インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

韓国一周オートバイツーリング最終回

 

韓国一周ツーリングを釜山(Busan)で終了した後は、釜山から博多へのフェリーに乗るだけだった。韓国では約4週間で2,300km走行した。

 

 

(カメリア・ラインのフェリーは日本と韓国の間にある対馬の横を通過する。往路フェリーから見た対馬。)

 

釜山港での帰国通関手続き

 

約4週間前に博多から釜山にフェリー到着した際に、釜山港でオートバイの通関手続きを行ってくれたカメリア・ラインの職員が対応してくれた。流ちょうな日本語を話すシニアの職員だ。

 

帰国便フェリーが出航する日の15:30まで釜山港国際ターミナルの指示された場所にオートバイを持ち込んだ。

 

当日のフェリー運航スケジュール16:30~18:30が乗船手続きチェックイン、20:00に乗船完了で、22:30出航となっていた。そして翌日午前7:30にフェリーは博多港に到着した。

 

韓国入国時の税関関係書類2つ(輸入通関時に渡された一時輸入許可書と本来なら韓国内でオートバイに張り付ける直径15cmくらいの通行許可ステッカーの2つ)、およびパスポートとオートバイの登録証書(Registration Certificate)をカメリアラインの職員へ手渡して出国通関手続きの代行をしてもらった。 当方は約30分間待つだけであった。

 

手続き終了後、オートバイをフェリー船が到着する岸壁付近まで移動して一旦終了。

 

約2時間後に一般乗客と一緒にフェリーへ乗船した後、フェリー会社の係員に先導されて一旦フェリーから下船して、岸壁に一時駐車したオートバイをフェリー船内へ運び込むだけだった。尚、通関手続き等の費用は一切なかった。

 

博多港での輸入通関手続き

 

博多港到着後、オートバイはフェリー船内から降して一旦港の保税地区に駐車する。

そして、他のフェリー乗客と一緒に下船して、入国手続きを済ませる。

 

その後、カメリア・ラインの係員へ4週間前に博多港にてオートバイを輸出通関した際の関係書類(一時輸出申請書、国内の車検証、パスポートと運転免許証)を手渡して、博多港国際ターミナルの待合フロアで約1時間待機。 オートバイの通関手続き終了後、係員に先導されてオートバイを一時駐車した場所に戻り、オートバイを保税地区の外へ移動させて全てが終了する。

 

オートバイの輸入通関でもフェリー会社の職員がすべて代行してくれた。費用は一切無し。午前9時には博多港から市内へとオートバイに乗って走り出した。

 

韓国ツーリングで感じたことを以下に記す。

 

韓国の道路事情

 

道路インフラが整備され、カーナビを使用すれば行先も分かりやすく、また走行しやすいと思った。

 

オートバイは高速道路の通行が禁止されているので、韓国専用のカーナビアプリ<NAVER>を使用して、オートバイが通行可能なルートをチェックしたり、あるいは同カーナビを使用しないとスムーズな通行は難しい。

 

韓国の幹線道路は、日本では高速道路と言ってもよいだろう。中央分離帯があり片側2~3車線で信号機が無く、制限速度が時速80kmとなっている。そのような道路が韓国全土をほとんど網羅している。このような道路は都市部では信号機があるが、いったん都市から抜け出すと日本の高速道路のような走行が可能だ。しかもソウル首都圏や大都市以外は車両の通行がスムーズだ。ただし、ツーリングを楽しむ道路ではない。

 

幹線道路上の分岐点の手前200m~300m付近から道路上に太い赤線が書かれており、その赤線に沿って走行すれば分岐点を間違えずに進める。

 

当初は何のために道路上に色線が引かれているのかわからなかったが、走行しているうちに、道路上に青線が描かれている車線は本線、赤線は分岐する車線だということが分り、当方には便利だった。

 

速度超過違反の取り締まりが厳しい為か、あるいは反則金が高いためか、ドライバーは制限速度をよく守る。制限速度が時速30kmとなっている学校付近の道路では皆が時速30km以下で走行する。また、郊外の時速80kmの制限速度区間の道路でもほとんどのドライバーが制限速度を守っていることには正直驚いた。

 

強いて言えば、車線変更をする際、半分ぐらいのドライバーはウインカー(方向指示器)を点灯させない。もっとも頻繁に車線を変更する車両は少ないので、慣れれば、走行上の問題にならない。

 

(韓国東海岸の幹線道路。韓国では高速道路ではないが、制限速度時速80kmと高速道路並みだ)

 

(束草=Sokchoから首都ソウル=Seoulへ向かう韓国北部の内陸横断国道)

 

(風光明媚な東海岸の海沿いを通る曲がりくねった地方道路。車の交通量が少なく景色も良かった。)

 

オートバイ走行時のカーナビアプリ

 

NAVERのカーナビアプリは携帯電話のデータ通信への接続が常時必要なため、当方は走行ルートを確認する際のみ使用した。常時はデーター通信への接続が不要なカーナビアプリであるOrganic Mapsのアプリを使用した。

 

また、NAVERのアプリの使用方法については、使用方法に慣れる必要がある。

当方は韓国ツーリングの2泊目に慶州(Gyeongi)のゲストハウス(Doo-baki Guest House)のオーナーから教わった。同オーナーはオートバイでの世界一周ツーリング経験者であり、英語は堪能であった。

 

クレジットカード先進国

 

韓国ではクレジットカードの使用が普及しているとは知っていたが、ガソリンスタンド、スーパーマーケットやコンビニは当たり前だが、ほとんどの大衆食堂でも使用可能だった。

 

現金を要求されたのは、魚、野菜等の食料品市場内にあった屋台だけであった。

 

ただし、セルフで給油するガソリンスタンドでクレジットカードの支払い操作を当方一人で行うのは無理だった。

 

ガソリンスタンドでのクレジットカード対応の給油機はハングル文字(韓国文字)で表示されているので、オートバイへの給油の際は常時ガソリンスタンドのオペレーターにお願いして、給油機を操作してもらった。

 

近未来都市空間と裏路地の昭和時代的町

 

朝鮮半島には地震はほとんどないと旅行ガイドブックで案内されていた。地方都市からソウルのような大都市まで市民の住居となる30階建て以上の超高層マンションが文字通り樹林して近未来的都市の空間を形成している。

 

韓国では国民の半分以上の人々が集合住宅(マンション)で生活しているという。

地方の都市でも、農地や山林の横に突然超高層マンション群があるのを初めて見た時は違和感を覚えたが、韓国ではそのような都市の形が普通だと韓国を一周して分かった。

 

山が多く平野部が少ない国土には適した都市づくりだろう。

 

その一方では旧市街の裏通りには日本の昭和時代の裏通りのようにトタン屋根やブルーシートで軒先を延ばして、道路にはみ出した縁台に野菜や果物を並べている八百屋や日差し除けの天幕の下で野菜を売る露天商があったりと懐かしい裏通りの生活もある。

 


(首都ソウル近郊のニュータウンをPajuの統一展望台から望む。平野の中に超高層マンション群が樹林している光景には驚いた。)

 

(東海岸中央部の三歩=Samchek市内の高層住宅)

 

(東海岸最北部の束草の=Sokchoの市内を標高700mくらいの山から望む。写真右側に市内の高層マンション群が見える。)

 

(ビジネスホテルには初めて見たスマートクロゼットが装備されていた。最初見た時は冷蔵庫かと思った。)

 

(スマートクロゼットの内部。衣服の脱臭、しわの伸ばし、乾燥ができる。当方は洗濯した下着類を乾燥機として使用した。)

 

文化施設に力を入れる韓国

 

名刹として歴史が長い多くの寺院や博物館あるいはユネスコ世界文化遺産の名所旧跡の入場料が無料であったことに驚いた。

 

無料にはなっていない施設でも入場料が3,000韓国ウォン程度(日本円で約300円)と安く設定されている。 65歳以上は無料となっている場合が多い。65歳以上の入場無料制度は本来、韓国籍のシニアに適用されるのだが、外国人にも適用される場合があった。当方はパスポートを見せて外国人と身元を明かしているが、65歳以上のシニアということで多くの場合入場料を無料にしてもらった。

 

日本を含む世界の多くの国もこのように文化へのアクセスを容易にしてもらいたいものだと思った。

 

ハングル文字の食事メニュー

 

海外で食事をとるのはそれなりの労力を要する。

 

レストランや食堂はたくさんあるが、当方はハングル語文字が読めず、料理メニューが分らない。スマホのグーグル翻訳アプリを使用して韓国語から翻訳するのだが、翻訳した言葉が分らない場合が多い。他の客が食べている実際の料理をみて食事を注文していた。

 

当方は一人のため、鍋料理(チゲ、クッパ等)が多くなった。カルビ等の焼肉は2人前以上でないと対応しないことを知らなかった。鍋料理の価格は大体10,000~12,000韓国ウオン(約1,100円~1,300円)。

 

それでも副菜として無料で提供されるキムチ、カクテキ(大根の漬物)等の種類の多さや量には満足した。激辛の味付けも一週間すれば慣れ、韓国滞在3~4週間目となれば病みつきになる。

 

韓国滞在が2週間ほど過ぎた群山(Gunsan)では日本の博多ラーメンを食べた。

2週間の激辛食事のためか、ラーメンの味付けが甘く感じて、以後帰国まで日本食は一切取らなかった。

 

当方が韓国を初めて訪れたのは約50年前の大学生の時だった。

 

欧州から乗って来た大韓航空機から羽田空港行の便へとソウルで乗り換える事になっていた。しかし、乗り継ぎ便に乗り遅れて一夜韓国市内で過ごしたことがあった。

 

その時の印象ではソウル市内には漢字で表記した店や銀行の看板があり、少しは街中が分った。

 

しかし、今や漢字表記の看板は全く見かけなかった。全ての看板がハングル文字表記になっているのでどの店が飲食店なのかもわからない。

(キムチチゲ=鍋の料理。副菜は好きなだけ自由に取れる。この店にはニンジンやジャガイモの煮つけがあったので、当方にはありがたかった。)

 

(キムチチゲに飽きたので、豆腐チゲにしたが、味付けはキムチ味だった。)

 

(順天=Suncheonの料理の写真があった食堂は重宝した。当方は料理の写真を指差して注文した。)

 

(順天の食堂の豚肉のチゲ)
 

(木浦=Mokpoの麺類専門店で食べたアサリ風味のすいとんスープ。料理の中身を知らずに注文して、料理が出てきて、すいとんスープと分かった。すいとん入りとは知らずライスも別途注文したのだが、ライスは不要だった。)

 

(光州=Gwangjuで投宿したゲストハウス=Pedro’sHouse横の食堂で食べたサンパという焼肉定食。生にんにく=写真右下を味噌につけてまるごとかじるダイナミックさがある。)

 

かっては公文書には漢字の使用が多かった。

 

(1969年当時朴大統領へのPOSCO=韓国最大製鉄所の建設の進捗状況を報告した文書はほぼ漢字表記だった。POSCO歴史博物館蔵)

(1980年の光州事件当時、光州の州知事室に掛けられていた韓国内務省の施政方針はほぼ漢字で書かれていた。)

 

(1978年のPOSCO記事を扱う新聞記事には漢字も使用されていた。)


 

便利な郊コンビニのテーブルとイス

 

韓国の郊外のコンビニには店舗の外に必ず公園で見かけるような椅子とテーブルが備わっている。長時間のオートバイライディング途中の休憩時にコーヒーを飲んだり、軽食をとったりと貴重な場所であった。

 

(韓国で多いCUのコンビニ。群山(Gunsan)~光州(Gwangju)間の小さな町のコンビニ店長(33歳)は大学で日本語を習ったと言って、当方とは日本語で対応してくれた。 地方のコンビニ店舗の外には写真のようなテーブルとベンチが設置されている。)

 

若く見える韓国人

 

当方の印象では韓国人の男は実際の年齢より若く見えた。当方が30歳代かなと思った男が実際は50歳代であったり、大学生ぐらいの若者かなと思った人が40歳代であったことがしばしばあった。

 

一つには髪形にあると思った。昔のビートルズのようなマッシュルームのような髪型の男が多い。中学生から中年の大人まで多くの男がマッシュルームカットだ。

 

また、韓国人はキムチたくさん食べるので、そのキムチの効果で若く見えるのかとも思った。

実際、キムチに含まれるビタミンCは強い抗酸化作用を持ち、肌の老化を防ぎ、コラーゲンの生成を促すようだ。

 

(群山=Gunsanで宿泊したゲストハウスGunsan Wolmyeongdong & Guesthouseのオーナー夫妻のご主人ソン・イン氏(漢字では孫寅と書く)=写真右は54歳、夫人オ・セミさん(漢字では呉世微と書く)=写真中央は53歳と言っていたが、実際の年齢よりずいぶん若く見えた。)

 

(順天=Suncheonで知り合ったライダーJung Hyun  Dongさんは大学生と高校生の子供がいる49歳の中年だと言っていたが、当方は30歳代の若者と思った。)

 

経済成長が著しい韓国

 

韓国の一人当たりの2025年の実質GDPは5,153万ウォン(約520万円)だった。日本は約480万円と韓国に抜かされている。

 

米国とのインフレ格差を考慮した購買力平価ベースでの一人当たりのGDPでは韓国は2017年に日本を抜き、2025年には約65,000米ドルとなり日本より2割弱多くなっている(日本は約57,000米ドル)。2カ国間の物価を考慮すると、韓国の方が豊かになっていることが分る。

 

理由の一つは経済構造の違いがあげられる。

 

韓国の輸出比率はGDPの44%と日本の2倍以上だ。日本は約18%だ。GDPは内需、設備投資、政府支出と純輸出(輸出額-輸入額)で構成される。

 

つまり純輸出額(数量や単価)を伸ばすことでGDPを増やすことが可能であり、内需を増やすより容易だ。

 

他方、日本の輸出額はあまり伸びない構造になっている。多くの製造業が中国や米国等の海外での生産比率を高め、日本から輸出を増やさない構造となっているからだ。日本は円安をあまり享受できない経済構造になって久しい。

 

首都ソウルで多くの超高層マンションが建設されている現場を見た以外、韓国の経済の成長を感じる場面には遭遇しなかった。

 

しかしながら、メルセデスベンツ、BMW、Audi等の高級輸入車や現代自動車(Hyundai )の高級ブランドGENESIS(トヨタのレクサスに相当する高級ブランド)の車両が数多く走るソウルの道路を見れば、個人消費が活発であることは窺い知れる。

 

(イタリア・マセラッティの四駆、ドイツBMWのセダン、米国Jeepと外車が並ぶ駐車場)

 

(現代自動車(Hyunddai)の高級ブランドGenesisのセダン)

(ドイツ・AudiのA7に似る現代自動車(Hyundai)の電気自動車)

 

以上

郡山(Gunsan)〜木浦(Mokpo)〜釜山(Busan) 900km(2026/5/29〜6/5) 韓国ツーリング3回目の投稿

 

群山(Gunsan)から韓国・南部地域のの全羅南道(Jeollanam-do)は海岸線が複雑に入りくんだ地形で海岸線に沿ったルートのツーリングを楽しみにしていた。光州(Gwangju)のゲストハウスのオーナーにこの地域の見どころを教えてもらっていたので、日本のガイドブックには紹介されていない外羅島(Narodo)の韓国の宇宙開発基地(Naro Korea Space Center)や巨済島(Geoji)の朝鮮戦争時の捕虜収容所跡(POWs Park)等を訪れることが出来た。

郡山(Gunsan)から釜山(Busan)へのツーリングルートは以下の通り。

郡山(Gunsan)〜海上の長さ10km以上の埋め立て道路を経由してGogusan Islands〜180km〜光州(Gwangju)〜120km〜木浦(Mokpo)〜Goheung半島〜Narodo諸島〜290km〜順天(Suncheon)〜普州(Jinju)経由〜150km〜統営(Tongyeong)〜巨済島(Geoji)経由〜180km〜釜山(Busan)=韓国ツーリング終了地点
 
(韓国一周のルート地図。郡山(Gunsan)は韓国西側(地図上では左側)の下から3つ目の赤丸印の場所。赤線がツーリングルート。赤丸印の場所は宿泊地。
 
郡山から矢印に従って(逆時計回り)光州(Gwangju)〜木浦(Mokpo)〜順天(Suncheon)〜統営(Tongyeong) 〜最終地点の釜山(Busan)にそれぞれ宿泊した。釜山は地図の右側最下部の赤丸印の場所。)


群山(Gunsan)〜光州(Gwangju) 180km

群山(Gunsan)から光州(Gwangju)へは少し大回りになったが海の中のハイウェイを通過して向かった。 

地図上では海の上に長い橋がかかっているように見えるが、実際は中海を囲むように幅50m〜100m位の堤防のような埋め立てた陸地が作られていた。その上に片側2車線の立派な道路を作られていた。
 
多分のこの中海の堤防道路は中海を干拓するつもりで作られたのだろう。
その辺りの島々(古群山列島=Gogunsan Islands)が橋で繋がっている。

(スクリーンショットのカーナビの地図上で青丸印は群山(Gunsan)の位置。群山からすぐ左下の海の中の直線道路の中間点で手書きの丸で囲んだ島々が古群山列島(Gogunsan Islands) ちなみにカーナビ上の青線ルートは群山(Gunsan)から光州(Gwangju)までの158km)

(郡山(Gunsan)から少し南の海の中の道路は細い埋立地だった。10km以上の直線道路。地図上では海上の長い橋かなと思っていたが)
 
郡山(Gunsan)のゲストハウスのオーナーにその辺りの島々(Gogunsan Islands)の観光パンフレットもらった。そして、”良いところだ”と勧められたので訪れた。

古群山列島(Gogunsan Islands)まだ観光されていない島々で、訪れる人は少ない。当方は観光客が少ない場所が好きである。

(古群山列島=Gogusan Islandsの観光客が少なく静かな場所だった。 写真はSeonyudo島の海岸)
 
その後、光州(Gwangju)へと急いだ。

光州のゲストハウスで問題が生じた。受付係が当方をゲストハウス内へ入れてくれない。

受付係は”当方の宿泊予約をAgoda(宿泊予約サイト)から受け取っていない。本日は満室でだめだ”と言うのだ。

グーグル翻訳を介しての会話なので、時間がかかる。1時間ぐらい話し合いをしたところ、Agodaとゲストハウス間の連絡が繋がっていなくて当方の予約を受けていないことが判った。 本来なら当方は予約を諦めるしかないのだが、当方はゲストハウスへEメールで予約した旨と宿泊時のリクエストを直接伝えるようにしている。

ゲストハウスの受付係がEメールをチェックすると当方からの連絡が届いている。英語のEメールだったので、見落としていたのだろう。

受付係は非を認めて、予約した部屋がないため、アップグレードした部屋を用意してくれた。

英語が通じない分、問題が生じると解決に時間がかかることを懸念して翌日は英語が通じる宿に変わることにした。


光州民主化デモ(Gwangju Democratization Uprisings)

長期の軍事政権だった朴大統領(President Park Chung Hee)が1979年に暗殺された。韓国の多くの人々は長期の軍事独裁政権がたおれて政治の民主化がおとずれると期待したが、その後も軍事クーデターで軍事政権が継続した。

そのため首都ソウルを始め、多くの都市では市民が立ち上がり、民主化を求めるデモが発生した。

その中でも光州の民主化デモが一番強烈だった。 市民や学生が銃を取って立ち上がった。そして、デモ隊が一時、州政府の本部を占拠して市民による暫定自治を試みた。

軍事政権はその民主化デモを武力で激しく鎮圧した。数百人の犠牲者がでた。光州事件とも呼ばれている。

この不幸な出来事を風化させないように、当時の全羅州政府(Jeolla Province Office)の本部が博物館として残され、当時の民主化デモの写真やむごたらしい軍事政権の鎮圧(デモ隊の殺戮)の写真や記録を展示している。

当方は韓国が当時置かれた厳しい社会と市民の力強さを感じた。
 
(1980年5月当時の光州(Gwangju)の民主化デモの様子。)
 
(旧全羅州政府の本部だった博物館には光州の民主化デモに対して国軍2万人が投入されて多数の犠牲者が出て様子を写真パネルで展示)
 

光州Gwangju)〜木浦(Mokpo)120km



今回の韓国ツーリングは一日あたりの移動距離を短くして、余裕時間を持つようにスケジュールした。

余裕時間はできるだけ、名所旧跡等を訪れるようにした。

光州と木浦の間に世界遺産の旧跡があるのをガイドブックで見つけた。

和順支石墓群(Hwasun Dolmen Site)というユネスコ世界遺産だ。

ユネスコ世界遺産だから観光客が多くて嫌だなと思いつつ現場に到着すると、当方以外観光客らしき人は見当たらない。

3kmx1km位の広い丘陵地の林に紀元前3000年ぐらいに墓として作られた長さ4〜5m x 幅3〜4m x 高さ3mほどの長方形に切られた巨石がごろごろしている。近くの砕石場から切り出されて運搬してきたものだと説明されている。

考古学的に価値が高いものだろうが、当方の関心は惹かなかった。暑い中を、丘や小山を上り下りして汗だくになったこと以外強い印象は残らなかった。

(ユネスコ世界遺産の和順支石墓群(Hwasan Dolmen Site)の巨石。紀元前3000年ころの墓遺跡。長さ約4mx幅2.5mx高さ3mで数十トンの重さはあると思われる。)

 

 

多くの年輩者には韓国の民主化の歴史上、金大中元大統領の名前は馴染み深いだろう。

同氏は1973年に滞在中の東京のホテル(グランパレス)でKCIAの諜報員に拉致され、韓国に連れ戻され、政府転覆未遂等の容疑で一時は死刑の判決を受けたこともあった人物だ。

金大中元大統領は同地の出身だ。
木浦(Mokpo)には同氏の業績を称えて作られた記念館がある。

同氏の不屈の精神と朝鮮半島統一を睨んだ北朝鮮と韓国の南北首脳会談を初めて開催した人物でもあった。韓国の軍事政権下で政治の民主化を求めた同氏は絶えず政権から敵視され、暗殺未遂や死刑判決等で5回命の危険にさらされたと言う。

同氏は2000年にはノーベル平和賞を受賞した。同氏を死に追いやろうとした軍事政権下の金斗換元大統領(President Chon Doo Hwan)等の元政敵とも和解して握手している写真には驚いた。

自分を殺そうとした敵と握手して和解できる同氏の博愛なり、懐の深さには当方は感動した。

(金大中元大統領(President Kim Dae Jung)とクリントン米大統領( US president Clinton))


木浦(Mokpo)〜順天(Suncheon) 290km


(木浦(Mokpo)の歴史文化地区の町並み。日本統治時代に日本領事館があった高台から旧租界地区を見る。)


木浦は郡山(Gunsan)に似た黄海に面した港町だったが、郡山の印象が良かったためか、木浦にはあまり魅力を感じず、歴史景観が残る旧租界地は素通りしただけだった。

むしろ木浦から南に広がるGoheung半島や内羅老島(Noe-Narodo Island)や外羅老島(Oe-narodo Island)へ至るツーリングルートに心が動かされた。

韓国ツーリングは高速道路(韓国の定義では高速道路では無いが)のような制限時速80kmの立派な道路での走行が多く、ツーリングを楽しむと言うより、単なる移動手段でオートバイで走行している感じであった。

しかしながら、半島と島を結ぶ橋や島と島をつなぐ橋から見る島々の景色は韓国ツーリングで一番の絶景ルートであった。

リアス式海岸道路は入江の奥へと上ったり、下ったりする坂道が曲がりながら先へ続いている。よそ見をしながら走行すると、カーブが曲がりきれずに道路の外に飛び出してしまいそうな厳しい場所がある。

期待した通りの最高のツーリングルートだ。


(外羅老島(Narodo)にある韓国宇宙センターの博物館)
 
(海と島々が美しい韓国南部地域の全羅道(Jeollado))
 
 
 
(島々をつなぐ大きな橋。高興群(Goheung)から麗川(Yeosu)へ向かう途中。)
 
 

文禄の役(1592年)・慶長の役(1598年)=豊臣秀吉の朝鮮出兵の爪痕

この地域には豊臣秀吉が日本の天下統一後、当時の明朝(Ming Dynasty=現在の中国)へ領土広げようと朝鮮半島へ軍事進出した当時の戦争跡が残る場所だ。

日本では文禄の役(1592年)・慶長の役(1598年)と呼ばれている。

順天(Sucheon)には豊臣軍が長期戦に備えて造った大掛かりな城趾が残っている。この場所では小西行長率いる豊臣軍と明(Ming Dynasty)と朝鮮王朝の連合軍の最大かつ最後の決戦場所であったと城趾の案内看板に説明書きが日本語でも記されていた。

豊臣軍は秀吉の死後、朝鮮半島から撤退して戦争が終結した。

現在、城趾は元天守閣等の土台部分だった復元された石垣のみが残る日本城趾公園になっている。

当方は日没前の夕刻に訪れたが、当方以外には韓国人の夫婦連れ2組が城趾を見学していた。整備された公園の割には淋しい場所であった。

多大なる犠牲と損害を与えた敵の史跡は忘れてはいけない歴史として残っているが、ぜひとも訪れてみたい史跡でないと思う韓国人の心情がわかる気がした。

文禄の役(1592年)においては戦慣れしていた豊臣軍が、戦の準備が出来ていない朝鮮軍を破り、当時朝鮮王朝の都だったソウル(Seoul)まで一気に攻め込んだとその後訪れた普州博物館 (Jingu Museum)では説明書きがあった。


(順天(Suncheon)の日本の城跡。慶長の役(1598年)の際に豊臣秀吉軍が造った城跡に復元された石垣)
 

天順(Suncheon)から普州(Jinju)経由統営(Tongyeong) 150km

普州(Jinju)の町には朝鮮王朝時代からの復元された砦(Jinjuseong Fotress)には観光客が多く訪れている。

文禄の役・慶長の役で豊臣軍が普州の町に攻め入り、朝鮮軍と市民を相手に激しい戦闘を行った場所であった。

砦跡の中には朝鮮軍を指揮して朝鮮を勝利に導いた当時の将軍の像や、その将軍を軍神として祀る神社がある。

普州博物館(Jinju Museum)では文禄の役・慶長の役を描いた絵巻物や当時の火縄銃や大砲、日本の甲冑までが展示されている。

また、当時朝鮮軍が使っていた筒のような火縄銃を使って、映像上の豊臣軍を相手に戦う迫力あるゲームもあった。

これらの史跡や博物館を訪れて、当時の朝鮮に多大なる損害を与えた豊臣秀吉の朝鮮出兵を考えると秀吉はなんと迷惑な行為をおこなったんだろうと思わずにはいられない。

文禄・慶長の役について興味深い解説があった。 朝鮮と日本の2ヶ国間の戦争では無く、明(中国)も含めた3ヶ国を巻き込む多国間戦争の枠組みで理解すべきと。

 日本が天下統一で国力を付け東アジアで台頭してきた一方、中国(当時の明朝=Ming Dynasty)が国力を落としその後、清朝に置き換わった時代背景を説明していた。

朝鮮王朝と徳川幕府(日本)はその後和解して、朝鮮王朝は徳川幕府へ定期的に外交団を送り、外交関係を樹立したとも説明されていた。

朝鮮は過去千年の間に約300年毎に侵略戦争の被害を被っている。

13世紀中半にはモンゴル軍が当時の高句麗に攻め込み、高句麗を支配下においた。16世紀末には豊臣秀吉軍が攻め込み、19世紀末には朝鮮半島での覇権を巡り日清戦争が起き、戦勝したが日本がその後、朝鮮半島を日本の統治下においた等の歴史がある。

(慶長の役(1598年)の戦い。城の中で籠城する豊臣秀吉軍を取り囲む朝鮮と明の連合軍。普州(Jinju)博物館蔵)


 
(文禄•慶長に役の海戦で使われてた朝鮮水軍の戦艦を模造した観光船。亀甲船と呼ばれていた。船の屋根が亀の甲羅に似る。全長20m位 統営=Tongyeongの港に係留中 )
 
統営(Tongyeong) 〜 巨済島(Geoje) 〜 釜山(Busan) 180km

巨済島(Geoje)には朝鮮戦争時に敵だった北朝鮮人兵士や中国人兵士を収容した捕虜収容所があった。

その跡地に捕虜収容所博物館がある。ここには多くの韓国人の観光客が訪れていた。当時の収容所をジオラマでリアルに説明している。 約17万人(内2万人が中国兵)の捕虜が収容されていた巨大な施設だった。

第二次世界大戦後の戦争捕虜の扱いを規定したジュネーブ条約が初めて適用された収容所だったため、捕虜収容所では捕虜に自由時間が与えられ、また、靴修理、大工仕事や鍛治等の職業訓練もあったという。

しかしながら、捕虜の間で、イデオロギー対立があり、繰り返し組織だった暴動があり、1万人の捕虜が犠牲になった厳しい現実もあった。捕虜はその後、祖国へ帰還するか、韓国に残るか、第三国へ行くかを選べたという。

(巨済島(Geoje)にあった朝鮮戦争時の捕虜収容所。当時の様子をジオラマで再現)
 
巨済島(Geoje)は釜山方面と海底トンネルと橋で繋がっている。海底トンネルを経由すれば釜山は数十キロメートルと近いが、オートバイの通行が禁止されている。

当方は巨済島から半島を大回りしながら、釜山へ向かった。半島を大回りするルートは小さな入り江がある村々を通る田舎道だった。

当方が好きなのんびりとした景色が広がるが、ところどころの湾内に巨大なクレーンや高さ20メートルはありそうな巨大な工場がある。巨大な造船所だ。中国と競う韓国の造船業の中心がこのような場所にあるとは予想もしなかった。

(巨済島(Goeje)と釜山(Busan)間にある数多くの湾にある造船所の一つ)
 

(韓国一周ツーリングの出発点と終着点だった釜山(Busan)。帰国日前日は小雨だった。 松島から影島方向を見る。 写真中央の橋は南港大橋。)

以上

No


 

 

草(Sokcho)〜ソウル(Seoul)経由〜群山(Gunsan)までのツーリングルートは地図右側最上部の赤丸印の束草(Sokcho)から地図左側の最下部の赤丸印の郡山(Gunsan)までだ。
 
束草(Sokcho)から地図左側方向(西方向)へ進み〜ソウル(Seoul)〜パジュ(Paju)=左側最上部〜再度ソウル(Seoul)〜地図左側を下方向(南方向)へ進む〜水原(Suwon)〜公州(Gongju)〜扶除(Buyeo)〜郡山(Gunsan)の順に進む。
 
郡山(Gunsan)は地図左側最下部の赤丸印の場所だ。
 

束草(Sokcho)〜Seoul)230km

 

雨が2日間降り続いたので束東(Sokcho)には結局4泊した。韓国ツーリングは従来のツーリングに比べ時間に余裕があるので、雨天の日はなるべく走行しないようにしている。
 
当初の予定では束東から西方面のソウルへ向かう前に中間地点に位置する春川(Chuncheon)に寄るつもりだった。しかしながら春川に寄るのは止めて、天気が良いうちにソウルへ移動することにした。
 
束草からソウルまでの距離は約230kmある。束草を出発後15km程度の山道を走行したが、その後は日本の高速道路のような立派な国道だった。そのため束草から約3時間ぐらいでソウルに到着した。
 
ソウルは想定したより大きい街だった。大きいと言うより高層マンション群がソウルのスカイラインを形づくり今までに見たことのないような近未来都市のように見えた。
 
ソウルの道路はオートバイでも走りやすい。
 
片側4~5車線ある広い通り、立体交差が重なり合うサーキットコースのような道路だが、意外とオートバイでも安心して走行できる。むしろ東京の方が道路が分かりづらいし、運転マナーがよくないと思った。
 
当方は大都市に滞在するすることは避けていた。交通渋滞や人混みが嫌だからだ。                               しかし、ソウル及びソウル近郊では3箇所訪れたいところがあった。 韓国証券取引所(Korea Exchange)、朝鮮王朝時代の宮殿である景福宮(Gyeongbokgung Palace) とソウル郊外のパジュー(Paju)にある北朝鮮が見渡せる展望台へは訪れたいと思っていた。
(韓国北部を束草(Sokcho)から首都ソウル(Seoul)へ朝鮮半島横断の幹線国道を走行中。ソウルまで121km地点)
 
韓国(証券)取引所=Korea Exchange
 
インベストメントライダーを自称していることもあり、訪問する国々では証券取引所を訪れることにしている。 しかしながら最近は電子取引が浸透しているため証券取引所を一般に公開している国々が少なくなっている。そんな状況で、韓国の証券取引所は見学が可能だった。
 
ソウルにある韓国証券取引所は株式や債券等の証券以外にも貴金属や穀物等の先物を取引する総合取引所として韓国取引所(Korea Exchange)に名前を刷新していた。
 
取引所ビル内には1920年代に取引所が開設されて以来の歴史的な写真や証券取引に関わる書類等が解説付きで展示されているコーナーがあり、当方の興味を引いた。
 
年代は特定できないがソウルの街中を撮った古い白黒の写真があった。 その写真には<キリンビール>とカタカナ文字が書いてある看板がかかったビルがあった。戦前の日本統治時代の写真ではないだろうか。
 
韓国株式市場の代表的指数(KOSPI=韓国株式総合指数)は1980年を基準時100ポイントとしてスタートした。その指数は現在は8,000ポイントまで上昇している。
 
1992年には外国人投資家に保有投資枠の制限を付け韓国株式の購入を許可した。1998年には外人投資枠の制限を撤廃し、証券取引のグローバル化が進んでいる。
 
(韓国取引所(Korea Exchange)内の韓国株式指数(KOSPIとKOSDAQ)と主要銘柄の株価が表示されている電光掲示板前にはテレビ局が取材に来ていた。)
 
(韓国取引所内のアーカイブコーナーには過去のソウルの写真や取引所関係の書類が展示されていた。写真中央のビルにはカタカナで[キリンビール]の看板が見える。多分の第二次大戦前の日本統治時代の写真だろう。)
 
Pajuの統一展望台(Odu Sanseong Unification Tower)
 
ソウルの北西約40kmに位置する標高100m程度の小高い鳥頭山(Odusan)の頂上に北朝鮮が見渡せる3階建ての展望ビルが建っている。
 
北朝鮮は国境となる幅500mくらいの川を挟んだ向こう側だ。国境から一番近い北朝鮮の集落は展望台から2km程離れているため人の姿は見えない。
 
4階建て程度のアパートと思われる建物、学校や民家が見える程度で住民の姿は見るには遠すぎる。韓国と北朝鮮との関係が緊張している割にはのんびりとした風景だ。
 
週末とあって多くの韓国人観光客が訪れて、北朝鮮側を眺めている。展望台前ではグループで記念撮影できる椅子も並べてある。
 
数十台車停められる展望台の駐車場は満杯で、展望台がある鳥頭山へ上る坂道の入口で一般車両は行列を作って順番待ちをしていた。
 
そんな時でも、オートバイは待たずに展望台がある小山の頂上までスイスイと行けた。
 
その展望台で当方と同世代の韓国人2人が当方のオートバイに興味を持ったのか、当方に話しかけて来た。当方は韓国語が解らない。身振り手振りと片言の英語と韓国語で当方が日本から来た事が理解された。
 
この2人に展望台から2km程離れた街道沿いのレストランでの昼食の誘いを受けた。チョー・ヒョム(Cho Hyoum)さんとホウ・ヨンさんだ。
 
2人は高校時代の同級生で展望台へ観光に来ていた。スマホのグーグル翻訳を介して家族のことや趣味のことを話した。 スマホの翻訳を介しての会話では多くのことは話せないが、二人とも元オートバイライダーであったことが会話の始まりであった。
 
当方と同世代であることで、チョー・ヒョムさんは日本で1970年代の流行歌謡曲であった<ブルーライト横浜>を知っていると口ずさんでくれた。
 
(パジュ(Paju)の統一展望台(Unification Tower)から見た北朝鮮。川向うが北朝鮮だ。)
 
(4階建ての統一展望台で内には朝鮮半島が南北に分断されている状況の歴史的説明や展示品コーナーがあった。)
 
(統一展望台内に展示されていた離散家族の写真。)
 
(統一展望台で当方に話しかけてきた韓国人の2人。写真左がチョー・ヒョムさん。写真中央はホウ・ヨンさん。二人とも元オートバイライダーとあって当方と気が合った。)
 
(北朝鮮との国境近くにあるソウルの通勤圏のニュータウンには超高層マンションが数多く建つ。)
 
 
朝鮮時代の王宮・景福宮(Gyeongbokgung Palace)
 
朝鮮王朝の太祖、李成桂(イ・ソンゲ)により14世紀に建てた正宮だ。日本で言えば皇居(Imperial Palace)だろう。韓国人や外国人観光客が訪れたいソウルの観光スポットだ。
 
韓国の民族衣装をまとった観光客姿が目を引く。民族衣装をまとった観光客は思い思いのポーズで歴史的建物を背景に写真を撮っている。
 
近代的ビル群に囲まれたこの一角だけが、タイムマシーンで過ぎ去った朝鮮王朝時代に戻ったような錯覚を感じさせる場所だった。
 
また、明治・大正期の日本政府が朝鮮半島を政治的な影響下に置こうと軍事行動を駆使した歴史的な現場でもあった。
 
当時、日本政府との協力に反対的だった朝鮮王朝の明成皇后(Empress Myeong Song)が日本軍関係者に暗殺された現場だった。
 
(ソウルの王宮・景福宮(Gyeongbokgung Palace)  民族衣装をまとったカップルが写真撮影していた。)
 
酷かったソウルのゲストハウス YaKorea Hostel
 
当方はソウルの下町のゲストハウスとホテルに2泊滞在した。それぞれ異なる宿に一泊づつだった。下町では庶民の日常生活がうかがえる。八百屋あり、大衆食堂や飲み屋、コンビニ等生活に必要なものも揃っている。超近代的な都市の趣とは異なる。
 
3連休の初日だったため、宿泊の予約確保が難しかった。ゲストハウスは外国人も含め多くの若い観光客で満杯状態だった。
 
宿泊したのはドミトリー(二段ベットの共同部屋)形式の地下室のタコ部屋だった。それでも宿泊料金は高く、日中でも床にわずかな照明しかない暗い部屋だった。宿泊予約サイト大手のAgodaでは高評価を得ていたが、全くの外れだったので、早々に退散した。
 
三歩(Sanchoek)や束草(Sokcho)のドミトリー形式のゲストハウスはパン、ゆで卵とコーヒー程度の簡単な朝食付きで平日料金一泊25,000~30,000ウオン(約2,600~3,100円)程度と安かったが、設備も悪く超大部屋のソウルのYaKorea Hostelの宿泊代は2倍であった。
 
当方は他の旅行客(特に現地の人達)との交流を期待しているので、ゲストハウスに頻繁に宿泊するようにしている。三歩(Sancheok)や束草(Sokcho)では設備が整ったゲストハウスで、若い韓国人旅行者やオーナーとの交流があり、韓国を知るうえで参考になった。
 
(ソウルで一泊したYakorea Hostel)
 
ソウル〜水原(Suwon)50km
 
大都市の喧騒から早く離れたい気持ちも手伝い、ソウルから水原(Suwon)へ向かい、同地で一泊した。水原はソウルから通勤圏の距離に位置する。ソウルの市街地が続いている感じである。しかしながら、ユネスコ世界遺産である水原華城(Hwaseong Fortress)がある都市だ。また、華城行宮(Hwaseong Palace)という朝鮮王朝時代に王が地方巡行する際に滞在する別荘もある。
 
当方は華城行宮を訪れた。ソウルの景福宮に比べるとずっと簡素で小さな規模だ。
 
歴史書で知った話だが、この王宮の別荘は朝鮮王朝時代のある皇太子(サド-セジャ)が父の王(第21代英祖=ヨンジョ)に人間が座って入れるぐらいの米を保管する木製の保管箱に閉じ込められて死んだ場所でもあった。
 
1762年に起こった事件で、やり方があまりにも残忍だったため、<米びつ事件>として韓国では後世に伝えられた事件と言う。
 
ソウルを離れると宿泊代は安く、また、予約も取りやすくなる。因みに宿泊した水原のビジネスホテルSuwon SR Hotelは素泊まり一泊45,000ウオン(約4,600円)だった。
 
(水原(Suwon)の王の別荘・華城行宮(Hwaseong Haenggung Palace) 朝鮮王朝時代(Josen Dynasty)の王がソウルから地方巡行の際に泊まる別荘だった。 この部屋は国王が話を聞く部屋(Audience Hall)だった。)
 
(水原(Suwon)の王の別荘・華城行宮(Hwaseong Haenggung Palace)に残る米を保管した米櫃。ちょうど人間が座って入れる大きさだ。)
 
 
水原(Suwon)〜公州(Gongju)120km
 
韓国の国道1号線とあって車の交通量が多く、また、信号機も多いため街中では道路が渋滞気味だった。国道1号線ルートを約100km移動するのに3時間かかった。
 
通過した地方都市の街中では道路は片側3〜4車線程度と多く、注意が必要な道路だ。主要幹線道路は交差する道路との交差点を避けるため地下道(アンダーパス)の立体交差になっている。
 
センターラインに近い2車線がそのまま地下道をくぐる走行車線となり、歩道に近い一番右側の車線は交差点で信号待ちになるか、右折専用となる。そのため、一番左側(対向車線に近い道路中央部)車線を走行するように心がけた。
 
公州(Gongju)は朝鮮半島三国時代の紀元1世紀〜7世紀末に百済(Baekje Dynasty)の初期の都が置かれた場所なので、その当時の遺跡が多い。
 
当方は公州に午後の3時頃に到着したので、ホテルにチェックインする前にユネスコ世界遺産の遺跡を2つ見学した。
 
(公州市内=Gongjuの歴史的遺跡地区に入る門。門の外側には武寧王(King Muryeong)の立像が見える。)
 
(公州=Gongjuの市街)
 
公州(Gongju)の見どころ
 
武寧王陵(Tomb of King Muryeong)だろう。百済王だった武寧(Muryeong)の墓が、無傷のまま1990年代に発見された。その間、墓は盗掘等の被害や損傷もなく、当時の埋葬品もそのままだった。まさに約1,500年の歳月を経て黄金の装飾品等の埋蔵品等が現代に蘇った(もちろん王は蘇らないが)。
 
興味深いのは当時の日本(飛鳥時代)と共通した文化があったことが判った。例えば王の遺体を安置した棺は日本の当時の習慣と同じく松の木が使われていた。 また、棺や埋蔵品を配置した地下室の東西南北の壁には邪避けとして玄武(亀とヘビ)、朱雀、青龍、白虎の四神が色彩豊かに描かれていた。日本の奈良県明日香村の藤原京跡で発掘された7世紀から8世紀と考えられるキトラ古墳でもで同じ様な四神の壁画が発見されたと記憶する。
 
(公州(Gongju)の武寧王陵(Tomb of King Muryeong)の墓の内部壁画には東西南北の壁面に百虎、青竜、朱雀、玄武(亀とヘビの想像物)の四神が描かれていた。6世紀の百済時代(Baekje Dynasty)の遺跡。)
(武寧王陵(Tomb of King Muryeong)の墓)
 
三連休後の翌日は観光客の姿がまばらとなり、街は静けさを取り戻したようだ。
 
当方は公州から20kmほどの山の中に位置するユネスコ世界遺産の麻谷寺(Magoksa Temple)を訪れた。
 
西暦640年に創建されたと言われる寺だったが、日本の戦国時代に日本を統一した豊臣秀吉軍が領土を拡大しようと韓国へ進出した時の戦い(西暦1592年の文禄・慶長の役)で寺を構成する複数の建物が焼け落ちた経緯があった。
 
その後、寺は規模を縮小させ再建された。この寺で祈願する人は殆どが女性だった。日本では女性の方が圧倒的に信心深いと思うが、韓国でも同様らしい。 当方が交通安全祈願のため本尊に祈願していたら、寺の関係者から日本の草餅に似た食感ともぐさ(食用草)の匂いがする蒸しパンのような供え物をもらった。少し甘い味がした美味しい供え物だった。
 
公州にはビジネスホテルのHotel No.25に2連泊した。
 
(公州郊外にあるユネスコ世界遺産の麻谷寺=Magoksa Temple)
 
 

(日本の草餅の味がした麻谷寺でもらった供え物の蒸しパン)
 
公州(Gongju)から扶余(Buyeo)〜群山(Gunsan)90km
 
公州(Gongju)は百済時代の初期の都であったが、その後は扶余(Buyeo)に都が移った。
 
扶余の博物館には韓国の最重要の国宝である高さ60cmくらいの百済金銅大香炉(Great Gilt-bronze Insence burner of Baekje)が展示されている。
 
当方はこれを見学しようと博物館内を探すが、見つからず諦めかけようとした。博物館の案内係に聞いたら、この大香炉のみは単独で特別展示場に有るという。
 
特別展示場は博物館の3階の暗くした広間の中央部でガラスケースの中に保管されていた。そのガラスケースの大香炉はスポットライトで照明され、闇の中で浮き上がっていた。
 
最重要の国宝とあって特別待遇の扱いだ。見学者は少なかったが、一見の価値が有る。
 
扶余には宿泊せずに、博物館を見学後、更に南に位置する群山(Gunsan)へと進んだ。
 
(扶除(Buyeo)博物館保管の6世紀頃の百済時代(Baekje Dynasty)の金銅大香炉(Gilt Bronze Great Incense Burner)。高さ約60cm。韓国の最重要国宝。)
 
群山(Gunsan)は日本統治時代の建物が多く残っていた。
 
錦江(クムガン)河口に位置して、黄海に面した群山は日本統治時代に米の輸出港として発展したと言う。
 
旧市街には日本統治時代に日本人商人の広津吉三郎が建てた日本家屋や第18銀行、朝鮮銀行や朝鮮半島で唯一の日本の寺であった東国寺(DongguksaTemple)が一般公開されている。
 
また日本式の家屋が宿泊施設やカフェ等として使用され、日本の町の雰囲気を醸し出していた。
 
そんな旧市街を歩いて回ると昭和時代の日本の街にいるような錯覚に陥る。
 
(郡山(Gunsan)の日本家屋を利用したカフェ。群山には日本統治時代の日本式家屋や建物が保存されている。)
 
群山では韓国式の床に敷いたマットで宿泊体験をしたいと思いGunsan Wolmyeongdong & Guesthouseに宿泊した。
 
オーナーである夫と陶芸家の奥さんが切り盛りするゲストハウスで宿泊予約サイトのAgoda上では評判が良い。
 
2連泊しようとオーナーに打診すると2日目は休館予定だという。陶芸家の奥さんの実家へ夫婦で里帰りするという。
 
 群山2日目の朝、当方は連泊を諦めて、荷物をまとめて雨の中をチェックアウトしようとする時、オーナーが<自分たちは留守となるが、当方一人で留守番をしながら宿泊しても良いよ>と言ってくれるのではないか。
 
オーナーからの申し出に当方はありがたく感じた。一人で静かにゲストハウスで過ごすのは悪くない。おまけにオーナー夫婦は翌朝の朝食や果物まで用意してくれるではないか。
 
オーナー夫妻のおもてなしには深く感謝した。
 
(郡山(Gunsan)で宿泊した韓国式民宿Gunsan Wolwyeongdong Guesthouseのオーナー孫寅(ソン・イン)さん=写真の右側と妻で陶芸家の呉世微(オー・セミ)さん。おもてなしの心が十分伝わってきた。)
 
 
(郡山(Gunsan)の韓国式民宿Gunsan Wolwyeongdong Guesthouseでは韓国式の床に直接敷く布団を体験した。)
 

以上

 
 
 
 
釜山(Busan)〜浦項(Pohang)〜束草(Sokcho) 580km 2026/5/13〜5/20

5/11に横浜の自宅をオートバイで出発して2泊3日で博多港に到着した。自宅がある横浜市内から大阪南港までは陸路を進み、大阪南港から北九州市の新門司港まで名門大洋フェリーを(船中泊)を利用した。

博多港から釜山港までのフェリーはカメリアラインを使用 (約6時間の船旅)

博多港からカメリアラインが運行するフェリーで釜山(Pusan)へ向かった。

下関と釜山間にも関釜フェリーが運行しているが、当方は以下の3つの理由でカメリアラインを利用することにした。
 
1.フェリー料金がカメリアラインの方が約3割安い。カメリアラインはオフシーズンの往復運賃が2等船室込で4万円に対して関釜フェリーは6万円だった。


2.最終予約申込日はカメリアラインは出航希望日の7日前に対して、関釜フェリーは10日前とカメリアラインより3日早めに申込することになっている。

3.カメリアラインは博多港を昼間の12:30に出港後、同日18:30に釜山に到着する。
 

他方、関釜フェリーは下関港を19:45に出航後、釜山港に翌朝の8:00に到着する。つまり船中泊になる。


当方は大阪から北九州市の新門司港まで船中泊してきたので、2日間連続の船中泊は避けたかった。

博多港ではカメリアラインのスタッフが日本での通関手続きを行ってくれた。通関手数料は5,000円だった。博多港での通関手続きのため、出航日当日の午前9:30までに博多港の国際旅客ターミナル前までにオートバイで乗り付ける必要があった。

当方のオートバイは韓国ツーリング後に日本へ戻るため、一時輸出の手続きとなった。しかしながら、オートバイの一時輸出の際のインボイスやパッキングリスト等の輸出書類の作成は不要だった。

当方が2017年オートバイと一緒に韓国船籍のフェリーでロシアのウラジオストックへ向かうため、鳥取県の境港で一時輸出の手続きを行った際には、オートバイを含む荷物のインボイスやパッキングリストを作成して自分で神戸税関境港出張所にて通関手続きを行った。

初めて自分で通関手続を行ったので、面倒だと思った。

釜山港でもカメリアラインの社員が通関手続きを行ってくれる。

韓国側での入国時の諸費用(オートバイの強制保険=1ヶ月分KRW220,000/約2.3万円と関税保証料=KRW120,000/約1.3万円)もフェリー代金と一緒にクレジットカード払いで済ませておいた。


(博多港〜韓国の釜山(Busan)を結ぶカメリアラインの2万トンクラスの大型フェリー)

 

釜山港到着(2026/5/13 18:30)

フェリーの釜山港到着後1時間程度でオートバイの輸入手続きやイミグレーション手続きが終了して、当方は釜山市内のホテルに同日20時ごろにはチェックインできた。

当方がクレジットカードにて韓国通貨のキャシングをするため、カメリア社員の釜山港スタッフには釜山港国際ターミナルの銀行ATMへも案内してもらった。

釜山到着後は翌日からのツーリングに備えて寝るだけだったが、寝る前に夕食を取るため外出した。

韓国では食堂やレストランの夕食時間が早かった。釜山の外食店では、コロナ禍以降は20時以降提供できる料理はクッパ(スープごはん)のみになったと聞いた。聞いていた通り、どの店でもクッパしかない。クッパで韓国初日の夕食を済ませた。

博多港から釜山のフェリーではオートバイライダーは当方を含め2名しか乗船していなかった。もう一人は韓国人青年で秀さんと名乗った。秀さんはカワサキ製の大型バイクZ900で関東や新潟までツーリングしたと言っていた。同氏は韓国最大の鉄鋼メーカーPOSCO社に勤務という。

 

(フェリーから見た釜山港と釜山の街 (Busan))

 


(赤線は釜山(Busan)から束草(Sokcho)までのツーリングルート。赤く囲った都市は宿泊地。
宿泊地は釜山(Busan)〜慶州(Gyeongju)〜浦項(Pohang)〜三歩(Samchoek)  〜束草(Sokcho)の順だ。
釜山(Busan)は地図右側(東)の下の赤丸で囲ったところ。束草(Sokcho)も地図右側だが最上部の赤丸で囲った場所だ。)

 

朴泰俊記念館(Park Tae Joon Memorial Museum)

当方がPOSCOに興味あり、これから訪れる浦項(Pohang)ではPOSCO歴史博物館を訪れると伝えたら、秀さんからPOSCOに関するアドバイスをもらった。

釜山から海岸沿いに約40km北にあるムドン(Mundong-ri)と言う小さな町にPOSCOの初代社長を務めた朴泰俊=Park Tae Joon)の個人の偉業称えた博物館があることを教えてもらった。

そして、その博物館を訪れた。正式には朴泰俊記念館(Park Jae Joon Memorial Museum)と言う。訪問客はほとんどいなかった。多分朴元社長が同地出身だったのだろう。故郷に錦を飾る意味で同記念館を作ったのだろう。

同氏は1979年に暗殺するまで韓国の軍事政権の朴(Park)元大統領(朴槿恵元大統領の父親)と同じ陸軍士官学校卒の元軍人で、朴元大統領に指名されてPOSCOの初代社長に就任した。就任以来20年以上にわたりPOSCOの立ち上げから、発展に貢献した人物だった。


館内の展示物は全て韓国語のため、写真以外は全くわからず、早々にきりあげた。

Organic Maps(オフラインカーナビ)が使い物にならず

当方は今までの海外ツーリングでは携帯電話のデーター通信が無くてもオフラインで作動するOrganic Maps(2023まではMaps.Me)のカーナビアプリを利用してきた。無料でしかも衛星電波で作動するカーナビだ。アフリカやアジア、中近東でも問題なく正確に作動した。

ただし、イランのテヘランやロシアのモスクワ等の戦略都市の近くでは妨害電波のため作動しなかったが。高速道路や有料道路あるいは未舗装道路等を避けるルート選択の機能もあり、使いやすかったが、韓国では高速道路や有料道路を避ける機能が作動しない。

結果、オートバイでの通行が禁止されている自動車専用道路や高速道路へと導かれてしまう。 韓国の交通事情に適合するNaverと言う韓国のカーナビアプリもスマホにインストールしていたが、当初は使い方がわからずOrganic Mapsで目的地の慶州市(Gyongju)まで少し苦労した。

高速道路に入らないように、カーナビで選択した自転車が通行可能な道路を走行することにした。時々自転車専用道路に導かれたが、なんとか慶州市までたどり着いた。
 

慶州市の投宿ゲストハウスのオーナーにNaverのアプリの使い方を教えてもらった。


Naverでオートバイが通行できるルートをまず確認後、Organic Mapsでルートを設定する方法を取り入れた。
 

Naverの欠点は携帯電話のデータ通信を常時使用しなければいけない点と目的地まで走行距離が最短になる高速道路のような効率良いルートを設定することにある。当方は交通量が少なく、出来れば景色が良いルートをゆっくりと走りたいと思っていたが、アプリはそのようなルートを設定してくれない。



韓国のツーリングの第一印象

都市と都市を結ぶ幹線道路(一級国道?)は片側2〜3車線ある立派な道路。日本では高速道路あるいはバイパスのような造りである。都市部内以外は信号が無く最高速度時速80kmで通行する。 

韓国の車のドライバーは交通マナーが日本と比較すると悪いとフェリーで知り合った韓国人ライダーの秀さんから聞いていたが、当方の韓国人ドライバーの印象は悪くない。

制限速度を守っている。車の走行速度を取締まるオービスが多いのか、あるいは制限速度違反の反則金が高いのだろう。
 

また車の車線変更の頻度も日本より少ない。信号無視もない。強いて言えば、オートバイの通行が少ないためか、オートバイとの共存に慣れていない。

 

オートバイを無視するように、当方が車線を変更したくても、道を譲らなかったり、また強引に当方の走行している車線に入り込もうとする車がたまにあったぐらいで、総じて良好だ。

 

慶州市(Gyeongju)


7世紀〜10世紀の新羅時代(Silla)の首都だった日本の奈良のような歴史があり、史跡が多い街だった。

当方は当初訪問を計画していなかったが、会社員時代の元同僚でソウル駐在の経験者から慶州市を進められたので、急遽同市に訪れることにした。

奈良のように落ち着いた佇まいがある街だ。歴史地区には高層ビルが無く、日本の町を歩いているような感じだが、新羅時代かあるいはそれ以前の時代の王宮跡や古墳跡地が公園となり歴史地区を形成している。

5月中旬だと言うのに炎天下では気温が35℃以上あろうか。当方は、10kmぐらいは歴史地区を歩いて回ろうと考えていたが、暑くで途中で歩いて回るのを諦めた。

高校生グループやおばさんやおじさんたちのグループ観光客が多い。平日でもあるので家族連れの観光客は余り見かけない。欧米の外国人観光客は少なく、目立たない。外国人のオーバーツーリズムにはなっていないようだ。

ユネスコ世界遺産の場所を2箇所(仏国寺=Bulgkusa Templeと東洋最古といわれる天文台=Cheomseongdae Observatory)訪れたが、入場無料でありがたい。

入場が有料となっていた<東宮と月池>は当方が65歳以上ということで入場を無料にしてくれた。後で知ったが、65歳の入場料無料は韓国人にのみ適用されることだった。

入場料が有料でも日本円で数百円程度で、諸外国のようにユネスコ世界遺産は数千円の入場料というような法外な価格設定はしていないのがありがたい。

Dookaki Guesthouseと言う40歳代の韓国人ライダーが経営する宿に2泊した。

本名かどうか知らないが、Kazeと名乗ったゲストハウスのオーナーは十数年前にユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断のオートバイツーリングをしていた。当方が2017年から2018年にかけて行った世界一周ツーリングと似たルートだったので、同氏とは世界ツーリングの話で盛り上がった。

 


(慶州市(Gyeongju )の歴史遺跡地区は広大な公園になっている。)


慶州(Gyeongju)〜世界遺産の良洞村(Yangdong Village)〜浦項(Pohang) 約50km

良洞村(Yangdong Village)は慶州市の北約25kmに位置するユネスコ世界遺産に登録されている村だ。

前日, 韓国のカーナビNaverの使い方をゲストハウスのオーナーに教えてもらっていたので、問題なく良洞村に到着。

15世紀から続く歴史ある村だ。日本で言えば岐阜県の白川郷のような昔の藁葺の民家が保存され、人々がその民家に住み続けている。

村民が住んでいるため、民家の内部は見学できない。村を歩いて、そのような民家を外から見ることぐらいしかできないが、伝統的な韓国の村の雰囲気を感じ取ることが出来た。 その中で1909年設立の小学校の立派な校舎が目を引いた。


(ユネスコ世界遺産の良洞村(Yangdong Village)の藁葺屋根の民家には人々が住んでいる。)


浦項市(Pohang)

良洞村から約25km海方向(西方向)へ進むと浦項市へ到着。

浦項市はもともと小さな漁村であったが、後に韓国最大となる浦項製鉄所Pohang Steel Co.)
が建設され、韓国を代表するような工業都市に発展した。

Pohang Steel Coは後にPOSCOと社名を簡略化した。

浦項はPOSCOと共に発展をしてきたとあって、街全体にPOSCOの関連施設や社宅が立ち並ぶ。POSCOの広大な敷地の一角に立派なビルがあった。Posco History Museumである。

韓国が朝鮮戦争から立ち上がり、工業化を進めるために国産で鉄鋼をつくることが重要だと認識していた朴元大統領が浦項製鉄所を立ち上げた事を同歴史博物館を訪れて知った。 

韓国内に製鉄所を作ることには、構想時から韓国国内のマスコミや諸外国政府は反対した。

製鉄所を建設するには莫大な資金が必要であり、韓国にはその資金がないとか、鉄鋼は輸入したほうが得だとかという具合に。

会社設立から製鉄所の建設着手までの途中でアメリカ、ドイツ等の技術支援国から5回契約を破棄された経緯があった。

最後には日本の戦時賠償金を建設資金として、当時の八幡製鉄や富士製鉄等の日本の高炉メーカー3社連合の技術協力で5年の年月をかけて製鉄所が1973年に完成した。

こんな当時の韓国政権の努力を知ると先人の意思の強さには感銘を受ける。POSCOの入口門のアーチには”資源は有限だが知識は無限”との言葉が大きく書かれてあったのが印象的だった。

同歴史博物館を立ち去る時、日本語も話す同館受付嬢から当方がわざわざ日本から来てくれたのでとPOSCO製のステンレス鋼で作った爪切りセットをもらった。

Pohangの宿はApple Tree Hotel。



(浦項市(Pohang)の韓国最大の製鉄所Posco。浦項市のいたるところに工場や関連施設の建物がある。)

 

(Posco歴史博物館に展示してある1973当時の製鉄所竣工式の模様。写真左側は朴泰俊(Park Tae Joon)Posco初代社長、中央は当時の朴正煕大統領(President ParkChung Hee)、右側は韓副大統領(Vice President Kang)の蝋人形。)
 

浦項(Pohang)〜三歩(Samcheok) 230km

浦項市(Pohang)から国道7号線(高速道路ではないが制限速度時速80kmの幹線道路)
にて約120km位北上後、自転車も通行可能な田舎道を更にのんびりと北上する。

海岸線沿いの地形は丘や小山になっているため、曲がりくねった上り坂や下り坂が続くルートだ。

更に海岸沿いの道路にでると東海(日本海)の海風で涼しくなる。

三歩(Samcheok)は白い砂浜があるリゾートビーチのようだ。ビーチ沿いの道路にはカニや魚を生け簀に入れたシーフードのレストランが軒並み連なる。

 

(注 :  Samcheok の漢字表示である"三歩" の"歩"の左側にはこざとへん=阝が入る。)


内陸部では暑くて走行中に疲れを感じたため2回休憩したが、海岸道路n出てからは元気になった。 しかしながら、海岸道路沿いでは浜辺の景色を眺めたり、また写真を取ったりと数多くのストップ&ゴーを繰り返した。

宿泊はDalnaru Guesthouseに一泊。



(国道7号線は高速道路(自動車専用道路)では無いが、制限速度は時速80kmと高速道路並みだ。)

 

三歩(Samcheok)〜束草(Sokcho) 230km

海岸線沿いのルートを北へと走る。海と同じ高さの平地ながら海岸線が曲がりくねっている。景色は良いが、カーブが多いのでボケーと景色ばかりを見ているわけにもいかない。

交通量な少ない。白い砂の長いビーチがあるが、観光化されておらずビーチには人が少ない。



(三歩(Samcheok)の浜辺。静かで観光客が多くないので良いビーチだと思った。)

 

東海岸ルート沿いには大きな都市がないため、ビーチを目当てに観光客が来ないのだろうか?

地球の歩き方には、この海岸線上には北朝鮮の潜水艦が座礁した場所があり、同地には韓国海軍の軍艦が展示されていると書いてあったが、そのような場所はなかった。


その場所は有刺鉄線がはられた岩場の海岸線だった。海岸線の崖の上には見張り用の軍事監視台が建っていた。韓国が置かれている北朝鮮との緊張が改めて思い出された。



(三歩=Samcheok から北上中の海岸道路。海は透きとおりきれいだった。)

 

(北朝鮮の潜水艇が座礁した辺りの海岸。軍用の監視台が建っていた。)

 

一旦、海岸線のルートから外れ、幹線道路を更に北上して束草(Sokcho)を通り過ぎた。そして、北朝鮮との国境非武装地帯に近くに位置する統一展望台まで進むことにした。

統一展望台に到着する前に道路を塞ぐように軍隊が監視するチェックポイントがあった。警備する完全武装の兵士は当方にオートバイを停止するよう命じた。

そこで兵士に言われたことは、<これより先へはオートバイの通行が禁止されている。車のみ通行が可能だが、事前の登録手続きが必要だ。>

 

そんなわけで統一展望台への訪問は諦め、束草へ引き返すことにした。その場所では突然雷の音のような大きな音が断続的に聞こえた。多分の大砲の発射音だろう。平和慣れした日本人には異次元の世界に感じた。


束草ではSokcho&Guesthouseに投宿。



(北朝鮮との国境が近いDaejinの町。道路上の横断歩道は盛り上がっていて、通行車両は速度を強制的に落とすようになっている。)

 

(北朝鮮との国境に近いDaejinの漁港)

 

ゲストハウス(Sokcho &Guesthouse )オーナーのJudith女史の祖父は戦後日本からの引揚者だった。

 

日本の韓国植民地時代に韓国政府の役人として日本へ派遣され、裕福な暮らしをしていたが、戦後父親が5歳の時、日本から無一文で家族で韓国へ引き揚げてきた教えてくれた。祖父は日本語を流暢に話し、父親もに日本語を少し話したという。Judith女史は学生時代中国語を専攻し、中国語、英語とインドネシア語を話すマルチリンガル(複数の外国語を話す人)だが、日本語は出来ない言う。

 


(写真左がゲストハウスオーナーのJudith女史。英語が堪能だったので、いろいろな情報やアドバイスももらい助けてもらった。)



雪岳山国立公園(Soeraksan National Park)観光

束草市のは背後には雪岳山国立公園(Soeraksan National Park)が位置する。ゲストハウスのオーナーに雪岳山国立公園でトレッキングすることを勧められて、翌日オートバイで同国立公園の入口まで向かった。

トレッキングで標高800mの一番近い山に登ることを考えていたが、800mの高低差を登るとなればそれなりの体力の消耗と翌日の筋肉疲労を覚悟せねばならない。

国立公園入り口付近で標高700mまで登れるケーブルカーがあるのを見つけると、登山することをすっかり諦めて、ケーブルカーに乗って見晴らしが良い権金城=Gwongeumseng(城は現在ない)まで行くことにした。


(束草(Sokcho)郊外の雪岳山国立公園に上がるロープウェイ。一気に標高700mまで上がる。)
 

(海抜700mの権金城(Gwongeumseng)から眺めた束草(Sokcho)の街。韓国の都市には高層マンションが多い。)

 

以上


近くて遠い国だった韓国へのオートバイツーリングを計画している。5月の中旬から約1ヶ月間で韓国をほぼ一周する計画だ。


具体的には九州の博多からカメリアラインのフェリーにて当方のオートバイと一緒に韓国南東部の釜山(Busan)へ渡り、釜山から海沿いに大きく逆時計回りに韓国を一周後、釜山からフェリーで九州の博多へ戻るつもりだ。


主なツーリングルートはBusan(釜山) 〜東海岸沿いに北上しながらPohang(浦項)〜Samcheok(三歩)〜Sokcho(東草))〜北部の内陸部の春川(Chuncheon)〜Seoul(ソウル)〜韓国西側を海沿いと内陸部を南下しながらTaean(泰案)〜Gongju(公州)〜Gunsen(群山)〜Mokpo(木浦)〜南部海岸沿いを西方向へとSuncheon(順天)〜Tongyeong(統営)と進みBusan(釜山)へ戻る。


( 韓国ツーリングルートのイメージ。地図右下がBusan=釜山の位置。地図上の赤線矢印の方向に韓国全土を逆時計回りに進む。赤丸印の都市に宿泊を考えている。)

韓国での走行距離は約2,500km位だろう。


当方は居住している神奈川県の横浜市から大阪市までは陸路で進み、大阪南港から名門大洋フェリーにて北九州の新門司港まで行くつもりである。一船中泊の行程である。


Pohang(浦項)では韓国の工業化と経済発展の原動力となった韓国最大の鉄鋼メーカーであるPOSCOの博物館に訪れてみたいと思っている。


また、Chunceon(東草)北部の北朝鮮との軍事境界線近くの高城統一タワー(Geseong Unification Tower)や北朝鮮が見える首都ソウルの北西部に位置するPajuのオドウサン統一展望台(Odusan Unification Tower)は是非訪問したいと思う。


今回使用するオートバイは2019年のアフリカツーリングや2022年〜2023年にかけて行ったアジア・中近東ツーリングで使用したヤマハのオフロード車セロー250を使う予定である。


車重が約140kg程度と軽量で取扱が楽なので当方は高速走行が少ない韓国ツーリングに向いていると認識している。韓国では高速道路のオートバイ走行が禁止されているため、全て一般道を利用したツーリングになる。


(韓国ツーリングにて使用する2017年式ヤマハ製のセロー250。累積走行距離は8.5万kmを超えている。後輪左側には米国ROTOPAX社製の1ガロン=約4Lの予備の燃料タンクを取り付けている。)

以上



 

当方が昨年2025年4月初旬から9月末まで行った約6ヶ月間の23ケ国、約34,000kmのオートバイでの中央アジア・欧州の周回ツーリングについて以下の要領でお話会(報告会)を行う予定です。事前予約不要ですので、当日直接会場へお越しください。

 

日時: 2026年3月14日(土曜日)14:30~16:30(14:00開場、お話会途中に10分程度の休憩時間があります。)

 

会場:浜田山会館 第1・2集会室

   東京都杉並区浜田山1丁目36番3号(京王井の頭線 <浜田山駅>から徒歩5分)

 

主催者:WTN-J(World Touring Network of Japan=略称WTN-Jはオートバイでの海外ツーリングに関する情報提供及び海外ツー    

ングに興味ある人たちの親睦を行う団体コミュニティーです。)

 

入場料:500円 (当日会場で現金にてお願いします。事前予約は不要)

 

尚、お話会終了後、希望者には最寄り駅近くの居酒屋等で懇親会を行う予定です。懇親会の参加費用は4,000円~4,500円程度で現地払いとなります。お話会途中の休憩時間に懇親会へ参加希望を伺います。

 

お話会の概略:

 

何故中央アジアへ?

 

サラリーマン定年退職後の2017年から始めた海外ツーリングで5大陸・80ヶ国を走行していた。

しかしながら、中央アジアは未走行の地域だった。同地域は中央アジアを目的地としない限り、地理的にツーリング途中では寄りにくい地域であった。

 

2千年以上前の紀元前3世紀ごろマケドニア(現在のギリシャ北部)からアレキサンダー大王が中央アジアのタジキスタンのまで大遠征(領土拡大のための侵略)したことも興味をひいた。

 

そんな中、コロナ禍前からスペインのマドリッドのオートバイ店に日本登録のオートバイを保管しっぱなしで、処分を考えていた知人がいた。そして、その知人から、そのオートバイを譲り受けた。

 

中央アジア方面へツーリングするには良い機会と考え、また、最後のロングツーリングとして決めていた。

 

ツーリングルートは?

 

スペインを2025年4月初旬に出発後、地中海沿いの南欧諸国からトルコへと進み、その後ロシアのコーカサス地域(カスピ海東岸)を経由して、目的地とした中央アジアへ一気に進んだ。

 

カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン及びキルギスを走行後、モスクワが位置するロシア西部地域を経て欧州最北端であるノルウェーのノードカップ(ノール岬)を第二目的地とした。オートバイライダーは大陸の最果地まで行くことに心が躍る。

 

そして、イギリス・アイルランド等を経由して6ヶ月後に出発地のスペイン・マドリッドへ戻り、34,000kmの中央アジア・欧州周回のツーリングを終了した。

 

お話会の内容は?

 

お話会では、①中央アジア諸国で感じた人々の温かさ、特にツーリング途中に知り合ったキルギス人の青年の村でホームステイさせてもらい、日本でも50~60年前は一般的だった時間の流れがゆっくりな田舎の暮らしを経験させてもらったこと、

 

➁ロシア西部地域では複数のホテルで宿泊を断れ、宿の確保が難しかったり、モスクワやサマーラ等の戦略都市部ではGPS(カーナビ)が妨害電波のため作動しなかったり等外国人ツーリストには厳しかったロシア、

 

③夏でも雨と寒さで厳しいツーリングを覚悟していたノルウェーが、フィヨルド(氷河で削られたできたU字谷)等の自然の雄大さに圧倒され、期待以上に素晴らしかったこと等についてお話します。 

 

(赤線はツーリングルートを示す。青色の矢印の方向へと進んだ。)

 

(キルギスではツーリング途中に知り合った青年の自宅にホームステイさせてもらった。)

  

(タジキスタンの山岳地帯を進む。)

 

(カザフスタンからロシア西部地域へ入り、西へ西へとモスクワ方面へ進む。)

 

(ノルウェーの最大級の陸上フィヨルドであるトロルスティンゲン=Trollstigen)

 

以上

WTN-J(略称ワッツー)主催のツーリングフェスタ(海外ツーリングの展示会)のお知らせ

 

オートバイでの海外ツーリングの情報提供・親睦団体であるWTN-J(World Touring Network of Japan 略称ワッツー)が下記の要領で年に一度のオートバイ海外ツーリングの展示会を行います。

 

展示会では複数名(7名~8名)の海外ツーリング経験者が、ツーリング時の写真や海外ツーリングに使用したオートバイ、装備品等を展示予定です。

 

また、会場では出展者(海外ツーリング経験者)によるトーク・セッションがあり、各自が20分程度の持ち時間で体験談等を話します。

 

当方は2017年から始めた5回の海外ツーリング時のハイライト写真及びアフリカとアジア中近東ツーリングで使用したオートバイ(ヤマハセロー250)を展示する予定です。そして、その時の体験談をトークセッション時に簡単にお話しします。

 

 

ツーリングフェスタ開催の要領:

 

日時:2026/2/21(土) 15:00~19:30  及び  2026/2/22(日)  12:00~18:00

 

出展者のトーク・セッションは2/21(土) 17:30~18:50(3名)  及び  2/22(日) 14:30~16:20(4名)。

尚、当方は2/22(日)の15:00~15:20頃にお話しする予定です。また、2日間の展示時間中は会場にて説明します。

 

場所:スペースあや

   東京都荒川区西尾久4-32-1 (JR高崎線=東京上野ラインの尾久駅から徒歩約5分)

 

入場は無料、どなたでも歓迎です。

 

(前回2025年3月のWTN-Jツーリングフェスタ時の写真)

以上

 

下記世界地図の各色の線は2017年から2025年まで5回に分けた97カ国・延べ20万kmの走行ルートを示す。

 

 

 

初回 2017年5月~2018年7月 ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 7.8万km (世界地図・紫色の線)

 

下記地図はユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断の走行ルートを示す。

 

 

 

鳥取県の境港から韓国のトンへ経由フェリーでバイクとともに極東ロシアのウラジオストックへ渡り、そこからモンゴルに途中立ち寄りユーラシア大陸最西端のポルトガル・ロカ岬に至るユーラシア大陸横断を行う。その後スペインのマドリッドからアルゼンチンのブエノス・アイレスまでオートバイを空輸して南米最南端のアルゼンチン・ウシュアイアから中米経由、北米アラスカのフェアーバンクス・アンカレッジまでの南北アメリカ縦断を行う。

 

但し、コロンビアとパナマ間には陸路が無いため、その区間はバイクを空輸する。

 

道順は以下の通り:

 

鳥取県・境港~韓国経由のフェリーでロシア・ウラジオストックへ渡る~ロシア~モンゴル~再度ロシア~エストニア~ラトビア~リトアニア~ポーランド~ドイツ~チェコ~スロバキア~ハンガリー~セルビア~マケドニア~コソボ~アルバニア~モンテネグロ~ボスニア・ヘルツエゴビナ~クロアチア~スロベニア~イタリア~スイス~再度イタリア~フランス~スペイン~ポルトガル・ユーラシア大陸最西端のロカ岬~再度スペイン・マドリッド~オートバイをアルゼンチンのブエノスアイレスへ空輸~アルゼンチン~ブラジル~ウルグアイ~再度アルゼンチン~チリ~再度アルゼンチン・南米最南端のウシュアイア~再度チリ~再度アルゼンチン~再度チリ太平洋側を北上~再度アルゼンチン~ボリビア~ペルー~エクアドル~コロンビア・ボゴタ~オートバイをパナマへ空輸~パナマ~コスタリア~ニカラグア~ホンジュラス~グアテマラ~ベリーゼ~メキシコ~キューバ(バックパック旅行)~再度メキシコ~アメリカ合衆国(USA)~カナダ~アメリカ領アラスカ~再度カナダ~アメリカ合衆国・ロサンゼルスからオートバイを日本へ海上輸送する。

 

(南米ペルーにてクスコへ向かう途中。オートバイはBMW製F700GS)

 

2回目 2019年4月~11月 アフリカ3/4周とアラビア半島横断 3.4万km(世界地図・青色線)

 

地図上の青線を矢印方向にスペイン・バルセロナから進む。

 

スペイン・バロセロナから日本から海上輸送したバイクを乗り出し、モロッコからアフリカ西海岸沿いに南アフリカのケープタウンまで南下する。その後、南アフリカから北上してアフリカ東部諸国を経て、スーダンから紅海をフェリーで渡りサウジアラビアを横断後、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイでツーリングを終了。オートバイはドバイから日本へ海上輸送で送り返す。

 

道順は以下の通り:

 

スペイン~ジブラルタル海峡をフェリーで渡る~モロッコ~西サハラ~モーリタニア~セネガル~マリ~コート・ジボアール~ガーナ~トーゴ~ベナン~ナイジェリア~カメルーン~ガボン~コンゴ共和国~アンゴラ飛び地~コンゴ民主共和国~アンゴラ~ナミビア~南アフリカ共和国~ボツワナ~ザンビア~ジンバブエ~ザンビア~タンザニア~ケニア~エチオピア~スーダン~紅海をフェリーで渡る~サウジアラビア横断~バーレン~再度サウジアラビア~アラブ首長国連邦(UAE)・ドバイ

 

(コンゴ共和国走行中。オートバイはヤマハ製セロー250)

 

コロナ禍明けの2022年9月~2023年7月の3回目のアジア・中近東ツーリング 3.9万m(世界地図・赤色の線)

 

下記地図の赤線を東南アジア諸国からインド等南アジアを経てスペインまで進む。

 

マレーシアへ海上輸送したバイクでインドネシアとベトナムを除く東南アジア諸国(マレーシア、タイ、ラオス、カンボジア)

を回る。

 

インドネシアとベトナムは現地のレンタルバイクを使用。

 

ミャンマーの陸路国境が閉鎖中のためタイからインドへバイクを海上輸送後、インド亜大陸からパキスタン・イラン・コーカサス諸国(アルメニア、ジョージア)・トルコへと進み、スペインのマドリッドでツーリングを終了。マドリッドから日本へオートバイを送り返す。

 

道順は以下の通り:

 

マレーシア~インドネシア(レンタルバイク)~再度マレーシア~タイ~ラオス~カンボジア~再度タイ~タイからオートバイをインド・ムンバイへ海上輸送~オートバイをインドへ海上輸送している間ベトナム(レンタルバイク)~インド~ネパール~再度インド~パキスタン~イラン~アルメニア~ジョージア~トルコ~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス~スペイン・マドリッド。

 

 

(インド最南端のコモリン岬。オートバイはヤマハ製セロー250)

 

4回目 2024年4月~5月のオーストラリア半周のルート(緑色の線)は以下の通り(走行距離約1万km)

 

下記地図上の赤線を矢印に従って時計回りに進んだ。

 

 

Colac(ビクトリア州)出発~Adelaide(南オーストラリア州)~Ayers Rock=エアーズ・ロック(西オーストラリア州)~Tennant Creek(ノーザンテリトリー)~Karumba(クイーンズランド州)~Cairns(クイーンズランド州)~Carnarvon Gorge 国立公園(クイーンズランド州)~Brisbane(クイーンズランド州)~Sydney(ニューサウスウェールズ州)~キャンベラ(首都)~Benalla(ビクトリア州)でバイクツーリングを終了。

 

オーストラリアでは知人のオートバイ(スズキ V-strom250)を借り、ビクトリア州のColacという町(メルボルンの約150km西)から出発して、ビクトリア州のBenalla(メルボルンの約200km東)でバイクを返却した。

 

それまでの自分のバイクを使用した海外ツーリングに比較してバイクの海外輸送等の準備に手間がかからず、短期間でツーリングを計画し、大きな出費となるバイクの輸送費用もなく、気軽にツーリングを行うことができた。

(亜熱帯のクイーンズランド州をスズキ製Vストローム250で進む)

 

5回目(新たに加えた走行ルート)2025年4月~2025年9月 欧州・中央アジア周回ルート 34,000km

(世界地図・オレンジ色線)

 

下記地図の赤線を矢印方向に進んだ。

 

 

スペインのマドリッド保管してあった日本の知人のオートバイ(スズキ・Vストローム250)を譲り受け、マドリッドからスタートして地中海沿岸・トルコを通りロシア・コーカサス地方を経てカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンやキルギスの中央アジア諸国へ進むルートを往路とした。

 

復路は再度カザフスタンからロシア西部を通りスカンジナビア半島の最北端のノールカップ(ノルウェー)まで進み、そこからノルウェーを南下してスウェーデン、デンマーク経由ドイツ、オランダ等の大陸欧州諸国を通りイギリス・アイルランドへ渡る。

 

その後フランス、ポルトガルを経由して出発地のスペイン・マドリッドまで戻る。

 

以下の道順:

スペイン~フランス~イタリア~クロアチア~モンテネグロ~アルバニア~ギリシャ~トルコ~ジョージア~ロシア・コーカサス地方~カザフスタン~ウズベキスタン~アフガニスタン~再度ウズベキスタン~タジキスタン~再度ウズベキスタン~キルギス~再度カザフスタン~ロシア西部~エストニア~フェリーでフィンランド・ヘルシンキへ渡る~フィンランド~ノルウェー(欧州最北端ノールカップ)~スウェーデン~デンマーク~ドイツ~オランダ~ベルギー~フランス~ドーバー海峡をフェリーで渡る~イギリス~フェリーでイギリス領北アイルランドへ渡る~アイルランド~再度イギリス領北アイルランド~イギリス・リバプールへフェリーで渡る~再度イギリス~フランス・ディエップへフェリーで渡る~フランス~スペイン~ポルトガル~再度スペイン・マドリッド

 

(スズキ製Vストローム250に乗りスペイン・マドリッド出発)


以上

総集編その③ 最終回  欧州・中央アジア周回ツーリング (スカンディナビア半島~英国・アイルランドを経てスペイン・マドリッドまで)

 

ロシア西部から今回のツーリングの終盤であるヨーロッパ地域のエストニアに入った。

 

エストニアからフィンランドへ渡った後、欧州最北端のノルウェーのノールカップを欧州ツーリングの目標地点の一つとした。

 

そしてノルウェー・スウェーデン・デンマークを経てドイツ・オランダ・ベルギーを走行後、イギリスとアイルランドを一周する計画を持っていた。

(赤線は欧州地域でのツーリングルート。青色の矢印の方向に進んだ。欧州地域ではタリン~ヘルシンキ間を始め10回くらいフェリー船を利用した。地図の一番上=北がノールカップ)

 

スカンジナビア半島の北欧諸国は学生時代のバックパック旅行や会社員時代の商用で訪れていたこともあり、オートバイツーリングには惹かれない地域であった。また、物価が高いこともツーリングを遠ざけていた。

 

しかしながら、オートバイライダーの性分で最北端という場所は心に響く。この機会を逃したら、北欧へは行かないだろうと考えて、その目標地にふさわしい最北端のノールカップを訪ずれることにした。

 

ロシア・ウクライナ戦争の影響で、ロシアのサンクトペテルブルグからフィンランドへの国境は閉鎖されていた。そのため、フィンランドへ行く最短ルートを辿り、エストニアの首都タリンから国際フェリーでフィンランドの首都ヘルシンキへ渡った。

 

エストニアの首都タリンで準備

 

フィンランドへ行く前に、北欧諸国より物価が安いエストニアのタリンで、病院での体調検査、オートバイのエンジンオイルの交換、キャンプ用ガスバーナーのガス缶の購入等を済ませた。

 

特にロシア走行中に風邪をこじらせ、咳が止まらないまで悪化した健康状態を当方は肺炎でも起こしていないかと心配した。 病院で胸のX線写真の撮影や血液検査等を行ったが、心配した状況ではなくてほっとした。

 

タリンからヘルシンキを結ぶ国際フェリーにはポーランドからのオートバイライダーグループ、ドイツからのライダー達等ノルウェーのノールカップを目指すライダー達が複数乗船していた。

 

スカンジナビア半島では風光明媚なノルウェーが期待以上だった。

 

 

フィンランドをひたすら北上して北極圏(北緯66度以北)内に入ると夜がない白夜となる。人家もほとんどないラップランドと呼ばれる森林地帯となる。更に北上してノルウェー領に入ると海岸線にでた。

 

樹木があまりない殺伐とした海岸線ながら、思ったほど寒くない。最北端へ向かう道路にはオートバイライダーやキャンピングカーが意外と多い。中にはサイクリストの姿も見かける。

ノールカップへ向かう途中には海底を通過する7kmほどの寒くて薄暗いトンネルがあるが、その海底トンネル内を一人で歩いている旅行者を見かけた時は驚いた。

 

氷河が長い年月をかけて山肌を削りとったU字谷のフィヨルドは圧巻だった。

 

フィヨルドは海に面した海岸線を形成するU字谷だと思っていたが、陸上のフィヨルドもあった。ノルウェーの最大級の陸上のフィヨルドを見てその大きさに圧倒された。

 

フィンランドとノルウェーでは5回キャンプ泊をした。キャンプ場には蚊が多くでる。虫よけスプレーはあまり効果がないため、特にテントの設営時や撤収時には蚊に悩ませれられた。

 

そんなわけで、テント泊はなるべく避け、キャビン(宿泊ロッジ)が備わっているキャンプ場ではキャビン泊にした。キャビンは2人用、4人用とあったが、当方一人用として借りることが出来、快適に過ごせた。

 

ノルウェーの北海沿いは雨が多くて夏でも寒いだろうと思っていた。しかしながら、予想に反し、連日晴天であったことも、風光明媚な自然の中を走るオートバイライディングを楽しませてくれ、期待以上の好印象を残してくれた。

(赤線はスカンジナビア半島のツーリングルートを示す。エストニアの首都タリンは地図の右下の赤丸印の場所。地図左最下部の赤丸印はノルウェーの首都オスロの場所を示す。)

(フィンランド・ラップランドの州都ロヴァニエミエにある北極圏入口のモニュメント。北緯66度33分以北が北極圏となる。)

 

(フィンランドの北極圏を北上すると、森林の樹木は小さくなる。)


(欧州最北端のノルウェー・ノールカップは北緯71度。道路が整備されているため観光バスでも訪れられる。)

(ノールカップの海岸線は断崖になっている。)

 

(ノルウェー北部の海岸線には海からそびえ立つような雪山があった。)

 

(ノルウェー・ロフォーテン諸島にあるヘニングヴァールの港)

 

(ノルウェー南部の陸上のフィヨルド、トロスティンゲンは長さ20km~30kmとノルウェーでも最大級だ。)

(カランゲル・フィヨルドを高さ約500mの高台から見る。写真奥の入江には10階建て位の巨大なクルーズ船が停泊していた。)

(Gjerde キャンプ場のバンガロー)

(ノルウェーの首都オスロにあるムンク美術館。個人の作品を展示する美術館としては世界最大級規模。6~7階建て建物の3フロアにムンクの作品が多数展示されている。)

 

(ノルウェーの代表的な画家ムンクの代表作<叫び=Scream>の油絵)

 

イギリスとアイルランド一周

 

会社員時代ロンドンには数カ月滞在したことがあったが、イギリスの地方は全く知らなかった。

 

昨年日本国内ツーリング時に知り合ったオーストラリア人ライダーからイギリスでのオートバイツーリングは良かったと聞いていた。美しいカントリーサイド(田舎道)の情景を想像して、イギリス本土北端のスコットランドを目指すことにした。

 

フランスのカレーからドーバー海峡をフェリーで渡った。

EU脱退後、イギリス入国時のオートバイの通関には時間がかかるのではと懸念した。

 

しかしながら、フェリー乗船前にフランス側でEUからの出国手続きとイギリス側の入国手続きを行う対応だった。税関の検査らしきものはなく単にオートバイの登録証(オートバイのパスポート)を見せるだけだった。

 

ロンドンは素通りして、友人が住むオックスフォードへと向かい、その後東海岸のウィットビーを経由して、スコットランドのエディンバラ、アバディンと進み、イギリス本土最北端のトーソーまで北上した。やはり最北端という場所には興味が沸く。

 

日本の幕末に薩摩藩の英国留学生の一人がアバディーンに留学したことをテレビ番組で知った。何故スコットランドのアバディーンを留学地としたのか?と興味をもった。

 

同地の博物館を訪れて知ったことは、幕末に武器商人として長崎を拠点に薩摩藩や長州藩と関係をもったグラバー商会のグラバー氏がアバディーンの出身で、同氏が若き薩摩藩士や長州藩士の英国留学を手助けしたことを知った。

 

そんな縁でアバディーン市は長崎市と姉妹都市関係を築いている。

 

イギリスは長距離を走行するオートバイライディングには難しいと感じた。緑の牧場や草原の中の道路を走行するのは気持ちがいい一方、一般道は幅が狭く片側一車線で交通量もあるため、道路脇にオートバイを止めるスペースがない。

 

景色が良い場所なら、オートバイを止めてその景色を眺めたり、写真を撮りたいと思った。しかしながら、後続車を気にしてオートバイを停止できない。

 

曲がりくねった一般道でも制限速度は60マイル(約100km弱)と速く、後続の車にせかされ、田舎道をのんびり走行して景色を楽しむという風にはいかない。

 

スコットランドを北上するに従い、交通量は少なくなってきた。

また、道路沿いには農地が多くなっているように見えた。

 

夏でも肌寒いスコットランドでイチゴがハウス栽培されている光景を眼にした時は驚いた。

 

スコットランドはノルウェーのフィヨルドに似たU字谷の渓谷や地平線に遮るものがない広大な湿原等ワイルドな自然がある地域だった。

 

かって怪獣ネッシーが生息しているのではと世界の注目を浴びたネス湖の周囲も走行した。ネス湖は意外に狭く、川のように見えた。

 

大型海洋動物が棲むには小さすぎるので、ネッシーについてはガセネタであろうことは当時も容易に想像できただろうと思った。

 

 

英国領北アイルランドの州都ベルファーストからアイルランドの首都ダブリンへと移動した際、国境らしきものが無かった。その逆のアイルランドからベルファーストへ進んだ際にも国境らしきものが無かった。

 

アイルランドはEUにとどまっている一方、イギリスはEUを脱退している。そのため本来は両国間を移動する際はパスポートコントロールと税関での検査が課せられるべきところを、実際はその手続きを省き、両国間の人と物の往来を自由にしている。

 

アイルランドの一人当たりのGDPは10万米ドル以上(約1400万円)以上と世界最高水準だが、見た目上はその豊かさが確認できない。街に高級車があふれているわけでもないし,広い屋敷に住んでいるわけでもない。

 

低い法人税率をてこにグーグル、マイクロソフト等の外資導入に奏功して、外資が稼ぐ利益が統計上では一人当たりのGDPを高くしているのではと思った。


(赤線はイギリスとアイルランドのツーリングルートを示す。)

 

(イギリス中部・東海岸にあるウィットビー。ブラム・ストーカー原作のドラキュラの映画にも使われた199段の坂。階段坂を上りきるとセント・マリー教会の墓場に出る。)

 

(アバディンの海洋博物館にはグラバーを称えた日本コーナーがあった。そのコーナーに展示されていた1905年に撮影された集合写真には東郷元帥=中央2列目、グラバー氏=中央4列目、岩崎弥太郎氏の弟であった岩崎弥之助=2列目、右端から3人目が映っている。 グラバー氏は岩崎氏=三菱グループ創始者のアドバイサーとして活躍していた。)

 

(アバディーン付近のイチゴのハウス栽培)

 

(ネス湖=Lock Nessの中央付近。ネス湖は細長い。幅は2km~3km程度しかない。)


(1960年代、世界にグループサウンズブームを引き起こしたリバプール出身のビートルズは無名のころ

リバプール市内中心部マシュー通りのカラバン・クラブ=写真左の建物で演奏をしていた。)


(イギリス最南端のペンザンスにあるマウント・セイント・マイケル(城)は中世の時代にはフランスのモン・サン・ミッシェル修道院が保有していた。干潮時には陸から島まで歩いて渡れる。)

(アイルランドは人口500万人足らずだか、国外にはアイルランド系の人たちは3000万人いると言われる。1800年代中ばの大飢饉をきっかけにアイルランドから大量の移民が北米を中心とする国外へ渡った。この写真はカナダの農場へ移民を勧める過去のポスターだ。)

 

(アイルランド西部の海岸線。場所によっては海面からの高さが200mあるモヘーの大断崖)

 

(アイルランド北部の城のような形の山)

 

フランスとポルトガルを経てスペイン・マドリッドに戻る。

 

イギリスの厳格さや英語特有の冷たさが感じられないフランスは何故かホットした心持ちになった。

多分自由な雰囲気のフランスとフランス人のラテン気性だろう。

 

イギリスのブライトンからフェリーでフランス・ノルマンディー地方のディエップに到着した。ブライトンは雨が降っていたが、ディエップは晴れていただけでフランスには好印象を持つ。

 

ディエップ~ルーアンと進み、かねてから行きたいと思っていたモン・サン・ミッシェルを見学した。モン・サン・ミッシェルは海の中にあると想像していたが、実際は砂州が堆積して陸上とつながりかけていた。

 

フランスで一番観光客が訪れる場所と聞いていたが、観光客で混みあっている

状況ではなく、余裕をもってモンサン・ミッシェルの修道院内を見学でき、当方は満足した。

(フランスの西海岸ノルマンディー地方にあるモン・サン・ミシェル=修道院)

 

(スペイン北部ゲルニカの町にあるピカソが描いたゲルニカの絵画のレプリカ。ゲルニカは第二次世界大戦前のスペイン内戦で

反政府軍の要請を受けたドイツ軍とイタリア軍の空爆を受けて、町が破壊され多くの一般市民が犠牲になった。ピカソはその惨事の様子を描いた。)

(スペインの首都マドリッドに向かって最後の150kmを進む。)
 

以上

総集編 欧州・中央アジア周回ツーリング その➁(中央アジアからロシア西部経由でエストニアへ出国まで)

 

中央アジア諸国の主なデータは以下の通りである。

国名

人口(万人)

面積千km2(世界の順位)

一人当たりGDP米ドル(世界順位) IMF2023

円換算一人当たりGDP(万円単位) 

一人当たりGDP世界順位

日本

12,260

378(61)

33,899

474

34

USA

34,180

9,833(3)

82,716

1158

7

カザフスタン

1,980

2,780 (9)

13,261

185

71

ウズベキスタン

3,570

447 (56)

2,820

39

140

タジキスタン

1,030

144 (94)

1,184

16

170

キルギス

680

199 (85)

2,019

28

154

*トルクメニスタン

660

488 (52)

11,927

166

76

 

*トルクメニスタンは未走行。

 

カザフスタンの国土の大きさが日本の約7倍と突出しているが、人口は多くない。

 

過去の時代から中央アジア諸国で人口が多いウズベキスタンが政治や文化の中心的な役割を担った。 

 

経済的にはカザフスタンの一人当たりのGDP(国民の年収と捉えてよい)が13,000米ドル(約185万円)と突出しているが、原油等の鉱物資源のお陰だといえるだろう。

 

一人当たりのGDPでは国ごとに格差があるが、どの国の庶民の生活状況はそれほど変わらないように見えた。

 

(中央アジアの走行ルートを赤線で示す。地図左端はカスピ海北部のロシアのアストラハン。地図中央下はアフガニスタンのマザリシャリフの位置。地図右側はキルギス。キルギスから再度カザフスタンを東部を首都アスタナまで北上後、ロシア西部へと進む。距離が分り難いが、例えば赤線ルート右下の丸印のアルマティから赤線に沿った地図上部ロシア・カザフスタン国境までは

北海道の北から鹿児島まで約2,500kmの距離がある。)

 

国土が日本の約7倍あるカザフスタンの2,500kmの迂回路

 

ロシア・コーカサス地方を抜けてカザフスタンへ入国した。

 

入国時に当方同様にオートバイで中央アジアを目指してツーリング中のチェコ人の若者ルーカスと知り合った。

 

向かう方向が同じため二人でロシア・カザフスタン国境から約200km入ったカスピ海北部海岸沿いの都市アティラウを目指して進み、同市内で当方が目をつけていたホステルに二人で投宿した。

 

見知らぬ場所で初めて会うライダーとも、お互いの気脈があえば行動を共にすることは時々ある。

 

本来はアティラウから南下する最短距離のルートを通りウズベキスタンへ行く計画をしていたのだが、投宿したホステルのオーナーから南下するルート上の国境は閉鎖されていると聞いた。

 

ロシア国境を出る際にもイタリア人の旅行者から同様なことを聞いていたので、情報の信ぴょう性は高いと判断した。

 

カザフスタンの中央部まで出てウズベキスタンの首都タシケント方面への迂回ルートを通行せねばならないことになった。

 

最短距離のルートなら300km~400kmでウズベキスタンへ到達できるが、迂回ルートでは2,500km位の距離があった。

 

更に1カ月後にはキルギスからロシア西部を目指してカザフスタン東部を約2,400km走行することになるため、カザフスタンは合計5千km走行することになった。

(ロシアのアストラハンからカザフスタン入国後、チェコのライダーと伴走する。)

(アティラウで宿泊したホステルとそのオーナー。オーナーは地図を広げて迂回路ルートと宿泊すべき町や宿を教えてくれた。)


(アティラウ市内をヨーロッパ側とアジア側に分けるウラル川)

 

優しいカザフスタン人

 

カザフスタンの人々は優しかった。

 

入国後3日目、アティラウから500km先のアクトベを目指して進んだが、疲労のためアクトベまで進めず、途中の町で投宿することにした。

 

投宿した宿は長距離トラックのドライバーや工事現場の作業員が泊まるような安宿だった。食堂も兼ねていた。安宿にもかかわらず、当方は宿賃の値引きを打診した。

 

強面のおじさん経営者はオーナー<値引きなんかあるものか!>と当方の打診を一蹴した。

この強面のおじさんが翌日朝食は無料にしてくれた上、宿をチェックアウトする際にはカザフスタンの土産だと言って、カザフスタンの文字が入ったチョコレートとライターを当方にくれた。

 

また、ツーリング中に出会ったカザフ人のオートバイ・ライダーは幹線道路の休憩所でオートバイ談義を少ししただけであったが、カザフスタンのチェコレートを売店で買ってきて当方にプレゼントしてくれた。当方が断ろうとすると<気持ちだからぜひ受け取ってほしい>言うではないか。

 

ある時は食事をおごられたり、またある時は大学の総務部で大学とは無関係な当方にバイク保険加入の手続きをしてもらったりと随分お世話になり、単調で長丁場のカザフスタンツーリングを思い出で深きものにしてくれた。

(アティラウからアクトべへ向かう草原の一本道)

(草原のラクダの放牧)

(アティラウからアクトべ途中で投宿した宿のおじさん経営者は、見た目と違い優しかった。)

 

(アスタナへ向かう途中に砂嵐に遭遇。当初、雲が地面付近に発生していると思ったが、凄まじい勢いの風で地表の砂が巻き上げられていた。バイクを停車すると風の勢いで倒れると思い、走行し続けた。)

 

 

 

(アルマティーでオートバイの保険加入の手続きをしてくれたカスピ海大学)

(アスタナの国立博物館の目玉展示品、黄金人間=Goldman。紀元前4世紀~紀元前3世紀ごろの王子のものと思われる金の衣装)

(首都アスタナの高さ105mのバイテック・タワー。球状の展望台は人気があり、入場者は長蛇の列で待つ。)

 

(アスタナへ向かう途中に出会ったカザフスタンのライダー。チョコレートをプレゼントしてくれた。)

 

 

幹線道路状態は悪いが、建物が立派だったウズベキスタン

 

首都タシケントに近いカザフスタンとの国境からウズベキスタンに入国した。タシケントは新興国とは思えないほど道路インフラが整い、建物も立派だった。

 

また、サマルカンドを始め、14世紀に中央アジアを征服したティムールの出生地シャヒリサーブやテルミズ等の地方都市の建物も立派であった。

 

しかしながら、都市と都市を結ぶ幹線道路は悪路だった。舗装が剥がれ、つぎはぎだらけの凸凹道路面は悪路としか言いようがなかった。当方は凸凹の悪路を走行するのにうんざりして、古都のブハラやヒバへ行くことは断念した。

 

ウズベキスタンで驚いたことは日本語を話す現地人が意外と多いことだ。タシケントのホステルで同宿したウズベキスタン人は日本に4年留学したと言っており、流ちょうな日本語を話した。 当方へ<日本が分かる人がウズベキスタンには多いから変なことは言わないほうがいいよ>とアドバイスされるほどだった。

 

アフガニスタンと川を隔てて国境を接するウズベキスタン南部の都市テルミズではアフガニスタンのビザが簡単に取得できたため、テルミズから南に約150km離れたアフガニスタンのマザリシャリフまで足を延ばすことにした。

 

ティムール朝の都だったサマルカンドはシルクロードのオアシスとして栄えた。同市にはユネスコ世界遺産のモスク、イスラム神学校等からなるレギスタン広場(イスラム教複合施設)があり、同地を訪れる観光客でにぎわっている観光の街だ。

 

当方は2009年の会社員時代に駐在していたモスクワから観光と将来のツーリングの下見を兼ねて訪れたことがあった。

 

当時は街中の道路といえども未舗装で雨が降れば泥沼化していた。また、観光客の姿が疎らだったレギスタン広場の周囲も見栄えがしない質素な場所だったと記憶していた。

 

しかしながら、今回訪れたサマルカンドは16年前の質素な街並みではなく、洗練した街並みに変わっていた。16年前は誰でも入ることができたレギスタン広場は有料となり、内外の見学者や観光客で賑ほどの変わりようには驚いた。

(首都タシケントの街には街路樹が多かった。)

 

(タシケントから約250km先のサマルカンドへ向かう途中の幹線道路沿いの風景。広い農地が広がっている。農業は

ウズベキスタンのGDPの2割を占める基幹産業。)

 

(サマルカンドの中心部にあるユネスコ世界遺産レギスタン広場。モスクや神学校の複合施設を形成している。)

 

(旧ソ連解体後、ウズベキスタンの初代大統領に就任したイスラム・カリモフの銅像がある広場は新郎・新婦の記念撮影をする場所になっている。イスラムの国でも新郎・新婦は西洋式の衣装を着用している。)

 

(ウズベキスタン南部のテルミズへ向かう途中の風景。山や丘陵地が多くなりワイルドな風景になってきた。)


(アフガニスタンのマザリシャリフの果物中心の露天マーケット)

(アフガニスタン・マザリシャリフには夜にイルミネーションで飾られたビルもあった。)

 

地形と地層の教科書のようなタジキスタン

 

平原が広がるウズベキスタン南部のテルミズからタジキスタンへ入国した。そして初日は首都ドシャンベに投宿した。一人当たりのGDP(年収の代替数字)が16万円と世界で最貧国の一つに分類されるが、首都には広い道路が整備され、立派なビルが立ち並んでいた。実態と経済データを元に想像した街の姿にはかなりの乖離があった。

 

首都ドシャンベから北方向に位置するウズベキスタンのタシケントへ向かう山岳道路を進んだ。このルートの峠付近には<死のトンネル>と呼ばれる照明が無く真っ暗闇で長いアンゾフ・トンネルがあった。

 

このトンネルがある標高2千m級の山々は禿山になっている。山々を形成する岩石の色がところどころ色彩を帯びている。おそらく鉱物資源が豊かな山々だと思った。

 

太古の時代の地殻変動の影響で断層が表面に飛び出した山や谷がある。急流の川が削り取った崖があれば、ゆったり流れる川が長い年月をかけて侵食してできた穏やかな地形もある。中学や高校の地理の教科書に出てくるような風景には感動した。

 

タジキスタンの地形は複雑だ。南のアフガニスタンと国境を接するゴルノ・バダフシャン自治州には標高5千m級山々に囲まれたパミール高原が控えるが、北部には肥沃なフェルガナ盆地が開けている。

 

パミール高原へ至るルート上にはダート道や川渡の箇所があり、厳しい道路であるとアドバイスを受けていた。そのため、当方のロードタイプのオートバイでは走行が厳しいと判断して走行しなかった。

 

紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王の率いる軍はフェルナガ盆地の川沿いに<最果てのアレキサンドリア>を建設した。その最果てのアレキサンドリアは現在ホシャンドと呼ばれている。当方はアレキサンダー大王の大遠征を想像しながら、ホシャンドを訪れた。

 

(巨大な街路樹が日陰を作ってくれる首都ドシャンベの大通り)

 

(ドシャンベから北へ向かう山岳道路)

 

(山肌は緑色や白色の岩石で色彩豊かだった。)

 

(当方が木陰で休憩しようとすると高校生達と子供が寄って来た。真ん中の高校生は、英語で自分の夢を熱っぽく語った。将来はアメリカのニューヨークに渡りアニメ画家なりたいと。)

(川が大地を侵食している様子が良くわかる地形)

 

(フェルガナ盆地の農耕地帯。地平線が見えない広大な盆地だった。)

 

(紀元前の時代は最果てのアレキサンドリアだったホシャンドの市内を流れる全長2,000km以上のスリダリヤ川。川の水は透き通り、水量が多く、流れが速かった。)

 

 

日本人そっくりのキルギスの人々

 

フェルナガ盆地はタジキスタン、ウズベキスタンおよびキルギスの国境が入り乱れて複雑だ。

 

タジキスタンから再度ウズベキスタンへ入国後、キルギスの第二の都市オシュに近いウズベキスタン国境を経てキルギスに入国した。

 

キルギスに入国すると人々の顔立ちは日本人そっくりだった。思わず日本語で<○○さん>と声をかけたくなる。他の中央アジア諸国では彫が深い顔立ちの人々も多い。タジキスタンは国民のほとんどはペルシャ・アフガニスタン系の顔立ちの人々と言われている。

 

数週間前にウズベキスタンのタシケントで知り合ったキルギスの青年の実家に招待されていた。青年は沖縄で5年間、日本語の学習とその後ANAで働いた経験があった。

 

青年の実家はウズベキスタン国境から遠くない農村にあった。農村では食肉用の山羊を飼い、自給自足の生活をしている。かっての日本の農村のような懐かしい風景が広がっていた。

(実家に招待してくれたキルギスの青年ウソン君はサイクリストだった。同君とはウズベキスタンの首都タシケントの中央公園で出会った。)

 

(ウソン君の実家を訪ねるためウズベキスタン国境に近いジャラール・アバッド県のアラ・ブカという小さな町へ行く途中)

 

(ホームステイしたウソン君の実家。当方はウソン君の母親からキルギスの伝統的は帽子をプレゼントされた。)
 


 

(首都ビシュケックへ向かう途中の標高2,500mぐらいの高地)

 

(ビシュケックのシンボル的なアラ・トー広場=Ala Too Square)

 

(ユネスコ世界文化遺産があるNavekat遺跡付近はシルク・ロードが通っていた。)

 

(琵琶湖の9倍広い高地のイシク・クル湖で釣りをする人たち。水の透明度は高い。)

 

若く見える日本人

 

青年の叔父や叔母の家にも訪問して、当方は日本のことを話した。当方はキルギスの人たちが実際の年齢より10歳以上老けて見えるのに驚いた。 

 

当方は自分より年上だなと思った青年の叔父は当方より10歳若かった。現地の人達からは<日本人はなぜ若く見えるか?>との質問攻めにあった。

 

当方は<日本人は魚をたくさん食べるからだ>と返答した。

(ウソン君の叔父=写真左は57歳だったが年齢より10歳以上老けて見えた。)

 

経済データのマジック

 

キルギスは中央アジアのスイスと呼ばれるように山が多く、美しい風景が広がっている。

人々は優しく、国土は美しい。円換算した場合の物価も安い。

 

首都のビシュケックでは証券取引所を訪れた。一人当たりのGDPが2千ドル(約28万円)の国で、人々は広い家に住み、豊かな生活を送っているように見えた。経済データと実態がかけ離れているので、証券取引所の副社長に当方の疑問を投げた。

 

同氏の返答は簡単だった。<統計数字に表れない闇経済が活発だからだ>との回答だった。

 

経済統計上では、キルギスは2004年~2025年の20年間でGDPは10倍になった。2021年~2025年の直近4年では2.5倍になった。これは政府が法律や規制で闇経済を表経済への導いているからだと言う。

 

どこの国にも税務署に所得を申告していない闇経済はあるが、その規模と程度の問題だろう。

そう考えると、日本にも闇経済をあぶり出せば、経済成長率は上昇するのではないかと考えた。

(キルギス証券取引所の建物)

 

(キルギス証券取引所で応対してくれた副社長のMyktybek Abirv氏)

 

ツーリングが厳しかったロシア西部地域

 

中央アジアからの往路は再度カザフスタン経由モスクワが所在するロシア西部地域を通過する。

 

キルギスの最東部カラコルからカザフスタンに再入国後、旧首都のアルマティ、首都のアスタナを経てロシア西部地域に入る。

 

カザフスタン北部のアスタナ付近から雨天の日が多くなってきた。雨が降ると7月初旬だというのに寒い。

 

ロシア西部地域はチェリアビンスク~ウファ~サマラ~ペンザ~リャザン~首都モスクワ~レゼブ~ポスコフと3千kmの距離を約10日間で走行した。 連日のように冷たい雨が降り、体力的にもきつかった。


 

(ロシアの小麦畑の平原を進む。しばらく進むと天気が変わり、雨が降り出してきた。)
 

(戦車工場等ロシアの軍需工場がある戦略都市サマラに入ると白バイ2台が追跡して来て、検問を受けた。)

(白バイ隊員といえどもオートバイの好きのライダーのため、一緒に写真に納まってくれた。)

(モスクワ市内の中心部ニュー・アルバート通り)

(モスクワ・クレムリンから数km離れたモスクワ川にかかる橋にも花が飾られていた。)

 


(モスクワの西方約130km位置するボロジノは1812年にフランス・ナポレオン軍とロシア軍が激戦した古戦場。

ロシア軍が戦場から退却してフランス軍が勝利したように見えた。しかし、冬の到来とともにフランス軍はロシアを離れてえ帰路に就いた。フランス軍はロシアの冬には勝てず、帰路途中に兵士の8割が寒さと飢えで死んだという。)



(フランス軍のロシアからの帰路を描いた絵画)

 

外国人ツーリストに厳しい現状

 

更にホテル等の宿の確保が難しい。多くのホテルで<満室だ>と宿泊を断られた。満室でないことは当方でもわかるが、ウクライナとの戦争中に外国人を宿泊させると不都合が生じるのだろう。首都モスクワのあるホテルの受付では<外国人の宿泊は断っている>と正直に言われた。

 

それでも宿泊を受け入れてくれた多くの宿は主に中央アジアからの出稼ぎ労働者が寝泊まりす

るドミトリー形式のホステルだった。

 

モスクワの大きな川の橋は花で飾られていた。特に大統領府があるクレムリン周辺はでは眼にまぶしいくらいの量の花や花輪で飾られていた。まるで葬式の際の花飾りのようであった。たぶんウクライナ戦争での戦没者を慰霊しているのだろう。

 

宿を探すのにも手こずったが、一番困ったのはカーナビがたびたび作動しなくなることだ。

カーナビの位置情報に欠かせない衛星電波が妨害されているのだ。

 

特にモスクワをはじめとする都市部ではカーナビが作動しない状況が続いたのでオートバイの運転には非常に困った。

 

また、携帯電話のデータ通信も夜間は利用できず、ロシアが戦時下にあることを痛感させられた。

 

そのような状況でも、当方はモスクワ駐在時のロシア人の元同僚たちと再会して旧交を温めた。ロシア人は表面上とっつきにくいが、なかなか義理堅く心温かいところがある。

 

冷たい雨の中、連日の移動で疲れがたまり、キルギスで引いた風邪が悪化した。更に腰痛にも悩まされ、ほうほうの体でロシアからエストニアへと出国した。

(ロシア北西部のポスコフへ向かう幹線道路。写真を撮った後、豪雨となった。)

 

(ロシア最後の投宿地ポスコフでは雨の中、7軒目に訪れたホテルでやっと泊まれた。翌日は雨の中、エストニアへ向かう。)

 

以上