インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -2ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

フィンランド・首都ヘルシンキからノルウェー(欧州)最北端ノールカップ 1,680km(2025/7/137/19

 

フィンランド首都ヘルシンキ

フィンランドの首都ヘルシンキは大きな都市ではない。街の中心地は歩いて観光できる大きさでちょうどよい。また街の中心部との商業地でもあまり混んでいないので当方にとっては居心地が良かった。

 

気に入ったのが中央駅近くに位置する図書館だった。

 

図書館と知ってその場所に入ったわけではなかったが、4階建てぐらいの建物の高さにウッドデッキがあり、眺めがよさそうである。

 

軽食や飲み物を摂りながら休憩している人達がいたのが見えたので、そこへ行くことにした。

 

そこが図書館だった。図書館というより広い空間に本棚がおかれて誰でも本を読みながら休憩できる場所だった。

 

テーブルと椅子、さらにソファーや寝そべるクッションもあり、実際に寝そべっている人やパソコンを操作している人もいる。 

 

ゆったりしたスペースで人が多くない。 場所も駅の近くで便利が良い。こんな公共空間が身近にあったら便利で使い勝手があると思った。

(エストニア・タリンからヘルシンキまで国際フェリーでバイクとともに移動する。フェリーから見たヘルシンキの港)

 

(ヘルシンキの図書館。内部は緩い階段で3階の高さまで続く)

 

(ヘルシンキの港の一角には天幕を張ったストリートショップで賑わっていた。)

 

(ストリートショップでは魚介類の料理をふるまっていた。料理の写真と価格が判りやすく表示してあるので

観光客には評判が良い。)

(一口イワシのから揚げ。塩味が利いて旨かった。一皿では量が多すぎた。10ユーロ=約1,700円)

 

(暑い夏の日でも、人々は陽が当たるベンチを選んで座っていた。)

 

(公園にあったおもちゃのような超小型水車発電機には手すりに充電用USBの入力口が取り付けてあった。)

 

 

物価高対策

北欧諸国は物価が高い。それに円安が加わるので、肌感覚で日本の1.5倍~2倍程度の物価だと感じる。

 

物価高の対策として、都市部で宿泊する時は宿泊料金が手頃なホステルを利用する。ホステルが無い地方都市や田舎町ではキャンプ場を利用する。

 

今回のツーリングでは北欧諸国の対応策として鍋やガスバーナー等の調理器具も含め、テント、寝袋等のキャンプ用品を全て持参している。

 

フィンランドでの当方のツーリングルートは以下の通り:

 

首都ヘルシンキ(ホステル泊)~430km~ヴァーサ(Vaasa)=キャンプ場テント泊~540km~ラップランド地方の中心地ロヴァニエミエ(Rovaniemie)(ホステル泊)~400km~カクツヴァリン(Kaktsvarrin)=キャンプ場テント泊~30km~ノルウェー入国~280km~ノルウェー最北端ノールカップ(NordKapp)=今回ツーリングの第二目標地点

 

(エストニア・タリンからフィンランドを経てノルウェー最北端のノールカップまで赤線で示してある。

地図の下の赤丸印の場所がタリン。地図の上の赤丸印がノールカップ。)

 

フィンランドは直線的な道路が多い。

のどかな牧草地もあるが、基本的には町と町を繋ぐ直線的な道路が多いため、オートバイツーリングでは飽きる。森の中や牧草地と皆似たような景色が繰り返される。  

 

ヘルシンキが位置する北緯60度(カムチャッカ半島の付け根あたりの位置)以北でも小麦畑があり、菜の花畑があることには驚いた。 地球温暖化のため作物の北限が以前よりも北に位置しているのだろう。 ヘルシンキでも気温が29℃と歩いていると汗ばむ日があった。

 

 

 

(森の中を通る直線的な道路が多い。)

 

(ヘルシンキ郊外の小麦畑)

 

(菜の花はやっと咲いたばかりだった。)

 

(バス停のベンチでは眠くなるたびに休憩した。)

 

(ラップランドの幹線道路の一区間には飛行機の滑走路になるように道路幅が100mぐらいあった。)

 

白夜対策

ヘルシンキ(北緯60度程度)あたりでも、この時期の日没はあるのか無いのか分からない。23時ごろになっても明るいので、寝るタイミングが遅れてしまう。

 

北極圏(北緯66℃以北)に入ると太陽は沈まず、真夜中でも明るい。 夜中に山々をハイキングしたり、マウンテンバイク(自転車)で荒れ地を駆け回りして朝帰りする人達が当方が投宿していたホステルにもいた。

 

当方がヴァーザ(Vaasa)のキャンプ場でテント泊した時には、キャンプ場が接する海で夜の11時に水上スキーを楽しんでいる人たちがいた。

 

真夜中でも薄明るいので朝なのか、夜なのかも分からず睡眠不足になる。

この時期に北極圏を旅する人は安眠するためにアイマスクは必需品だ。

 

フィンランドの北部地方はラップランドと呼ばれる。このラップランドにはサミー族(Sami)と呼ばれる民族がいる。トナカイの放牧や川での魚の捕獲で暮らしていた人々で、独自の言語や習慣があったと言う。

 

現在でもトナカイは放牧されている。ラップランドの道路を走行中にトナカイに遭遇したが、野生のトナカイでは無かった。耳に鑑札を付けた放牧中のトナカイだった。

(ヴァーサ=Vaasaのキャンプ場でテント泊)

 

(ラップランドのサミー族の写真=Arctic Center)

 

(サミー族の婚礼時の衣装)

 

 

(ラップランドの州都ロヴァニエミエはこのような森の中にあった。)

 

(ロヴァニエミエ郊外のサンタクロース村。宿泊施設とショッピングモール、レストラン等がある。やはりクリスマスシーズンでないと雰囲気が出ない。)

 

(ロヴァニエミエ郊外の北極圏=北緯66度入りのモニュメント)

 

1939年の冬の戦争

フィンランドが欧州での第二次大戦初期に旧ソ連と戦争をしていた事実を当方は知らなかった。 

 

1939年冬に旧ソ連軍がフィンランドに侵攻してきたのだ。 

 

フィンランド軍は地の利を生かして大国を相手に善戦して、数カ月の戦いで旧ソ連と停戦まで持ち込んだ。 フィンランドではその戦争のことを<冬の戦争>と呼んでいる。 その後、旧ソ連の脅威から守るため、フィンランドは旧ナチス・ドイツと同盟を結んだ事実があった。

 

北極圏への入口となるラップランド地方の州都ロヴァニエミエ(Rovaniemie)にはそんな地元の歴史や過去の生活や文化をを伝える北極圏センター(Arctic Center)があった。

 

北極圏のキャンプ場

ロヴァニエミエからノルウェーとの国境を目指してラップランドを更に北へと進んだ。 もともと人口が少ないフィンランドでもラップランドは人口が極端に少ない。

 

民家や人も見かけないので、少し心細くなる。こんなところにキャンプ場があるだろうかとカーナビを頼りに半分疑いながら進んだら、林の中に目指していた小さなキャンプ場(Kaktsvarrim Eramajetキャンプ場)があった。 

 

ノルウェーとの国境まで30km程の山の中のキャンプ場だった。

 

温水シャワーがある洗面所・トイレとキッチンがある個人経営のキャンプ場だった。(入場料は30ユーロ=約5千円) テント泊は当方のみ。数名いたキャンパーたちはキャンピングカーかバンガロー(料金50ユーロ=約9千円)を借りて宿泊していた。

 

テントを張る作業をしている間にも、腕や頭を蚊にさされる。凶暴な蚊だった。フィンランドのスーパーで買い求めた虫よけスプレーの効果はあまり感じなかった。

 

蚊に悩まされた当方はバンガローを借りれば良かったと後悔した。

 

この辺りまで来ると夏場でも木々の育成は遅くなる。道路周辺の森の木々は高さ3m程度と低くて幹も細い。

 

フィンランドから日本の県境を跨ぐようにノルウェーへ入国する。 国境を管理していた時代の建物が無ければ、いつ国境を越えたのか分からない。

 

(ノルウェーとの国境近くまで北上すると森の木々は大きく育たない。)

 

(森の中のカクツヴァリン(Kaktsvarrin)キャンプ場。 キッチンやシャワー室がある建物の裏の日陰にテントを張った。)

(フィンランドとノルウェーの国境。写真左の建物は国境の往来が管理されていた時代の国境管理事務所=現在は使用されていない。)

 

ノルウェー(欧州)最北端のノールカップ(NordKapp)を目指す。

ノルウェーに入国後、しばらく走行すると海に出た。 岩場の海岸線に沿って更に北を目指す。

 

欧州最北端を目指すキャンパーやライダーが多くなる。 景色の良い海辺の空地にはワイルドキャップをしている人達を多く見かける。 この時期バイクツーリングするライダーの多くはキャンプを楽しみながらツーリングをする。

 

ノールカップに至る山や荒れ地には木は生えていない。 地の果ての地という寂寥感がある。 

長さ7kmの海底トンネルを通過してノールカップに至る。そのノールカップを自転車で目指すサイクリストも多い。中には徒歩でノールカップを目指す人もいた。 

 

海底トンネルで一人歩いているアドベンチャー野郎を見かけた時には、<こんな場所を歩いている人がいるのか!>と驚いた。 海底トンネルの道路端には歩行者一人がやっと通行可能な幅の狭い通行帯のような歩道があった。

 

(ノルウェー領内の海。ノールカップ手前)

 

(ノールカップに繋がる最後の道路)

 

(ノールカップ手前の殺伐とした入り江)

 

(ノールカップ=岬は高さ50m~70m位ありそうな断崖絶壁だった。)

 

(ノールカップ=北緯71度のモニュメントには観光バスや乗用車、キャンピングカーで訪れる観光客やバイカー、サイクリスト等で一杯だった。)

 

(ノールカップ付近の崖はこのように断崖になっている。)

 

以上

 

 

 

 

ロシア・ウファ(Russia Ufa)~モスクワ(Moscow)~エストニア入国(Estonia )2,750km(2025/7/37/12

 

ロシアでは以下のルートを走行した。走行したと言うよりエストニアを目指して通過したと言う方が実態だろう。

 

ウファ(Ufa=風邪)~470km~サマーラ(Samara=戦略都市でGPS作動せず)~420km~ペンザ(Penza)~

450km~リャザン(Ryazan)~280km(途中からGPS機能せず)~モスクワ(Moscow)~130km~ボロジノ(Borodino Historical Battlefield)古戦場跡見学(1812年のナポレン軍との戦争)~280km~リゼブ(Rzhev)~530km~ポスコフ(Pskov=エストニアとの国境に近い町)~60km~エストニアとの国境からロシア出国/エストニア入国~280km~エストニア首都タリン(Tallinn

 

厳しかったロシアのオートバイ走行と滞在

 

ロシアでの走行は連日の雨天のためツーリングを楽しむどころでは無かった。 北半球の高緯度地域の夏は雨期なのだ。

 

連日の雨は、森や植物、動物にとっても自然の恵みとなり感謝すべきものなのだが、オートバイライダーにとっては有難くない。

オートバイで数百キロメートル移動中、終日雨にあたることはめったにない。

短くて30分程度から長くて数時間程度の雨天走行だった。 

 

道路脇で行う雨具の装着と脱着は面倒だ。 特に腰をかがめた格好での

ブーツ(バイク専用ライダーシューズ)のレインカバー装着は腰の負担が大きい。 腰痛時にこの作業をやるのは厳しかった。

 

ウファ(Ufa)で風邪のため2泊した。

2泊だけでは十分でなかったが、モスクワにて会社員時代の元同僚たちと会う約束をしていたため、先を急いだ。 

 

風邪が治らず、咳が止まらない。 

3カ月もオートバイツーリングをしていると体力も消耗する。今度は腰痛になってしまった。 3ケ日間位で酷い腰痛は直ったが、無理をすると再発しそうで腰をいたわりながらツーリングを継続した。

 

更に弱り目に祟り目で、結膜炎で目が痛い。目ヤニがたくさん出る。 持参していた結膜炎用の薬用目薬で対応して1週間程度で治ったが、目が腫れぼったく、いかにも病人顔になっていた。

(ウファ=Ufaからサマーラへ向かう途中。モスクワまで約1,400kmの距離がある。)

 

(トラックが多い幹線道路。)

 

(サマーラ=Samaraで当方を追ってきた白バイ警察官の検問を受けるが、そこはライダー同士。すぐに打ち解けあう。

白バイはBMW製)

 

(リャザン=Ryazanの街並みは美しい。4階建てくらいのクラシックな建物で端正な街並みだった。)

 

(元同僚が住むモスクワ郊外のRomashokovoの湖畔。モスクワの不動産価格は高騰していると言う。)

 

(ボロジノ=Boroginoからリゼブ=Rzhevに至る郊外の道路は交通量が少なく気持ちよく走行できた。)

(ロシア北西部ポスコフ=Pskovへ向かう幹線道路は森の中を通る。木の高さは20m以上と高い。)

 

(サマーラ=地図右側からモスクワ(地図中央)を経てエストニアとの国境の町ポスコフ=地図左側へ至るルートはピンク色で示す。色付けしてある都市は宿泊地)

 

宿探しに苦労

 

サマーラ(Samara)はソ連時代には外国人の立ち入りが禁止されていた戦略都市の一つだった。

 

サマーラにはロケットや戦車の工場があったからだ。 サマーラでホテル探しをした際、2軒のホテルで、受付係が当方の顔を見るなり、<満室だ>と言い、門前払いをくらった。

 

受付係の対応も悪かった。面倒には関わりたくない様子で、満室を詫びるより、当方に早く立ち去ってくれという態度を示す。

 

また、サマーラでは当方が市内にはいると警察の2台のオートバイが当方を追跡して来て当方に停止を命じた。 戦略都市に入った当方の姿を監視カメラが捉えて警察が検問に来たのだろう。 停止を命じた警察官は誰かとインターコム(ヘルメット取り付けられている無線電話)で連絡を取り合いながら当方の身元確認を行った。

 

モスクワでホテルを探した際には、ある高級そうなホテルでは受付係の対応がよかった。しかしながら、<外国籍の方の宿泊はお断りしています>と丁重に断られた。 門前払いよりましだったが、当方はこのホテル側の対応には何かがあるとにらんだ。 <外人の宿泊お断り>は政府の指導ではないかと推測した。

 

一夜の宿を確保するのに数軒のホテルやホステルを廻ることになった。 ロシア最後のポスコフ(Pskov)の町では雨の中、6軒のホテルを廻り、7つ目ホテルでチェックインできた。

 

ホステル(ベッドののみの簡易宿)の方は<外人お断り>とは言わなかった。 そのため、ホステルがある都市ではホステルを探した。

(リゼブ=Rzhevの木の教会。ロシア正教にしては珍しいとんがり屋根の教会だ。)

 

(リゼブの町の中心部。リゼブでも4軒目のホテルでチェックイン出来た。)

 

(ポスコフ=Pskovで7軒目のホテルでやっとチェックインできた。 チェックイン出来たホテル・バルトハウス=Hotel Balthouse)

 

カーナビ(GPS)が作動しない。

 

当方はオフライン(データー通信に接続しない)でも作動するオーガニック・マップス(Organic Maps)をカーナビ用のGPSとして使っている。衛星シグナルを受信してカーナビとして作動するが、ロシアの戦略都市では妨害電波のためカーナビが動かなくなる。 ロシアに限らずイランでも経験したことだ。

 

ただし、サマーラでスマホのデーター通信をONにするとカーナビとして作動することを発見した。多分、携帯電話の基地局の電波でGPSシステムが作動するのだろう。

 

ただし、この方法でも、モスクワ市内では通用しなかった。 

 

ロシアの首都を防衛する意味で、より強力な妨害電波が張られているのだろう。 そのためモスクワでのオートバイ走行には手間取った。 カーナビに頼らず、約15年前の会社員時代のモスクワ駐在時の記憶を頼りに中心部からモスクワ郊外へと進んだ。

 

携帯電話の通信制限

 

当方は携帯電話にロシア対応のeSIMを入れていた。 しかし夕方になるとeSIMが使えなくなった。一時的な現象かなと当初思ったが、連日夕方から翌朝までeSIMが機能しなくなった。政府が通信規制を行っていると推測している。

 

いろいろな制約

 

国際的な金融制裁のため、ロシア国外の金融機関で発行されたクレジットカードは機能しない。そのため、ドルの現金を持参して、ロシアの銀行で両替をしていた。

 

一般のロシア人はそんなことは知らない。当方がスーパーで買い物時、日本のクレジットカード(VISA)で支払いを試してみると、カード端末が受け付けない状況にレジ係の人は<おかしいわね、このクレジットカードはダメみたい>と首をかしげるのみだった。

 

インターネットの閲覧にも政府は制限をかけている。 一般のインターネットではフェースブック(FaceBook)は繋がらない。宿の予約に使うBooking.Comもしかりだ。 LineSNS)は繋がった。

 

そのため、当方は事前に有償VPNExpress VPN業者製)をスマホにインストールしてフェースブックや他のインターネット閲覧を確保した。

 

更にBooking.Comの代わりにロシア版のホテル予約サイトアプリのOstrovokをスマホにインストールしていた。

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このルートの約2,800kmの走行で連泊したのはモスクワの2泊のみで、そのほかの都市は1泊のみだけだった。

 

風邪をこじらせたり、腰痛になったりと良いことが殆ど無かったが、幸いしたのは会社員時代のモスクワ駐在時のロシア人の元同僚達に会えた事だった。8年前初めてのシベリア経由の世界一周時にもモスクワに立ち寄り、元同僚達に会っていたが、今回も再会できた。 ロシア人の義理堅さだろう。 

 

ロシア人は寡黙で、とっつきにくいが一度知り合えば、非常に義理堅い。 ウクライナ戦争のため、当方が勤務していた会社はモスクワ事務所を閉鎖していた。そのため、元同僚達は転職を余儀なくされていたが、快く当方を迎えてくれた。

 

元同僚曰く、ロシアの景気は悪くない。 インフレが年率10%なのに、銀行金利は20%と高く、貯金がある人は金利だけでも食べていけると言う。 実質金利(名目金利からインフレを引いた金利)が高いため、銀行預金が利益となっている。実質金利が10%ということでルーブルの為替レートも強い。

 

もっとも実質金利が10%あることは強い金融の引き締めのため、景気が悪化するのが経済のセオリーだ。

 

ウクライナ戦争の影響は?

 

専門家から話を聞いていないので、実態は分からないが、 戦争継続のため政府が巨額な支出をしている。その支出で景気がかなり刺激されているのではと考えている。 

 

道路建設や道路補修等の公共事業も継続されているのが分かる。 ただし、都市部での民間のビル等の建設はあまり見ていないので、民間企業は景気の先行きを慎重に考えているかもしれない。

 

ロシアの人々は普通の生活を送っている様に見える。戦争を行っている国で普通の生活や経済活動が続けられているようだ。ただ労働者の人で不足があるのではと疑っている。当方は多くの若者が徴兵を嫌って近隣国へと生活拠点を変えたと戦争当初の報道で聞いていた。

 

当方が宿泊したホステルには労働者が生活していた。ペンザ(Penza)の大きなホステルは建物の一部が労働者等の長期滞在者専用となっていた。

 

 ウズベキスタンやキルギス等中央アジア諸国からの出稼ぎ労働者の他にも、複数のインド人の労働者がいた。 たぶん人手不足で、中央アジアからの労働者だけでは足りず、インド人にも労働市場を開放しているのではと思う。

 

兵士募集の看板を道路沿いで多く見かけた。兵士が足らないのだろう。 

 

異常に見えたモスクワ・クレムリン周辺の警戒と花の飾り付け

 

モスクワ中心部のクレムリン周囲の橋や至る所が花で飾られていた。高級レストランの入口もだ。

 

晴天の日曜日の昼下がりでもあり、多くの人々がクレムリン周辺を散歩したり、観光している。人々はクレムリン周辺の美しい光景を写真に収めていたが、当方は葬式の際の献花のように見えた。 たぶんウクライナ戦争の戦没兵士を忌っているのだろう。

 

当方は、ロシア人にウクライナ戦争の事は聞かなかった。そんなことを聞くとロシア人に警戒されたり、ロシア内務省関係の人達に密告されると危惧したからだ。 

 

2ヶ月前にロシアのアストラハン(Astrahan)からカザフスタンへと出国した際には、ロシアの出国事務所でロシア内務省の役人とおもわれる人からウクライナ戦争について尋問を受け、当方のスマホの内部も詳しく検閲された。

 

今回ロシアのポスコフ(Pskov)からエストニアへ出国した際には、そのような役人によるウクライナ戦争についての尋問は無かった。

 

(モスクワ中心部のクレムリンから数km離れているがモスクワ川の大きな橋はこのように花で飾られている。)

 

(8年前より高層ビルが多くなっていたモスクワ市内ニューアルバート通り周辺。通りにはゴミが一つも落ちていないほどよく清掃されていた。)

 

フランス・ナポレオン軍とのボロジノ古戦場跡の見学(Borogino Historical Battlefield

 

ロシアでは第二次世界大戦のの他に1812年フランス皇帝ナポレオンが率いるフランス軍がロシアへ侵攻際の戦争を祖国防衛戦争として歴史上大きく扱っている。

 

モスクワの西方約130kmのボロジノ(Borogino)の平原で繰り広げられたフランス軍とロシア軍の戦いが一番知られている。

 

そのボロジノの戦いではロシア軍は戦場から退却して、フランス軍が勝利したように見えた。

フランス軍はモスクワまで侵攻したが、モスクワは住民が避難して空っぽだった。

 

その時、10月になっていたため、ナポレオンは厳しい冬の到来を嫌って、ロシアから撤退することを決めた。

しかしながら、フランス軍が帰路についた時には冬が始まっていた。厳冬で無事に帰国できたフランス軍兵士は少なかったと言う。 ナポレオン軍はロシアの冬に敗れたとされている。 

 

19世紀のロシアの著名な作家トルストイ作の<戦争と平和>ではボロジノの戦いは詳しく描かれている。

 

(ナポレオン軍との戦争時ロシア軍の総司令官クソーゾフ=座っている男はロシアでは知らない人はいないほどの英雄だ。)

 

(ボロジノの博物館にある戦いの様子のパノラマ絵)

(ロシアから撤退するナポレオン軍)

 

(ボロジノの古戦場跡は広い草原)

 

ロシア出国とエストニア入国

 

ポスコフ(Pskov)から最寄りのエストニアとの国境は小さな国境事務所で、通過旅客は数名程度だった。

 

イミグレーション兼税関担当の国境役人からオートバイ持ち込み時の輸入申告書(一時輸入許可書)を提出してほしいと要求された。 当方は約10日ほど前にカザフスタンからロシアへ入国した際に有効期限の延長手続きをしたキルギスの一時輸入許可書を提出した。 その書類は後で返却されたが、オートバイのロシア出国に問題なしということだ。

 

無駄骨になるかもしれないと思ったが、約10日前にトロイトスク(Troitsk)の税関本部でキルギス入国時に作成した一時輸入許可書の延長手続きをやっておいて良かったと思った。

 

出国手続きに約1時間。

 

エストニア入国審査は厳しかった。

 

イミグレーション係は当方のパスポートの出入国記録を2030分くらいかけてすべてチェックした。アフリカや中南米諸国の出入国記録もだ。 旅行保険についても提示を求めてきた。(旅行保険の加入証明を要求されたのは初めてだった)。

 

当方のパスポート上にビザや出入国の押印数が多いため、パスポートを切り替えたほうがいいとアドバイスしてきた。

 

更に当方のオートバイの登録証書(Registration Certificate)と国際運転免許証および日本の運転免許証についても専門の担当官が30分以上にわたり本部の建物でチェックした。EUでのオートバイの保険(通称グリーン・カード)の提示。

 

エストニア入国審査で1時間以上かかった。

 

入国審査が終了ししたのは午後4時前だった。ここから首都タリンまで約280kmあるが、この時期の日没は午後の10時ごろと遅い。

 

タリンの宿はブッキング・コムで予約してあるので宿探ししなくて済む。 いつもより余裕があった。

 

エストニアの首都タリン(Tallinn)で3

 

8年前にタリンを初めて訪れていた。そのため今回は観光等は一切なしでスカンジナビア半島の最北端ノードカップ(Nord Cupp)へのツーリング準備や、なかなか出来なかったブログ更新等の事務作業を行った。また風邪の咳が一向におさまらないので、タリンの総合病院で医師の診断を受けた。

 

病院では医師が聴診器を当方の胸や背中にあて健康状態をチェックの上、血液や鼻の粘膜の検査及び胸部のレントゲン撮影も行った。 風邪の一般的な症状だが、治りかけているので薬より自然治癒を待った方が良いとアドバイスされた。 薬の処方箋の作成もなく診断料金は125ユーロ(2万円弱)。

 

タリン港からフィンランドのヘルシンキ港へフェリーでヘルシンキ湾を渡る計画だった。 そのフェリーのチケットの購入もせねばならない。やることはたくさんあった。

 

1年ぐらいまでロシアのサンクトベルグからヘルシンキまで陸路国境を通過して行くころができたが、ウクライナ戦争のため、このロシアとフィンランド間の陸路国境は閉鎖されていた。

 

(エストニア入国後タリンへ向かう道路。ドライバーは制限速度を守り、前後の車と十分な車間距離を取る。)

 

(タリンの港地区は新しい街)

 

(タリン市内のオートバイ店Street Motoではメカニックが足らなくて一週間前に予約しないとエンジンオイル交換はできないと言われ、工具とスペースを借りて、自分でエンジンオイルの交換を行った。 エンジンオイルは必要量の2.2リットルのみ量り売りしてくれた。廃油も処分料も含め費用はエンジンオイル代のみの27.5ユーロ=約4000円。)

 

(タリン市内の総合病院。East Central HospitalのEmergency Department(応急処置)で診てもらった。)

 

(タリンで理髪店長くなった髪の毛を刈り上げた。料金は15ユーロ=約2千強)

 

以上

 

 

 

KazakhstanAlmatyRussiaUfaまで2,750km (2025/6/257/1

 

カザフスタンへ再入国後は初回のカザフスタンと同様にカザフ・ステップ(カザフの草原)を走行する長くて単調なツーリングだった。

 

ツーリングルートは以下の通り:

 

Almaty(元首都)~390kmSiganag(国道沿いのシャワー無し宿で宿泊)~280kmBalkash(道路が未整備の寂しい町)~600km途中から寒くなるAstana(首都)~410kmEsil(寂しい町)~410km途中のKostanaiの町でカザフのライダー達とランチKarabelik(国境近くの集落)~45km~国境・ロシア入国~20kmTroitsk(一時輸入許可証延長)~140kmChliyabinsk430kmUfa


 

1997年にカザフスタンはアルマティー(Almathy)からアスタナ(Astana)へと遷都を行った。

 

遷都の理由はアルマティーはカザフスタンの中心から離れすぎてロシア系住人が多く住むカザフスタン北部が分離独立する懸念があったためとも、アルマティーは地震多発地帯に立地するため、地震で首都の機能が失われるリスクがあったとも等言われている。 

 

アルマティーを日本に例えると首都が北海道にあったような感じだ。

 

しかし、新首都のアスタナがカザフスタンの中央といえどもカザフスタンを東西に横断する高速道路がないため、カザフスタンの地方の人々にとっては首都アスタナへの道のりは遠いことには変わりない。

 

アルマティーからアスタナまで約1300kmの距離、更にアスタナからロシアの国境まで約850kmと単調な景色の中を走行する。 アスタナ以外途中で宿泊した町はほどんど記憶に残らない。

 

それでもあえて言うと、途中に一夜を過ごした町バルカシュ(Balkash)やエシル(Esil)には、アルマティーやアスタナのような立派な舗装道路や建物が少なく、ソ連時代の集合住宅のベランダが朽かけ、寂しい町だった。 大都会と地方の町の格差が非常に大きいと思った。

 

エシル(Esil)では幹線道路から町に通じる道路でさえ、未舗装で雨の後は道路のいたるところに水たまりができ、走行するにも骨が折れる。

(カザフスタンの道路看板。首都アスタナ(Astana)まで964kmある。)

 

 

 

(アルマティー=地図右下で手書きの赤丸印のところからロシアのウファ=地図左上の青色矢印マークまでの走行ルート。

手書きの赤色矢印の順に走行した。走行ルートの距離感が判りずらいが日本の北海道から鹿児島まで以上の距離がある。)

 

(シガナグ=Siganag近くの国道脇の食堂と宿泊施設。シャワーは無く、トイレも駐車場の外れにあった汲み取り式共同トイレ。トイレにはドアは無い。)

 

(首都アスタナの高さ105mバイテック・タワー。球状の展望台は人気があり、入場者は長蛇の列で待たなくてはならない。)

 

(超モダンな建物が多い首都アスタナ)

 

(地方都市バルカッシュ=Balkashの住宅街道路は未舗装のままだった。)

 

(地方都市バルカッシュの中心部のスーパーマーケット)

 

(地方都市エシル=Esilはロシア系のカザフスタン人が多いような感じの町だった。この時期は雨・曇りが多いため、人通りも少なく寂しそうに見えた。)

 

(アスタナの国立博物館所蔵の目玉展示品。ゴールドマン=Goldman。BC4世紀から3世紀ごろの17歳~18歳ぐらいの王子のものと思われる金の衣装)

(13世紀のチンギスハン=モンゴル軍襲撃時の絵。アスタナの国立博物館)

 

(1700年にオランダで出版された世界地図。 アスタナの国立博物館)

(1795年パリで出版されたアジア地図。日本の北海道はまだ知られていなかったようだ。)
 

(バルガシュ~アスタナへ向かう途中の草原の岩山。オーストラリア中央部のエアーズロックに似ていた。)

 

(バルガッシュ~アスタナ途中の地下資源の開発現場)

 

(アスタナが近づくと雨が多いせいか広大な小麦畑が広がっていた。気温も低くなり寒くなってきた。)

 

(カザフスタン北部には広大な農地がある。 長さ4km以上あった菜の花畑。当方がこれまで見た中で最大級の広さだった。)

 

                                                                                                                                    (カザフスタン北部の広大な農地=小麦畑の周辺には巨大な穀物倉庫が複数あった。ビルのような形の穀物倉庫は高さが10階以上のビルの以上と巨大だった。)

 

 車両保険はカザフスタン入国時の国境で買うべきだった。

 

国境から近い最初のカザフスタンの町だったKegenで保険を買う予定だった。

しかしながら、カザフスタン入りした日はカザフスタンの祭日だった。 そのため、保険を扱う業者が休みだった。仕方がないので、 当方はアルマティーで買えば良いだろうと安易に考えた。

 

アルマティーには保険会社はあるが、バイク保険を扱っていなかったり、そもそも保険会社の場所をしらべてもその場所にはなかったりと、なかなか業者まで行きつかない。

 

最終的に保険が買えたのは、アルマティー市内の大学の総務部だった。 たぶん学生とか職員のために、保険加入の事務手続きを行っているのだろう。当方は大学関係者の善意でオートバイの保険加入の手続きを行ってもらった。

 

(オートバイの保険を購入したアルマティー市内のカスピアン大学)

 

草原の怪奇現象

 

当方が、アルマティーからシガナグ(Siganag)へ向かっている途中、数キロメートル前方の道路付近で雲が地面から湧き上がっているように見え、分厚い雲に覆われている。

 

どのタイミング雨具を着込むべきか考えながら、反対側から向かってくる(対向車)のウインドシールに雨粒がついているかどうかチェックしながら、その先へ向かった。 反対側から向かってくる車は雨で濡れていないが,

目前に暗雲が迫っている。

 

道路わきに少し停車して、目前の状況をよく見ると、地面から雲が湧き出るように見えた現象は、激しい砂嵐だった。

 

その砂嵐が移動しながら当方へ迫ってきて、周辺が地上から舞い上がった砂でよく見えない。風も強烈で30分ぐらい続いたが、その間当方はスピードを落として走行し続けた。

 

停止すると、強風でオートバイと一緒に倒されると思ったからだ。 強風でオートバイは5m(一車線分)位は右へ、左へと揺れ動いた。怖かった。

(地上から雲が沸き上がっているように見えた砂嵐)

 

超フレンドリーなカザフのオートバイライダー達

 

このルートを走行中に2回オートバイライダー達と遭遇した。

一人はアスタナへ向かう途中、当方を抜き去ったホンダ製のチョーパー型大型バイクのライダーだった。

 

そのライダーは前方の休憩所て当方に手を振りながら<止まってくれ>の合図をする。 

当方は、高速で走行しているので、直ぐに停止できず、Uターンしてそのカザフライダーのもとへ行き停止した。

 

英語を交えて話すが、そんなに多くのコミュニケーションは取れない。写真を一緒取り合った後、一緒に高速道路を先へと進む。 しばらく走行後、アスタナ手前休憩所で別れたが、その際、当方へ<受け取ってほしい>とカザフスタンのチェコレート3つと清涼ドリンクを当方に差し出して来た。

 

当方はそこまでしなくてもいいのにと半分思いながらも、有難く受け取った。

 

2回目はアスタナからロシア国境手前のカラバリック(Karablik)を目指していた路上だった。

暗雲が前方に迫ってきたので、当方が雨具を着込んでいる時、ホンダ製アフリカツイン(大型アドベンチャーバイク)に跨るロシア系カザフ人が当方へのところで停止した。

 

そのライダーの兄弟がシムケントで日本人のオートバイライダーを見かけたと言って当方に挨拶してきた。

当方は、当方をシムケントで見かけたと思い、1カ月前のシムケントでの出来事を思い起こしたが、記憶にない。

 

雨の中を二人で一緒に走り出した。 ライダー同士は一緒に走行することで、連帯感が生まれる。

ガソリンスタンドで給油をした際、そのカザフ人ライダーは当方のガソリン代を支払うではないか。

 

その後、途中のコスタナイ(Kostanai)の町で、同氏の友人ライダーも加わり、一緒にランチを取ろうと誘われる。当方は通常ランチを食べないが、カザフの事情を聞くには良い機会だと思いしゃれたレストランへ同行した。

 

今度は新たに加わったライダーが<ランチはごちそうする>と言って、当方に払わせない。更に、<自分のガレージでチェーンの洗浄や他のメインテナンスができるので、ぜひガレージに来い>と言う。 

 

当方はその申し出に甘えて、同氏のガレージでチェーンの洗浄をしてもらった。

 

カザフスタンのオートバイライダーは一期一会を大事にする人達だと思い知った。

 

ライダーでなくてもカザフスタン人は優しく、親切だったが。

 

エシル(Esil)というアスタナの次に宿泊した小さな町で当方はホテルを探していた。 Booking.Comも小さな町の宿泊施設はカバーしていない。 Google Mapで目をつけていたホテルへ行ったが、宿泊客は受けていないと言う。 そこにいた中年のカザフ人が、<俺がホテルへ連れて行ってあげる>と言い、自分の車について来いという。

 

そこで到着したホテルで、交渉までしてくれる。

(アスタナへ向かう途中で会ったカザフ人のライダー)
 

(前方では雨が降り出している。 カザフスタン北部では雨のおかげで広大な農地が広がる。常時動いている雨雲は

広大な農地の灌漑システムの役割を果たしている。)

 

 

(コスタナイでランチ後に集まってきた人たちも交じって写真を撮る。ガソリン代をおごってくれたアフリカツインのライダーとアナトリー=Anatoliy(当方左側)とランチをご馳走してくれたザニック=Zhanik氏(当方右側)

 

(当方のオートバイのチェーンを洗浄してくれたザニック=Zhanik氏。トヨタ自動車のコスタナイ工場で勤務した経験がある。同氏はカザフスタンの重量挙げの元チャンピオンで重量挙げ550㎏の記録を持つ。 当方のオートバイを荷物を載せたまま=約250㎏を上り坂道でも容易に扱っていた。)

 

議論好きなあるカザフ人学者

 

アスタナのホステルに英語を話す議論好きな中年のカザフ人がいた。

カザフ国会の委員会で微生物学の専門家として農地を如何に肥沃させるべきかの検討会に招かれていると自己紹介をした。

 

その同氏が、当方が日本人と知ると<何故日本人は大家族制度を捨てたのか>と議論も持ち込んできた。

確かに第二次大戦前の日本の農村では兄弟姉妹が多く2世代、3世代が同居する大家族が普通だった。

 

当方がその当時の時代背景(高い幼児死亡率、子供が労働力になる等)がそのような大家族制度を支えた要因であり、合理性があったと説明しても聞く耳を持たない。同学者は一方的に誤った認識に基づき持論を展開するのみだった。 当方はあきれて、聞く耳を持たない人と議論をしても意味がないと同氏の相手をするのを止めた。

 

すると同氏は今度は同じイスラム教徒であるモロッコ人に民主主義について議論を持ち込んだ。同氏の認識は<民主主義はろくなものではない。 選挙の際にお金で票を買っているだけだ。 独裁の方がスピーディーに物事を決められて優れている。>と独裁政治を評価するのではないか。 

 

結局二人の議論は平行線のままで終始して、最後にはモロッコ人が怒って席を立って終った。

 

カラバリック(Karabalik)~ロシア国境通過してロシア入り~トロイトスク(Troitsk)~チェリアビンスク(Cheliyabinsk)~ウファ(Ufa

 

国境越えには事前の準備が必要だ。

新たに入る国で車両保険は買えるか? 国境で両替は出来るか?等。

 

カラバリック(Karabalik)はカザフスタン最後の町というより集落だった。 国境越えする人たちやロシアから入国した人たちが立ち寄るところだ。

 

道路沿いに保険業者、両替商、食堂、小型スーパーマーケットや宿泊施設がある複合施設があった。カラバリック・キャンピングだ。 当方はこの複合施設にある保険業者でロシアの車両保険を購入した。更に使い切れなかったカザフスタン通貨をロシア通貨へ両替して、この複合施設のホテルに宿泊した。

 

カラバリックからロシアとの国境まで45kmしかないので、1時間もかからない。

(カラバリック=Karabalikの複合施設カラバリック・キャンピング)

 

国境通過手続き

 

カザフスタンの国境通過手続きは30分と比較的短かった。

 

それでも、イミグレーション係官は当方の100ページあるパスポートを1ページづつめくって15分から20分かけて当方が過去に出入国した国々を入念に調べた。 こんなに入念に調べる係官は初めてだった。

 

ロシア入国も1時間程度で済んだが、ロシアの税関では一時輸入許可証についてはなんの言及もなかった。

当方は、そのまま立ち去ることも出来たが、ロシアを出国する際に書類不備で問題にならないように、イミグレーション係官と税関職員に当方オートバイのロシアの一時輸入許可書の作成有無について尋ねた。

 

複数の外国人ライダーがロシア出国時にロシアの一時輸入許可書が無くて出国に時間を要したり、税関職員に<ロシアに入国した際の国境まで戻って一時輸入許可書を作成して来い>と言われたことを聞いていた。

 

このロシア国境の現場では一時輸入許可書に関する手続きは一切知らないとのことだった。 国境税関が属するトロイトツク(Troitsk)の税関本部で相談してほしいと言われたので当方はそれに従った。

 

トロイトツクは国境から20km入った小さな町だった。町外れの税関本部でも一時輸入許可書のことは関知しないようだった。 数名の税関職員と議論をして次のことが分かった。

 

1.

この国境のロシア税関はカザフスタン、キルギスタン等中央アジア諸国から来た人々が通過するため、この国境では外国車両の一時輸入許可書を作成しない。

 

2.

ロシア入国前のカザフスタンやキルギスタン等で既に一時輸入許可書が作成され、それらの書類がロシアでも有効だと言う。 

 

当方はキルギスタンー>カザフスタンー>ロシアの順に国境を通過してきた。そして、キルギスへ入国した際の1カ月有効の一時輸入許可書を持っていた。 この三ヶ国は関税同盟を結んでいるので、ロシアでは一時輸入許可書を作成する必要がないというのだ。 

 

3.

ロシア出国時にキルギスの一時輸入許可書を税関で見せればよいと言う。

ただし、キルギスで作成した書類の失効期限が迫っているので延長手続きを取る必要があると言う。

 

その手続きに3時間かかる。

 

ロシアは法律や規則が多い国だ。法律や規則を実務的に執行する際には、建前と実務に矛盾があってはならないので、解釈が難しい手続きには時間がかかることを当方は会社員時代のモスクワ駐在時に経験していた。

 

当方の相談が稀なケースだったから、税関本部と言えども結論を出すのに時間がかかったのだろうと理解した。

  

(キルギス入国時に税関で作成したオートバイの一時輸入許可書。ー朱色の押印部分がトロイトツク=Troitsk税関本部で期限を延長した箇所)

 

急激の気候の変化で風邪を引き体調を崩す。

 

既にアスタナから涼しいと感じていた。雨が多くなって、連日雨が降る。 カザフスタン北部は緑あふれる広大な農地が控えている。

 

ロシアに入ると雨の量が多くなった。連日の雨で、気温も10℃台と寒い。この変化に体がついていけず、ウファ(Ufa)で風邪の症状がでた。 静養が必要だ。

(ロシアの農地や平原には森や林が必ず見える。カザフの草原とは違う。)

 

以上

 

 

KyrgystanKazakhstanAlmati 1,700km 6/1021

 

キルギス入国後の最初の投宿地オシュ(Osh)から以下のルートでキルギスをツーリング後、カザフスタンの旧首都であったアルマティ(Almati)へと向かった。

 

Osh(4泊)~300kmAla Buka(2泊ホームステイ)~300km~Toktogul(1泊)~280km(標高3000級の峠越え)~首都Bishkek(2泊)~210km途中でユネスコ世界遺産のNavekat仏教遺跡とBurana Tower(イスラムのミナレット)の見学~Balykchy=イシク・クル湖西端(1泊)~イシク・クル湖南岸沿いに230km進み~Karakol(3泊)~120km~カザフスタン入国~270km~カザフスタンの旧首都Almati到着

 

 

キルギスは居心地が良かった。

 

当方の通常の駆け足ツーリングでは1ケ所にせいぜい2泊位しかしないのだが、居心地が良こともあり、オシュ(Osh)では4泊、カラコル(Karakol)では風邪を引き静養を兼ねて3泊それぞれした。

 

特にカラコルでは計画をしていたことが風邪静養のため、何も出来ずに悔やまれる。

 

カラコルは市内の背後に控える標高3千メートルから4千メートル級の山脈への登山やトレッキングの拠点となっている。 

 

付近には温泉地もあり、当方は温泉につかるため水着を用意していたが、風邪のため温泉行は断念した。 

 

時間の余裕があればキルギスにもっと滞在したかったが、この先の欧州でのツーリング計画を考えて、先へ進むことにした。 

 

キルギス人は日本人と本当によく似ている。 思わず日本語で声をかけたくなるような人が多い。当方もキルギス人に間違えられて、現地語でよく話かけられた。

(Oshの市街地を高台のSulaiman Too=聖地から展望)

 

(Oshの聖地Sulaiman Tooの高台=標高80m位の小山。頂上にはモスクと展望台がある。)

 

(キルギスの国民的な飲み物。当方は写真右のマクシムを飲んだ。発酵させた小麦とヨーグルトを混ぜた飲料だが、酸っぱくて口に合わなかった。)

 

(外食すると油でおなかを壊すため、宿のキッチンを借りて自分で豆スープを作った。)

 

(ピンク色の線はキルギスのツーリングコース。地図の左下の赤丸印がOsh。地図右側上部の最終地点はカザフスタンのアルマティ。地図右側の真ん中の大きな湖がイシク・クル=琵琶湖の約9倍の広さがある。)

 

(キルギスの地図だが、標高を表す地形図だと高い山々があるのが判る。)

 

 

アラ・ブカ(Ala Buka)でのホームステイ(2泊)

 

ウズベキスタンのタシケントで知り合ったキルギス人のサイクリストから実家へぜひ遊びに来てほしいと招待されていた。

 

招待されなければ、キルギス人の家庭に滞在する機会は無かっただろう。

 

招待してくれたのは自転車で世界ツーリング中の33歳のサイクリストの若者だ。日本の沖縄へ語学留学後、日本のANAで就労経験もある日本通だ。ウソン・バティールベキフ(Uson Batirbekiv)氏と言う。

 

ウソン君自身は首都のビシュケクに住むが、一人暮らしの母親がいる実家へ帰省していた。

 

その実家はウズベキスタンの国境から近いジャラール・アバッド県(Jala Abad)のアラ・ブカ(Ala Buka)という小さな町の外れにあるカシュカラック(Kashkalak)村にあった。

 

当方はキルギスの農村の暮らしがどのようなものか興味があった。

 

滞在していたキルギス第二の都市オシュ(Osh)からウズベキスタンとの国境沿いに北西へ進みアラ・ブカへ向かった。 

 

アラ・ブカまで100km位の距離に迫ると、道路の舗装状態が悪くなり、そのうち舗装面をはがしたダート道へと変わっていく。 スペインから乗り出した今回使用中のオートバイは舗装道路用の重量があるオートバイなので、ダート道での操作性は悪い。 

 

当方は100kmもダート道を進むのは<勘弁してほしい>と独り言をつぶやきながら進んだが、舗装をはがしたダート道は10km程度で終わった。  しかしながら、ウソン君の実家がある村では村を貫くメイン道路以外は全てダート道だ。 

 

日本でも当方が少年時代の50年~60年位前は地方の田舎道はダート道が多かったので、違和感は無い。

 

ウソン君の実家に到着すると、ウソン君の母親がお客さんをもてなす肉と野菜をつかったキルギス名物の料理ディルマを裏庭に用意した鍋で作ってくれた。 

 

ウソン君の実家には母親以外にも、ウソン君の姉の子供たちが朝から預けられていた。また、今年大学生になるいとこの男の子が寝泊りしていた。

 

当方を含めて皆で食卓を囲むのかなと思っていた。 しかしながら、食事を共にしたのはウソン君のみだけで、母親と親戚の子供たちは別々に食事を取った。

 

中近東のイスラム諸国では女性や家族は客人と一緒に食卓を囲まないのが普通だ。キルギスもイスラム教主体の国故、同じような習慣があるのかなと考えた。

 

家族や親戚のつながりが強い

 

当方がウソン君の村に来た初めての日本人だった。日本人に会ってみたいということで当方は引っ張りだこになった。 ウソン君の親戚だけでも4軒訪問した。 また、ウソン君の同級生や知人等も含めると多数の人たちに会った。

 

訪問先では当方の年齢を聞かれた。当方の年齢を知ると、キルギス人の同年齢の人たちより10歳から

15歳若く見えると言うのだ。 事実当方が訪問したウソン君の叔母の夫は当方より年上だと思ったが、後で年齢を聞くと当方より10歳若かった。

 

<日本人は何故若く見えるのか?>と聞かると、当方は<日本人は魚をたくさん食べるからだ>と答えた。

 

 

農村の生活は自給自足だ。 

 

農家では羊、牛や馬などの家畜を飼育している。数十頭の牛や羊を飼う農家もいる。

 

ウソン君の実家では父親が十数年前に他界していたため母親一人暮らしだ。

一人では家畜の放牧が出来ないので、 他人に委託して羊の放牧を行っていると言う。

農村の家庭では羊を毎月1頭の割合で処分して食用にすると言う。

 

農地は村と離れた場所にある。農繁期には自宅へ帰る時間を惜しんで、畑に隣接する場所に小さな仮住まいを設けている農家もある。

 

農家では冠婚葬祭のため、数十人から場合によっては100名単位の人たちが飲食できるような家の造りになっている。そのため、普段は使用していないが、業務用のような大きな窯や、直径1m程の鍋まで揃えている。大量のパンも窯で焼くことが出来る。

 

キルギスも含めて中央アジアで感心するのが、子供がよく挨拶できると言うことだろう。 <アッサラーム>と挨拶の言葉を口にして、握手の手を差し伸べてくる。日本人の小学生がこんなことできるだろうか?

 

広い家やひろい庭。そして、 のんびりとした生活環境は申し分ない。

改善の余地は下水道の普及と道路の舗装化だろう。 農村では下水道は殆ど普及していないので、便所が汲み取り式で家の外にある。

 

ダート(未舗装)道では車の乗り心地が悪く、スピードも出せない。また土煙もたち、喉や肺を痛めやすい。 

 

(日本の援助で建設した橋)

 

(Oshからアラ・ブカへ向かう途中のウズベキスタンとの国境線=写真右側の柵。国境線から幅50~70mは中立地帯となっている。)

 

(Oshからアラ・ブカへ行く途中の枯れた川。川幅100mぐらいある。)

(アラ・ブカ郊外のカシュカラ村へ行く生活道路はほとんどが未舗装だ。)

 

(道路脇のベリーの木は甘い実をつけているが、ほどんどの人は実を取らない)

 

(道路脇のベリーの実。甘くておいしいかった。)

 

(ウソン君の実家でお母さんが作るキルギスの伝統料理ディルマ)

 

(羊の肉と野菜をふんだんに使ったディルマ)

 

(ウソン君の実家に2泊した。)

 

(ウソン君の実家で飼う食肉用の羊たち)

 

(ウソン君とお母さん、そしてウソン君のお姉さんの子供たち。当方はキルギスの伝統的な帽子を被っている。お母さんからのプレゼントとして頂いた。)

 

(ウソン君の叔母の家。部屋数が多い広い屋敷だった。)

 

(ウソン君の叔母の夫と写真。57歳だと言う)

(ウソン君の親戚の家ででもごちそうになった。)

 

(ウソン君の祖父の兄弟にあたる親戚筋。写真中央の若い女性は6月に高校を卒業して、9月から日本の大学へ留学する予定だと言っていた。)

 

(ウソン君の通った小学校から高校までが一緒になった一貫教育の学校。キルギスでは高校まで義務教育だと言う。)

 

(畑の一角にある仮住まい。農繁期に利用する。)

 

(馬牧場で馬のミルクを飲むウソン君。当方も馬ミルクを飲んだ。酸っぱかった。)

 

 

(ウソン君とともにハイキング)

 

(道路をふさぐ羊の群れ。小学校高学年の男の子なら馬に跨り、立派なカウボーイとして放牧の家畜を先導する。)

 

アラ・ブカでホームステイ後、首都のビシュケク(Bishkek)へ向かった。 一日ではビシュケクへ到着できないため、途中トクトグル(Toktogul)という町のホステルで一泊した。

 

地方都市で英語を上手に話す人にはめったに出会わないが、当方が投宿したそのホステルを切り盛りしている若い女性は英語を上手に話した。 宿泊料金の交渉もそつなくこなす。 当方は大学生のアルバイトかなと思った。 

 

その若い女性は、学校が夏休みの間、午前11時から午後11時まで受付、掃除、料理や雑用を手際よくこなしていた。将来の夢は女医になることだと自分の夢も語る。女医になる希望があるなら、医学部の学生かなと思い聞いてみると、まだ15歳の少女であることが分かった。

 

当方もびっくりしたが、同じ宿に投宿していた外国人もそのことを聞いてびっくりした。 15歳とは思えない宿泊客との接し方は、どこで覚えたのだろうか?

 

Toktogulの投宿はRahat Guesthouse 一泊800ソム(約1500円)

(トクトグル=Toktogul付近の写真。Toktogulは人造湖のほとりに位置する。)

 

(Toktogul付近のダム湖)

 

(Toktogulで投宿したRahat Guesthouseにはユルト=テントの部屋もあった。)

 

 

山岳コースのツーリング

 

トクトグルから首都ビシュケック(Bishkek)まで約280kmの道のりがあった。そのうち約200km位が山岳地帯を走行する。 標高3200mまでの峠上りが2回ある。

 

標高3200mあたりの山の斜面には溶けかかった雪が残っている。更にそれ以上の高い山々の斜面は氷河の様に雪が積もり残っている。

 

標高1000m位の平地では当方は夏用の薄いオートバイ専用のジャケットを身に着けていた。しかしながら、標高が高い峠では気温が数度(℃)に低くなり、寒さに耐えられなくなっていた。 荷物から冬用のジャケットを引っ張り出して、身に着けた。

 

長い登坂があれば、その逆の長い下り坂もある。なだらかな高原の走行もあり、キルギスで一番楽しいオートバイ走行が堪能できた。

 

 

(トクトグルからビシュケクへ向かう山岳ルートの始まり)

 

(トクトグルからビシュケクへ向かう途中の最初の峠の標高は3175m)

 

(標高2500mぐらいの高原を進む)

 

(標高2500mぐらいの高地から標高4000m級の山々を臨む)

 

(標高3200mに位置するトンネルを出た直後の写真。オートバイの背後にトンネル出口が見える。)

 

(標高3200mから一気に1000mくらい、急な坂道を下り、谷間の道路をビシュケクに向けて進む。)

 

(ビシュケク向かう途中に出会ったカザフスタンのライダー達)

 

 

闇経済から表の経済へ変革

 

首都ビシュケクではキルギス証券取引所を訪れた。事前に電子メールでアポイントをお願いしたが、返事がないのでダメもとで直接証券取引所へ赴いた。

 

キルギス証券取引所は1995年の設立で、現在37銘柄が上場されている。 うち二十数銘柄は株式の上場だが、債券のみ上場している企業もある。

 

証券取引所の副社長が応対してくれた。副社長と言っても社員15名と小規模の組織であるので、デンと構えているわけではない。

 

同副社長に当方の疑問を投げかけた。 <一人当たりのGDP2200米ドル(約30万円)の国の市民が広い家に住み、道路には高級車がたくさん走っているのは何故か?>と。

 

答えは簡単だった。統計数字に現れない闇経済が活発だからだと言う。 領収書が無い金銭と物のやり取りが多いと言うことだと教えてくれた。政府は闇取引を減らそうと規則を改正している。

 

規則の変更に伴い、GDPが増加していると言う。

 

2005年から2025年の20年間でキルギスのGDPは約10倍になったと言う。

2021年から2024年の直近4年間ではGDPの規模が2.5倍に増えた事実があった。

規則の変更で闇の部分だった経済が、表面に現れてきたためだと言う。

 

中央アジア諸国は海に面していない分、海外貿易にハンディーを負っている。経済を発展させるうえで足かせになっているのは事実だろう。

 

当方が、<キルギスの経済の将来性は如何に?>と同副社長へ問うと、同氏は中国と欧州の架け橋となるよう鉄道網の整備で(第二のシルクロード)、ビジネスチャンスを見出そうとしていると言う。

 

その一環として、キルギスはウズベキスタンと中国の3ケ国で経済協定を締結したと言う。

(キルギス証券取引所建物)

 

(キルギス証券取引所で応対してくれた副社長Myktybek Abirv氏)

 

ビシュケクでキルギス人人懐っこさを実感

 

当方が市内を散歩中に、トヨタの高級ブランドであるレクサスの乗用車とトヨタの大型四輪駆動のランドクルーザーが駐車してある大きな屋敷があった。

そこにいた中年の男に当方は<いい車を持っているね>とほめた。

 

するとその男(車のオーナー)は当方をその屋敷の中へ案内して、<お茶でも飲んで行け>と言う。当方は

その男について、家の中に上がり、お茶をごちそうになり、そろそろ帰ろうとした。

 

 

その男は、当方へ<俺の車で市内を案内する>と言うではないか。当方は、折角の申し出だからと思い、その男の車に乗り込んだ。

 

大通りをガンガン飛ばして走り、いろいろ説明してくれるが、ある目的地を目指してカーナビを操作しているのではないか。 

 

同氏はもともとは医者だった言ったが、今は投資会社を経営していると言う。

目的としていた郊外の場所はどうやら不動産の物件のようだった。

 

物件先で、同氏が長話をして帰る気配が無いので、当方は<やるべきことがあるので、市内へ戻りたい>と同氏へ自宅へ帰るように促した。同氏も渋々同意して帰ることにした。

 

同氏の自宅で別れ際に、同氏が<明日も一緒にどうだ?>と当方を誘ったので、当方は<明日は計画がある>と丁重に断った。

(ビシュケクのシンボル的なアラ・トー広場=Ala Too Square)

 

(ビシュケクの大通り)

 

(ユネスコ世界文化遺産があるNavekat仏教遺跡付近。古のシルクロードを想像してダート道を走行した。)

(ユネスコ世界文化遺産のNavekatの7世紀~12世紀の仏教遺跡 。遺跡の一部を大屋根で覆っている。)

 

(仏教遺跡の壁が復元されていた。)

 

(Navekatの仏教遺跡は今も発掘調査中だった。)

 

(11世紀に47m位の高さがあったミナレット=Burana Tower。地震等で崩れて現在は高さ26mぐらいになった。

ユネスコ世界文化遺産)

 

(キルギス中部に住んでいた古の民族は、石に人の顔を彫った。墓石としても使ったと言う。)

 

気温の変化に体がついていけず風邪をこじらせてしまう。

 

ビシュケクは標高800mに位置するが、日中は日差しが強く、夏の暑さだ。

ビシュケクからこの先向かうイシク・クル湖やカラコル(Karakol)は標高1700mの高地に位置していた。

 

オートバイツーリングでは走行風を身体に直接受けるため、気温の変化には敏感だ。 標高が高くなるに従い空気が涼しくなる。夕方になると一気に気温が下がり、寒くなる。 この気温の変化に体がついていかず、とうとう風邪を引いてしまった。

 

ビシュケックから東方向へ約450km離れたカラコル(Karakol)は市内の背後に控えた4000m級の山々への登山やトレッキングの拠点となる町だ。 市内ではトレッキング姿の外国人旅行者をよく見かける。

 

カラコルから12日のトレッキングや渓谷巡り、そして温泉地行きを計画していた。しかしながら、風邪をこじらせてしまったため、先のことを考えて宿で静養することにした。

 

カラコルで3泊後、 カラコルの東120km先のカザフスタンとの国境を越えて、カザフスタンの旧首都であったアルマティ(Almati)を目指した。

 

カラコルの宿はHostel Nice ドミトリ式のベッド 1泊700ソム(約1200円)

(ビシュケックからイシク・クル湖方面へと標高が高くなり、涼しくなる。)

 

(ビシュケクからカラコールへ向かう途中にバリクチー=Balykchyの町で一泊した。 寂しそうな町だった。)

 

(キルギスのレストランのメニュー。メユー内容が判らないので困った。)

 

(泳ぐ人もいたイシク・クル湖。湖の水はあたり冷たくなかった。)

 

(イシク・クル湖で釣りをする人たち)

 

(イシク・クル湖と雪をかぶった山々。カラコールへ向かう途中)

 

(バリクチからカラコール間の230kmはダート道と舗装道路の繰り返しだった。

当方は埃まみれになり、埃で喉も傷めた。)

 

(カラコール付近の標高は1700m位と高地のため、6月中旬でやっと菜の花が咲く。)

 

(当方が木陰で休憩しているとロバに乗った少年が挨拶に来た。)

 

(カラコール市内の商業地区)

 

(カラコール市内のキリスト教会=Holy Trinidad Church。1895年建造)

 

(カラコール市内のDungan Mosque。Dunganとは中国人のイスラム教徒のこと。1907年建造)

 

(カラコールの博物館)

 

(1932年=昭和7年のビシュケクの東方約50km地点に位置するTokmokの茶店風景)

 

(1932年当時のキャラバン。中国カシガール=Kashkarの北西のシルクロード。一頭が約80kgのウールを運んだと言う。)

(1932年当時の馬でのツーリング。イシク・クル湖南岸を進む)

 

(1932年に中央アジアを冒険旅行したElla Maillart女史は多くの写真を撮った。

同女史の写真展の案内ポスター)

 

(カラコールの黄昏時を題名とした絵画)

 

 

(カラコールで出会ったイギリス人の47歳のサイクリスト、ロビー=Robbie氏。日本も北海道から福岡まで自転車で走ったことがあると言っていた。)

 

(カラコールで投宿したHostel Niceは居心地が良かった。英語が上手だったオーナー夫人のJanlyさん)

 

カザフスタンとの国境越え

 

2022年にこの国境をオートバイで通過した日本人ライダーのS氏と連絡を取り、国境へ至るルートや道路状況等を問い合わせると、S氏から国境へ向かう道はダート道だったと教えてもらった。

 

当方の経験でも国境へ向かう道路は整備されていないことが多かった。

カラコールから国境まで120km程度しかないが、当方は国境到着まで4時間見込んでいた。 朝7時に宿を出発後、午前中に国境へ到着できれば、国境から270km先のアルマティー(Almati)へは同日中に到着できるだろうと考えていた。

 

その国境までの道路は最近整備され、時速90kmで通行可能な舗装道路となっていた。そのため国境へは午前9:00に到着した。

 

この国境(Kegen国境)は、小さな検問所があるマイナーな国境だった。国境を通過する旅客が少ない。

 

そのため、キルギスタンの出国、カザフスタン入国はスムーズで合計30分程度の短時間で済んだ。当方が経験した国境では最短時間のでの通過だった。

(カザフスタンとの国境へ向かう道はスイスのような美しい景色だった。)

 

(カザフスタンへ入国直後の写真。オートバイの背後にはカザフスタンの国境管理事務所が見える。)

 

(カザフスタンの旧首都アルマティーへ向かう平原風景。またステップ=草原かとため息が出た。)

 

(アルマティー市内の商業ビル。バーガーキングの看板文字が見える。)

 

(アルマティー市内の様子)

 

以上

 

 

 

 

Tajikistan Kyrgystan Oshまで1,100km(2025/6/26/8

 

アフガニスタンへのショート・トリップを終え、ウズベキスタンのテルミズ(Termiz)で3泊後、タジキスタンの首都ドシャンベ(Dushanbe)経由キルギスタンのオシュ(Osh)を目指した。 この走行ルートは複雑に入り組んだ国境越えが3回ある。

 

(中央アジア地図。赤線が走行ルート。赤丸印が宿泊地。地図左下はウズベキスタンのテルミズ。地図右側はキルギスのオシュの位置を示す。左下のテルミズから地図右側へ斜め横に描かれたルートがタジキスタン~キルギスに至る走行ルート。)

(ウズベキスタンのテルミズからタジキスタンとの国境へ至る景色は単調だった。この地域は町や集落が多く、交通量も多かった。)

 

走行ルートは以下の通り:

 

テルミズTermiz)~170km~ウズベキスタン・タジキスタン国境~70km~タジキスタンの首都ドシャンベ(Dushanbe)~80km~死のトンネル(Anzob Tunnel)~Ayni(分岐点)~100km(往路)~パンジャケント(Panjakent)100km(復路)~Ayni160km~ホジャンド(Khujand)=最果てのアレキサンドリア(Alexandiria Furthest)90km~タジキスタン・ウズベキスタン国境~180km~ウズベキスタンのアンディジャン(Andijan)~50km~ウズベキスタン・キルギスタン国境~10km~キルギスタンのオシュ(Osh

 

 

タジキスタン入り

 

タジキスタンはペルシャ系の民族で人の顔立ちや言語もウズベキスタンとは異なり、ペルシャ(現在のイラン)に近い。 彫が深い顔立ち人々だ。

 

タジキスタンのホジャンド(Khujand)で出会ったタジキスタン人はタジキスタン民族が遠い過去に中央アジア地域を支配したペルシャ系のソグディア人であることを誇りにして歴史を少し話してくれた。

 

ソ連時代はロシア革命の英雄レーニンの像が各都市の中心部に建てられていた。

 

しかし、ソ連崩壊後は、9世紀~10世紀にかけてイラン高原を含む、現在のトルクメニスタン、ウズベキスタンやタジキスタンの中央アジア地域を支配したのサーマーン朝のアミール(王)であったイスマイール・ソモニ(サーマーン)=Ismail Somoniを英雄として公園に巨大な像を建てている。

 

タジキスタンの通貨ソモニ(Somoni)はイスマイール・ソモニに由来している。 日本で例えるなら、江戸時代を築いた徳川家康かそれ以上の存在だろう。

 

ジキスタンの入国手続きは時間がかかった。

 

ウズベキスタンの出国手続きは1時間程度で済んだが、タジキスタンの入国手続きは4時間ぐらいかかった。

中央アジア諸国の陸路国境では英語は通じない。ここはロシア語圏だ。 出入国管理事務所ではどこの窓口で手続きするか判らないので、当方は片言のロシア語でどの窓口へ行けばよいか聞いた。

 

パスポート・コントロール(パスポートに入国の押印)は簡単に済んだが、オートバイの入国手続きをどこですればよいか判らない。

 

なんとかたどり着いた車両の手続きの事務所前にはトラックの運転手と思われる人たちが多数待っていた。 当方は待っている人達への遠慮なしに事務所の中へ入り、<オートバイの入国手続きをしたい>とグーグル翻訳を片手に、それらしき係官へ話をする。

 

その係官は<事務所の外で待っていろ>と当方へジェスチャーで指示をするので、当方は一旦、事務所の外へ出て、トラックの運転手達と一緒に待つことにした。

 

事務所の外で待っていても当方の順番は回ってこないと直感的に判っているので、5分~10分毎には

数回、係官へ当方への対応を督促する。 係官は<次はあなたの番だから、事務所の外で順番を待つように>と指示するが、既に1時間待っている。 

 

当方はすこし強い口調で<すでに1時間以上待っている。早く対応してくれ>と係官に言うと、係官は当方の手続きをやり始める。こんなときは強気で対応しないと当方に順番が回って来ないことは経験上知っている。

 

オートバイの現地登録のような書類を作成してもらい、100ソモニ(約10米ドル=1400円程度)の料金を管理事務所から500m程度離れたトラックターミナルにある銀行窓口で払うように指示され、当方は銀行窓口まで出向く。 

 

すると、銀行窓口では本日から使い始めた税関の新しいオンライン・システムが動かないと言われ、入金が出来ない羽目になった。 

 

 

税関では、当方の支払が確認できないとオートバイのタジキスタンへの持ち込みが出来ないと言われる。

 

タジキスタン人で親切な運転手が現れた。 費用の支払いに、同運転手が同氏の銀行口座を通じてオンラインで税関へ費用を支払えば、税関は当方が支払ったと見なして、当方のオートバイをタジキスタンへ持ち込めると言う。 税関側もその支払い手段でOKだと言う。

 

料金支払いをその運転手に代行してもらった。 運転手は支払い手続きが済むと、当方がお礼を言う前に立ち去っていた。 なんと親切な対応だろうと感心した。

 

しかし、税関の手続きはなかなか進まない。 既に3時間以上経過していた。 当方は

しびれを切らして、<ここの税関の責任者と話がしたい>と強く切り出すと、係官がやっと対応し出した。

 

結局タジキスタン入国手続きでは4時間程度かかった。

 

首都ドシャンベ

 

首都だけあって立派な建物や高さ20mと越す大きな街路樹があるプロムナード(散歩道)の大通りが目立つ街だった。 

 

政府機関の建物が立ち並ぶ地区にあった国立博物館を見学したが、入館者が少ない。数名程度だ。

館内の各展示部屋を見守る館員は暇をもて遊び、スマホで友人か家族と長話している。

 

首都の建物を見ている限り、一人当たりのGDPが1,200米ドル(約17万円~18万円)程度とウズベキスタンの半分以下とは思えない。 

 

一人当たりのGDP(年間所得に見なす)では、世界でも貧しい国の部類となるが、そのように見えない。

 

ドシャンベで外交官をめざしていた大学生から国家公務員の月給は200米ドル(約2.8万円)、またパンジャケント(Panjakent)で宿泊したホステルの経営者からは、教員の給与は85米ドル(約1.2万円)から250米ドル(約3.5万円)と聞いた。

 

それに反して、食料品は安くない。コカコーラ600mlペットボトルが日本円で100円以上する。 ガソリンもリットルあたり140円程度だ。 ウズベキスタンよりむしろ1割~2割程度高い。

 

食料品の価格から判断すると、生活は楽でないと考えられるが、実態は判らずじまいだった。

 

ただ、ドシャンベの中心部には建設中のビルが数多くあるのが目についた。景気が良いのではと感じた。

(タジキスタンへ入国するとはげ山が目に入った)

 

(首都ドシャンベの巨大国旗。国旗を掲げるポールは高さ70~80m位あると思う。)

(ドシャンベの中心地区。白いドーム屋根の建物は国会議事堂)

(英雄イスマイル・ソマニの像があるドシャンベの公園)

(巨大な街路樹が日陰を作ってくれるドシャンベの大通り)

(ドシャンベの大通り)

 

(ドシャンベ中心部で建設中のビル)

(国立博物館の建物)

(タジキスタンの国土を地下の地層別に色分けした地図=国立博物館)

 

タジキスタンを訪れるバックパッカーや自らの車両で旅をする多くのオーバーランダーはタジキスタンの東部山岳部であるパミールハイウェイを通ってパミール高原を目指すアドベンチャー旅行にあこがれる。 

 

パミール高原は標高が5000mに達する山々に囲まれた広いエリアだ。

自然が豊富で見ごたえある山の景色が広がると言う。 同地域はゴルノ・バダフシャン自治州(Gorno Badakhan)となっており、外国人の立ち入りや旅行には事前に許可証を入手する必要がある。

 

当方のバイクは車両重量が重く、パワーが小さい250ccのオンロードタイプ(舗装道路)故、悪路が多い同地域へのツーリングは諦めていた。

 

ドシャンベではDoshan Hostelへ投宿(ドミトリー式 一泊150ソムニ(約2,200円)。

 

I Overlanderのアプリでは<新しくて清潔なホステルで、経営者が親切だ>と紹介されていたが、投稿内容が古すぎたのか、床、シャワールームやキッチンは汚なかった。経営者が変わっていたようだ。

 

本来なら宿泊したくないホステルだったが、タジキスタン入国手続きに時間がかかりすぎて、他の宿を探す時間が無かった。

(がっかりしたドシャンベのホステル)

 

山岳道路と死のトンネル

 

ドシャンベ(Dushanbe)から山岳地帯を通り、ウズベキスタンのサマルカンド方面のルート上にあるパンジャケント(Panjakent)へ向かった。

 

幹線道路はきれいに舗装され、道路の補修やメインテナンスはウズベキスタンより進んでいた。

 

ウズベキスタンは幹線道路でも舗装が剥がれたり、度重なる補修で路面の凹凸や割れ目が多く、オートバイ走行は快適でなかった。経済的にウズベキスタンより立ち遅れているタジキスタンの道路状態はウズベキスタンより悪いのではと危惧したが、逆であった。

 

事前の調べで、山岳地帯を通り抜ける時に<死のトンネル>と言われるアンゾフ・トンネル(Anzob Tunnel)があることを知っていた。 何故死のトンネルと呼ばれるかは、トンネル内に照明が無い長くて危険なトンネルだからだ。 

 

このトンネルに至るまでに木が一本も生えていない山脈に向かって谷を峠へと登っていく。

 

雪をかぶった山々が見える。道路の崖側にはガードレールが無い。 誤って道路を踏み外せは真っ逆さまに谷底に落ちる。

 

とは言っても舗装道路で道幅も広いので、怖さは感じない。 工事用の大型トラックや旅行客を載せたタクシーが数多く通行する幹線道路でもある。

 

死のトンネルを通過する前に数ケ所照明が無い長さ200m程度のトンネルがあった。 長いトンネルに入る前のトレーニングのようなものだが、短いトンネルでも内部が曲がっていると怖い。

 

炎天下の明るいところから、急に真っ暗闇のトンネルへ入ると全く見えなくなる。 

 

死のトンネルと呼ばれるアンゾフ・トンネルは直線のトンネルだったので、トンネル内の壁にぶつかるような恐怖は無いが、鉱山の坑道のように感じた。対面通行のトンネル内では対向車線から向かって来る車のライトが目に入りまぶしい。

 

トンネルの壁がどこにあるのかもわかり難い。 トンネル内には水が出ている場所があり、路面には水たまりや水が流れている場所もある。

 

当方はトンネルに入る前に他の車が来るのを待った。そして、その車の後についていくことにした。長さ5km程のトンネルを通過する所要時間は4分程度だが、その間がとても長く感じられた。

 

この山岳地帯の景色を見ていると、地球の大地がいかに変わってきたのか、中学か高校時代の地理の授業で習ったようによくわかる。 

 

崖の断層が斜めにむき出した場所は、太古の時代に地殻変動があったのだろう。 雪解け水が流れる川の護岸が削れて谷が形成される様子も良くわかる。 まさに自然の教科書だ。

 

(山岳道路の始まりには雪解け水がつくる川が流れていた。)

 

(峠に向かい坂を上り始めると雪を頂いた山々が見えた。)

 

(死のトンネル=Anzob Tunnelを通り過ぎ、ほっとして休憩。)

 

(山の色が鮮明に分かれている。鉱物資源が豊富だろうと想像する。)

(峠を下る道路)

 

(斜めになった断層がよくわかる。)

 

(今は使用されていない狭く危ない旧道に架かる橋)

 

(川が大地を侵食している様子が良くわかる。)

 

 

パンジャケント(Panjakent)にはタジキスタンで唯一の世界遺産があり、興味を引かれた。

 

世界遺産となっているのは紀元前(BC)5千年前から青銅器時代(BC2000年~BC1000年と時代幅が長いが)までのサラズム遺跡(Sarazm)だ。

 

この遺跡は依然発掘中であり、当方が見学した際には発掘調査に関わる人が数名がいた。

 

パンジャケントではSim Sim Hostelに投宿(一泊130ソムニ=約2,000円)

 

(サラズム遺跡の当時の想像図)

 

(サラズム遺跡で出土した土器には模様があり、色付けされていた)

 

(サラズム遺跡で発掘された古代人の墓には身長2mの人骨が見つかった。サラズムの王女=Princess of Sarazmと呼ばれている。)

 

(サラズム遺跡。当時の住居跡を復元)

 

(サラズム遺跡は600m x 800mと広大だ。大きな屋根=パビリオンの場所に発掘された住居跡等がある。)

 

(サラズム遺跡がある集落の民家の土壁。道路も土のままで未舗装)

 

 

タジキスタンの青年たちの夢

 

当方が路肩の木陰で休んでいると青年二人が現れた。一人が英語で話しかけてきた。彼らは高校3年生だった。

知っている限りの英語の単語を並べ立てて積極的に話しかけて来る。

 

今日で高校生活が終わり9月からはドシャンベで大学生になると言う。大学卒業後にはアメリカへ行って、アニメのクリエーターになりたいと自分の夢を語った。

 

当方はその高校生へ<夢は実現できるのでがんばれ>と励まし、手短にアドバイスをした。

 

(当方が道路で休憩中に話しかけてきた高校生と子供たち。写真中央が夢を語った高校生。)

 

ホジャンド(Khujand)で投宿したホステル経営者の息子は上手な英語を話した。

 

いろいろ話してみると18歳の大学生で母親のホステルを手伝っていることが判った。当方は、18歳にしてはしっかりしていると思った。宿泊料金の交渉にも対応していた。

 

大学卒業後には、姉が仕事と勉強をしているドイツで人生を切り開きたいと語った。 そのためにドイツ語を勉強中だとも語った。 父親は2年前に米国で職を得て家族を支えていると言う。

 

(ホジャンドのホステルにて手伝いをしていた大学生アミール・シェイク君=写真中央とその母親。大学生は大学卒業後、ドイツで人生を切り開きたいと語った。。右側の男性は隣人)

 

外国人歓迎

 

タジキスタンの子供たちは外人に興味を示す。当方がオートバイで走行していると、家から道路まで走り出てきて当方に向かって手を振る。 当方がオートバイを停車すると、子供たちは寄ってきて、握手を求める。

まるで映画スターや芸能人を出迎えるような感じた。 大人の人も、当方を歓迎するように手を振ってくれる。

 

(有料道路区間が複数あったが、オートバイは料金所横の小路を通過して無料だった。)

 

 

ホジャンド(Khujand)

 

今回のツーリング前に、紀元前34世紀にマケドニア((現在のギリシャ北部)から中央アジア・西アジア地域へ遠征をしたアレキサンダー大王(Alexander The Great)について知る機会があった。 ギリシャでは当方は当時のマケドニアがあったキッサロキニエ(ギリシャの第二の都市)を訪れていた。

 

ホジャンドはアレキサンダー大王が一番東に造ったアレキサンドリアの町だった。最果てのアレキサンドリア(Alexandria Furthest)とも呼ばれた。 アレキサンダー大王はこれ以上の遠征をおこなうことに部下の反対に会い、更に東へ進むことを諦めた。そして、この地からマケドニアへ帰還する途中に死んだと言う。

 

ホジャンドを訪れて何故アレキサンダー大王がこの地に都市を建設したか判った。 この辺りは中央アジアで一番長いスリダリヤ川が流れ、長さ300km7080kmの肥沃な盆地が形成されている。この盆地はウズベキスタンとタジキスタンに跨るフェルガナ(Fergana)盆地と呼ばれている穀倉地帯だった。 

 

人が定住するには水の確保と、農業を行う肥沃な土地が必要なのだ。

 

(ホジャンドへ向かう途中、険しい山々の峠のトンネルを通り過ぎたら、なだらかな斜面の山になっていた。)

 

(フェルガナ盆地の農耕地帯。地平線が見えない広大な盆地だった。)

 

(ホジャンドの街とその背後の山。区画整理された田んぼもあった。)

 

(ホジャンド市内を流れる全長2000km以上あるスリダリヤ川。川の水は透き通り、水量が多く、流れが速かった。)

 

(ホジャンドのバザールは中央アジア最大級)

 

(窯でパンを焼くパン職人。パンは一つ50円~60円ぐらい。)

(バザール隣接の3つのモスク。)

(ホジャンドの復元された城壁)

(BC5世紀ごろからある旧城壁。小山のように高さ20m位ある城壁部分もあった。12世紀のモンゴル軍の襲撃で城壁は破壊されたと言う。)

(紀元前4世紀~紀元前3世紀にかけてアレキサンダー大王が遠征したルート。地図上がマケドニア=現在のギリシャ北部。下が中央アジアや南アジア)

 

ホシャンドの宿はGuesthouse Sharq11(一泊約1,800円)

 

ホシャンド(タジキスタン)から直接キリギスへ入国できる国境を見つけた。

 

数年前まではタジキスタンとキリギスはお互いの国境を閉じていた。両国間の直接の往来はできなかった。外交関係が悪かったからだ。 しかし約2年前から両国間の国境が開かれて、直接の往来が可能になった。

 

ウズベキスタンを経由しなくてもキルギスへの入国が可能だ。しかしながら、当方が地図上で探し出した国境から当方が目指す主要都市オシュ(Osh)に至る道路の状態が判らない。

 

そのルートは幹線道路では無く、国境線沿いの道路だ。タジキスタンからキルギスへ直接入国するとのオシュまで300km弱の距離ある。

 

たぶんガタガタの未舗装の道路をだろうと推測して、タジキスタンから直接キルギスへ入国することは諦めた。

 

やはり、フェルガナ盆地のど真ん中のメインルートを通り、ウズベキスタン経由でキルギスへ行くことにした。

 

タジキスタン出国とウズベキスタン3回目の入国

 

タジキスタン出国は簡単だったが、入国時に税関で作成されたオートバイ登録の書類を返却せねばならなかった。

 

当方は入国時、オートバイの登録に関係する重要な書類とは認識せずに、直ぐに破棄してもよい類の書類だと思っていた。 その書類を最後まで捨てずに持っていてよかったとホッとした。

 

ウズベキスタンの入国手続きは数時間かかるだろうと過去2回の経験から覚悟していた。

 

しかしながら、手続きは30分程度で終了して、喜ばしいが肩透かしをくらったようだった。

 

しかも過去2回の入国時と異なり、オートバイの登録手数料の請求が無かった。 この税関で、オートバイを正式に登録してくれたのだろうか?、手続きに間違いは無かったのだろうか等少し不安になった。

 

ウズベキスタンの入国手続きが短時間で終了したため、当方は計画を変更した。

出来るだけキルギスとの国境に近い町(Andijan)へ向かうことにした。 ウズベキスタン入国地点から約180kmの距離があった。Andijanからキルギス国境までは50kmの距離だ。

 

Andijanの投宿はSheyk Hostel(一泊150,000ソム=約1800円)

 

(フェルガナ盆地を走行中に疲れて眠くなり、道路沿いの洗車場の脇にあった縁台で少し横になった。洗車場では写真の青年たちが働いてた。当方に縁台を快く譲ってくれた。)

 

(ウズベキスタンに入ったら道路状態は悪くなった。タジキスタンの幹線道路は修理・メインテナンスが良くされていたが。)

 

(ウズベキスタン最後の投宿地、Andijanの焼き肉屋)

 

ウズベキスタン出国・キルギス入国

 

アンディジャンの宿からキルギスへの国境へと先を急いだ。国境はアンディジャンから約50km程度先だ。

広大だったフェルガナ盆地も端に来ているのが判る。すこし先には枯れた山々が見えるからだ。

 

この国境を通過する外国人の旅人は極端に少ないようだ。

 

出国管理事務所で当方の前で出国手続きをしている人は1名のみだった。

 

当方がウズベキスタン再入国時に懸念していたことは起こらなかった。 10分程度の短時間で出国できた。

 

ただし、過去2回の出国手続きとは異なり、税関の書式に関係窓口の各担当者が3ケ所押印し、同書類を出国ゲートを見守る係官へ手渡す必要があった。

 

 

キルギス入国

 

キルギスの入国手続きも簡単だった。

 

イミグレーション(パスポート・コントロール)でパスポートに入国印を押印してもらう。その後、Customs(税関)で一時輸入の書類を作成してもらわなければならない。

 

税関の書類作成担当者がいるコンテナーを改造した事務所窓口にてオートバイの登録証書とパスポートを提出して、必要書類(一時輸入許可証のような書類)を作成してもらう。約20分~30分程度でキルギスへ入国出来た。

 

キルギスのオシュ(Osh)を目指したのは、オートバイのチェーン用潤滑油(Lubrication Oil)を買うためだった。

 

ツーリング出発時にマドリッドのオートバイ店で購入した潤滑油をどこかで失くしてしまった。

 

その後、 タジキスタンで買った中国製の機械油はチェーン用潤滑油としては全く使い物にならず、むしろチェーンが痛むのではと危惧した。

 

中央アジアではオートバイに乗る人がほとんどいない。せいぜい小型のスクーターを少し見かける程度だ。 そのため、オートバイの修理やメインテナンス作業を行うメカニックがいない。また、オートバイ用品を販売する店もほとんど存在しない。

 

オシュにはオートバイの修理を行うメカニックがいて、チェーン用潤滑油のスプレー缶も販売するオートバイ・レンタルショップ兼修理店Ataloo MotoがあることをI Overlanderのアプリで知った。 

 

400ml入りのMotul製のスプレー缶は25米ドル(約3,600円)と日本より少し安い。 当ショップはスイス人とキルギス人の共同経営だった。 

 

スイスとキルギスを中心とする中央アジアとのルート間をオートバイでのグループツーリングで案内する業務を手がけている。 レンタルバイク用としてホンダのオフロードバイクCRF250を20台する保有すると言う。

 

オシュでの投宿はABS Hostel。 一泊750ソム(約1,300円)

 

(キルギス入国直後。写真奥がキルギスの出入国管理事務所)

 

(オシュのAtaloo MotoとパートナーShabrush氏。ウズベキ人だが英語を上手に話した。)

(オシュで投宿したABS Hostel。ドイツから8カ月かけて自転車でツーリング中のドイツ人青年も投宿していた。)

 

(オシュ市内の幼稚園。幼稚園の壁に何故か分からないが子供に慕われる警察官が描かれている。)

 

以上

 

 

ウズベキスタン(Uzbekistan)入国~アフガニスタン(Afganistan)マザリ・シャリフまでショートトリップ 1350km5/225/30

 

カザフスタン最後の都市シムケント(Shymkent)で一泊後、 シムケントから約100km先のカザフスタンとウズベキスタン国境を通過してウズベキスタンへ入国した。

 

主要国境が工事中で閉鎖されているため、10km程度主要国境から離れたマイナーな国境Kapplanbek Borderを通過してカザフスタンから出国した。 

 

事前にI Overlander(オーバーランダー向けの有料情報アプリ)にて国境通過手続きに数時間かかったとの直近の情報を得ていた。その情報通り、カザフスタン出国とウズベキスタン入国手続きに34時間ぐらいかかった。

 

やはり、国境に近いシムケントに前泊の上、午前9:30には国境に到着して、国境通過の手続きを開始して正解だった。

 

国境に到着した際にはカザフ出国手続きの管理事務所敷地内入るゲート前に既に4050台程度の車が順番待ちの列を無造に作っていた。 道路幅一杯に並んだ車列にはオートバイでもすり抜ける余地はない。

 

反対車線(カザフスタンへ入国する車線)から逆走して順番待ちの列の一番前に出てゲートが開かれるのを待った。 その間徒歩で両替を勧誘する行商人のような姿の業者の勧誘が凄まじい。当方の周りに数名の業者が群がる。当方が無視していると、当方の袖を取ってどこかへ連れて行こうとする業者もいた。

 

このゲートは先に出入国管理事務所敷地内で手続きをしている車の数が少なくなるまで閉鎖される調整弁的なものだった。

 

(カザフスタン最後の都市シムケントの独立記念碑がある広場から市内中心部方面を見る。通りの街路樹がオアシスのように多かった。)

 

(シムケントからウズベキスタンとの国境方向へ向かうと平原から丘陵地帯の景色となった。乾燥しているため木々は生えていない。)

 

(カザフスタン出国管理事務所へ通じるゲート前の道路。写真奥に敷地内ヘ入るゲートがあるが閉まっていた。)

 

カザフスタン出国手続き

 

出国手順はロシア入国時に作成してもらったロシアの一時輸入許可証(カザフスタンと関税手続きを共有している)を係官に提出する。係官が実際に事務作業をしているビル内へ案内してくれる。

 

その後、50m先に進むと貨物輸送用のコンテナーを利用したパスポートコントロール事務所がある。ここでカザフスタン出国の手続きを行う(パスポートに出国印を押印してもらう)。

 

当方の出国手続き中に、横入りがあった。 上官らしき国境警察官に伴われた人のイミグレーション手続きを優先すると言うのだ。 

 

当方はコネかお金を使って手続きを優先してもらっているのだろうとあきれて見ていた。優先されているのは目つきの鋭い人だった。 金持ちは悪人顔をしていると思ったが、そのような人たちが数名続く。 よく見ると手錠をはめられている犯罪者だった。

 

ウズベキスタンへ引き渡す数名の犯罪者の出国手続きを優先していたのだ。犯罪者たちは、厳重に警備された護送車に載せられて国境地点で、ウズベキスタン側の護送車へ乗り換えさせられていた。

 

ウズベキスタン入国手続き

 

入国ゲート前で1時間弱待つ。ここでも先に入国手続き中の車両数が減るまでゲートが閉まる。 

 

ウズベキスタンの入国審査体制は統制がとれていない。 税関職員らしき係官が当方の荷物検査をしたが、10分後には違う係官が再度検査をした。 係官の連携や担当が決まっていないらしい。

 

荷物をオートバイから降ろして、X線検査装置の中へ荷物をいれて検査する。厳重な検査だ。

パスポートとオートバイの登録証(Certificate of RegistrationCar Passport)を提示して、入国審査(Immigration)を行う。

 

その後、係官から<オートバイの登録をオン・ライン手続きをする他の窓口へ行け>と指示される。その窓口での手続きが終了すると登録手数料を向かいの窓口で支払うように指示される。

 

クレジットカード払いは出来ない。当方はウズベキスタン通貨を持っていなかったため、カザフスタン通貨で1,000Tenge(約3600円)支払った。 

 

支払い後、最初の窓口を再度訪れ、係官が登録料の支払い済みの確認をする手順となっている。

 

入国管理事務所の敷地を出る際に警備の警察官へ全ての手続きが終了したことを示す紙切れを渡して終了する。

(ウズベキスタン入国管理事務所のゲート前で待機中。写真奥はカザフスタン側の建物)

 

オートバイ保険と携帯電話用SIMカードの取扱店

 

ウズベキスタン入国直後の場所に現地の人たちでごった返す商店や食堂が入居する低層ビルがある。ここに入居する携帯電話のショップでウズベキスタンの車両保険のと携帯電話のSIMカードの購入が可能だ。 オートバイ用の保険は15日間有効で100,000Soms(1,200円)。

 

国境から首都のタシケント(Tashkent)まで40kmの距離だが、暑さで2台持っているスマホが両方ダウンしてしまった。しばらくスマホの電源をオフにしてスマホが少し冷えるまで待つ。

 

タシケントに向けて走り出したのは、結局午後の2時を回っていた。

 

時刻が早かったので、まずオートバイの・エンジンオイルを交換してくれるオートバイの修理店を探した。

 

スペインのマドリッドを出てから約1km走行していた。

事前に目をつけていたバイク用品販売店・修理店を2軒回った。3軒目の自動車修理店でエンジン・オイルの交換が出来た。 

 

そもそもウズベキスタンではオートバイが少ないので、エンジンオイルの交換が可能の業者数はかなり限定される。

 

自動車修理店にたまたま客として訪れていたロシア系と思われるウズベキスタン女性が親切に英語通訳の労を取ってくれた。  

 

当方のオートバイはエンジンオイルを2.2L使う。同店は1リッターボトル単位で販売するので、3リッター買う必要がある。 当方が訪れたアジアやアフリカ等の新興国ではリッター単位でなくてもエンジンオイルの購入が可能な国が多かった。

 

同店と交渉したが、1リットルボトル単位でしか販売していないと言う。2.2リットルのみの購入は無理なようだ。

当方は持ち合わせの現金が不足していた。現地通貨への両替をするため、当方が最寄りの銀行へ行っている間に、その通訳をしてくれた女性がオイル交換後余る0.8L分を支払ってくれたとその自動車修理店のスタッフから後で知らされた。

 

当方はその女性の名前さえも知らないのに!

 

結局当方は2.2L分のエンジンオイルのみを支払った。工賃を含むエンジンオイル交換代は366,000Soms(約4,500円)

 

その日は、ホステルを3軒周り、3軒目のホステルで投宿することに決めた。ホステル主の接客態度が良かったからだ。 ウクライナ系のウズベキスタン人だが、日本人のようにすこし控えめで配慮がある対応だった。

 

投宿はEffo Hostel 100,000Soms(ドミトリー式一泊約1,200円)

 

このホステルは興味深かった。 Booking.Com等のホテル予約サイトには載っていない。宿を示す看板も無い。

このホステルは主に下宿屋として利用されている。 タシケントは働く場所が多い。職を求めてウズベキスタン各地から来た人たちが、タシケントで働いている間の住まいとして利用している。

 

当方が知り合った一人はサマルカンド出身の40歳ぐらいの男性だった。 サマルカンドの方が水はおいしいし、空気もきれいだと故郷を懐かしがっていたが、タシケントの会社は給料が高いため、単身でタシケントに来ていると言う。 JTJapan Tabacco)とPhillip Morrisとの合弁会社で管理職をしていると言う。

 

朝になると身を整えて車を運転して職場へと通勤していた。

(ウズベキスタン入国直後に商店・食堂が並ぶ)

 

(タシケントで投宿したEffo Hostel)

 

(自動車修理店でエンジンオイルの交換)

 

(タシケント市内の通り。市内の幹線道路は片側3車線ある)

 

(タシケントのホステルのトイレにイスラム式ウオッシュレットの使用法を説明する

紙が貼ってあった=写真右側)

 

日本語を話す人たち

 

タシケントで驚いたのは日本語を流ちょうに話す現地人3名に会ったことだ。 一人は完璧な日本語を話した。日本の政治についても知っていた。41歳の男性でサマルカンドでKafe(レストラン兼喫茶店)を経営していると言う。日本へ4年の留学経験があると言った。

 

同氏曰く、ウズベキスタンには日本語が判る人が意外と多いので、うっかり変なことは言わない方が無難だよと教えてもらった。

 

当方はタシケント市内のレギスタン広場周辺で、トイレを探していた。英語のグループ数名を連れていたの観光ガイドの人にトイレの場所を尋ねたら、日本語も完璧に話した。日本語の観光ガイドも兼ねているのだろう。

 

新市街中心部のティムール広場に大きな荷物を前後の両輪横側に装備した自転車を引いていたサイクリストがいた。日本人のサイクリストかなと当方が声をかけたら、<日本語大丈夫ですよ>との返答があった。

 

33歳のキルギス人サイクリストで、沖縄で5年間日本語の勉強とANAで仕事をした経験があると言う。

シマノ製の自転車に40㎏の荷物搭載して世界一周ツーリング中だと言う。

(自転車で世界一周中のキルギス人の青年。タシケントのティムール帝騎馬像前公園にて)

 

サマルカンドへの道

 

タシケントからサマルカンドまでの距離は約290kmと遠くない。しかし距離の2/3区間の舗装面が継ぎはぎだらけで、がたがた道だった。 片側2車線ある高速道路のような体裁だが、当方は時速40km50kmで対応。それでも強い振動で荷物として積んでいるPCが振動で壊れはしないかと心配した。

 

そんな道路でも、ウズベキ人のドライバー達は時速100kmで車を振動させながら走り去っていく。

 

サマルカンドは2010年に観光で訪れたことがあった。 

当時は市内の主要道路も未舗装の状態で、雨が降った後には、車が泥を周囲に飛び散らしながら走っていたこと覚えている。車の数も少なかった。

 

また、市内の百貨店は古くて内装が倒産した店舗のように荒んでいた。店内には古いエスカレータが備え付けられていたが動かず、天井からつり下がる蛍光灯が部分的に消えていたりして内部は暗かった。

 

そこで売られていたものは普段着のような衣類や、サンダル等の雑貨だったと記憶している。興味を引くものは無かった。

 

そのような記憶が全く過去のものになっていた。

緑あふれる街路樹が立ち並ぶ道路。 木々が生い茂り、花壇に整然と植えられて花、しっかり刈り込まれた芝生の公園が市内の各所にある。

 

サマルカンドの街並み自体は3階から4階の高さに統一され、景観が保たれている。

 

当方はサマルカンドを知っているつもりでいたが、記憶とは異なる新鮮な街に変わっていた。

観光名所のレギスタン広場やその周辺も整備されていた。レギスタン広場内のメドレセ(神学校)には当時のメドレセの資料を展示する博物館が出来たり、内部のモスクが整備されたりと、観光客の満足度が高まるように工夫されていた。

 

当方はちょっと景観を見る程度の散歩で済ませようと考えていたが、結局レギスタン広場内の各メドレセ内を見学して観光に半日費やした。

 

サマルカンドのほかにもブハラ(Bukhara)やヒヴァ(Khiva)等長い歴史があり、観光地となっている都市がウズベキスタンの北西部にある。

 

しかし、当方はサマルカンドから南下してティームール帝(13世紀~14世紀に中央アジアを支配するティムール帝国を造る)が生まれた故郷のシャヒブサーブズ(Shahirsabz)経由アフガニスタンと国境を接するテルミズ(Termiz)を目指すことにした。

 

サマルカンドでは一足先にサマルカンド入りしていたフランス人ライダーが推薦してくれたHeartland Hostelに投宿した。

(一泊115,000soms=約1300円)

 

経済統計の数字より豊かなウズベキスタン

 

首都タシケントには証券取引所がある。証券取引所の見学を希望してアポイントを申し込んだが、あっさり断られてしまった。よくあるケースだ。証券取引所で経済面のことも教えてもらおうと考えていたが・・・

 

当方は経済面を調べるときは各国の一人当たりのGDP(GDP per capita)を一人当たりの年収に近い数字ととらえて参考にする。ウズベキスタンの一人当たりの2023年GDPは2800米ドル程度(当時の為替レートでは約35万円)として低い。世界ランキングでは140位だ。隣国カザフスタンの1/4程度になる。2800ドルは南米の最貧国であるボリビアより低い。東南アジアのカンボジアと同じくらいだ。

 

幹線道路の状態をみると政府には道路を整備する余裕がないのは分かるが、市民生活は一人当たりのGDPが示すほど悪くないと感じた。 またタシケント、サマルカンド、テレミズ等の都会を見る限り、都市インフラは充実しているようだし、道路を走る車は新車が目立った。庶民の住宅は大きいし、生活必需品から高級品まで物は豊富にそろっている。生活満足度は高いのではと感じた。現地通貨(Som)の為替レートが割安に放置されているのではと思う。

 

 

 

 

 

(タシケントからサマルカンドへ向かう幹線道路ぞいの風景。広い農地が広がっている。農業はウズベキスタンのGDPの2割を占める基幹産業)

 

(道路を間違えて田んぼがある田舎道路へ入ってしまった。田んぼは種を直播するため、整然と植えられていない。)

 

(サマルカンドが近づくとより乾燥した風景となり、周囲は枯れた草で覆われた大地となる。)

 

 

 

(サマルカンドの中心部。世界遺産のレギスタン広場と広場を囲むメドセレ=神学校)

 

(レギスタン広場の中心的なウルベク・メドレセ=Ulubek Madrasasi。1420年にティムール朝第4代君主であったウルグ・ベグの命で建設された。ウルグ・ベグ自身は当時著名な天文学者であり、天体観測を行う天文台も建設した。 ティムール朝の知識・教育レベルの高さには驚く。)

 

 

(静寂なメドレセ内の内庭。ここは神学生の寄宿舎にもなっていた。)

 

(1930年当時のウルベグ・メドレセ)

 

(旧ソ連解体後、ウズベキスタンの初代大統領に就任したイスラム・カリモフ=Islom Karimovの銅像がある広場は結婚式時の

記念撮影をする場所になっている。新郎・新婦は西洋風の衣装だ)

 

(サマルカンド中心部の通り)

 

(サマルカンドのレギスタン広場前の通り。建物は全て2~3階の低層に統一されている。)

 

(投宿したホステルがあった住宅街の通り。清掃が行き届き、ゴミが落ちていない。)

(サマルカンドの公衆浴場ハマームNo.1の建物)

 

 

(ハマームはサウナ風呂かなと期待して入ったが、温水シャワーのみだった。ただし一人で10畳ぐらいの広さのシャワールームを利用できる。シャワールームへ入る前の脱衣場も8畳ぐらいの個室になっている。入浴料金は1時間で28,000Som=約300円)

 

(子供たちを教える昔の風景写真)

 

(1870年代のレギスタン広場付近の商店街。人々は靴を履いていた。)

 

(19世紀のサマルカンドの隊商宿=キャラバンサライ)

 

 

サマルカンド(Samarkand)~シャヒリサーブ(Shahirsabz)~グザール(Guzar)~カルシ(Qarshi)~テルミズ(Termiz)

 

サマルカンドからシャヒリサーブ経由で移動して、当初グザールでの投宿を考えた。しかしグザールには1軒しかホテルがなかった。 3星で空いている部屋はジュニア・スイートルームのように広い部屋しか無いと言う。

部屋の料金は700,000Soms(約9千円弱)とウズベキスタンでは高い。

 

グザールで通りを歩いている人に聞いてもホテルは無いと言う。ある人は泊めてくれる民家(民泊)があるので、そこへ案内すると言い当方をそこまで連れて行ってくれるのだが、その民家の主は外国人をとめるには抵抗があるようだ。結局断られてしまった。

 

グザールはそれでも人口が約3万人弱の都市であるが、ホテルが一軒しか無いとは意外だった。

 

30万人都市の州都のカルシ(Qarshi)にホテルがたくさんあるとアドバイスされて、当方はグザールから進行方向とは反対方向の北にあるカルシへと進路を変えて夕方の時刻を急いだ。真っ暗になったら悪路の路面が見えづらくなる。 

 

カルシで驚いたことは、外国人とウズベキスタン人とのホテル料金が異なることだ。3軒ホテルを尋ねたが、外国人料金が23割程度高くなっている。外国人の宿泊税が高いとの説明を受けたが.......

 

この日チェックイン出来たのは午後の9時過ぎだった。投宿はGrand Star Hotel 一泊300,000Soms(約4,000円弱)。

 

カルシ(Qarshi)~テルミズ(Termiz)の距離は約300km程度だ。草木が生えない丘陵地帯や壁のような山が景色を楽ませてくれた。

 

ロシア~カザフスタン~ウズベキスタンのサマルカンドまではほぼ平原が主だったが、やっと山がある風景になってきた。

(ウズベキスタンを南下すると丘陵地や山が多くなり、道路を走行しても景色を楽しめるようになる。ちょっとした山岳道路風景)

 

(サマルカンドから50km南の峠の茶屋から更に南のシャフリサーブズ方面を眺める)

 

(ティムール帝の生まれ故郷シャフリサーブスに残るアクサライ宮殿のアーチ。高さ40m位あろうと思う。写真に小さく写る人と比べてほしい。)

 

(シャブリサーブズのティームール帝=Amir Tumerの銅像。東の方向を向いていた。シャブリサーブズでは外国人と思われる旅行者はほとんど見かけなかった。この公園では数名の男女の大学生グループに一緒に写真入ってほしいと言われ、片言の英語で恥ずかしそうに話しかけられた。)

 

(カルシ=Qarshi市内で投宿したGrand Star Hotel。しっかりしたホテルだったので、I Overlander1の情報アプリに同ホテルのことを投稿したら、ホテルオーナーは喜んでくれた。)

 

テルミズ(Termiz

 

テルミズはウズベキスタン最南端のスルハンダリヤ州の州都であり、中央アジアの大河であるアムダリヤ川を挟んでアフガニスタンと国境を接する。

 

当方の経験では国境を接する町は、どちらかというと荒んでいたり、町が汚くなっていることが多い。 しかしながらテルミズは新しくてきれいな都市だった。 人口20万人の地方都市とは思えないほど、道路が整備され、真新しい住宅街が連なる街だった。

 

1980年に旧ソ連が当時社会主義のアフガニスタンへ軍事介入した際にソ連軍はテルミズに前線基地を置いたと言う歴史的な町であり、当方は興味を持った。また、テルミズから川向こうのアフガニスタンが眺められればいいなとの期待もあった。

 

テルミズは観光の街では無いが、イスラム教の一派のスーフィー教の高僧であったアルハヒム・アルテルミズ(Al Hakim Al Termizi)の霊廟(Al Hakim Al Termizi Mausoleum)がある。同高僧は各分野の学問に優れ120歳まで生き、40冊以上の本を編纂したと言われている。

 

この霊廟が聖地となっていて、同地を訪れる人が絶えないという。

 

テルミズの宿泊はGuesthouse Firdavs (一泊130,000soms=約1,400円)

 

(カルシからテルミズへ向かう幹線道路沿いの丘陵地に広がる集落)

 

(カルシからテルミズへ向かう途中の景色。徐々に山や丘陵地がありワイルドになってきた。短時間だが雨も降る。)

 

(カルシからテルミズ途中の壁のような山)

 

(テルミズ市内の統一した真新しい住宅。投宿したホステルのオーナーに誰が住むのかと尋ねたら、低所得者用の住宅と教えてくれた。こんな大きな住宅に低所得者がローン補助を受けて住むとは驚きだった。)

 

(聖地となっているアルハキム・アルテルミズ廟=Al Hakim  Al Termizi Mausoleum)

 

 

(テルミズで投宿したGuesthouse FirdavasとオーナーFirdavs氏。モスクワで料理人やセールスの仕事やアフガニスタン難民を助ける病院で働いた経験もあると言った。まだ33歳の若者だが、しっかりしていた。

四人部屋を当方一人で使わせてくれた。チェックインした当日はバスルームの増設工事中だったが、当方がアフガニスタンへ行っている間にバスルームは完成していた。)

 

アフガニスタンのビザとロードパス(車両の通行許可証)を申請

 

テルミズに来る途中にアフガニスタンについてカザフで知り合いになったチェコ人ライダーやフランス人ライダーから簡単に入国できると聞いていた。 

 

また、テルミズ到着直前に出会ったモンゴル人ライダーがテルミズからアフガニスタンへショートトリップするつもりだと言っていた。アフガニスタンを見てみたいと心が動いた。そして、同ライダーからテルミズにあるアフガニスタン領事館で同国ビザの取得方法について教えてもらった。

 

それでもアフガニスタンへ行くかどうかには迷いがあった。 日本の外務省の安全情報ではアフガニスタンは最も危険な国に指定されている。仏教遺跡があるバーミヤンではスペイン人観光客が昨年殺害されたとの報道もあった。 誘拐や要人暗殺のテロは依然あると言う。

 

最終的にはアフガニスタン領事館で現地の状況を聞いた上で、アフガニスタン・ビザを申し込むかどうか決めようと領事館へ行くことにした。

 

英語が堪能なアフガニスタン領事館(Cosulate General of Afghanistan)のビザ担当職員は<外国の報道機関が言うほど治安状況は悪くない。外国人でも自由にアフガニスタン国内を移動して旅が出来る>という。

 

当方はアフガニスタンの地理について全く知識が無い。名前を知っているのは首都のカブールとカンダハール程度だ。 道路状況の予備知識も無い。

 

領事官職員へ<道路は舗装道路か?>等尋ねると同職員から<テルミズから約100km離れたアフガニスタン北部の主要都市であるマザーリ・シャリフ(Mazari Sharif)までは舗装道路があると言う。 首都カブールまでは途中にヒンデュークシ山脈があり、高さ3000m級の峠越があるので少し厳しい道路になっている>のとのアドバイスを得た。

 

当方はマザーリ・シャリフまでは簡単に行けそうだと考え、早速ビザの申請をした。午前12までに申請すれば同日16:00にはビザとロードパス(車両の通行許可証)が発給される。

 

(住宅街に引っ越した新しいアフガニスタン総領事館の建物)

 

アフガニスタン・ビザの申請方法は以下の通り。

 

領事館前にある書類作成代行屋でビザとロードパス(車両の通行許可証)の申請書を作成してもらう。

料金は2つの書類で10米ドル(130,000Soms)

 

領事館へ申請書とパスポート及びオートバイの登録証を提出。

 

領事館職員が申請書内容をチェック後、問題なければ、領事館側はビザ料金の銀行振込用紙を作成する。

その際、申請者は旅行理由書を手書きで作成して、領事館へ提出する。

(旅行理由書の内容については領事館員が教えてくれるので、その通りに英文レターを作成する。)

 

銀行振込用紙を持って,Milly Bank(現地ではNBUとも呼ばれる)にて料金(ビザ代金130米ドルとロードパス30米ドル)を支払う。銀行手数料が7,000Som(100円)。領事館と最寄りのMilly Bankとは約6km離れている。

 

銀行作成の支払い済み証を領事館へ持ち込む。(16時まで持ち込めば、当日分として受け付ける。)

 

同日16:00以降にビザとロードパスが発給される。

 

尚、領事部は最近引っ越したので、グーグルマップやOrganic Mapsでは旧住所を示していることに注意。

 

というわけでアフガニスタンビザを取得して、宿に戻るとマザーリ・シャリフまでの12日か23日のショートツーリングの準備を始めた。 持ち物はトップケース入るだけの2~3日分の着替え、洗面道具、日常に使用するスマホ充電器とパンク修理キット、水2L入ったペットボトル等に限定した。

 

アフガニスタン入国~マザリ・シャリフ(Mazari Sharif)までショートツーリング

 

ウズベキスタンとアフガニスタンの国境はテルミズ市内から15km程度しか離れていない。

この国境を通過する一般の旅行客はきわめて少ない。殆どは、貨物トラックだ。

 

ウズベキスタン出国手続きは10分程度で終了。 

 

旅行者が殆どいないのでどこで出国手続きをするか判りずらいが、進行方向右側に立派な低層のビルがある。

このビルの中に税関とイミグレーションがあるので、パスポートとオートバイの登録証を提出して手続きを行う。

 

簡単な荷物検査があるのみで短時間で済む。

 

その後、国境となっている長さ200mほどの鉄橋をわたる。鉄橋の入口で物々しい警戒の国境警察が再度パスポートをチェックする。

 

アフガニスタン入国は簡単

 

鉄橋を渡りアフガニスタン領に入ると少し大きな戸建て住居のような建物がある。この建物でイミグレーションとバイクの登録を行う。実際にはパスポート、バイクの登録証とビザと一緒に取得したロードパスを提示する。

 

係官がPCに書類内容をインプット後、ノートに手書きして終了する。手続きする人が5名程度だったので、30分程度で手続きは終了した。

 

税関では荷物を少し見る程度の検査しかしなかった。

 

その後、オートバイに乗り、先へ進むと2回ほどパスポートの提示を要求される簡単な検問がある。思ったより簡単な入国だった。 出入国管理事務所の敷地を出ると、両替の業者が札束の現金を手に持ち、旅客に声をかけてくる。 

 

当方は国境では両替せずに、マザーリ・シャリフ市内のAIBAfghanistan  International Bank)にでクレジットカードを使って現地通貨の引き出しを行った。 

 

当方が利用しているeSIMの業者(Instabridge)ではアフガニスタンのeSIMは3GB程度で1万円と高価のため、eSIMの購入は諦めた。市内の携帯ショップSalaamにてSIMカードを買った(1カ月有効の2GB300AFN650円程度)。

 

領事館でアドバイスを受けたレジストレーション(外国人登録)については情報文化省(Ministry of Information and Culture)で行うため、情報文化省へ向かった。この日は木曜日だったので、役所の業務は、数名のスタッフを残して既に終了していた。(木曜日は午後1時で終了、金曜日は休み)

 

 

当方は当初レジストレーション(外人登録)の意味を理解していなかった。

外人登録を行う事で、情報文化省は外国人に対して国内旅行許可証を発行する。情報文化省の説明で、アフガンスタンの旅行はビザだけでは十分ではないことを初めて知った。(パキスタンの西部バルチスタンでも同じような手続きがある)

 

マザーリ・シャリフ市内だけなら旅行許可書が無くても問題無しとのことで、この先どうしようかと考えてながら宿探しと街の状況を観察見た。

 

外国人旅行者はいない。アフガニスタンに無いオートバイとライディングジャケット姿の当方は目立つ。オートバイを停止すると、多くアフガニスタン人が珍しもの見たさで寄ってくる。 特に子供や少年たちは好奇心旺盛だ。知っている英語、 Hello, What is you nameとはやし立てる。

 

アフガニスタンの男は長い服の民族衣装を着け、頭に布を巻きつけている。

ニュース等でよく見る姿だ。現地人でジーパンやTシャツ姿の人はいない。 多分タリバンのイスラム教重視のためだろう。 

 

市内中心部の通りには屋台(Street Shop)が多数並んでいた。 果物を売る屋台、食べ物を売る屋台、靴屋、衣服を売る屋台等豊富だ。人々の熱気と喧噪の中、本日の宿探しで中心部を歩いた。 

 

子供たちが当方の後についてくる。うっとうしく感じる。

パキスタンの地方都市でも似たような感じだったが、アフガニスタンほどではない。

アフガニスタンの人々は新しいものや情報に飢えているのであろう。

 

多くのアフガニスタン人は当方が日本から来たと知ると、友好的は態度を示す。ある人はトヨタの車は40年経過しても故障しないと高く評価していた。それに反して中国製品は....と厳しい評価を下していた。

 

当方が投宿したホテルには壁掛けテレビがあったが、SONYの文字が書かれたシールが張ってあった。ソニー製で無いことは一目瞭然だが、SONYのブランドに対する憧れがあるのだろう。

 

マザーリ・シャリフの中心部にはブルーモスクと呼ばれる美しい青色のモスクがある。外国人は許可証が無ければ、モスクがある公園内へ立ち入りできない。 先に訪れた情報文化省が、特別の計らいで見学させてくれた。

 

ブルーモスクは祈りの中心地とあって、非イスラム教徒の当方を見る目は奇異と異端の人を見る冷たい目線だった。

 

日本の幕末当時、外国人を嫌い攘夷と叫ぶ人々もこのような目付きをしていたんだろうと思った。

居心地悪さを感じたので、モスク内部には立ち入らず、早々とブルーモスクがある公園を出た。

 

多くの女性が街を歩いていた。以外にも顔は隠さず、全身を覆う長い黒い服を着用して髪の毛をスカーフで覆うだけだ。グループ闊歩したり、買い物をしたり、意外と自由がある。 しかし働いている女性は見かけない。

 

宿泊は敷地内駐車場に鍵がかかる門があるホテルにした。

現地人向けの宿は複数あるが、中心部の入り組んだ小路に位置して駐車場が無い。 また、おせいじにも清潔とは言えない簡易宿泊所のような物だ。

 

当方はオートバイを一晩路上に駐輪するのは避けたかった。

 

当方がオートバイから目を離したすきに当方のオートバイの各種スイッチをいじくりまわしたり、跨ってギアをいれる輩がいるからだ。

 

意外にも当方が投宿したホテルはBooking.Comに掲載されていた。 外国人が利用するのだろう。

 

投宿ホテルはRahat Hotel (一泊1500AFN 約3,300円)

 

マザーリ・シャリフの様子を見て、3年前にツーリングしたパキスタンや喧噪という点ではムンバイやデリーのようなインドの大都市に似ていると思い、翌日にはマザーリ・シャリフからテルミズへ帰ることにした。

 

帰路においてはアフガニスタン出国手続きは入国時と同様に簡単で短時間で済んだが、ウズベキスタン入国手続きは他の個人旅行者がいないにも関わらず一時間以上かかった。

 

税関では特にドローンと薬物(ドラッグ)の持ち込みを警戒して、徹底的な荷物検査を行った。

 

(貨物トラックも多く通行する道路の真ん中の黒いものは座って物乞いをする女性。マザーリ・シャリフの街では通りで物乞いをする子供や女性をよく見かけた。)

 

(ウズベキスタンから国境を越えてアフガニスタン領に入り、マザリ・シャリフへ向かう幹線道路。周囲は砂漠だった。風で道路横には高さ3mほどの砂山ができる。)

 

(アフガニスタン領をマザリ・シャリフへ向かう幹線道路風景)

 

(幹線道路沿いのポツンと一軒家。乾燥地帯のため、干し煉瓦のような材料で作った建物だ)

 

(マザリ・シャリフ市内のブルーモスク。ブルーモスクがある公園敷地には外国人は許可証が無いと立ち入ることができない。)

 

(ブルーモスクを眺めていたら、アフガニスタン人が寄ってきたので、一緒にカメラに入ってもらった。)

 

(マザリ・シャリフ市内中心部の一角。果物を売る屋台が多い)

 

(マザリ・シャリフ市内中心部の商店街小路は日よけの天幕が張られていた。)

 

(ビルの上階から見た商店街の小路)

 

(大粒のエジプト豆を使った煮豆とソモッサを売る屋台。当方は煮豆を食べた。コーヒーカップサイズの量で20AFN=約50円)

 

(サトウキビジュースを売る親子。少年の目が純粋だった。最初のコップ1杯は当方が日本から来たことに敬意を表してごちそうしてくれた。おいしかったので当方は2杯飲んだ。1杯20AFN=約50円)

 

(中国製オートバイのシートには絨毯を載せている。サイドバッグはカラフルな布製だ。)

 

(夜にイルミネーションで飾るビルもある。)

 

(マザリ・シャリフで投宿したRahat Hotel)

 

(走行ルートの概略地図。赤線がカザフスタン=地図左側からアフガニスタンのマザリ・シャリフ=地図下側までの走行ルート)

 

(詳細な走行ルート地図。赤の印は投宿した地点を示す。地図上部の赤の印はカザフスタンのトルキスタン市。地図最下部の赤印はアフガニスタンのマザリ・シャリフの位置。ウズベキスタンのシャリフサーブズとカルシは赤い線が切れている地図外に位置する。

 

以上

 

カザフスタン(Kazakhstan)入国~トルキスタン(Turkistan)まで2,350km (2025/
5/1220

 

 

(ロシアのアストラハンからカザフスタンのトルキスタン市まで走行ルートを赤線で示す。

地図左端がアストラハン。右端がトルキスタン市となる。赤丸印が投宿した場所である。地図中央のX印の場所が当初計画したカザフスタンからウズベキスタンへの国境地点)

 

時間がかかったロシア出国

 

ロシアのアストラハン(Astrakhan)からカスピ海北部沿いに湿地帯を約65km東へ進むとカザフスタンとの国境になる。

 

ロシアからカザフスタンへ向かうロシア人は稀だ。

この国境では、ロシアで出稼ぎを終えたような男たちが荷物と一緒に定員いっぱい乗り込んだ乗用車が多い。

カザフスタンやウズベキスタンのナンバープレートを付けた車だ。

 

当方はロシアから簡単に出国できると思っていた。

しかしながら、当方や欧州やからの旅客、俗にいう西側外国人の出国については、慎重に出国審査をした。 別室で英語を流ちょうに話すが、冷たい目つきの私服係官がスマホの中身をチェックし始めた。

 

ロシアに批判的なコメントやSNS、 戦略的価値がある橋や軍事基地等の写真がスマホ内に保存されているかどうか検閲をしているのだろう。30分程度入念に調べてた。

 

更に、英文の質問状への記入を求められる。 質問は、親族にウクライナ軍の関係者はいるか、ウクライナへのロシアの特別軍事作戦をどう思うかとか、クリミア半島はロシア領と思うか等ウクライナとの戦争に関することだ。

 

最後には質問状に回答した内容を係官が撮影するスマホに向かって声を出して読めというではないか。

スパイを取り締まる際の尋問を受けているようないやな感じであった。

 

ロシア出国に当たっては、当方以外にも、当方より更に一時間以上長く待っていた車で旅行するイタリア人やオートバイで旅をするチェコスロバキア人も当方と同じ扱いを受けていた。

(アストラハン周辺はボルガ川がつくったデルタ地帯のため湿地帯が多い。ここから本日の目的地のアティラウ=Atyrauは国境を挟んで342km先にある。)

 

(カーナビ=Organic Mapではカザフスタンとの国境手前のロシア領が地図上で有料道路となっていた。有料道路は約300m幅の川に架かる浮橋だった。浮橋は上下に揺れ動きオートバイでは走行しずらかった。)

 

入国手続きが簡単だったカザフスタン 

 

入国手続きはパスポートとオートバイの登録証を見せるだけだった。税関の荷物検査も係官がオートバイ全体を目視するだけで、オートバイの荷物やトップケースを開けて所持品をチェックするようなことはしなかった。

 

ロシアとカザフスタンは関税同盟を締結しているため、ロシア入国時のオートバイの一時輸入許可証(Temporary Import Permit)は、カザフスタン入国の際にも有効である。

 

入国手続きを済ませた直後にあったバラックの建物の一つでオートバイの強制保険を購入した。

 

有効期間が15日間(最低期間)で6,000テンゲ(カザフスタンの通貨)。日本円で2,000円程度である。

当初保険価格は7,000テンゲと言われたが、当方が<価格が高い>と言ったら、1,000テンゲ割引した。

 

ここでは現金払いが要求された。 バラック周辺では3名程度のおばさんたちが徒歩姿でカザフへ入国する外国人を相手に外貨との両替の商いをしていた。 

 

国境での為替レートは悪いと思い、現地通貨への両替は強制保険の代金を払える程度の金額にとどめた。

その後の旅で、このおばさんたちが提示した為替レートがカザフスタン内で一番良かったことが判った。

 

チェコスロバキアのオートバイライダーと行動を共にする。

 

ロシア出国の際に知り合ったチェコスロバキアから中央アジア方面へツーリング中の若者と話しているうちに気が合った。 

 

この若者も同じ方向へ進もうとしていたので、国境から300km弱先のアティラウ(Atyrau)の町まで一緒に走行することにした。

 

カザフスタン入国手続き等を済ませて、これから先へ進もうとする時にチェコ人ライダーのオートバイのエンジンがかからない。 バッテリー上がりだ。 

 

オートバイを押しがけしようとしてもクラッチを入れると後輪タイヤが、ロックして動かない。

3速ギアで試しても後輪タイヤがロックする。 650ccエンジンのヤマハ製のがっちりしたオフロードバイクだった(Yamaha XT660R)。

 

周囲で車を止めているドライバー達に車同士でバッテリーを繋げるケーブルを持っているかどうか尋ねたが、皆首を縦に振らない。 

 

当方が近くの食堂で食事を取っていた女性に声をかけると(実際にはスマホのグルーグル翻訳でカザフスタン語訳した文章を見せる)、ケーブルを持っていると言うのではないか。

 

車のバッテリーとチェコ人のオートバイをケーブルつなげるとオートバイのエンジンがかかった。

 

いろいろとハプニングもあり、国境を出発したのは午後3時過ぎだった。 ロシア時間なら午後2時過ぎだが、カザフスタン時間はロシアより1時間進んでいた。

 

午後の3時の出発では当方一人の単独行動では約300km先のアティラウまでは行かずに、途中で宿をとるのだが......

 

午後8時(日没は午後9時頃故、この時期の8時と言っても明るい)にアティラウのホステルにチェコ人と投宿。

 

アティラウの宿はHostel Inzhu(ドミトリー式ベッドで一泊3,500テンゲ=約1,100円)

 

(カザフスタン入国後、アティラウへ向かう幹線道路。チェコスロバキアのライダーは35歳のルーカス氏)

 

 

 

アティラウ(Atyrau)では宿の居心地がよく、ブログの更新作業等もあり2泊した。

 

宿の主人は45歳のガリムジャン氏(正式にはKuzembayer Galimjan)。

 

ホステルの他に車のレンタル等の事業も手がけている事業家だ。 ロシア語の私立学校で教育を受けたと言って,ロシア語は堪能だ。 だが、英語は少し判る程度だ。ガリムジャン氏は当方と英語で話そうと努力をしていた。

 

同氏は子供達には英語を学ばせているようだ。16歳の高校生の長女は上手な英語で挨拶をした。

日中はビジネスに多忙でホステルは妻に任せているが、夜になると必ず小生の前に現れて、いろいろカザフの情報を教えてくれる。

 

一番助かったのは、今後のツーリングルートと投宿すべき場所についてのアドバイスだった。 

 

ロシア出国時に会ったイタリア人旅行者から当方が計画していたカザフスタンからウズベキスタンへとカスピ海の東側を通る最短ルートの国境が閉鎖されていることを聞いていたが、あらためてカリムジャン氏からも同じことを教えてもらった。

 

当方が頼りにしているオーバランダー用の情報アプリのI Overlanderでも1週間前の投稿で、同国境では施設工事のため3.5トン未満の車両は、通行不可と伝えていた。

 

ウズベキスタンへ行くためには、計画していた最短ルートより余分に約2,000kmカザフスタンの草原(ステップ)を迂回せねばならない。

(アティラウで投宿したHostel Inzhuは新しくきれいだった。利用客が少なくオーナーは当方たちを歓迎してくれた。)

 

(Hostel Inzhuのオーナー、カリムジャン氏)

 

(アティラウの中央部をアジアとヨーロッパに分けるウラル川。アジア側からヨーロッパ側を見る。)

 

(アティラウのアジア側を示すモニュメント)

 

(アティラウの中心部。写真奥の建物はドラマ劇場)

 

長くて単調な迂回路 2000km

 

アティラウ(Atyrau)510km~カンディアガシ(Qandyaghash)~310km~カラブタグ(Qarabutag)420km~アラル(Aral)280km~アタ・ムラ宿泊施設(Ata Mura Complex)~バイコヌール・ロシアのロケット打ち上げ基地ある幹線道路経由~480km~トルキスタン(Turkistan)が迂回路である。

 

 

一泊目のカンディアガシ(Qandyaghash)は予定していた宿泊地では無かった。

 

当初アティラウから610km走行してアクトベ(Aktobe)という比較的大きな都市まで行こうとオートバイを走らせたが、何も無い真っ平らな草原の直線路は飽きて、たびたび眠気が襲う。 

 

距離感と時間の感覚が失われていく感じだ。 アクトベまであと100km程度で疲れ果てて、小さな町を見つけた。その場所がカンディアガシの町だった。

 

町で通りすがりの人に<どこか宿がありますか?>とグーグル翻訳を介して聞いて、宿の場所を教えてもらった。 その場所は工事現場で働いたりするような人々が主に利用する食堂を兼ねたかなりローカルチックな宿だった。

 

そこの坊主頭のこわもてな宿主に、当方が<泊まれるか?>と尋ねると<泊まれる>と言う。 

 

当方が宿泊を決める前の手順は、 部屋を見た上で、トイレの水が流れるか、温水シャワーが出るか等部屋の状態を確認する。 そして最後に部屋代を聞くようにしている。

 

部屋の状態を一通りチェックした後に、宿主へ部屋代を聞いたら、<4000テンゲ(約1200円)だ>と言う。

安い価格だが、それでも当方は<部屋代を勉強できるか? 朝食はついているか?>と宿主へ質問する。

 

宿主は<そんなものあるか!>とぶっきらぼうに答える。 他に泊まるところが無いような小さな町だから、ここで妥協するしか無いのだが、一応聞いてみる。

1階が食堂で2階が宿泊できる部屋になっている造りである。

 

因みに日本とカザフスタンの経済格差を考慮すると日本の価格の1/3程度がカザフスタンでは適正価格と考えている。

 

つまり、カザフスタンの1テンゲは日本の1円位の感覚だろう。

 

日本の一人当たりの2023年現在のGDP(大まかな平均年収と見なすことも可能)は約34,000米ドル(約470万円)、カザフスタンは約13,000米ドル(約180万円)である。

 

ここの宿主おやじは以外に親切であった。 

 

昼間に休憩した幹線道路沿いの食堂で飲んだミルクティーでおなかを壊していた。 当方が夕食として豆入りのスープだけを注文すると、その親父は<それだけで大丈夫か?>と当方の食欲のなさを心配してくれた。

 

翌朝、朝食代を払おうとすると 宿主は<朝食代はいらないよ>と言う。更にチェックアウト時には<カザフスタンの土産だ>と言い、当方にカザフスタンの文字が入った板チョコレートとライターをくれるのではないか。

 

当方はたばこを吸わないのでライターの受け取りは丁重に断ったが、心の優しい人だと思った。

 

投宿はGastinisha Adai(カザフ語ではロシア語と同様にホテルや宿のことをガスティニッツアと呼ぶ)

 

(ロシアでは見なかったラクダの放牧をよく見かけるようになった。)

 

(500km続くほぼ直線道路)

 

(幹線道路近くを貨物列車が通る。約60両編成だった。)

 

(投宿したGastinisha Adaiの主人とその妻)

 

2泊目のカラブタグ(Qarabutag)の宿

 

カラブタグは小さな集落のような町だ。

 

町自体は幹線道路から少し離れた場所に位置して何もない。 

幹線道路がロシアとカザフスタンやウズベキスタンとの間の物流の動脈となっている。 長距離輸送の貨物トラックの運転手が仮眠をとったり、休憩する食堂と宿泊を兼ねた施設が複数ある。 

 

アティラウで投宿したホステルの経営者から、カラブタグには泊まるところがたくさんあるので、現地で簡単に宿が見つけられると聞いていた。 その通りであった。

 

2軒目にチェックした宿の接客対応が良かったので、そこで投宿することに決めた。

 

ロシア系の中年女性が正直に全ての部屋を見せてくれる。 

 

バスルーム付きの広いダブルルームは10,000テンゲ(3千円)だが、3名の相部屋なら3,000テンゲ(千円弱)であると言う。 当方は相部屋にする。オートバイを安全に保管する倉庫の手配もしてくれる。 

 

よくあることだが、ホテルや宿では、部屋料金が一番高い部屋を最初に案内する。 安い料金の部屋があっても交渉しないとなかなか案内してくれないのが一般的である。しかしながら、この女性はそうでなかった。

 

その女性の接客態度に感心して、当方がオーバーランダー向けにの情報アプリ(I Overlander)にその宿についての情報を投稿した。投稿した旨をその女性スタッフへ伝えたら、当方の説明を熱心に聞き入った。

 

投宿はHotel Nurly Jol(相部屋3,000テンゲ=約1000円)。夕食は宿の食堂で軽く済ませる。

(貨物トラックの通行が多いため、道路面が破損する。修繕が追いつかない。)

 

(補修部分や路面に大きな亀裂や穴がある場所ではトラックは時速30km程度で通行する。)

 

(少し大きめのピックアップ・トラックで放牧している牛を見守る牧童たち。このポーズで写真をとってくれと言われた。)

 

(投宿したHotel Nurly Jol)

 

(貨物トラックのドライバー達が仮眠をとる交通の要所カラブタグ=Qarabutag。写真奥には数十台の貨物トラックが駐車してある。)

 

3泊目 アラル(Aral

 

アラルあるいはアラリスクとも呼ばれるカザフスタン側ではアラル海に近い町である。

 

ただし、この町はアラル海より数十キロメートル内陸にあるので、アラル海は見れない。 

 

幹線道路沿いの景色は何もない平原だが、砂漠化が進んでいるようだ。 緑の草で覆われた草原ではなく。砂漠の中に低いブッシュ(低木)や枯れた草が点在するような平原だ。

 

もっと大きな町だと思っていたが、小さな砂漠の町との印象を持った。

町には3階以上の高い建物が無い。 民家は広くてゆったりしている感じだが、道路等のインフラ設備が追いついていない。町中の住宅地に入ると道路は未舗装のままだ。

 

郊外には広い敷地に門構えがある新しい大きな民家がポツリポツリと建っている。 人口が増えれば、郊外にこぎれいな住宅が建つのだろう。 この町の産業は何だろうか?人々の生活の糧は何だろうか?等、疑問が湧く。

 

この日、3軒目に尋ねた宿に決めた。この町のホテル主の商売は下手だと思った。

 

当方が尋ねた3軒の宿は、最初に部屋代は12,000テンゲだと言う。 値引きを求めると10,000テンゲだと値引きする。 <更にもっと安い部屋は無いか>と当方が交渉すると安い部屋を見せるが、最初の部屋と料金はそんなに変わらない。

 

この地に泊まる旅人は少ないようだ。 宿泊客を取り込みたいなら思い切って安い部屋代を提示してでも客を引き込むべきであろう。 1軒目の宿は相場に比較して部屋料金が高い。 宿主は親切そうでなく強気の対応だった。

 

2軒目は投宿客は来ないだろうと思われるような立地にあった。

管理している老婆は、当方が<安い部屋は無いか?>と聞くと 少し内装が壊れ、ベットも壊れた部屋へ案内する。

 

そのボロイ部屋の料金では上等の部屋とあまり変わらない。 当方は上等の部屋の半値以下でも高いと思った。

 

3軒目のホテルは周囲に何もない荒れ地の中にあった。それでも外観は立派だった。12,000テンゲからスタートした上等の部屋代は、一ランク下の部屋であるが6,000テンゲ(約2千円)で決着。

 

 

翌日、宿帳を見ると投宿したのは当方一人のみだった。 このホテルはBooking.Comでも紹介されていた。

当方一人だけでは、この宿で働く人たちの人件費にもならない。

(ロシア南西部の主要都市サマーラ=Samaraからカザフスタン南部のシムケント=Shymkentまでの約2,200kmのルートを示す看板。 看板の下側がサマーラ。上がシムケントだ。)

(カザフスタンのオートバイライダー達と一緒に撮影。写真中央は当方だ。ライダー達の本職は牧童のようだった。写真左のライダーはヘルメットをかぶらず、毒ガス用防護マスクのようなものを着けていた。)

 

 

(草原の幹線道路沿いのポツンと一軒家は宿泊と食堂をかねる施設だ。)

 

(アラル市内の住宅街。住宅街の中は未舗装な道路が多かった。ところどころ深い砂になっている。

深い砂地にオートバイのハンドル取られて危うく転倒しかけた。)

 

(アラル市の中心部。飲食店が立ち並ぶ)

 

(アラルで投宿したホテル。クルエン・サライ。 サライとは隊商宿のこと)

 

(初めて見た面白い形のミネラル・ウオーターの1リットルペットボトル。ペットボトルの蓋がコップになっている。)

 

 

4泊目アタ・ムラ宿泊施設(Ata Mura Complex

 

アティラウのホステルオーナーが教えた宿泊施設だったが、全くのハズレだった。 

 

モスクがある食堂と宿泊の複合施設だった。

 

施設の外観から判断すると数年前なら立派な施設だっただろうと想像がつく。

 

しかし設備のメインテナンスが不十分で、洗面所の水は出ない、 温水器はあるがシャワー用の温水が出ない。そもそも普通の水ですらシャワーから数リッター程度の量がちょろちょろと流れる程度でとてもシャワーは浴びられない。

 

他の部屋でもトイレ以外の水回りは壊れていたり、使用できないようになっているが、この辺りには他に宿泊できる施設がない幹線道路沿いの平原の一軒屋だ。 

 

雨が降ってきたので、次の集落まで100kmも走行するのは気が進まなかった。

 

キャンプするよりましだろうと割り切って投宿するが、さびれた宿泊施設だった。トラック運転手もここでは仮眠等の休憩をしないようだ。 

 

たぶんアティラウのホステルオーナーは過去この施設がきれいなで繁盛している時に利用して気に入ったのだろう。

 

この施設の食堂で食べた肉とコメが入ったおかゆのような食べ物で食あたりになった。 

腹部に激痛が生じて、おなかが下った。

 

トイレで用を済ませても、おなかの痛みが引かない。 しばらくベッドに横たわり回復を待っているうちに翌朝まで寝込んでしまった。

 

翌朝食堂の厨房を覗くと、売れ残りの料理がたくさん残っている。料理が多少古くなっても使いまわしているのだろう。 客が少ない食堂の料理には注意を払うべきとの教訓だった。

 

宿泊はAta Mura Complex 一泊5,000テンゲ(約1,600円)

(途中見たロシアのロケット打ち上げ基地であるバイコヌールのサブ・ステーション。バイコヌール市内はロシアが管理して、一般人は立ち入り禁止となっている。スマホの10倍望遠で撮影しているため、写真の画質が悪くなった。)

 

(この時期、ゲリラ豪雨が多い。 雨雲が事前にわかるため雨雲が通り過ぎるのを待った。)

 

(がっかりしたアタ・ムラ複合施設=Ata Mura Complex)

 

(周囲に村や町が無くてもバス停があった。)

 

 

良心的な警察官(?)と悪徳警察官

 

カザフスタンでよく目にするのが幹線道路で検問するために駐車してあるパトロールカーと警察官だろう。

当方は検問では一度も止められなかった。

 

しかしながら、アタ・ムラの宿泊施設の駐車場から幹線道路へ出る際に、うっかりして左折禁止の道路標識を無視して左折して走行車線へ進んだ(日本なら右折禁止の意味)。

 

幹線道路ながら日曜日の午前9時前だから道路には車は通っていない。

 

その場所に待機していたパトロールカーがいた。当方の交通標識無視を待っていたかのように直ぐにサイレンを鳴らして当方を追いかけてきた。

 

警察官は当方に停止を指示して、ジェスチャーで左折禁止になっていたことを告げる。

 

当方はとぼけて、ツーリング用の地図を広げてこれから向かう地域を警察官に説明した。

警察官が行き先を聞いているのでは無いというジェスチャーをすると、当方は次に運転免許証と強制保険証を警察官に提示した。

 

警察官は<この男=当方は全然判っていない>と言いたげな表情で、<もういいから行って良い>とジェスチャーで示す。

 

警察官が放免してくれたのだが、交通違反が起こりそうなところには罠に引っかかるネズミを待つようにパトロールカーが待機している。

 

しばらくして、パトロールカーが道路脇に止められて、立っていた警察官が当方へ停止せよのジェスチャーをする。

 

単に検問かなと思った。

 

警察官は胸につけたビデオカメラを指で示して、カメラで撮影していることを伝え、正当な検問業務を行っているようなジェスチャーをする。 

警察官は当方の運転免許証に目を移して、何やらチェックするそぶりをするが、当方は警察官の意図が判らない。

 

そのうちに、その警察官はタブレットPCを取り出して、タブレット上に110と書いて、当方へ示す。

 

何やら当方がスピード違反を犯したと言いたげのようだ。 そして、お金を出せと請求するジェスチャーをする。

 

 110が時速110kmで当方が走行したのか、制限速度が時速110kmだが、それ以上のスピードで当方が走行したと言いたいのか不明である。また、スピード違反の証拠の提示も無い。

 

因みに、片側1車線の幹線道路の制限速度は時速90kmになっている。片側2車線以上の幹線道路の制限速度は時速110kmだが、当方は通常時速80km90km程度のスピードだ。

 

スピード違反とは冗談じゃないと思い、当方は日本語で警察官に怒鳴りつけた。

警察官も当方が怒っていることを理解して何も言わない。 当方は警察官を無視して、さっさとオートバイでその場を後にした。

(道路沿いに町かと思ったが、町を小さくしたような墓地だった。カザフスタンではこのような墓地を多数見かけた。)

 

(砂漠化している平原の道路)

 

(アラル海に注ぐシリダリヤ川から水を引く水路と農地。シリダリヤ川は天山山脈に源を発する大河)

 

(幹線道路の巨大門。グーグル翻訳では門の文字はInstant Tripと訳されているが, 実際には何のことかわからない。)

 

5泊目から3連泊 トルキスタン=Turkistan(世界遺産の地)

 

トルキスタンはイスラームの時代から存在したティルク族の土地を意味する。

 

インド亜大陸と同じくらい広いティルク族(カザフ族が主流)が支配する土地が現在のカザフスタン,

ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスタンや新疆ウイグルに至る地域にかって存在した。

現在の中央アジアを示す地域にほぼ一致する。

 

しかし、モンゴルの支配や、その後13世紀のティームール朝等の支配を受け、19世紀の帝政ロシア時代にはロシアの支配下になっていた。その中心が現在のトルキスタン(都市名)として残っている。

 

1980年代後半の会社員時代に当方がバーレンに駐在していた時に、サウジアラビアのジェッダ市で日本人のような顔つきのサウジアラビア人と知り合いになった。

 

同氏から、祖先はトルキスタン出身で、祖先がメッカ巡礼に来たままサウジアラビアに居残ったと聞いたことがあった。

 

同氏の親族のパーティーに招待された時、親戚はやはり東洋系の顔つきをもつサウジアラビア人が多かったと記憶している。そんなことも影響してトルキスタンという地には興味を抱いていた。

 

世界遺産となっているのはイスラムの神秘教団ともいわれるスーフィー教(回転しながら踊る教団)の一派を12世紀に設立したコジャ・アフマド・サラウィーの霊廟(Mausoleum of Khawaja Ahmed Yasawi)であるモスクだ。 

 

現存する中央アジア最大の建造物とも言われ、中央アジアに一大帝国のティームル朝を起こしたティムール帝の命令で14世紀に造った高さ44mある巨大建造物だ。

 

イランでも巨大なモスクを見学したが、これほど大きな建造物は見たことが無かった。

 

アティラウに滞在して以来の都会らしい町だ。ホテルがたくさんある。 ホステルの数も多い。当方はグーグル・マップで見つけたホステルの一つ(VIP Hostel Turkistan)に投宿した。 (一泊3,000テンゲ=1,000円)。客は当方も含め数名程度で、ツインの部屋を一人で使用した。

 

このホステルには広い中庭があり、中庭には天幕を張って、暑い季節の夜には寝られる縁台おかれている。

各部屋も中庭に面して居心地が良いので、世界遺産の見学やブログの更新のため3泊することにした。

(トルキスタンのコジャ・アフマド・サラフィー廟の正面=Mausoleum  of Khawaja Ahmed Sarawi)

 

(コジャ・アフマド・サラフィー廟の裏側=Backsideof Mausoelum of Khawaja Ahmed Sarawi 。写真左側の人と比較すると大きさがわかる。高さは15階建てのビル位)

 

(コジャ・アフマド・サラフィー廟の側面)

 

(コジャ・アフマド・サラフィー廟を囲む高い防護壁。修復したばかりで新しい)

 

(カザフ人のおばさん達。ドレスがきれいですねと言ったらにこりとして写真を撮らせてくれた。イスラムの国では

女性をカメラに収めることは通常タブーだが。)

 

(トルキスタンの街角の壁絵は中央アジアらしいラクダに乗った隊商)

 

(トルキスタンで投宿したホステルVIP Hostel Turkistan)

 

カザフ人の気質

 

カザフ人は当方が外国人でもよく声をかけてくれる人懐っこい人々だ。

 

日本人と同じ東洋系の顔立ちの人々が殆どだ。

しかし、当方がカザフ人でないことは着ている服やオートバイでツーリングしていることで判るようだ。

 

大体は<中国人か?>と聞かれる。当方が<日本人だ>と答えると、握手求められたり、スマホで一緒に写真撮影を求められる。 中には当方へこのポーズで写真を取ってほしいと注文をつける若者もいた。

 

当方は片言のロシア語で答えることしかできないので、それ以上の会話は成立しない。しかしながら、おじさんも若者も、たまには、おばさん達にも同じように人懐っこさを感じた。 親しみやすい人々だと思った。

 

 

以上

 

 

ジョージアからロシア・アストラハンまで(Georgia toRussia1,300km 5/65/11)

 

 

(地図左下の空色部分は黒海、右上の空色部分はカスピ海。青色の線は走行ルートを示す。 地図の青丸の場所は出発地点のトルコのリゼ。地図上部のゴール旗の場所がアストラハン。手書きの赤丸印が下から順に宿泊場所であったジョージアのクタイシ、ステパンスミンダ、ロシアのゴローズニー~コチュンベリとなる。)

 

トルコ出国とジョージア入国

 

トルコのリゼ(Rize)で2泊後、ジョージアへと向かった。リゼからジョージアとの国境まで約100kmだ。

 

トルコとジョージア間はヨーロッパとロシアや中央アジア諸国を結ぶ主要な国際輸送ルートだ。

国境が近づくに従い、道路の路側帯には長距離輸送のトラックが列を連なるように駐車してある。

 

国境を通過する前に、トラックの中で仮眠したり、休憩したり、あるいは食事をするためだろう。

 

国境での出入国管理事務所ではトラックとオートバイを含む自家用乗用車はそれぞれ別々に窓口がある。通常トラックの出入国手続きに時間がかかる。それに反して、一般車両はそんなに時間がかからない。

 

トルコ出国手続きはパスポートとオートバイの登録証(Registration Certificate)をチェックするだけで5分程度で終わった。

 

他方、ジョージアへの入国は50分程度かかった。 個人的な印象だが、国境管理事務所の役人は態度が横柄だ。特に旧社会主義の国々では顕著だ。 ジョージアも旧ソ連崩壊前はソビエト連邦を構成する一共和国だった。

 

入国審査官は当方のパスポートに直前のトルコの出国印が押印していないので、ジョージアには入国できないと言う。 そして、もう一度トルコ側へ戻り、パスポートに出国印を押してもらって来いと言う。

 

当方のパスポートはページ数が追加され約100ページある。そのうち約80ページには過去にツーリングした国々のビザや出入国印が押してある。 そのため、出入国印のチェックには時間がかかる。

 

トルコ側へ戻り、トルコ側係官と出国印の押印確認を行った。パスポートにはトルコの出国印をしっかり押印してあった。単にジョージア入国係官の見落としだった。 

 

入国管理事務所ではオートバイの登録証確認も行う。

係官は日本の登録証の形式に慣れていないため、オートバイのデータをコンピューターへ入力するのに手間取っていた。 何回もデータ入力に失敗しながら、小言をつぶやいていた。

 

ジョージア入国の際は日本の運転免許証の提示を求められる。 

 

日本が加盟するジュネーブ条約の国外運転免許証では海外に渡航する際には、日本の免許証も携帯することになっている。ジョージアは本国の運転免許証の確認を行う数少ない国だ。

 

係官からは、車両の強制保険と交通事故の際の緊急連絡先等が記載しているパンフレットを手渡されながら、入国後に自動車保険に加入するようにとの説明があった。

 

強制保険は国境から数km離れた道路沿の保険代理店の業者で買った。 保険料金は2週間で20ラリ=約1,100円)。

 

 

ジョージアへ入国後、トルコの道路インフラの良さが思い出された。 トルコとジョージアでは格段の差がある。

また運転マナーも同様に各段の差があった。 

 

(ジョージアの車両保険の代理店前でウズベキスタンのトラック運転手たちと出会った。)

 

クタイシ(Kutaisi)の懐かしのゲストハウスで2連泊

 

ジョージア入国後、 約180km走行してジョージア内陸部のクタイシ(Kutaisi)に到着した。

 

このクタイシで2年前肝っ玉母さんのような印象の女性が経営するゲストハウスでお世話になった。

家庭的な雰囲気のゲストハウスだった。言葉が通じなくても、女主人は当方に良くしてくれた。

 

そのゲストハウスに再度宿泊するつもりだった。 当方がゲストハウスの前にオートバイを止めると、エンジン音を聞いた女主人が外に出てきた。

 

女主人は当方を一目見るなり、気が付いた。 そして、笑顔で当方を歓迎してくれた。 言葉は判らなくても、態度で歓迎してくれる様子は誰でも判る。 

 

女主人の夫も外に出てきて、挨拶をした。 女主人がよくしゃべるためか、その夫はどちらかというと控えめで言葉数は少ない。 しかし 当方を歓迎してくれている。 二人とも当方と同じ位の年齢だ。 

 

二人とも旧ソ連時代の教育を受けていたため、ロシア語は堪能だが、英語はさっぱりだ。

16歳の高校生の孫が英語の通訳をしてくれる。 この高校生は外国へ行ったことは無いと言うが、上手に英語を話す。 

 

ジョージアの学校では英語は必須だが、ロシア語は選択制となっていると言う。

この高校生のお陰で、ジョージアのことが判った。また、女主人との意思の疎通が良くなった。

この女主人は1958年生まれであった。17歳で結婚後、18歳には子供が生まれ、現在曾孫まで出来たと言う。

 

このゲストハウスの手助けになればと思い、 当方がツーリング時の宿や出入国の手続き等の情報収集に使うアプリ

(I Overlander)にゲストハウスの情報を投稿した。そのことを女主人に伝えると、お礼も兼ねてか翌朝の朝食の品数と量ががたっぷりになった。

 

宿泊はHostel Temuri (一泊40ラリ=約2300円)

(ジョーリア・クタイシの靴修理店の看板は小さすぎて分からなかった。トルコのブルサで走行中に車にぶつかられて、オートバイと一緒に転倒した。その際に右足のブーツの縫い目が破れた。その修理を小さな靴修理店に依頼した。)

 

(修理してもらったオートバイ用のブーツ。指で示した場所の縫い目が破れていた。)

 

 

(クタイシで人気があるケバブ屋。立ち食い、立ち飲みだ。)

(ケバブと大きな塊のパン、そして飲み物で12ラリ=約650円)

 

(クタイシの市内を流れる川は上流域での雨のためか、灰色に濁りかなりの水量で流れていた。)

 

(道路上にはみでたバルコニー。このようなバルコニーが多いのだが、違法建築にならないかと思った)

 

(投宿したクタイシのゲストハウスHostel Temuriの女主人)

 

(ゲストハウスの朝食の量と品数が増えた)

 

コーカサス山脈の小さな町ステパンスミンダ(Stepantsminda)

 

 

その後、首都のトビリシには宿泊せずに、ロシアとの国境とは目と鼻の先のステパンスミンダ(Stepantsminda)

へ進んだ。

 

ただし、当方より12ヶ月先行して同地を車でツーリング中の日本人夫妻から、<ロシアでのルーブル(ロシア通貨)と外貨の交換レートは悪いので、トビリシでロシア・ルーブルを調達しておいた方が得だ>とのアドバイスを受けていた。

 

そのため、トビリシにはロシア・ルーブルを調達するために立ち寄った。

トビリシは交通渋滞が酷いうえに、ドライバーの運転マナーも悪い。車の無理な割込み、ジグザク運転、急ハンドルや急発進が多い。

 

当方がトビリシに立ち寄った際にも、オートバイ走行中に23回くらい危ないと思った場面に出くわした。 そんなこともあり、トビリシからは一刻も早く立ち去りたかった。

 

トビリシから北のロシア国境へ向かう途中にコーカサス山脈が横たわる。 3千メートル級の山脈ながら山の頂きや斜面は雪に覆われている。 最高峰のエルブス山は標高5,600mある。その雪山に向かって谷間を走り抜けていく。 途中集落がポツリポツリとある程度で、町は無い。 ただし、ロシアへ通じる主要道路のため大型トラックの通行が多い。 

 

コーカサツ山脈が近づくに従い、気温が低くなる。

トビリシではTシャツ姿でも暑く感じられた。しかし、コーカサス山脈の峠付近の道路脇にはまだ雪が積もっている。

峠の気温は数℃ぐらいだろう。 

 

当方は途中でオートバイを止めて、服を着込んだ上にダウンベストをライディング・ジャケットの下につけた。手袋も夏用から冬用に変えた。

 

坂道は10km以上続く。しかし、神奈川県の箱根のような急峻な坂道は無い。ただし、路面に大型トラックの通行で大きな穴や割れ目が多くできている。 また、トンネル内には照明が無く、全くの暗闇である。 大型トラックがローギアでゆっくり坂を登ることにしびれをきらした乗用車がトラックを無理に追い越そうと対向車線から飛び出してくる。危ない。 こんなことが繰り返される。

 

 

(クタイシ付近から見たコーカサス山脈。雪山が見える)

 

(クタイシから首都トビリシへ向かう高速道路。交通量は少なく、通行は無料。)

(首都トビリシからコーカサス山脈へ向かう)

 

(コーカサス山脈の峠に向けて登坂を進む。)

 

(コーカサス山脈の峠付近。積もっていた雪が解けて、水が流れ出している。)

(コーカサス山脈を上るトラックの列)

 

コーカサス山脈の峠を越した後、下り坂になり、少し平地が続く谷間に小さな町があった。本日の宿泊としていたステパンスミンダ(Stepantsminda)だ。 町は標高1,500m以上の高地に位置するため、この時期であっても最低気温は-3℃~-4℃になる

 

I Overlander(ツーリングの情報アプリ)で見つけたゲストハウスに飛び込みで一泊をお願いする。山小屋風の建物だったが、部屋はしっかり暖房が利いていて暖かかった。

 

ゲストハウスのオーナーは無口でいかめしい顔つきだった。翌日、オーナーは迷彩色の軍服に身をつつみどこやら出勤する。オーナーは客商売向きでは無いと思ったが、軍人だったと判る。

 

翌朝ゲストハウスの窓から外をみると人を寄せ付けないような険しい3千メートル級山々があった。その景色は絶景であった。

 

宿泊はMaia’s Guesthouse(一泊35ラリ=約2000円)

(ステパンスミンダで投宿したゲストハウス マイア)

 

ステパンスミンダの町からコーカサス山脈をみる。写真では山が小さく写るが、実際は山は写真より大きくまじかに見え迫力ある。)

 

ジョージア出国と時間がかかったロシア入国

 

ジョージア出国はパスポートとオートバイの登録証のチェックだけで簡単だった。順番待ちも含めて20分程度だった。

 

ロシアの出入国管理事務所はジョージア出国後45km先にあった。ロシア側の出入国管理事務所へ到着する前に数kmのトラックの列があった。乗用車等の一般車両の列も300~400m位続いていた。 礼儀正しい日本人ならその列の最後尾について順番待ちをするだろう。

 

当方はオートバイの利便性を生かして、順番待ちの乗用車の脇をすり抜けしてぼぼ列の最先端まで出た。

当方のふるまいに文句を言ったり、邪魔をする乗用車のドライバーはいなかった。交通整理を行う警察官も当方へ<先に行け>と手を振って促す。

 

ロシアの入国手続きは時間がかかると聞いていた。しかし4時間もかかるとは思わなかった。

 

イミグレーションで別室に案内され、KGB職員のような係官からどこへ行くのか、入国目的は何か等の質問攻めに遭う。当方がちょうど胸ポケットに入れていた今回のツーリングルートと行き先の国名を書いた地図を係官へ手渡した。

 

係官がその地図を参考にしてパソコンに当方の行き先データを入力する。係官が<United Kingdom=英国へも行くのか?>を質問してくる。 ロシアと英国は17~18世紀ごろから勢力範囲を競って関係が悪い。 それぞれの国にとって仮想敵国だからだろう。 

 

一時間以上待って、ロシアの入国印が押されて、パスポートを返却してもらった。<もう行って良い>と出入国係官に言われてたので、オートバイに跨り、出発しようとした。その時、キャンピングカーで旅行するドイツ人の様なヨーロッパ人が書類に何やら書き込みをしているのを見た。

 

事前情報でこの国境で車両の一時輸入の手続きをすることを思い出した。 そのヨーロッパ人に確認すると、やはりロシアへの車両持ち込みの一時輸入の手続きをしているとのことだった。

 

 もし一時輸入の手続きを行わなかったら、ロシアから出国する際に大きな問題になる。場合によっては、ロシアへ入国した時の国境へ戻って、一時輸入の手続きを行えと言われる場合もあると聞く。

 

この手続きに2時間位時間を費やす。英文の書式があるが、記入内容を間違えると、係官から書類を突き返され、書き直しを要求される。 当方は2回書類を書き直した。

 

そんなこともあり、ロシア入国手続きでは合計4時間位費やした。やはり午前中に入国手続きをすべき国境のひとつである。

 

出入国管理事務所から300m先にあった建物でロシアのオートバイ用の強制保険を買った。(保険期間2週間で900ルーブル=1500円程度)。

 

事前にロシア・ルーブルを調達していたり、ロシアの携帯電話のeSIM(業者はInstabridge)を購入したり、またインターネット用VPNExpress VPN)も申し込済みだった。そのおかげで、当日は他の用事をせずに目的地まで一気に進めた。

 

ちなみにロシアではインターネットで西側の情報が入手できないようにインターネットの制限を行っている。Facebook等の西側のSNSにロシアの通常のインターネット回線では繋がらないようにしてある。

 

そのため、Facebookを閲覧するためにはVPN(Vertual Private Networkと呼ばれるプライベート回線)を介さねばならない。イランでも同様であった。

 

ジョージアとロシアには1時間の時差がある。 ロシア時間はジョージアより1時間遅い。つまり1時間得したようになった。 そのおかげで、国境から約150km先にあるチェチェン共和国(Chechnaya)の首都グローズニー(Grozny)まで行くことにした。

(ジョージアへとロシア出国手続き前に並ぶトラックの列)

 

ロシア入国直後の天気は怪しげだった。数キロメートにわたる広大な菜の花畑)

 

(ウラジカフカスの通りには数百の戦没軍人の遺影写真が飾られていた)

 

グローズニーの宿泊はBest Hostel(一泊600ルーブル=約千円)

 

グローズニー(Grozny)からアストラハン(Astrahan)までカスピ海西岸部を12日(約520km

 

グローズニーはチェチェン共和国の首都だ。 1995年~1996年及び2004年~2005年の2回にわたり、チェチェンでは戦争があった。チェチェン独立派と独立を許さないロシア連邦軍との容赦ない戦いだった。

 

1995年~96年の初回の戦争では独立派が勝利して、休戦に持ち込まれた。2004年~5年の第二次チェチェン戦争ではロシア連邦軍がチェチェン独立派徹底的に叩いてロシアがチェチェンの独立を許さなかった。

 

チェチェンは石油資源が豊かな土地故、ロシアが独立を許さなかったのだろう。

 

首都のグローズニーは戦争で破壊されたと聞いていた。 戦争後、ドバイやアブダビまでには至らないが、アラビア湾岸の石油リッチな国々の様にモスクと高層ビルが建ち並ぶ近代都市に生まれ変わっている。

(チェチェンの首都ゴローズニーには軍人の絵が壁一面に描かれていた)

 

(グローズニーの巨大モスク。まだ新しいモスクだった。)

 

(巨大モスク内の礼拝者は少なかった。)

 

(グローズニーの中心地には新しい高層ビルが立ち並ぶ。)

 

(ロシア領内とは思えないようなイスラム式の町へ入る門)

 

(グローズニーからコチュンブリー途中の景色)

 

オートバイ走行中に困ったことが一つあった。 カーナビが作動しなくなったのだ。 グローズニー市内や郊外でもカーナビがフリーズする。妨害電波でカーナビが衛星電波を受信できないようにしているのだろう。

 

2017年ロシアのウラジオストックやエカテリンブルグをオートバイで走行中に同様なことが起こった。 

また、2023年イランでもそうであった。 軍事施設があったり、戦略上重要な場所では衛星電波が受信できないようになっている。

 

カスピ海西岸地域は何もない荒野だった。 グローズニーとアストラハンの中間地点の交通の要と思われる街道沿いのKochunberyという集落で一泊した。 

 

数件のモーテル、ガソリンスタンドと食堂があるだけだった。 この幹線道路を通行する長距離輸送トラックの運転手達が休憩する場所だろう。

 

トラックの交通量が多い場所ではメリットがある。トラックの運転手が利用する食堂が多いのだ。

既に料理された一品ずつの料理がビュッフェスタイルのように並べてあるので、外国人でも何の料理か一目瞭然だ。

 

当方にはこのような食堂がありがたかった。

 

グローズニーあたりから晴天に恵まれるようになった。気温は30℃までは届かないが、日差しが強く炎天下では夏の様に暑く感じられる。 当方はライディングジャケットの下は、半袖のTシャツのみの軽装に変えた。

 

コチュンブリー(Kochunbery)ではHotel Karavanに宿泊(一泊1,500ルーブル=約2800円)

(コチェンブリーで投宿したホテル カラバン)

(コチュンブリーからアストラハンへ向かう途中。 広大な不毛の土地のようだ)

 

ロシアの観光ガイドブック(地球の歩き方)では何も情報がない。 気が付いたのは大きな立派な都市であると言うことだ。

欧州で最長のボルガ川がカスピ海へ注ぐ下流部の三角州(デルタ地帯)にできた都市だ。

 

古くは14世紀に中央アジアで一大王国を造り上げたティームールの侵略を受けたり、16世紀にはオスマントルコにも侵攻された町であったが、18世紀には帝政ロシアが砦を築き、ロシアの中央アジア地域へ進出するための前線基地の役割を果たしていた。

 

そのため、市内の中心部には往時の城壁で守られた町(クレムリン)がある。

 

アストラハンではHotelHostel Baden Baden(ホステル料金一泊900ルーブル=約1,500円)

(アストラハン市内中心部の通り)

 

(アストラハン市内のボルガ川河口付近)

(アストラハンのクレムリンの入口門と主要教会=ウペンスキー教会)

 

(19世紀ぐらいだと思われるアストラハンの市内写真)

 

(アストラハンで投宿したHotel Baden Badenの最上階の一部屋がドミトリー式となっていた。ドミトリー式の部屋の宿泊客は当方一人だけだった。)

 

以上

 

ギリシャ・カラパラ~トルコ・リゼ(Greece to Turkey)2,200km 2025/4/275/3

 

世界遺産の切り立った岩山に建つ修道院があったメテオロ(Meteoro)からギリシャ第二の都市ティッサロニキ(Thessaloniki)を目指した。

 

道路を走行して気が付いたことは北ギリシャは平地の農地が広大で、農業が盛んであることだ。

 

この時期は降雨が多いため、緑色になった小麦畑や牧草地が広がっている。雪山も見れる景色もあった。

当方がかってに想像していた乾いた痩せた土地とは違った。

(KalampakaからThessalonikiへ向かう途中の北ギリシャの一般道沿いは緑色の小麦畑だった。)

 

高速道路の料金が安いのに驚いた。しかも交通量が少なく、カメが高速道路上を横断しているのを見た。 

当方が走行中に、高速道路の前方に何か動くものがいると判り減速した。

 

近づくとカメが2車線の高速道路をほぼ横断しかけていた。カメが横断できるぐらい交通量が少ない場所がある。

 

立派な高速道路はおそらくEUの補助金で造ったのだろう。

20km40km毎に料金所があるが、料金は0.5ユーロ(約80円)~2ユーロ(約330円)程度とイタリアやフランスに比較すると超安い。

 

200km程度距離の有料道路でも通行料金は約7ユーロ(1,300円程度)とイタリアの1/4もしない。

 

これでは料金所の人件費も賄えられないだろうし、道路のメインテナンス費用にもならない。

 

ギリシャはリーマン危機後(2008年)、政府が二重帳簿で財政状況を改ざんしていることが発覚したことがあった。

そのギリシャの財政改ざんがユーロの信頼性を棄損して通貨危機を招いたことがあった。

 

高速道路が必要ない所に、安い通行料金で高速道路を建設することからも政府の財政に関する脇の甘さが垣間見れる。

 

アレキサンダー大帝と世界遺産の町ティッサロニキ(Thessaloniki

 

観光のためティッサロニキに2泊した。ティッサロニキはギリシャ第二の都市として古代ローマ時代から

交通の要所として栄えてきたとガイドブックに案内されていた。

 

過去にはローマから中近東(トルコ)への幹線街道の宿場町として商工業が発展したとの案内だが、街をみるかぎりそんな面影がみられなかった。

 

町にはユネスコ世界遺産の建物が2つある。

一つはローマ時代のカレリウス皇帝の霊廟(Rotonda)だが、ギリシャ全土にはもっと有名な世界遺産が多くあるためか、ここを訪れる観光客は少なかった。

 

当方は今回のツーリング前に紀元前4世紀ごろマケドニア(現在の北ギリシャ)のアレキサンダー大帝がエジプトから中央アジアのウズベキスタンや南アジアのパキスタンまで遠征して、領土を収めた(侵略した)歴史書を読んでいた。 

 

ティッサロニキはアレキサンダー大帝の活躍した当時のマケドニアの中心地だ。

アレキサンダー大帝の部下のカッサンドロス将軍が建設した町であり、同将軍はアレキサンダー大帝の異母妹を妻としてむかえ、妻の名前ティッサラニケから町の名前が由来していると言う。

 

歴史を知らなかったら、さっと通り過ぎるような町だが、歴史書のお陰で散策しながら感慨深くなった。

(丘が多いティッサロニキ。丘の上の住宅地から海方向を見る。)

 

(世界遺産のローマ時代のカレリウス皇帝の霊廟Rotonda。オスマン時代はモスクとして利用されたと言う。)

 

(紀元前4世紀に活躍したアレキサンダー大帝の騎馬像)

 

(高級ホテルが立ち並ぶティッサロニキの目抜き通りのカフェには多くの高齢者が仲間との会話を楽しんでいた。)

 

ギリシャからトルコ入国

 

今回のツーリングは北ギリシャをトルコに向けてほぼ最短距離で進行するルートを取った。

当初、ティッサロニキの後は、トルコ入国手前のアレキサンドロポリで一泊後トルコへ進むことを考えていた。

(ティッサロニキから海岸沿いに進んだ。海の向こうに山影が見えた時、トルコ領かなと思ったが、近くのサソス島=Thasosだった。)

 

(ティッサロニキからアレキサンドロスに向かう途中の海岸。夏なら海水浴客でに賑わっていただろう。)

 

(ティッサロニキからアレキサンドロポリへ向かう途中の海沿い道路)

 

当方が国境を通過するのは朝一番か遅くても午前中に通過するようにしている。

 

陸路の国境通過は一般的には手続きに時間がかかり、午後に国境通過すると最寄りの町に到着するのが夜になるのが常だからだ。

 

夜に知らない町を動くのは危ないし、宿を見つけるのが困難になる場合が多いからだ。

しかしながら、今回は違った。

 

アレキサンドロポリ手前の休憩所でオートバイでイタリアまでのツーリング帰路途中のトルコ人ライダーと出会った。

 

同ライダーは 午後の2時台なのにこれからギリシャから自宅があるトルコのイスタンブールまで一気に帰るようだ。イスタンブールまではここから300km以上ある。

 

当方はアレキサンドロポリの約50km先にあるトルコ国境での入国手続きにどの程度時間がかかるか知らなかったが、午後の時間に、ここからイスタンブールまで行こうとライダーがいることを知り、国境を目指すことにした。

 

ギリシャの出国手続きは5分もかからなかった。出国を待つ車は数台程度で、パスポートをチェックして、EUの出国印を押すだけだった。

 

国境となる川の橋の両端には完全武装の兵士が守衛ポストでまじめな顔つきで見張りをしていた。

緊張した国境だ。ギリシャとトルコは友好国で無いことが感じとられる。

 

トルコ側の国境管理事務所で入国手続きを待つ車は45台あった。 パスポートチェックの後、税関手続きになるが、トルコの自動車保険が必要だ。

 

税関裏の建物内で自動車保険を買い求めた(3カ月間有効で2,000リラ=約8千円)。入国に30分程度時間を要した。

(トルコ入国直後。トルコへようこその看板がある。)

 

(トルコ入国検問所からケシャーン=Kesanへ至る道路)

 

トルコ入国後の最初の町ケシャーン(Kesan)で投宿することにしたが、ホテルの予約もなければ、事前に目星をつけた宿もない。 カーナビアプリのホテル検索で最初に表示された宿へ向かった。

 

そこへ行ってみると、宿ではない様子だった。

後で調べたら、芸術学校兼寄宿舎のようだ。 そこのマネージャーが親切にも、近くのホテルに電話かけて宿の手配をしてくれた。当方のオートバイはその学校の裏に駐車したほうが安全だと言ってくれる。さらに学校の職員が同ホテルまで案内してくれるではないか。 

 

Kesanの宿はVarna Hotel 一泊1,000リラ(4,000円)

(トルコ一泊目のケシャーン=Kesanの町角。空にはトルコ国旗と政治家の写真が舞っていた。)

 

トルコ・ヨーロッパ側からアジア側へと強風のマルマラ海をフェリーで渡る

 

トルコのヨーロッパ側とアジア側は海や海峡で遮られている。 当方はイスタンブールのボスポラス海峡を結ぶ橋を渡るべきか、マルマラ海の狭い場所であるダダーネル海峡大橋を通るべきか、あるいはマルマラ海をフェリーで渡るべきか検討した。 

 

ボスポラス海峡大橋とダダーネル海峡大橋(高速道路)は通行手続きが外国車両にはめんどくさい。事前に通行券を郵便局等で購入して車両に電子読み取りが可能なステッカーを貼り付けておかねばならないと聞いていた。 面倒な手続きだ。

 

そんなわけでフェリーでマルマラ海を渡ることにした。2年前はトロイの遺跡があるチャナッカレでアジア側から欧州側へ小型のフェリーで3km程度の幅狭いダダーネル海峡を渡ったことがあった。 

 

今回は2年前とは異なる場所だ。台風のように風が強い日だった。強風でフェリーが欠航しているのでは懸念しつつフェリー乗り場へむかったが、運航している。 横須賀と金谷を結ぶ東京湾フェリーなら欠航するような強風だ。

 

フェリーではオートバイをロープで船上に固定しなかった。サイドスタンドで車体を立てたままだったので、フェリーが波で揺れるたびにオートバイが倒れないように祈った。


 

(マルマラ海の波は荒かった。写真奥にはダダーネル海峡大橋が見える。)

 

(マルマラ海を左手に見ながらブルサ=Bursaへ向かう。)

 

(長さ数百メートルの広大な菜の花畑。菜の花の匂いがあたり一面に漂っていた。)

2

トルコのアジア側ではオスマントルコ時代の初期に都としたブルサ(Bursa)に2泊した。人口200万人の大きな都市だが、旧市街的な中心部は歩いて回れる程度で広くない。 旧市街を行きかう中年以上の女性はイスラムの伝統的な全身を覆うような長い服を着ている人が多い。 

 

トルコは世俗的と言われるが、イスラム教の習慣が根付いている。 オスマントルコ時代の交易所、隊商が泊まった宿、モスクやバサール(商店街)が集まった場所はさながらオスマントルコ時代にへタイムスリップしたような感じである。

(ブルサ=Bursaの旧市街中心地の広場。写真奥にはブルサ大モスクのミナレット=尖塔が見える)

 

(ブルサのストリートマーケット。野菜果物が中心だ。)

 

(オスマン時代は交易所と隊商宿だったKoza Hanの中庭)

 

 

(ブルサのシンボルであるイェシル・ジャミ=Yesil Camiと呼ばれる緑のモスク)

 

 

(ブルサのバザール)

(バザールでおばさん達が大勢集まっていたのは婦人服店。保守的な控えめの模様が好みのようだ。)

 

(ブルサで投宿したホテル=Guner Hotel)

 

(ブルサはドネール=焼いた鶏肉を薄いパン生地で巻いて食べるファストフードの本場だ)

 

(饅頭に見えたイズミールの爆弾=Izumir Bombaという名の超甘い菓子。チョコレートがたっぶり入っていた。ひとつ25リラ=約100円)

 

 

ブルサでまさかの交通事故にあう。

 

ブルサから約300km先に位置する世界遺産に登録されているサフランボル(Safranbolu)という内陸部の町へ向かった。 サフランボルは料理でコメを黄色にするサブランの産地である。

 

朝から雨だった。ブルサのホテルを出発して、市内を走行中にオートバイの後ろから追突され、オートバイと一緒に転倒した。前方100m先が赤信号だったので、オートバイを減速しながら車線を一番道路端の車線へ変更中に、後ろから衝撃を受けあっというまに転倒してしまった。

 

その場でけがの状況をチェックした。

右腰の皮膚が赤みを帯び打撲したあざができている。膝も痛いがたいしたことではないようだ。

 

当方は<念のため病院で検査を受けるので運転免許証を見せてほしい>と追突してきたワゴン車のドライバーにグーグル翻訳を介して伝えると、その運転手は<病院へ連れて行くので俺の車の後ろについて来い>とジェスチャーする。

 

そのワゴン車についていこうとしたら、信号機が赤色へ変わり、当方は信号待ちとなるが、相手のワゴン車はそのまま行ってしまうのではないか。

 

ワゴン車を探したが、相手の車は当方を待たずにどこかへ行ってしまったようだ。当て逃げだ。

 

本来なら事故が起きたらケガの程度に関わらず、警察を呼ぶべきだった。事故の時は、ケガをしていても、緊張で痛みを感じない場合がある。そして、時間が経過してから痛みがでてくるからだ。

 

当方が6年前のアフリカツーリングの際に深い砂道で派手に転倒した時がそうだった。

 

(オートバイで転倒後、雨用のブーツカバーは穴だらけになっていた。)

 

その事故後は気分を切り替えて雨の中を約300km走行してサフランボロの数キロ手前のカラブク(Karabuk)の町の郊外に投宿。

 

その日も予約した宿は無く、やっと探し当てた宿は階段の照明が無い郊外の安宿だった。 もう夜になるし、雨の中を他の宿を探す気力も起こらない。<テント泊よりましか>と割り切り、下宿屋兼ペンションのYilmaz ペンション&ホテルに投宿(一泊750リラ=約3000円)。 

 

このペンションではオーナーは常駐せず、ワッツアップ(WhatsAppSNS)で連絡を取り合うことになるが、トルコ語しか通じない。同ペンションに住むソマリア人留学生に通訳の労をかけた。

 

そのソマリア人留学生はトルコ在留歴6年の機械工学を学ぶ大学4年生だった。卒業後もトルコで就職するつもりだと話していた。 機械工学を専攻しているため、日本の産業用ロボットの安川電機を知っていて、素晴らしい会社だとほめていた。

 

トルコ黒海側へと進む。

 

カラブクに一泊後、サフランボルの世界遺産となっている村の景観を見て先へと進んだ。

(町の景観が世界遺産になっているサフランボル=Safranbolu)

 

(サフランボルの町)

 

内陸部を約200km進み峠を越すと黒海へと出る。 黒海側へ通じる峠道はトンネルだった。 トンネルを抜けると雨だった。

崖から出る水で土砂が道路上に流れて泥水をかぶりながら進む。お陰でオートバイも装備品も泥まみれになった。

 

黒海は曇天だった。風が無いので穏やかだった。

(黒海側に出た。 サンスン=Samsunへ向かう途中)

 

どこで投宿するか判らないので、この日も宿の予約は無い。 燃料給油のため、夕方立ち寄ったガソリンスタンドの店員に<安くて清潔な宿を教えてほしい>とアドバイスを求めた。通常地元の人は地元の宿のことをあまり知らない。

 

町中にLove Hotelがあるので、そこがいいと教えてくれた。 当方は誤解をした。日本の様なLove Hotelを想像したが、トルコ語でホテル名がSergi Hotel=英語に直訳するとLove Hotel)になる3星の立派なホテルだった。

 

トルコでの当方の宿泊予算は1000リラ(約4千円)までと決めていた。そこは1,600リラ(約6200円)だったのでそのホテルへの投宿は諦めて、ガソリンスタンドでアドバイスされた2軒目の宿へ向かった。 その宿は、一昔前なら立派な3星ホテルだった。受付けで一泊1,500リラと言われたが、当方が1000リラにならないかと交渉すると、あっさり1000リラでOKとなった。

 

ただし現金払い、領収書無し。 トルコの消費税率20%を考慮すれば、

ホテル側が消費税を政府に納めなければ、本来の宿泊料金の20%引きでもホテル側の実入りは変わらない。

 

前夜とこの日は雨のため、ホテルチェックイン後に外出出来ず。ホテル周辺には店も無い郊外だった。

 

そのため、2日連続して夕食は持っていたスープとパンのみで済ませた。 このような事態に備え、水と多少の食糧を常時持参していて良かったと感じた。

 

投宿はRidhirga Hotel(一泊1,000リラ)

(サンスンで投宿したRidhirga Hotel。Ridhirgaとはトルコの戦艦の名前とのことだった。)

 

 

2年ぶり2回目の投宿場所のリゼ(Rize

 

翌日もジョージア方面へ向けて先に進む。ジョージアとの国境の約100km手前にリゼ(Rize)という町がある。2年前アジア・中近東ツーリングの際にジョージアからトルコへ入国して最初に泊まった町だった。

 

その町では前回と同じホテルに投宿した。

前回はこの町で初めてトルコ人の親切さを感じた。ホテルの横にコンビニのような食糧店があった。当方はそこで働いていた若者から<食料品を持っていけ>と言わんばかりに食料品をもらった経緯があった。

 

その若者がその店で今でも働いているかなと思い、店内を覗いてみるとその若者がいた。

 

当初、若者は当方を見ても気が付かなかった。しかし、当方が2年前のブログに載せたその若者の写真を見せると、当方のことに気づいた。

 

その若者は<まさか?>という顔つきだった。当方は頷いて<その通りだよ。今回もツーリング途中でリゼに寄ってみた>」と伝え再会を喜び合った。

 

 

(2年前の2023年6月に出会った時のユヌス=Yunus氏の写真。彼にはとても親切にしてもらった。)

 

(今回再会した時のユヌス氏の写真。同氏は2年前と変わっていない。店の陳列は変わっていたが...)

 

投宿はErdem Pansiyon & Otel 1(一泊1,000リラ=約4,000円)

 

(ギリシャからトルコへのツーリングルートはピンク色の線だ。赤印の都市に投宿した)

 


(トルコの走行ルート地図。青色の矢印が示すようにピンク色の線に沿って進んだ。)

 

以上

クロアチアの世界遺産の都市(Zadar,Dubrovnik)~アルバニア~ギリシャ(世界遺産メテオロの奇岩の上の修道院)

1,300km (2025 4/174/26)

 

 

クロアチア入国直後のイストラ(Istra)地方ロッシュ村(Roc)での2泊で疲れがとれた。ここのゲストハウスは2ベットルームとキッチン・ダイニングがある一世帯分の広さを当方一人で占有した。

 

オーナーのおばさんがチョコレートを差し入れてくれたり、出発の朝には朝食としてクレープも作ってくれた。

当方がブログを書いていると伝えたのが、奏功したのか・・・

あるいは、一泊35ユーロ(5,700円)がこの村の相場以上だったため、当方を良くもてなしてくれたのか知らないが・・・

(Roc村のゲストハウスでオーナーおばさんに作ってもらった朝食用クレープ)

 

クロアチアのアドリア海沿いの世界遺産の都市ザダール(Zadar)とドブロブニク(Dubrovnik

 

アドリア海に出ると晴天だった。ここからは一般道を海岸沿いにモンテネグロを経由して、アルバニア、ギリシャ方面へ向かう。

(上の写真はRoc村からリエカ=Rijeka方面の山道。山道を過ぎると下の写真のリエカ=Rijeka付近のアドリア海にでた。)

 

海岸沿いの崖の中腹にある道路は、まだ観光シーズンになっていないためか通行する車が少なく快適だった。

大型オートバイに跨り、かっ飛ばすライダーをこの道路ではよく見かけた。やはり景色がよいルートだからだろう。

 

アドリア海の水は透き通り、きれいであった。途中に通った漁村の港やヨットハーバー脇で休憩してすると透きとおった海中を泳ぐ魚が良く見えた。 こんなにたくさんの魚が海中にいるが、魚釣りをしている人は見かけない。

 

地中海沿岸でもスペイン、フランスやイタリアのように観光化されていない。少し物足りなさを感じつつも

観光客が少ないところが気に入った。

(上の写真はザダール=Zadarへ向かう海岸の丘の中腹にある道路。下はアドリア海の海岸)

 

 

宿泊したザダール(Zadar)の町の事前知識は無かった。旧市街の城壁やビザンチン時代の教会が世界遺産であることを誰からか教えてもらった。当初は一泊のつもりだったが、世界遺産がある旧市街を見学しようと2泊することにした。

 

世界遺産がある町と言っても、東京の浅草の様に外国人観光客であふれているわけでもなかった。 

(上の写真はザダール旧市街へ入る門と城壁。 下の写真の中央が世界遺産のビザンチン様式の古い教会。)

 

 

ザダールで宿泊したドルミトリー方式のホステルにはオートバイライダーが当方以外に4名来た。 

 

ライダーの一人にデンマークからの若者がいた。

今年9月に福島県の会津にある大学院でソフト・エンジニアリングを学ぶため、オートバイで日本を目指している途中だった。オートバイでの陸路ツーリングはイラン経由インドまでで、インドからはオートバイを日本へ海上輸送するとのことだった。

 

宿泊はBackpaker Home(一泊14ユーロ=約2,300円)


(写真左から当方、オランダ、デンマークと写真右側の2名はイタリアからのオートバイライダー達)

 

アドリア海の真珠と呼ばれる世界遺産のドブロブニク(Dubrovnik)の旧市街は2017年の世界一周ツーリング時に訪れたいと思った。 クロアチアを訪れたが、その時は7月の観光シーズン真っ盛りの時であった。そして、宿泊価格が高すぎてドブロブニクを訪れるのを諦めた経緯があった。

 

ザダールからアドリア海の海岸線を東へとドブロブニクを目指す。ここで当方の目を引いたのが、アドリア海沿いに高くて長い山々が続いている風景だった。印象的な風景だ。

 

地図をみると、アドリア海沿いに数百キロメートル続く細長い土地がなぜクロアチアの領土になっているのだろうかと疑問に思っていた。

 

景色を目のあたりにして、このアドリア海沿いの山脈が国境としてボスニア・ヘルツエゴビナとクロアチに分れているため、クロアチア領が細長くなっていることに納得した。

(上の写真の山脈の海側がクロアチア領土となる。この山脈が先端のドブロブニクまで続く)

 

4月のドブロブニクの旧市街はそれなりの数の観光客はいるが、混んでいるほどでは無かった。また、当方が宿泊した安宿も、随分すいていた。(宿泊はAnchi Guesthouse、ドミトリー式で一泊19ユーロ=約3,100円)

(ドミトリー式のホステルには世界各国の若者たちが集まる。若者達と話すのも刺激になる。彼女はイタリア人のエリカ。イギリスで働いていたが、転職前に休暇でバックパック旅行をしている。昨年11月に岐阜県の白川郷を観光して気に入ったと話していた。)

 

長さ約2kmの高い城壁で囲まれた旧市街は15世紀~18世紀のドブロクニ共和国へタイムトリップしたようによく保存されている。

 

旧市街を囲む高さ20mの城壁の上に登り、城壁の上を歩いて旧市街を一周できる。しかし、この城壁の上を散歩する通行料金は高い(40ユーロ=約6,600円)。

(上の写真はドブロブニクの城壁。下は旧市街の狭い路地階段)

 

 

(16世紀のドブロブニクと海洋博物館展示の19世紀の航海測量器。下の写真のスクリューのような形状の測量器は船の速度を測る。船の舳先帆に着け回転数で速度を測っていた。右側は船の位置を測量する機器で現在のGPSのようなもの。)

 

ドブロブニクからモンテネグロ経由アルバニアへ

 

クロアチア東部のドブロブニクに2泊後、モンテネグロを通過してアルバニアへと向かった。 ドブロブニクから約40km東へ進むとモンテネグロとの国境がある。

 

8時台のため、国境検問所には通行車両が殆どいなかった。

クロアチアの出国はパスポートとオートバイの登録証(Certificate of Registration)をチェックするだけで1分もかからなかった。

 

当方が少し懸念していた名義書き換えのためオートバイのEUへの入国記録が無いことは全く問題にならなかった。 オートバイの入国記録はオンラインでEU加盟国内で共有されていないようだ。

 

モンテネグロ入国についてもパスポートとオートバイの登録証のチェックだけだった。オートバイの強制保険の有無についてはノーチェックだった。 2017年当時、当方がオートバイで他の国境検問所からモンテネグロに入国した際には、オートバイの強制保険を国境で買わねばならなかったが・・・

(モンテネグロ内で近道をするためフェリーを利用。フェリーから見た岸辺の町や村)

 

そんな訳で、モンテネグロは保険無しで通過した。もっともモンテネグロの走行距離は短く、アルバニアまでの国境までは150km弱の距離しかない。

 

午後の2時頃にはモンテネグロを走り抜け、アルバニアとの国境に到着した。

ただし、アルバニアとの国境にいたる道が分かりにくく、カーナビ(Organic Maps)に頼って進むと、人の往来が少ない狭い田舎道になり、このルートで大丈夫かなと思った。 

更に、国境手前ではその細い道が道路工事中で通り抜け不可になっていた。


 

道路工事関係者がオートバイならなんとか進める迂回路があると薦めてくれたところは、藪と石ころの荒れ地になった狭い所で、とても道とは呼べるものではなかった。

(アルバニアとの国境に近いモンテネグロの田舎道と荒れ地の迂回路)

 

アルバニア入国

 

2017年の当方の世界ツーリングではアルバニアに一泊もしなかった。コソボからモンテネグロへ向かった際に数時間かけて通過するだけだった。 そのため、アルバニアがどのようなところか判らずじまいだった。

 

アルバニア入国後、目についたのは道路わきのモスクの建物だった。 あらためてアルバニアにはイスラム教の国民が多く、EU諸国とは異なることを感じた。 経済統計ではアルバニアの一人当たりのGDPは欧州で下から数えたほうが早い8,000米ドル(約120万円)とフランスの1/5程度しかない。

(アルバニア入国後の集落のモスク)

 

道路造りや建物、走行している車を観察するとその経済格差が判る。

 

交通マナーに至ってはパキスタンやインドほどまでひどくないが、ルールを無視する車が多い。 狭い道路や交差点では我先に進もうとする。 新興国へ来たような感じである。

 

首都ティラナ(Tirana)で2泊した。 ティアナでは宿泊の予約は無かったので、事前に目星をつけていたホステルに2泊した。 

 

住宅街の一角の6~7世帯ほどの小型集合住宅にホステルがあった。ホステルを示す看板が無いので判りずらい。 その付近の住人にホステルの場所を教えてもらい何とかたどりついた。 

 

門とフェンスに囲まれた集合住宅の建物の軒下にオートバイを駐輪して、雨で濡れた雨具等をオートバイの座席シート上やハンドル周りで乾かしていた。 翌朝、オートバイに装備していたサイドバッグを誰かが開けようとした痕跡があり、乾かしていたゴムロープが無い。

 

日本からマドリッドの空港に到着した際、途中2回フライトの乗り継ぎをしたため、機内預け入れ荷物の一つがマドリッド空港に到着せず、未着で紛失したままだ。 未着荷物の中に本来使用するはずのバイク専用のゴムロープが入っていた。 

 

そのため、マドリッドを出発する際には、予備のゴムロープを使用していたが、アルバニアで盗まれるとは思わなかった。

 

高価な物ではないが、荷物を効率的にくくれるようにロープの中間には3個の固定フックがついたオートバイ専用ロープだった。失ってその貴重性を認識した。 

 

当方は代用できるゴムロープを探し求めてティラナ市内の自転車店やオートバイ店を回ったが、ちょうど良い長さのゴムロープがない。当方が求めているサイズのものは無く、当地の店で販売しているゴムロープは全て短く、大人の人差し指位の太さがある。それでも、無いよりましだと思い買った。

 

こんなことで半日以上費やして、ティアナ市内の観光をする時間が無くなった。

 

ホステルの管理人のおばさんは<子供のいたずらだろう>と当方を慰めるよう言い、そこの小さな集合住宅に住む子供たちに聞いてみると言ったものの、その後何もしなかった。 いやな思い出が出来てしまった。

(ティラナで投宿したホステルがあった集合住宅)

 

ティアナの町の住宅街の商店で食料品を買い求めた。 店には品数が少なかった。 ビスケット、チョコレートや清涼飲料等の大部分の食品が輸入品のため、値段は所得が高いクロアチア等の隣国より高い。ガソリンも高い。これでは庶民の生活は厳しいだろうと感じた。

(上の写真はチェコで3年自動車修理工として働いた経験があるが、地元に戻り自分の自動車整備工場を経営している若者。英語を話すので当方はアドバイスをしてもらった。 両親が写真の食堂と雑貨店を経営している。外人が来ると英語を話す息子が手助けしてくれる。    下の写真は住宅街の典型的な八百屋。値段の表示がないので、当方のような外人には不便)

 

人口300万人程の小国が豊かになる方法は、外国から工場誘致等の直接投資を呼び込むとか、EUに加盟して補助金で道路等のインフラ投資や公共投資で経済を活性させるとか手段は限られている。

 

外国から観光客を呼び寄せるには観光資源が不足しているようだ。首都の中心地でさえ、外国人観光客の姿はほとんど見かけない。


(上の写真はティアラな中央の広場周辺。国立博物館=左側建物とインターコンチネンタル・ホテル=金色の高層ビル。 下の写真は高級ホテルや大統領官邸が位置する目抜き通り。写真奥にインターコンチネンタル・ホテル見える)

 

ティアナに2泊後、ギリシャへ向けて走行した。ティアナから30km程は高速道路になっているが、その後は一車線の対面通行の一般道路になった。

 

町と町の分かれ目が無く、道路沿いに民家が固まって建並んでいたり、ポツリポツリと建っていたりしている。そのため、一般道での制限時速は時速50kmになっていて、距離をかせぐ走行ができない。

 

ギリシャ方面へ向かう道路は山間部を通る地方道だ。くねくねした山岳道路を2時間ほど走行すると大きな湖(Lake Ohrid)に出た。 高地のため肌寒い。走行する車の数が随分少なくなった。 更に進むと道路の分岐点になり、ギリシャ方面への近道は山のすそにある集落を辿るようになる。 その道には車が全く走行していない。 この道で国境まで行いけるか少し不安になる。

 

カーナビの案内を信じるしか方法が無いので、ひたすら先を進むと黄色で変な形のドガナ(Dogana)国境検問所の建物が見えてきた。この検問所を通行する車両は少なかった。

(ティラナから郊外へ延びる高速道路。通行車両は少ない。下の写真の奥の建物がアルバニア国境での国境管理事務所)

 

アルバニア出国では、パスポートとオートバイの登録証を国境管理官がチェックするだけだ。 ちなみにアルバニアの入出国時にはパスポートにスタンプが押されない。 

 

ギリシャ入国

 

ギリシャ入国時にはパスポートにスタンプが押されるが、オートバイの登録証のチェックは無かった。

 

シェンゲン条約加盟国に再度入国したことを確認する意味でスタンプを押すのだろう。 オートバイの強制保険(グリーンカード)のチェックも無かった。

 

ギリシャに入国して間もなく、雨が降り出した。雨は目的地のカランバカ(Kalampaka)の町まで続いた。

カランバカは世界遺産に登録されている岩山の上に建つ修道院で有名なメテオロ(Meteoro)を観光するための拠点だ。

 

当初メテオロを訪れる計画は無かった。たまたま見たギリシャの旅行書(地球の歩き方)に載っているメテオロの岩山の上に建つ修道院の写真が衝撃的だった。そして、そのメテオロの修道院が世界遺産だと知った。

 

カランバカの宿泊はHotel King (一泊32­ユーロ=約5,300円) 

 

(上の写真はカランパカ=Kalampakaの町の入口からメテオロ=Meteroの岩山を見る。 下の写真は世界遺産の岩山の修道院の一つ。複数の修道院が岩山の上に建つ)

 

(イタリアからギリシャまでのツーリングルートをピンク色で記した。赤字でマークしたところは上から、イタリアのガルダ=Garda, クロアチアのロシュ村=Roc, ザダール=Zadar、ドブロブニク=Dubrovnik、アルバニアの首都ティラナ=Tirana、ギリシャのカランプラKalampola=メテオロ(Meteoro)の順)

 

以上