跡にシッダ-ルタの生まれた場所の石が安置かれている。その生誕場所の石を見ようと多数の巡礼者や観光客が詰めかける。
Lumbiniから西へ約20kmの位置にサヤク王国の都であったティラウラット(Tilaurat)がある。
当時はカピラバツ(Kapilavatsu)と呼ばれていた。その地にはシダルタの父親であったシュッドーダナ王(King Suddodhana)の宮殿があったと言う。シッダールタは29歳までこの宮殿で暮らした後、妻子を残して旅立ってしまう。この場所は巡礼地でもあるが、まだ未発掘の遺跡もあると言う。
ティラウラット(Tilaurat)から3km程度の距離にクダン(Kudan)と言う地がある。
シッダ-ルタとなった後、父のシュッドーダナ王に再会した場所であった。現在は仏塔跡が残る程度の公園となっている寂しい場所だった。当方が訪れた時には数名程度の現地の観光客がいた程度だった。
(ルンビニ聖園内のブッdタ誕生の地へ向かう通路には多くの観光客や巡礼者がつめかけていた)
(写真後ろの白い建物の中にブッダの生誕地を記念して後に建てられた寺院の遺跡とブッダが誕生した場所の石がある)
Tilauratのブッダ父親のシュッドーダナ王の宮殿と王国都市の遺跡跡。タイの巡礼者が集団で訪れていた)
(ブッダが父親のシュッドーダナ王と再会したKudan。周囲には何もない。2千年以上前と変わらない風景だろう)
巡礼地その② クシナガール(Kushinagar)=ブッダ入滅(死去)の地
クシナガール(Kushinagar)はLumbiniから200kmしか離れていない。ブッダが入滅した地(死去)である。説法を説きながら各地を回ったブッダは高齢(80歳)になっていた。沙羅双樹(さらそうじゅ)の木の下に横たわったブッダは二度と起き上がらなかったと言う。
現在はブッタの入滅の地として小さなマハパヴィニルヴァナ寺院(Mahapavinirvana Temple)が建ち、寺院内には長さ5m程度の横たわる仏像が置かれている。その仏像のまわりにタイからの巡礼者と思われる人達がグループで座り祈りを捧げていた。寺院内の巡礼者はそれほど多くなかった。
(クシガナールのブッダ入滅の地に建てられて寺院)
巡礼地その③ サルナート(Sarnath)=ブッダが最初に説法した場所
ヒンズー教の最大聖地のワラナシ(Varanasi)の郊外にある。当方はサルナートとは名知らずに、この地のゲストハウスに投宿した。千年も経たような古い煉瓦造りの大きな仏塔(Damekh Stupa)が宿から見え、周辺を歩いている多くのタイの巡礼僧を見かけた。
その仏塔のことを調べてみるとブッダが最初に説法した場所だと判った。この一帯は記念公園になっている。
記念公園の一角には第二次世界大戦前に日本人の画家だった野生司香雪(のうこうせつ=Kousetsu Nou)が壁にブッダの生涯を描いた大きな壁絵がある寺院がある。
(サルナートでブッダが最初に説法をした場所に建つ仏塔)
(サルナートの日本人画家・野生司香雪=のう・こうせつが寺院内の壁にブッダの生涯を描いた寺院。)
(野生司香雪=のうこうせつが描いた壁絵の一部)
ゲストハウスやプチホテルの経営者
当方は多くのゲストハウスや家族経営のプチホテルに投宿している。
共通するのが当方と同年配の経営者は30代前半の息子達に後をたくしているのだが、若い息子たちはホテル立ち上げの苦労や経験が少ない。
また、自分が好きで跡継ぎになったわけでもないようだ。出会った2つの宿の経営者の息子たちは、それぞれ大学ではエンジニアリング等の理科系に進んだ。折角の知識も自分の職業キャリアには活かせない。
そのような境遇に息子たち本人も満足していない様子が仕事ぶりや接客の様子を見ると当方にも伝わる。
父親は人生の機微を知るホテル経営者だが、この息子たちは跡継ぎとして大丈夫だろうかと思う。
ルンビニのゲストハウスの経営者とは息が統合して身の上話も聞かせてもらった。インド・ビハール州がインド最貧州になった理由のひとつも聞いた。
イギリスとの独立戦争でビハール州の戦士たちは多くのイギリス人兵士を殺したために、その後、酷い復しゅうや制裁を受けたと言う。多くのビハール州戦士は、その後身元を隠すため、カーストの出身や氏を換え隠れ住んだと言う。
ビハール州では中央政府から意図的に教育の機会を奪われた人が多く、また、現地でのインフラ投資も他州より少かかったと言う。そのため、多くの住民が他州への出稼ぎを余儀なくされ、州全体が貧しい状態になっていると言う。
そのオーナーの先祖は船乗りのカーストで、イギリスとの独立戦争では勇猛にイギリス軍と戦ったと言う。そのため、ゲストハウスの経営を手掛ける前の銀行員時代には差別を受けたと言う。
十数回にわたる支店の転勤や治安が悪い地での勤務をしいられたという。ある支店時代には、毛沢東系の共産主義者が多い地域で、銀行の支店が襲われ、銀行員が殺されるることもあったと言う。
銀行の支店職員の中にも共産主義者がいて外部の共産主義組織と繋がっていたりして、人事面でも苦労が絶えなかったと銀行員時代の苦労話をしてくれた。 同氏は銀行支店長まで昇格して銀行を退職したが、同氏が属するカーストのため、銀行での処遇では差別を受けたと言う。
銀行員の傍ら20年前から始めたゲストハウスが軌道に乗り、長男は外科医となり、32歳の次男が最近家業を次ぐようになったと言う。
(ルンビニで投宿したゲストハウスを経営する元銀行員だった経営者。同氏はゲストハウスを2軒経営する)
インターネットが繋がらない。 VPN(私設インターネット回線)で解決
インドの次に訪れるパキスタンのEビザ(インターネットを使用して申請するビザ)をそろそろ申請せねばと考えて、その申請タイミングを伺っていた。
インターネットでパキスタンのEビザ申請サイトを開けようとしても、そのサイトがブロックされていて閲覧できない。ネパール滞在中にも試したが、閲覧できなかった。
フェイス・ブック(FaceBook)のグループ情報で問い合わせすると、インドから通常のインターネット回線では
パキスタンのEビザ申請サイトが開けないことが判った。
VPN(Vertual Private Network)と呼ばれる私設のインターネット回線を使えばビザ申請のサイトに繋がることを知った。
IT関連分野に強い日本のライダー仲間にVPNについて教えてもらい、何とかVPNのアプリを当方のスマホにダウンロードするとパキスタンのEビザ申請サイトに繋がった。
イランやロシア等の特定国ではインターネット上のサイト閲覧が制限されている。VPNを使用すれば通常のインターネット回線では制限されているサイトにも繋がるようだ。
以下走行順のショートコメントを記す。
ポカラ(Ppokhara)~ルンビニ(Lumbini)210km
山間部を通り抜けるジグザグ道路だが、交通量が少ないお陰で、オートバイのライディングが気持ちが良い。ルート上の道路はほぼ舗装道路であり、ヘタウダ(Hetauda)からカトマンズへ行く道路と比較すると各段良好だ。一部区間では工事中のためダート道となっているが、通行には問題ない。
ルンビニ付近は平野で住民や民家は国境を隔てて隣接するインド北部州と似ている。道路に牛が多い状況はネパールの他の地域とは異なり、インドにいるようだ。住民もネパール北部のアジア系というよりインド系の顔立ちをしているので、インド人と同じように見える。
(ポカラは落ち着いた雰囲気の町だった)
(ネパールの麵料理。日本のラーメンに似ているが、麺はスパゲッティーをゆでたような麵だった)
(ポカラからルンビニへ至る山間部の道路)
(ポカラからルンビニへ向かう道路は山の中腹を通る。道路上に青色のバスが小さく見える)
(山間部では段々畑が多い)
(バスの屋根にも乗客は乗る)
(集落では畑の種まきをしていた)
(峠の茶屋の女性経営者。夫の妹夫婦が福岡に住んでいると言っていた)
(ある茶店ではお茶カップ内部=写真右は上げ底の上、すり鉢型になっていた。当方は当初ミルクティーが多く飲めると期待していたが、飲み干すと量が本来の1/2以下と少ないのでがっかりした)
(ルンビニが近づくと道路上の牛が多くなってきた。道路の真ん中で寝込む牛)
ルンビニ村の中心部
(当方がルンビニで投宿したゲストハウスの周りには何もなかった。当方は静かな場所で気に入っていた。)
(ゲストハウスの窓から見たルンビニ。ブッタ誕生の2500年前とあまり変わっていないと想像する)
(ルンビニの隣の村の母親と息子。当初、姉と弟だと思ったが親子だった。)
ルンビニ(Lumbini)~スノウリ国境経由インドへ再入国(Reentry to India via Sunouli landborder)~クシナガール(Kushinagar)200km
ネパール出国手続き
ルンビニはスノウリ(Sunouli)国境から約30kmしか離れていない。
ネパール側のイミグレーションオフィースは国境に向かってメイン道路側面のサービス道路左側に位置する。国境から約500m位離れた場所だ。
メイン道路に多くのトラックが駐車されているため、メイン道路からではイミグレーションオフィースの建物が見えない場合がある。
当方は当初イミグレーションオフィースを見逃し、国境まで行ってしまった。
ネパール側の税関は国境約50m手前の道路右側にあり、関係者がその場所にたむろしているので、それとなくわかる。
同税関ではカルネ(Carnet du Passage en Douane)の扱いに慣れているため、10~20分程度で手続きが終了する。
ただし, この国境は貨物車両も通過するので、通常の税関手続きをする人々が多く窓口は混んでいる。 係官に<カルネの手続いだ>と言えば、直ぐに奥の事務室に通してもらえる。
(写真奥がネパール側から見たスノウリ国境)
インド入国手続き
通常の入国の場合はイミグレーションオフィースで入国手続き後、税関でオートバイの輸入手続きをおこなうが、この国境では順序が逆だった。
国境から約50m入った道路右側に軒先で商いをする小さな店舗のような事務所がある。税関とは書いてないので直ぐには判らない。また、手続きを行う税関史も道路横に机を並べて、民間人の服を着ている。
カルネでの輸入手続きには慣れているので、10分程度の待ち時間で済む。
イミグレーションオフィースは国境から300m程度進んだ道路右側の少し奥まったところにある。立派な建物。タイから巡礼者が約100名ぐらいのグループで順番待ちしていたが、当方は個人ということで、優先的に対応してもらった。
ネパールの出国手続きとインドの入国手続きは移動時間を含め合計1時間半程度で、思っていたより早く済んだ。
ただし、手続きを早く済ませるためには、順番待ちしている列の最前線まで行き、係官に手続きを早く済ませられるように依頼するなり、多少ずうずうしく振る舞わなければならない。
(写真奥がインド側から見たスノウリ国境。ネパール入国の順番待ちをしている貨物トラックが多かった)
国境からクシナガールまでは180km程度の距離だったが、雲行が怪しくなっていた。
午前中の早い時間に雨が降ったらしく道路上に少し水たまりがあったり、まだ路面の雨水が乾いていない場所があった。雨が再度降り出す前に宿に到着したいと先を急いだ。
クシナガールに到着すると、今にも雨が降りそうな空模様となり、宿を選んでいる暇がない。いつものように宿の予約は無い。最初に訪ねたゲストハウスに躊躇なくチェックインした。すると小雨が降り出した。
清掃が行き届いた宿ではなかったため、長居はしたくないと思いクシナガールは一泊のみとした。
宿でオートバイでブッタゆかりの地を訪れようとレインコートを着る準備をしていたら、当方と同年配のゲストハウスのオーナーが、<俺がブッタゆかりの地を案内してやるから、おれのバイクの後ろに乗れ。このくらいの小雨はインドでは何でもない>と案内役を買って出てくれた。
当方はすこし躊躇したが、同氏の好意に甘えて、同氏が運転するバイクの後ろに乗り約一時間ぐらい
ブッタゆかりの地を案内してもらった。
(インドへ再入国後クシナガールへ向かう国道)
(クシナガールで投宿したゲストハウスの経営者は親切にも当方をバイクで案内してくれた)
(クシナガールのブッタゆかりの地へ入るゲート)
クシナガール~ワラナシ(Varanasi)290km
小麦畑が続き平野部の国道を行く。ウッター・プランデシュ(Utter Prandesh)州の道路はよく整備されている。 片側2~3車線のハイウェイが主要都市間を結ぶ。
町の中央部を避けるようなバイパス道路も整備されているため、渋滞した町の中央部に入らず済んだ。
ただし、工事中の区間があるので、多少の我慢は必要だ。
ワラナシ(Varanasi)はビンズー教の最大の聖地。ガンジス河(Ganges)沿いに数キロに及ぶ階段状の沐浴場と火葬場がある。インド観光のポスターやガイドブックにはワラナシの沐浴場の写真がよく掲載されているので、当方は訪れてみたいと思っていた。
神話ではヒンズー教の創造神のブラフマーが儀式を行ったとされ、ワラシナで一番人気がある沐浴場(沐浴場のことをガート=Ghatと呼ぶ)ダシャシュワメード・ガート(Dashashwameth Ghat)へオートバイで乗り付けた。 沐浴場に至る道路は多くの人や車で非常に混雑していた。
ガンジス川で沐浴している人々は当方が思ったほど多くなかった。数名のグループで川に入り、頭まで水に浸かる人、一人寡黙に水に浸かる人等、思い思い形でガンジス川に浸かっている。
ガンジス川で沐浴するとこの世で大罪を犯した人でも、その罪は浄化されるという。
当方はその後、船に乗り約1時間ほどガンジス川クルーズで船上から多くの沐浴場や火葬場を見た。その景色にはインドの他の都市では見られないない異様さを感じた。
尚、乗船料は200ルピー(約320円)と言われたが、船が岸を離れるところで値切って通常の半額(100ルピー=約160円)乗船した。
当方が半額で乗船していることを知った他のインド人乗客が船頭に<当方だけ何故優遇されるのか>と文句を言っていた。観光地ではいつも現地人より10倍ぐらい高い外国人用入場料を払っているので、この時ばかりは逆差別で優遇され、気分が良かった。
(立派なコンクリート製の国道=ハイウェイ)
(国道=ハイウェイには象も通行していた)
(ワラナシのダシャシュワメート・ガートを船から撮る)
(ダシャシュワメート・ガートで沐浴するヒンズー教徒)
(ワラナシのガート=階段状の沐浴場の高さに注目。ガンジス川の水位は10m以上と思われる階段上部に達する)
(ガンジス川のガートの火葬場。煙が上がっている場所で死者を火葬していた。遺灰はガンジス川に流される。ヒンズー教徒には墓は無い。)
以上