5/13~5/20 シドニー~キャンベラ~メルボルン(1,100km)
オートバイツーリングもいよいよ終盤となり、いつ帰国するかや帰国便の予約をいつ行おうか等を考えながらの落ち着かない期間だった。
メルボルで経済関係の調査を行おうと考えていたが、経済の中心はシドニーに移っていることを知ったのはシドニーを離れた後だった。
ジェトロ(日本貿易振興会)で経済関係のヒアリングや証券取引所の見学(ツアー)が出来ればいいなと思っていたが、それぞれシドニーに所在していると気が付いたのは、アポイントを取ろうとメルボルン方面へ向かっている時だった。
詳細は以下記す。
(シドニー=地図右上の位置~キャンベラ~オーベリー~ベナラ~メルボルン=地図左下へと進む)
(赤線はオーストラリアの走行地図。東海岸のタウンズビルからブリスベンの区間を除けば当初計画した通りの走行ルートとなった。タウンズビルからブリスベンの区間は当初海岸沿いのツーリングを計画したが、実際は内陸路ルートへと変更した。走行した距離は44日間で1万km強だった。)
(カトンバ=Katoombaから望むブルーマウンテンズの渓谷)
5/13 シドニー~カトンバ(Katoomba)80km
シドニーの北西約80kmの位置にブルー・マウンテンズ(Blue Mountains)と呼ばれる大分水嶺の一角がある。
巨大な渓谷が形成されている標高約千メートルの大地から見る渓谷の景色は絶景だと観光ガイドブックに紹介されていた。
天気が回復すれば、ブルー・マウンテンズが位置するカトンバ(Katoomba)へ行こうと考えていた。
天気が回復せねば、シドニーでもう一泊過ごそうと思っていたが、天候が回復傾向だ。
ブルー・マウンテンズを観光するため、カトンバの町へとオートバイで移動した。シドニーを東京都するなら、カトンバは箱根といった位置関係だろう。
カトンバは標高約千メートルの高台とあって、空気はヒンヤリとして寒い。
投宿先のホステルではスチーム暖房のスイッチが入っていた。
シドニーから車で1時間半程度の距離なので、日帰り観光客が多い。観光バスでも多数の観光客が訪れている。
ここでも中国人、韓国人やインド人等の経済成長で勢いがあるアジア諸国の観光客が多かった。 日本人らしき観光客はいなかった。
季節は日本の11月中旬に相当するため、広葉樹が紅葉していた。
カトンバの町の雰囲気も箱根のような観光地のたたずまいでプチホテルやモーテルが多い。
当方はYHA Blue Mountains Katoombaに投宿。
4人部屋だが、その部屋には当方しか投宿客がおらず、快適に過ごした。(一泊36豪ドル=約3600円。ビュッフェスタイルの朝食も12豪ドルで提供していた。)
ブルーマウンテンズ=Blue Mountainsのスリーシスターズ(写真左下の3つの山)
(ブルーマウンテンズを見物するにはちょうど良い立地のカトンバのエコーポイント展望台=Echo Point Lookout)
(カトンバの中心街)
(カトンバは高地とあって紅葉が進んでいた)
5/14 カトンバ~首都キャンベラ(Canberra) 340km
キャンベラは人工都市だ。 オーストラリアが連邦制となり首都が必要となった際、どこを首都にするかでシドニーとメルボルンが競い会い、互いに譲らなかった。
妥協の産物として、シドニーとメルボルンの間に首都を作った。 実際にキャンベラまで行ってみると、何故こんな不便な場所に首都をつくったのか不思議だ。
シドニーとメルボルンを東京都と大阪に置き換えると東海道から静岡あたりで甲府方面へ60~70km奥まったところに首都を造ったのだ。
日本なら土地の制約があるから新しい都市は広大な遊休地や森等があるところに限定される。
しかし、シドニーとメルボルンの間の幹線道路沿いには広大な土地があるというのに、何故幹線道路からわざわざ60~70km奥まったところに首都を造ったのだろうか?
キャンベラに2泊して、自転車を借りて人口都市を見物した。
建物、道路、公園等が計画的に造られているので無機質な感じだ。
あまりにも人工的過ぎて好きになれない。
街の温もりや人が住んでいるという感じがしないのだ。
キャンベラで感心したことがあった。
国会議事堂が一般に解放され、上院や下院での討議が議場内の上部に設けられた閲覧席から
簡単に見学できるのだ。
当方は、両院でそれぞれの議員が演説してところを見学した。 ただし、カメラやスマホの持ち込みが禁止されているため、議場での演説や討議の様子はカメラに収められなかった。
キャンベラでの宿泊はThe Village Hostel Canberra(ドミトリー形式 一泊40豪ドル=約4千円)
(シドニーとメルボルン間を結ぶ幹線道路から離れてキャンベラへ向かう道路沿線は小高い丘が続く)
(レンタル自転車を借りてキャンベラの見所を回る。レンタル自転車は自動販売機のような機械装置にてクレジットカード支払い。レンタル料金は4時間で24豪ドル=約2,400円、24時間で36豪ドル=約3,600円)
(キャンベラの人工湖の岸辺の遊歩道の木々は紅葉が進んでいた)
(人工湖の噴水)
(国会議事堂を少し離れて撮影。議事堂前の芝生の広場はアメリカ・ワシントンDCの国会議事堂の配置と似ている)
(国会議事堂の入口ホール)
(戦争記念博物館=War Memorial Museum。人工湖を挟んで国会議事堂と向き合っている。)
5/16 キャンベラからオーベリー(Albury) 360km
オーベリー(Albury)は目的があって泊まったわけではなかった。 オートバイの返却先のベナラ(Benalla)がオーベリーの約130km先にあるため、翌日午前中にベナラでオートバイを返却するために好都合な場所を選んだだけだった。
キャンベラから西方へ進む道路沿いの景色は丘や小山が連なる景色に変わった。 小山の裾野には羊や牛が放牧されていた。 真っ平の原野や平地より景色は良い。
翌日にはオートバイを持ち主の親族が住むベナラで返却すると思うと、ホッとする気持ちと、もうツーリングは終わりかと残念な思いが湧く。
午後3時前には投宿先のモーテルに到着。
オートバイのパニアケースやトップケースに入れていたキャンプ用品も降ろして、バックパックや荷物バックにキャンプ用品等が入るか確認する。
投宿はGreen Door Motel(一泊95豪ドル=約9.5千円)
(キャンベラからオーベリーへ向かう途中の丘がある景色)
(オーベリーの中心部はアメリカ映画の西部劇に出てくるような映画館やホテル建物があった)
(紅葉が進んだオーベリ中心部の街路樹)
5/17 オーべリー~ベナラ(Benalla)
早朝のオーベリーは冷え込んでいた。気温は2℃と当方が住む横浜の真冬の寒さだ。
今までは邪魔だと思っていた厚めのダウンジャケットをライディング・ジャケットの下に着込んだ。Tシャツ等を含めるとライディング・ジャケットの下には5枚の衣服を重ね着している。
ライディングパンツの下も夏用下着、冬用下着やユニクロの発熱タイツ等4枚重ね着をしている。
冬用手袋の下にも薄手の手袋をするなど真冬の装備でオートバイに乗り、約130km先の
ベナラ(Benalla)の町まで最後のライディングを行う。
オートバイのグリップヒーターも作動させた。
オーストラリヤでは現金の使い道が無いと思っていた。
しかしながら、ベナラの洗車場では現金コイン式でのみ洗車機が作動した。
1ドルと2ドル硬貨で水が出るノズルを手に抱えて持つセルフ式の高圧洗浄機が作動した。 (キャンベラの洗車場ではクレジットカードしか使えなかったが)
ベナラでオートバイ返却後、ベナラにて電車に乗り込みメルボルまでの約200km弱の距離を電車旅で楽しむ。
と言っても4時間に一本ぐらいしかない上り電車(メルボルンへ向かう電車)の席はすべて予約済みで、当方は車両の端にある折り畳み式の補助座席で過ごした。(オーストラリアの電車はすべて指定席になっている。)
電車でメルボルン進む間に天気は晴れから曇りに変わり、そして雨になった。
オートバイなら雨具が必要なのだが、電車旅は天気に左右されず楽である。
しかし、車窓から見る景色にはオートバイでは感じられる空気、匂い、風、暑さ、寒さ等のリアル感が無いと思った。
メルボルンの投宿はYHA Melbourne Central(一泊45豪ドル=約4,500円)
(落ち着いたベナラの街)
(オートバイでのツーリングをベナラで終了。 ベナラ駅から約200km先のメルボルンへは電車で向かう)
(ベナラからメルボル向かう電車は混んでいた)
(終着地のメルボルン・サザンクロス駅)
メルボルン滞在(5/18~5/20)
メルボルン到着の翌日はブログ更新作業に終日追われた。
スマホで取った写真をパソコンに取り込みながら、それぞれの写真にタイトルをつけてパソコンに保存する作業が特に時間がかかる。
到着後2日目にやっと自由時間ができた。
オートバイツーリングをスタートしたコラック(Colac)のバイク店でメカニックとして働く日本人の知人からオーストラリアと日本の友好を記念したジャパン・フェスティバル(Japan Festival)がメルボルンの郊外で開催されることを教えてもらった。
知人にはツーリング出発前にオートバイの整備を行ってもらい、オーストラリアのツーリング情報ももらったりしてお世話になっていた。
帰国前に同氏と再会することも兼ねてメルボルン・サザンクロス駅から電車で30分程乗った郊外のボックス・ヒル市(Box Hill)へ行き、同市の市民ホール(Town Hall)会場でジャパン・フェスティバル(日本祭り)を見学した。
海外では現地社会と日本を繋ぐ親善団体や日本人会のような現地在住の邦人の団体が主体となり、現地進出の日系企業等からの寄付等も募り、お祭りが開催される。
現地社会の人々に日本を理解してもらう良い機会でもあり、在留邦人の集まる機会や楽しみとしても役立っている。
当方が会社員時代にバーレンやスペイン等で駐在した際にも、同様なお祭りを経験した。
オーストラリア人の日本への関心は高いようだ。タウン・ホールの会場は入場者で満員の状況だった。
現地の同好会による和太鼓のパフォーマンス、小学生グループ合唱、各種武道のパフォーマンス、生け花の展覧等日本文化の紹介に事欠かない。
現地の人々(オーストラリア人)の参加者や展示品が多くあり、オーストラリアの人々が多数お祭りの実行に関わっていた。
ほとんどオーストラリア人で結成されている和太鼓チームや武道チームの参加もあった。
日本のアニメには海外の多くの若者が関心を示し、アニメを通して日本文化を理解したり、日本語を話すようになったとよく聞く。 アニメのコスチュームを着たダンスパフォーマンスも人気を博していた。
お祭りには食べ物が欠かせないが、和菓子の団子販売の模擬店の前は買い求める人達でにぎわっていた。
一番人気は焼き鳥だろう。買い求める人の長蛇の列で当方は焼き鳥を買うのを諦め、人気がほとんどなく直ぐに買えたカツカレー弁当を食べた。
(ジャパン・フェスティバルのパンフレット)
(ジャパン・フェスティバルの会場だったBox Hill Town Hall)
(会場内で和服コンテストを見る人たち)
(和服コンテスト参加者達。 左から4人目の参加者はミニスカートと和服の組み合わせというユニークな姿だった)
(団子販売の模擬店)
(アニメのコスチューム姿でダンスを披露する地元チーム)
(ボックス・ヒル市は中国系の住人が多い。駅前には漢字の看板を掲げた店やビルが多い)
(ボックス・ヒル市の通り。漢字の看板の商店ばかりだった)
以上