ウズベキスタン(Uzbekistan )入国~アフガニスタン(Afganistan) マザリ・シャリフまでショートトリップ 1350km (5/22 ~5/30 )
カザフスタン最後の都市シムケント(Shymkent )で一泊後、 シムケントから約100km 先のカザフスタンとウズベキスタン国境を通過してウズベキスタンへ入国した。
主要国境が工事中で閉鎖されているため、10km 程度主要国境から離れたマイナーな国境Kapplanbek Border を通過してカザフスタンから出国した。
事前にI Overlander (オーバーランダー向けの有料情報アプリ)にて国境通過手続きに数時間かかったとの直近の情報を得ていた。その情報通り、カザフスタン出国とウズベキスタン入国手続きに3 ~4 時間ぐらいかかった。
やはり、国境に近いシムケントに前泊の上、午前9:30 には国境に到着して、国境通過の手続きを開始して正解だった。
国境に到着した際にはカザフ出国手続きの管理事務所敷地内入るゲート前に既に40 ~50 台程度の車が順番待ちの列を無造に作っていた。 道路幅一杯に並んだ車列にはオートバイでもすり抜ける余地はない。
反対車線(カザフスタンへ入国する車線)から逆走して順番待ちの列の一番前に出てゲートが開かれるのを待った。 その間徒歩で両替を勧誘する行商人のような姿の業者の勧誘が凄まじい。当方の周りに数名の業者が群がる。当方が無視していると、当方の袖を取ってどこかへ連れて行こうとする業者もいた。
このゲートは先に出入国管理事務所敷地内で手続きをしている車の数が少なくなるまで閉鎖される調整弁的なものだった。
(カザフスタン最後の都市シムケントの独立記念碑がある広場から市内中心部方面を見る。通りの街路樹がオアシスのように多かった。)
(シムケントからウズベキスタンとの国境方向へ向かうと平原から丘陵地帯の景色となった。乾燥しているため木々は生えていない。)
(カザフスタン出国管理事務所へ通じるゲート前の道路。写真奥に敷地内ヘ入るゲートがあるが閉まっていた。)
カザフスタン出国手続き
出国手順はロシア入国時に作成してもらったロシアの一時輸入許可証(カザフスタンと関税手続きを共有している)を係官に提出する。係官が実際に事務作業をしているビル内へ案内してくれる。
その後、50m 先に進むと貨物輸送用のコンテナーを利用したパスポートコントロール事務所がある。ここでカザフスタン出国の手続きを行う(パスポートに出国印を押印してもらう)。
当方の出国手続き中に、横入りがあった。 上官らしき国境警察官に伴われた人のイミグレーション手続きを優先すると言うのだ。
当方はコネかお金を使って手続きを優先してもらっているのだろうとあきれて見ていた。優先されているのは目つきの鋭い人だった。 金持ちは悪人顔をしていると思ったが、そのような人たちが数名続く。 よく見ると手錠をはめられている犯罪者だった。
ウズベキスタンへ引き渡す数名の犯罪者の出国手続きを優先していたのだ。犯罪者たちは、厳重に警備された護送車に載せられて国境地点で、ウズベキスタン側の護送車へ乗り換えさせられていた。
ウズベキスタン入国手続き
入国ゲート前で1 時間弱待つ。ここでも先に入国手続き中の車両数が減るまでゲートが閉まる。
ウズベキスタンの入国審査体制は統制がとれていない。 税関職員らしき係官が当方の荷物検査をしたが、10 分後には違う係官が再度検査をした。 係官の連携や担当が決まっていないらしい。
荷物をオートバイから降ろして、X 線検査装置の中へ荷物をいれて検査する。厳重な検査だ。
パスポートとオートバイの登録証(Certificate of Registration =Car Passport )を提示して、入国審査(Immigration )を行う。
その後、係官から<オートバイの登録をオン・ライン手続きをする他の窓口へ行け>と指示される。その窓口での手続きが終了すると登録手数料を向かいの窓口で支払うように指示される。
クレジットカード払いは出来ない。当方はウズベキスタン通貨を持っていなかったため、カザフスタン通貨で1,000Tenge (約3600 円)支払った。
支払い後、最初の窓口を再度訪れ、係官が登録料の支払い済みの確認をする手順となっている。
入国管理事務所の敷地を出る際に警備の警察官へ全ての手続きが終了したことを示す紙切れを渡して終了する。
(ウズベキスタン入国管理事務所のゲート前で待機中。写真奥はカザフスタン側の建物)
オートバイ保険と携帯電話用 SIM カードの取扱店
ウズベキスタン入国直後の場所に現地の人たちでごった返す商店や食堂が入居する低層ビルがある。ここに入居する携帯電話のショップでウズベキスタンの車両保険のと携帯電話のSIM カードの購入が可能だ。 オートバイ用の保険は15 日間有効で100,000Soms( 約1,200 円)。
国境から首都のタシケント(Tashkent )まで40km の距離だが、暑さで2 台持っているスマホが両方ダウンしてしまった。しばらくスマホの電源をオフにしてスマホが少し冷えるまで待つ。
タシケントに向けて走り出したのは、結局午後の2 時を回っていた。
時刻が早かったので、まずオートバイの・エンジンオイルを交換してくれるオートバイの修理店を探した。
スペインのマドリッドを出てから約1 万km 走行していた。
事前に目をつけていたバイク用品販売店・修理店を2軒回った。3 軒目の自動車修理店でエンジン・オイルの交換が出来た。
そもそもウズベキスタンではオートバイが少ないので、エンジンオイルの交換が可能の業者数はかなり限定される。
自動車修理店にたまたま客として訪れていたロシア系と思われるウズベキスタン女性が親切に英語通訳の労を取ってくれた。
当方のオートバイはエンジンオイルを2.2L 使う。同店は1リッターボトル単位で販売するので、3リッター買う必要がある。 当方が訪れたアジアやアフリカ等の新興国ではリッター単位でなくてもエンジンオイルの購入が可能な国が多かった。
同店と交渉したが、1リットルボトル単位でしか販売していないと言う。2.2リットルのみの購入は無理なようだ。
当方は持ち合わせの現金が不足していた。現地通貨への両替をするため、当方が最寄りの銀行へ行っている間に、その通訳をしてくれた女性がオイル交換後余る0.8L 分を支払ってくれたとその自動車修理店のスタッフから後で知らされた。
当方はその女性の名前さえも知らないのに!
結局当方は2.2L 分のエンジンオイルのみを支払った。工賃を含むエンジンオイル交換代は366,000Soms (約4,500 円)
その日は、ホステルを3 軒周り、3 軒目のホステルで投宿することに決めた。ホステル主の接客態度が良かったからだ。 ウクライナ系のウズベキスタン人だが、日本人のようにすこし控えめで配慮がある対応だった。
投宿は Effo Hostel 100,000Soms( ドミトリー式一泊約1,200 円)
このホステルは興味深かった。 Booking.Com 等のホテル予約サイトには載っていない。宿を示す看板も無い。
このホステルは主に下宿屋として利用されている。 タシケントは働く場所が多い。職を求めてウズベキスタン各地から来た人たちが、タシケントで働いている間の住まいとして利用している。
当方が知り合った一人はサマルカンド出身の40 歳ぐらいの男性だった。 サマルカンドの方が水はおいしいし、空気もきれいだと故郷を懐かしがっていたが、タシケントの会社は給料が高いため、単身でタシケントに来ていると言う。 JT (Japan Tabacco )とPhillip Morris との合弁会社で管理職をしていると言う。
朝になると身を整えて車を運転して職場へと通勤していた。
(ウズベキスタン入国直後に商店・食堂が並ぶ)
(タシケントで投宿したEffo Hostel)
(自動車修理店でエンジンオイルの交換)
(タシケント市内の通り。市内の幹線道路は片側3車線ある)
(タシケントのホステルのトイレにイスラム式ウオッシュレットの使用法を説明する
紙が貼ってあった=写真右側)
日本語を話す人たち
タシケントで驚いたのは日本語を流ちょうに話す現地人3 名に会ったことだ。 一人は完璧な日本語を話した。日本の政治についても知っていた。41 歳の男性でサマルカンドでKafe (レストラン兼喫茶店)を経営していると言う。日本へ4 年の留学経験があると言った。
同氏曰く、ウズベキスタンには日本語が判る人が意外と多いので、うっかり変なことは言わない方が無難だよと教えてもらった。
当方はタシケント市内のレギスタン広場周辺で、トイレを探していた。英語のグループ数名を連れていたの観光ガイドの人にトイレの場所を尋ねたら、日本語も完璧に話した。日本語の観光ガイドも兼ねているのだろう。
新市街中心部のティムール広場に大きな荷物を前後の両輪横側に装備した自転車を引いていたサイクリストがいた。日本人のサイクリストかなと当方が声をかけたら、<日本語大丈夫ですよ>との返答があった。
33 歳のキルギス人サイクリストで、沖縄で5 年間日本語の勉強とANA で仕事をした経験があると言う。
シマノ製の自転車に40 ㎏の荷物搭載して世界一周ツーリング中だと言う。
(自転車で世界一周中のキルギス人の青年。タシケントのティムール帝騎馬像前公園にて)
サマルカンドへの道
タシケントからサマルカンドまでの距離は約290km と遠くない。しかし距離の2/3区間の 舗装面が継ぎはぎだらけで、がたがた道だった。 片側2 車線ある高速道路のような体裁だが、当方は時速40km ~50km で対応。それでも強い振動で荷物として積んでいるPC が振動で壊れはしないかと心配した。
そんな道路でも、ウズベキ人のドライバー達は時速100km で車を振動させながら走り去っていく。
サマルカンドは2010 年に観光で訪れたことがあった。
当時は市内の主要道路も未舗装の状態で、雨が降った後には、車が泥を周囲に飛び散らしながら走っていたこと覚えている。車の数も少なかった。
また、市内の百貨店は古くて内装が倒産した店舗のように荒んでいた。店内には古いエスカレータが備え付けられていたが動かず、天井からつり下がる蛍光灯が部分的に消えていたりして内部は暗かった。
そこで売られていたものは普段着のような衣類や、サンダル等の雑貨だったと記憶している。興味を引くものは無かった。
そのような記憶が全く過去のものになっていた。
緑あふれる街路樹が立ち並ぶ道路。 木々が生い茂り、花壇に整然と植えられて花、しっかり刈り込まれた芝生の公園が市内の各所にある。
サマルカンドの街並み自体は3階から4 階の高さに統一され、景観が保たれている。
当方はサマルカンドを知っているつもりでいたが、記憶とは異なる新鮮な街に変わっていた。
観光名所のレギスタン広場やその周辺も整備されていた。レギスタン広場内のメドレセ(神学校)には当時のメドレセの資料を展示する博物館が出来たり、内部のモスクが整備されたりと、観光客の満足度が高まるように工夫されていた。
当方はちょっと景観を見る程度の散歩で済ませようと考えていたが、結局レギスタン広場内の各メドレセ内を見学して観光に半日費やした。
サマルカンドのほかにもブハラ(Bukhara )やヒヴァ(Khiva )等長い歴史があり、観光地となっている都市がウズベキスタンの北西部にある。
しかし、当方はサマルカンドから南下してティームール帝(13 世紀~14 世紀に中央アジアを支配するティムール帝国を造る)が生まれた故郷のシャヒブサーブズ(Shahirsabz )経由アフガニスタンと国境を接するテルミズ(Termiz )を目指すことにした。
サマルカンドでは一足先にサマルカンド入りしていたフランス人ライダーが推薦してくれたHeartland Hostelに投宿した。
(一泊115,000soms=約1300円)
経済統計の数字より豊かなウズベキスタン
首都タシケントには証券取引所がある。証券取引所の見学を希望してアポイントを申し込んだが、あっさり断られてしまった。よくあるケースだ。証券取引所で経済面のことも教えてもらおうと考えていたが・・・
当方は経済面を調べるときは各国の一人当たりのGDP(GDP per capita)を一人当たりの年収に近い数字ととらえて参考にする。ウズベキスタンの一人当たりの2023年GDPは2800米ドル程度(当時の為替レートでは約35万円)として低い。世界ランキングでは140位だ。隣国カザフスタンの1/4程度になる。2800ドルは南米の最貧国であるボリビアより低い。東南アジアのカンボジアと同じくらいだ。
幹線道路の状態をみると政府には道路を整備する余裕がないのは分かるが、市民生活は一人当たりのGDPが示すほど悪くないと感じた。 またタシケント、サマルカンド、テレミズ等の都会を見る限り、都市インフラは充実しているようだし、道路を走る車は新車が目立った。庶民の住宅は大きいし、生活必需品から高級品まで物は豊富にそろっている。生活満足度は高いのではと感じた。現地通貨(Som)の為替レートが割安に放置されているのではと思う。
(タシケントからサマルカンドへ向かう幹線道路ぞいの風景。広い農地が広がっている。農業はウズベキスタンのGDPの2割を占める基幹産業)
(道路を間違えて田んぼがある田舎道路へ入ってしまった。田んぼは種を直播するため、整然と植えられていない。)
(サマルカンドが近づくとより乾燥した風景となり、周囲は枯れた草で覆われた大地となる。)
(サマルカンドの中心部。世界遺産のレギスタン広場と広場を囲むメドセレ=神学校)
(レギスタン広場の中心的なウルベク・メドレセ=Ulubek Madrasasi。1420年にティムール朝第4代君主であったウルグ・ベグの命で建設された。ウルグ・ベグ自身は当時著名な天文学者であり、天体観測を行う天文台も建設した。 ティムール朝の知識・教育レベルの高さには驚く。)
(静寂なメドレセ内の内庭。ここは神学生の寄宿舎にもなっていた。)
(1930年当時のウルベグ・メドレセ)
(旧ソ連解体後、ウズベキスタンの初代大統領に就任したイスラム・カリモフ=Islom Karimovの銅像がある広場は結婚式時の
記念撮影をする場所になっている。新郎・新婦は西洋風の衣装だ)
(サマルカンド中心部の通り)
(サマルカンドのレギスタン広場前の通り。建物は全て2~3階の低層に統一されている。)
(投宿したホステルがあった住宅街の通り。清掃が行き届き、ゴミが落ちていない。)
(サマルカンドの公衆浴場ハマームNo.1の建物)
(ハマームはサウナ風呂かなと期待して入ったが、温水シャワーのみだった。ただし一人で10畳ぐらいの広さのシャワールームを利用できる。シャワールームへ入る前の脱衣場も8畳ぐらいの個室になっている。入浴料金は1時間で28,000Som=約300円)
(子供たちを教える昔の風景写真)
(1870年代のレギスタン広場付近の商店街。人々は靴を履いていた。)
(19世紀のサマルカンドの隊商宿=キャラバンサライ)
サマルカンド( Samarkand) ~シャヒリサーブ (Shahirsabz) ~グザール (Guzar) ~カルシ (Qarshi) ~テルミズ (Termiz)
サマルカンドからシャヒリサーブ経由で移動して、当初グザールでの投宿を考えた。しかしグザールには1 軒しかホテルがなかった。 3 星で空いている部屋はジュニア・スイートルームのように広い部屋しか無いと言う。
部屋の料金は700,000Soms (約9 千円弱)とウズベキスタンでは高い。
グザールで通りを歩いている人に聞いてもホテルは無いと言う。ある人は泊めてくれる民家(民泊)があるので、そこへ案内すると言い当方をそこまで連れて行ってくれるのだが、その民家の主は外国人をとめるには抵抗があるようだ。結局断られてしまった。
グザールはそれでも人口が約3 万人弱の都市であるが、ホテルが一軒しか無いとは意外だった。
30万人都市の州都のカルシ(Qarshi )にホテルがたくさんあるとアドバイスされて、当方はグザールから進行方向とは反対方向の北にあるカルシへと進路を変えて夕方の時刻を急いだ。真っ暗になったら悪路の路面が見えづらくなる。
カルシで驚いたことは、外国人とウズベキスタン人とのホテル料金が異なることだ。3 軒ホテルを尋ねたが、外国人料金が2 ~3 割程度高くなっている。外国人の宿泊税が高いとの説明を受けたが.......
この日チェックイン出来たのは午後の9 時過ぎだった。投宿はGrand Star Hotel 一泊300,000Soms (約4,000 円弱)。
カルシ(Qarshi )~テルミズ(Termiz) の距離は約300km 程度だ。草木が生えない丘陵地帯や壁のような山が景色を楽ませてくれた。
ロシア~カザフスタン~ウズベキスタンのサマルカンドまではほぼ平原が主だったが、やっと山がある風景になってきた。
(ウズベキスタンを南下すると丘陵地や山が多くなり、道路を走行しても景色を楽しめるようになる。ちょっとした山岳道路風景)
(サマルカンドから50km南の峠の茶屋から更に南のシャフリサーブズ方面を眺める)
(ティムール帝の生まれ故郷シャフリサーブスに残るアクサライ宮殿のアーチ。高さ40m位あろうと思う。写真に小さく写る人と比べてほしい。)
(シャブリサーブズのティームール帝=Amir Tumerの銅像。東の方向を向いていた。シャブリサーブズでは外国人と思われる旅行者はほとんど見かけなかった。この公園では数名の男女の大学生グループに一緒に写真入ってほしいと言われ、片言の英語で恥ずかしそうに話しかけられた。)
(カルシ=Qarshi市内で投宿したGrand Star Hotel。しっかりしたホテルだったので、I Overlander1の情報アプリに同ホテルのことを投稿したら、ホテルオーナーは喜んでくれた。)
テルミズ( Termiz )
テルミズはウズベキスタン最南端のスルハンダリヤ州の州都であり、中央アジアの大河であるアムダリヤ川を挟んでアフガニスタンと国境を接する。
当方の経験では国境を接する町は、どちらかというと荒んでいたり、町が汚くなっていることが多い。 しかしながらテルミズは新しくてきれいな都市だった。 人口20 万人の地方都市とは思えないほど、道路が整備され、真新しい住宅街が連なる街だった。
1980 年に旧ソ連が当時社会主義のアフガニスタンへ軍事介入した際にソ連軍はテルミズに前線基地を置いたと言う歴史的な町であり、当方は興味を持った。また、テルミズから川向こうのアフガニスタンが眺められればいいなとの期待もあった。
テルミズは観光の街では無いが、イスラム教の一派のスーフィー教の高僧であったアルハヒム・アルテルミズ(Al Hakim Al Termizi )の霊廟(Al Hakim Al Termizi Mausoleum )がある。同高僧は各分野の学問に優れ120 歳まで生き、40 冊以上の本を編纂したと言われている。
この霊廟が聖地となっていて、同地を訪れる人が絶えないという。
テルミズの宿泊はGuesthouse Firdavs (一泊130,000soms=約1,400円)
(カルシからテルミズへ向かう幹線道路沿いの丘陵地に広がる集落)
(カルシからテルミズへ向かう途中の景色。徐々に山や丘陵地がありワイルドになってきた。短時間だが雨も降る。)
(カルシからテルミズ途中の壁のような山)
(テルミズ市内の統一した真新しい住宅。投宿したホステルのオーナーに誰が住むのかと尋ねたら、低所得者用の住宅と教えてくれた。こんな大きな住宅に低所得者がローン補助を受けて住むとは驚きだった。)
(聖地となっているアルハキム・アルテルミズ廟=Al Hakim Al Termizi Mausoleum)
(テルミズで投宿したGuesthouse FirdavasとオーナーFirdavs氏。モスクワで料理人やセールスの仕事やアフガニスタン難民を助ける病院で働いた経験もあると言った。まだ33歳の若者だが、しっかりしていた。
四人部屋を当方一人で使わせてくれた。チェックインした当日はバスルームの増設工事中だったが、当方がアフガニスタンへ行っている間にバスルームは完成していた。)
アフガニスタンのビザとロードパス(車両の通行許可証)を申請
テルミズに来る途中にアフガニスタンについてカザフで知り合いになったチェコ人ライダーやフランス人ライダーから簡単に入国できると聞いていた。
また、テルミズ到着直前に出会ったモンゴル人ライダーがテルミズからアフガニスタンへショートトリップするつもりだと言っていた。アフガニスタンを見てみたいと心が動いた。そして、同ライダーからテルミズにあるアフガニスタン領事館で同国ビザの取得方法について教えてもらった。
それでもアフガニスタンへ行くかどうかには迷いがあった。 日本の外務省の安全情報ではアフガニスタンは最も危険な国に指定されている。仏教遺跡があるバーミヤンではスペイン人観光客が昨年殺害されたとの報道もあった。 誘拐や要人暗殺のテロは依然あると言う。
最終的にはアフガニスタン領事館で現地の状況を聞いた上で、アフガニスタン・ビザを申し込むかどうか決めようと領事館へ行くことにした。
英語が堪能なアフガニスタン領事館(Cosulate General of Afghanistan) のビザ担当職員は<外国の報道機関が言うほど治安状況は悪くない。外国人でも自由にアフガニスタン国内を移動して旅が出来る>という。
当方はアフガニスタンの地理について全く知識が無い。名前を知っているのは首都のカブールとカンダハール程度だ。 道路状況の予備知識も無い。
領事官職員へ<道路は舗装道路か?>等尋ねると同職員から<テルミズから約100km 離れたアフガニスタン北部の主要都市であるマザーリ・シャリフ(Mazari Sharif )までは舗装道路があると言う。 首都カブールまでは途中にヒンデュークシ山脈があり、高さ3000m 級の峠越があるので少し厳しい道路になっている>のとのアドバイスを得た。
当方はマザーリ・シャリフまでは簡単に行けそうだと考え、早速ビザの申請をした。午前12 までに申請すれば同日16:00 にはビザとロードパス(車両の通行許可証)が発給される。
(住宅街に引っ越した新しいアフガニスタン総領事館の建物)
アフガニスタン・ビザの申請方法は以下の通り。
①
領事館前にある書類作成代行屋でビザとロードパス(車両の通行許可証)の申請書を作成してもらう。
料金は2 つの書類で10 米ドル(130,000Soms)
②
領事館へ申請書とパスポート及びオートバイの登録証を提出。
③
領事館職員が申請書内容をチェック後、問題なければ、領事館側はビザ料金の銀行振込用紙を作成する。
その際、申請者は旅行理由書を手書きで作成して、領事館へ提出する。
(旅行理由書の内容については領事館員が教えてくれるので、その通りに英文レターを作成する。)
④
銀行振込用紙を持って,Milly Bank( 現地ではNBUとも呼ばれる)にて料金(ビザ代金130 米ドルとロードパス30 米ドル)を支払う。銀行手数料が7,000Som( 約100 円)。領事館と最寄りのMilly Bankとは約6km 離れている。
⑤
銀行作成の支払い済み証を領事館へ持ち込む。(16 時まで持ち込めば、当日分として受け付ける。)
⑥
同日16:00 以降にビザとロードパスが発給される。
尚、領事部は最近引っ越したので、グーグルマップやOrganic Maps では旧住所を示していることに注意。
というわけでアフガニスタンビザを取得して、宿に戻るとマザーリ・シャリフまでの1 泊2 日か2 泊3 日のショートツーリングの準備を始めた。 持ち物はトップケース入るだけの2~3日分の着替え、洗面道具、日常に使用するスマホ充電器とパンク修理キット、水2L入ったペットボトル等に限定した。
アフガニスタン入国~マザリ・シャリフ( Mazari Sharif )までショートツーリング
ウズベキスタンとアフガニスタンの国境はテルミズ市内から15km 程度しか離れていない。
この国境を通過する一般の旅行客はきわめて少ない。殆どは、貨物トラックだ。
ウズベキスタン出国手続きは 10 分程度で終了 。
旅行者が殆どいないのでどこで出国手続きをするか判りずらいが、進行方向右側に立派な低層のビルがある。
このビルの中に税関とイミグレーションがあるので、パスポートとオートバイの登録証を提出して手続きを行う。
簡単な荷物検査があるのみで短時間で済む。
その後、国境となっている長さ200m ほどの鉄橋をわたる。鉄橋の入口で物々しい警戒の国境警察が再度パスポートをチェックする。
アフガニスタン入国は簡単
鉄橋を渡りアフガニスタン領に入ると少し大きな戸建て住居のような建物がある。この建物でイミグレーションとバイクの登録を行う。実際にはパスポート、バイクの登録証とビザと一緒に取得したロードパスを提示する。
係官がPC に書類内容をインプット後、ノートに手書きして終了する。手続きする人が5 名程度だったので、30 分程度で手続きは終了した。
税関では荷物を少し見る程度の検査しかしなかった。
その後、オートバイに乗り、先へ進むと2 回ほどパスポートの提示を要求される簡単な検問がある。思ったより簡単な入国だった。 出入国管理事務所の敷地を出ると、両替の業者が札束の現金を手に持ち、旅客に声をかけてくる。
当方は国境では両替せずに、マザーリ・シャリフ市内のAIB (Afghanistan International Bank )にでクレジットカードを使って現地通貨の引き出しを行った。
当方が利用しているeSIMの業者(Instabridge)ではアフガニスタンのeSIM は3GB 程度で1 万円と高価のため、eSIMの購入は諦めた。市内の携帯ショップSalaam にてSIM カードを買った(1 カ月有効の2GB で300AFN =650 円程度)。
領事館でアドバイスを受けたレジストレーション(外国人登録)については情報文化省(Ministry of Information and Culture) で行うため、情報文化省へ向かった。この日は木曜日だったので、役所の業務は、数名のスタッフを残して既に終了していた。(木曜日は午後1 時で終了、金曜日は休み)
当方は当初レジストレーション(外人登録)の意味を理解していなかった。
外人登録を行う事で、情報文化省は外国人に対して国内旅行許可証を発行する。情報文化省の説明で、アフガンスタンの旅行はビザだけでは十分ではないことを初めて知った。(パキスタンの西部バルチスタンでも同じような手続きがある)
マザーリ・シャリフ市内だけなら旅行許可書が無くても問題無しとのことで、この先どうしようかと考えてながら宿探しと街の状況を観察見た。
外国人旅行者はいない。アフガニスタンに無いオートバイとライディングジャケット姿の当方は目立つ。オートバイを停止すると、多くアフガニスタン人が珍しもの見たさで寄ってくる。 特に子供や少年たちは好奇心旺盛だ。知っている英語、 Hello, What is you name とはやし立てる。
アフガニスタンの男は長い服の民族衣装を着け、頭に布を巻きつけている。
ニュース等でよく見る姿だ。現地人でジーパンやT シャツ姿の人はいない。 多分タリバンのイスラム教重視のためだろう。
市内中心部の通りには屋台(Street Shop )が多数並んでいた。 果物を売る屋台、食べ物を売る屋台、靴屋、衣服を売る屋台等豊富だ。人々の熱気と喧噪の中、本日の宿探しで中心部を歩いた。
子供たちが当方の後についてくる。うっとうしく感じる。
パキスタンの地方都市でも似たような感じだったが、アフガニスタンほどではない。
アフガニスタンの人々は新しいものや情報に飢えているのであろう。
多くのアフガニスタン人は当方が日本から来たと知ると、友好的は態度を示す。ある人はトヨタの車は40 年経過しても故障しないと高く評価していた。それに反して中国製品は....と厳しい評価を下していた。
当方が投宿したホテルには壁掛けテレビがあったが、SONY の文字が書かれたシールが張ってあった。ソニー製で無いことは一目瞭然だが、SONY のブランドに対する憧れがあるのだろう。
マザーリ・シャリフの中心部にはブルーモスクと呼ばれる美しい青色のモスクがある。外国人は許可証が無ければ、モスクがある公園内へ立ち入りできない。 先に訪れた情報文化省が、特別の計らいで見学させてくれた。
ブルーモスクは祈りの中心地とあって、非イスラム教徒の当方を見る目は奇異と異端の人を見る冷たい目線だった。
日本の幕末当時、外国人を嫌い攘夷と叫ぶ人々もこのような目付きをしていたんだろうと思った。
居心地悪さを感じたので、モスク内部には立ち入らず、早々とブルーモスクがある公園を出た。
多くの女性が街を歩いていた。以外にも顔は隠さず、全身を覆う長い黒い服を着用して髪の毛をスカーフで覆うだけだ。グループ闊歩したり、買い物をしたり、意外と自由がある。 しかし働いている女性は見かけない。
宿泊は敷地内駐車場に鍵がかかる門があるホテルにした。
現地人向けの宿は複数あるが、中心部の入り組んだ小路に位置して駐車場が無い。 また、おせいじにも清潔とは言えない簡易宿泊所のような物だ。
当方はオートバイを一晩路上に駐輪するのは避けたかった。
当方がオートバイから目を離したすきに当方のオートバイの各種スイッチをいじくりまわしたり、跨ってギアをいれる輩がいるからだ。
意外にも当方が投宿したホテルはBooking.Com に掲載されていた。 外国人が利用するのだろう。
投宿ホテルはRahat Hotel ( 一泊1500AFN 約3,300 円)
マザーリ・シャリフの様子を見て、3 年前にツーリングしたパキスタンや喧噪という点ではムンバイやデリーのようなインドの大都市に似ていると思い、翌日にはマザーリ・シャリフからテルミズへ帰ることにした。
帰路においてはアフガニスタン出国手続きは入国時と同様に簡単で短時間で済んだが、ウズベキスタン入国手続きは他の個人旅行者がいないにも関わらず一時間以上かかった。
税関では特にドローンと薬物(ドラッグ)の持ち込みを警戒して、徹底的な荷物検査を行った。
(貨物トラックも多く通行する道路の真ん中の黒いものは座って物乞いをする女性。マザーリ・シャリフの街では通りで物乞いをする子供や女性をよく見かけた。)
(ウズベキスタンから国境を越えてアフガニスタン領に入り、マザリ・シャリフへ向かう幹線道路。周囲は砂漠だった。風で道路横には高さ3mほどの砂山ができる。)
(アフガニスタン領をマザリ・シャリフへ向かう幹線道路風景)
(幹線道路沿いのポツンと一軒家。乾燥地帯のため、干し煉瓦のような材料で作った建物だ)
(マザリ・シャリフ市内のブルーモスク。ブルーモスクがある公園敷地には外国人は許可証が無いと立ち入ることができない。)
(ブルーモスクを眺めていたら、アフガニスタン人が寄ってきたので、一緒にカメラに入ってもらった。)
(マザリ・シャリフ市内中心部の一角。果物を売る屋台が多い)
(マザリ・シャリフ市内中心部の商店街小路は日よけの天幕が張られていた。)
(ビルの上階から見た商店街の小路)
(大粒のエジプト豆を使った煮豆とソモッサを売る屋台。当方は煮豆を食べた。コーヒーカップサイズの量で20AFN=約50円)
(サトウキビジュースを売る親子。少年の目が純粋だった。最初のコップ1杯は当方が日本から来たことに敬意を表してごちそうしてくれた。おいしかったので当方は2杯飲んだ。1杯20AFN=約50円)
(中国製オートバイのシートには絨毯を載せている。サイドバッグはカラフルな布製だ。)
(夜にイルミネーションで飾るビルもある。)
(マザリ・シャリフで投宿したRahat Hotel)
(走行ルートの概略地図。赤線がカザフスタン=地図左側からアフガニスタンのマザリ・シャリフ=地図下側までの走行ルート)
(詳細な走行ルート地図。赤の印は投宿した地点を示す。地図上部の赤の印はカザフスタンのトルキスタン市。地図最下部の赤印はアフガニスタンのマザリ・シャリフの位置。ウズベキスタンのシャリフサーブズとカルシは赤い線が切れている地図外に位置する。
以上