Tajikistan ~Kyrgystan Oshまで1,100km(2025/6/2~6/8)
アフガニスタンへのショート・トリップを終え、ウズベキスタンのテルミズ(Termiz)で3泊後、タジキスタンの首都ドシャンベ(Dushanbe)経由キルギスタンのオシュ(Osh)を目指した。 この走行ルートは複雑に入り組んだ国境越えが3回ある。
(中央アジア地図。赤線が走行ルート。赤丸印が宿泊地。地図左下はウズベキスタンのテルミズ。地図右側はキルギスのオシュの位置を示す。左下のテルミズから地図右側へ斜め横に描かれたルートがタジキスタン~キルギスに至る走行ルート。)
(ウズベキスタンのテルミズからタジキスタンとの国境へ至る景色は単調だった。この地域は町や集落が多く、交通量も多かった。)
走行ルートは以下の通り:
テルミズTermiz)~170km~ウズベキスタン・タジキスタン国境~70km~タジキスタンの首都ドシャンベ(Dushanbe)~80km~死のトンネル(Anzob Tunnel)~Ayni(分岐点)~100km(往路)~パンジャケント(Panjakent)~100km(復路)~Ayni~160km~ホジャンド(Khujand)=最果てのアレキサンドリア(Alexandiria Furthest)~90km~タジキスタン・ウズベキスタン国境~180km~ウズベキスタンのアンディジャン(Andijan)~50km~ウズベキスタン・キルギスタン国境~10km~キルギスタンのオシュ(Osh)
タジキスタン入り
タジキスタンはペルシャ系の民族で人の顔立ちや言語もウズベキスタンとは異なり、ペルシャ(現在のイラン)に近い。 彫が深い顔立ち人々だ。
タジキスタンのホジャンド(Khujand)で出会ったタジキスタン人はタジキスタン民族が遠い過去に中央アジア地域を支配したペルシャ系のソグディア人であることを誇りにして歴史を少し話してくれた。
ソ連時代はロシア革命の英雄レーニンの像が各都市の中心部に建てられていた。
しかし、ソ連崩壊後は、9世紀~10世紀にかけてイラン高原を含む、現在のトルクメニスタン、ウズベキスタンやタジキスタンの中央アジア地域を支配したのサーマーン朝のアミール(王)であったイスマイール・ソモニ(サーマーン)=Ismail Somoniを英雄として公園に巨大な像を建てている。
タジキスタンの通貨ソモニ(Somoni)はイスマイール・ソモニに由来している。 日本で例えるなら、江戸時代を築いた徳川家康かそれ以上の存在だろう。
タジキスタンの入国手続きは時間がかかった。
ウズベキスタンの出国手続きは1時間程度で済んだが、タジキスタンの入国手続きは4時間ぐらいかかった。
中央アジア諸国の陸路国境では英語は通じない。ここはロシア語圏だ。 出入国管理事務所ではどこの窓口で手続きするか判らないので、当方は片言のロシア語でどの窓口へ行けばよいか聞いた。
パスポート・コントロール(パスポートに入国の押印)は簡単に済んだが、オートバイの入国手続きをどこですればよいか判らない。
なんとかたどり着いた車両の手続きの事務所前にはトラックの運転手と思われる人たちが多数待っていた。 当方は待っている人達への遠慮なしに事務所の中へ入り、<オートバイの入国手続きをしたい>とグーグル翻訳を片手に、それらしき係官へ話をする。
その係官は<事務所の外で待っていろ>と当方へジェスチャーで指示をするので、当方は一旦、事務所の外へ出て、トラックの運転手達と一緒に待つことにした。
事務所の外で待っていても当方の順番は回ってこないと直感的に判っているので、5分~10分毎には
数回、係官へ当方への対応を督促する。 係官は<次はあなたの番だから、事務所の外で順番を待つように>と指示するが、既に1時間待っている。
当方はすこし強い口調で<すでに1時間以上待っている。早く対応してくれ>と係官に言うと、係官は当方の手続きをやり始める。こんなときは強気で対応しないと当方に順番が回って来ないことは経験上知っている。
オートバイの現地登録のような書類を作成してもらい、100ソモニ(約10米ドル=1400円程度)の料金を管理事務所から500m程度離れたトラックターミナルにある銀行窓口で払うように指示され、当方は銀行窓口まで出向く。
すると、銀行窓口では本日から使い始めた税関の新しいオンライン・システムが動かないと言われ、入金が出来ない羽目になった。
税関では、当方の支払が確認できないとオートバイのタジキスタンへの持ち込みが出来ないと言われる。
タジキスタン人で親切な運転手が現れた。 費用の支払いに、同運転手が同氏の銀行口座を通じてオンラインで税関へ費用を支払えば、税関は当方が支払ったと見なして、当方のオートバイをタジキスタンへ持ち込めると言う。 税関側もその支払い手段でOKだと言う。
料金支払いをその運転手に代行してもらった。 運転手は支払い手続きが済むと、当方がお礼を言う前に立ち去っていた。 なんと親切な対応だろうと感心した。
しかし、税関の手続きはなかなか進まない。 既に3時間以上経過していた。 当方は
しびれを切らして、<ここの税関の責任者と話がしたい>と強く切り出すと、係官がやっと対応し出した。
結局タジキスタン入国手続きでは4時間程度かかった。
首都ドシャンベ
首都だけあって立派な建物や高さ20mと越す大きな街路樹があるプロムナード(散歩道)の大通りが目立つ街だった。
政府機関の建物が立ち並ぶ地区にあった国立博物館を見学したが、入館者が少ない。数名程度だ。
館内の各展示部屋を見守る館員は暇をもて遊び、スマホで友人か家族と長話している。
首都の建物を見ている限り、一人当たりのGDPが1,200米ドル(約17万円~18万円)程度とウズベキスタンの半分以下とは思えない。
一人当たりのGDP(年間所得に見なす)では、世界でも貧しい国の部類となるが、そのように見えない。
ドシャンベで外交官をめざしていた大学生から国家公務員の月給は200米ドル(約2.8万円)、またパンジャケント(Panjakent)で宿泊したホステルの経営者からは、教員の給与は85米ドル(約1.2万円)から250米ドル(約3.5万円)と聞いた。
それに反して、食料品は安くない。コカコーラ600mlペットボトルが日本円で100円以上する。 ガソリンもリットルあたり140円程度だ。 ウズベキスタンよりむしろ1割~2割程度高い。
食料品の価格から判断すると、生活は楽でないと考えられるが、実態は判らずじまいだった。
ただ、ドシャンベの中心部には建設中のビルが数多くあるのが目についた。景気が良いのではと感じた。
(タジキスタンへ入国するとはげ山が目に入った)
(首都ドシャンベの巨大国旗。国旗を掲げるポールは高さ70~80m位あると思う。)
(ドシャンベの中心地区。白いドーム屋根の建物は国会議事堂)
(英雄イスマイル・ソマニの像があるドシャンベの公園)
(巨大な街路樹が日陰を作ってくれるドシャンベの大通り)
(ドシャンベの大通り)
(ドシャンベ中心部で建設中のビル)
(国立博物館の建物)
(タジキスタンの国土を地下の地層別に色分けした地図=国立博物館)
タジキスタンを訪れるバックパッカーや自らの車両で旅をする多くのオーバーランダーはタジキスタンの東部山岳部であるパミールハイウェイを通ってパミール高原を目指すアドベンチャー旅行にあこがれる。
パミール高原は標高が5000mに達する山々に囲まれた広いエリアだ。
自然が豊富で見ごたえある山の景色が広がると言う。 同地域はゴルノ・バダフシャン自治州(Gorno Badakhan)となっており、外国人の立ち入りや旅行には事前に許可証を入手する必要がある。
当方のバイクは車両重量が重く、パワーが小さい250ccのオンロードタイプ(舗装道路)故、悪路が多い同地域へのツーリングは諦めていた。
ドシャンベではDoshan Hostelへ投宿(ドミトリー式 一泊150ソムニ(約2,200円)。
I Overlanderのアプリでは<新しくて清潔なホステルで、経営者が親切だ>と紹介されていたが、投稿内容が古すぎたのか、床、シャワールームやキッチンは汚なかった。経営者が変わっていたようだ。
本来なら宿泊したくないホステルだったが、タジキスタン入国手続きに時間がかかりすぎて、他の宿を探す時間が無かった。
(がっかりしたドシャンベのホステル)
山岳道路と死のトンネル
ドシャンベ(Dushanbe)から山岳地帯を通り、ウズベキスタンのサマルカンド方面のルート上にあるパンジャケント(Panjakent)へ向かった。
幹線道路はきれいに舗装され、道路の補修やメインテナンスはウズベキスタンより進んでいた。
ウズベキスタンは幹線道路でも舗装が剥がれたり、度重なる補修で路面の凹凸や割れ目が多く、オートバイ走行は快適でなかった。経済的にウズベキスタンより立ち遅れているタジキスタンの道路状態はウズベキスタンより悪いのではと危惧したが、逆であった。
事前の調べで、山岳地帯を通り抜ける時に<死のトンネル>と言われるアンゾフ・トンネル(Anzob Tunnel)があることを知っていた。 何故死のトンネルと呼ばれるかは、トンネル内に照明が無い長くて危険なトンネルだからだ。
このトンネルに至るまでに木が一本も生えていない山脈に向かって谷を峠へと登っていく。
雪をかぶった山々が見える。道路の崖側にはガードレールが無い。 誤って道路を踏み外せは真っ逆さまに谷底に落ちる。
とは言っても舗装道路で道幅も広いので、怖さは感じない。 工事用の大型トラックや旅行客を載せたタクシーが数多く通行する幹線道路でもある。
死のトンネルを通過する前に数ケ所照明が無い長さ200m程度のトンネルがあった。 長いトンネルに入る前のトレーニングのようなものだが、短いトンネルでも内部が曲がっていると怖い。
炎天下の明るいところから、急に真っ暗闇のトンネルへ入ると全く見えなくなる。
死のトンネルと呼ばれるアンゾフ・トンネルは直線のトンネルだったので、トンネル内の壁にぶつかるような恐怖は無いが、鉱山の坑道のように感じた。対面通行のトンネル内では対向車線から向かって来る車のライトが目に入りまぶしい。
トンネルの壁がどこにあるのかもわかり難い。 トンネル内には水が出ている場所があり、路面には水たまりや水が流れている場所もある。
当方はトンネルに入る前に他の車が来るのを待った。そして、その車の後についていくことにした。長さ5km程のトンネルを通過する所要時間は4分程度だが、その間がとても長く感じられた。
この山岳地帯の景色を見ていると、地球の大地がいかに変わってきたのか、中学か高校時代の地理の授業で習ったようによくわかる。
崖の断層が斜めにむき出した場所は、太古の時代に地殻変動があったのだろう。 雪解け水が流れる川の護岸が削れて谷が形成される様子も良くわかる。 まさに自然の教科書だ。
(山岳道路の始まりには雪解け水がつくる川が流れていた。)
(峠に向かい坂を上り始めると雪を頂いた山々が見えた。)
(死のトンネル=Anzob Tunnelを通り過ぎ、ほっとして休憩。)
(山の色が鮮明に分かれている。鉱物資源が豊富だろうと想像する。)
(峠を下る道路)
(斜めになった断層がよくわかる。)
(今は使用されていない狭く危ない旧道に架かる橋)
(川が大地を侵食している様子が良くわかる。)
パンジャケント(Panjakent)にはタジキスタンで唯一の世界遺産があり、興味を引かれた。
世界遺産となっているのは紀元前(BC)5千年前から青銅器時代(BC2000年~BC1000年と時代幅が長いが)までのサラズム遺跡(Sarazm)だ。
この遺跡は依然発掘中であり、当方が見学した際には発掘調査に関わる人が数名がいた。
パンジャケントではSim Sim Hostelに投宿(一泊130ソムニ=約2,000円)
(サラズム遺跡の当時の想像図)
(サラズム遺跡で出土した土器には模様があり、色付けされていた)
(サラズム遺跡で発掘された古代人の墓には身長2mの人骨が見つかった。サラズムの王女=Princess of Sarazmと呼ばれている。)
(サラズム遺跡。当時の住居跡を復元)
(サラズム遺跡は600m x 800mと広大だ。大きな屋根=パビリオンの場所に発掘された住居跡等がある。)
(サラズム遺跡がある集落の民家の土壁。道路も土のままで未舗装)
タジキスタンの青年たちの夢
当方が路肩の木陰で休んでいると青年二人が現れた。一人が英語で話しかけてきた。彼らは高校3年生だった。
知っている限りの英語の単語を並べ立てて積極的に話しかけて来る。
今日で高校生活が終わり9月からはドシャンベで大学生になると言う。大学卒業後にはアメリカへ行って、アニメのクリエーターになりたいと自分の夢を語った。
当方はその高校生へ<夢は実現できるのでがんばれ>と励まし、手短にアドバイスをした。
(当方が道路で休憩中に話しかけてきた高校生と子供たち。写真中央が夢を語った高校生。)
ホジャンド(Khujand)で投宿したホステル経営者の息子は上手な英語を話した。
いろいろ話してみると18歳の大学生で母親のホステルを手伝っていることが判った。当方は、18歳にしてはしっかりしていると思った。宿泊料金の交渉にも対応していた。
大学卒業後には、姉が仕事と勉強をしているドイツで人生を切り開きたいと語った。 そのためにドイツ語を勉強中だとも語った。 父親は2年前に米国で職を得て家族を支えていると言う。
(ホジャンドのホステルにて手伝いをしていた大学生アミール・シェイク君=写真中央とその母親。大学生は大学卒業後、ドイツで人生を切り開きたいと語った。。右側の男性は隣人)
外国人歓迎
タジキスタンの子供たちは外人に興味を示す。当方がオートバイで走行していると、家から道路まで走り出てきて当方に向かって手を振る。 当方がオートバイを停車すると、子供たちは寄ってきて、握手を求める。
まるで映画スターや芸能人を出迎えるような感じた。 大人の人も、当方を歓迎するように手を振ってくれる。
(有料道路区間が複数あったが、オートバイは料金所横の小路を通過して無料だった。)
ホジャンド(Khujand)
今回のツーリング前に、紀元前3~4世紀にマケドニア((現在のギリシャ北部)から中央アジア・西アジア地域へ遠征をしたアレキサンダー大王(Alexander The Great)について知る機会があった。 ギリシャでは当方は当時のマケドニアがあったキッサロキニエ(ギリシャの第二の都市)を訪れていた。
ホジャンドはアレキサンダー大王が一番東に造ったアレキサンドリアの町だった。最果てのアレキサンドリア(Alexandria Furthest)とも呼ばれた。 アレキサンダー大王はこれ以上の遠征をおこなうことに部下の反対に会い、更に東へ進むことを諦めた。そして、この地からマケドニアへ帰還する途中に死んだと言う。
ホジャンドを訪れて何故アレキサンダー大王がこの地に都市を建設したか判った。 この辺りは中央アジアで一番長いスリダリヤ川が流れ、長さ300km幅70~80kmの肥沃な盆地が形成されている。この盆地はウズベキスタンとタジキスタンに跨るフェルガナ(Fergana)盆地と呼ばれている穀倉地帯だった。
人が定住するには水の確保と、農業を行う肥沃な土地が必要なのだ。
(ホジャンドへ向かう途中、険しい山々の峠のトンネルを通り過ぎたら、なだらかな斜面の山になっていた。)
(フェルガナ盆地の農耕地帯。地平線が見えない広大な盆地だった。)
(ホジャンドの街とその背後の山。区画整理された田んぼもあった。)
(ホジャンド市内を流れる全長2000km以上あるスリダリヤ川。川の水は透き通り、水量が多く、流れが速かった。)
(ホジャンドのバザールは中央アジア最大級)
(窯でパンを焼くパン職人。パンは一つ50円~60円ぐらい。)
(バザール隣接の3つのモスク。)
(ホジャンドの復元された城壁)
(BC5世紀ごろからある旧城壁。小山のように高さ20m位ある城壁部分もあった。12世紀のモンゴル軍の襲撃で城壁は破壊されたと言う。)
(紀元前4世紀~紀元前3世紀にかけてアレキサンダー大王が遠征したルート。地図上がマケドニア=現在のギリシャ北部。下が中央アジアや南アジア)
ホシャンドの宿はGuesthouse Sharq11(一泊約1,800円)
ホシャンド(タジキスタン)から直接キリギスへ入国できる国境を見つけた。
数年前まではタジキスタンとキリギスはお互いの国境を閉じていた。両国間の直接の往来はできなかった。外交関係が悪かったからだ。 しかし約2年前から両国間の国境が開かれて、直接の往来が可能になった。
ウズベキスタンを経由しなくてもキルギスへの入国が可能だ。しかしながら、当方が地図上で探し出した国境から当方が目指す主要都市オシュ(Osh)に至る道路の状態が判らない。
そのルートは幹線道路では無く、国境線沿いの道路だ。タジキスタンからキルギスへ直接入国するとのオシュまで300km弱の距離ある。
たぶんガタガタの未舗装の道路をだろうと推測して、タジキスタンから直接キルギスへ入国することは諦めた。
やはり、フェルガナ盆地のど真ん中のメインルートを通り、ウズベキスタン経由でキルギスへ行くことにした。
タジキスタン出国とウズベキスタン3回目の入国
タジキスタン出国は簡単だったが、入国時に税関で作成されたオートバイ登録の書類を返却せねばならなかった。
当方は入国時、オートバイの登録に関係する重要な書類とは認識せずに、直ぐに破棄してもよい類の書類だと思っていた。 その書類を最後まで捨てずに持っていてよかったとホッとした。
ウズベキスタンの入国手続きは数時間かかるだろうと過去2回の経験から覚悟していた。
しかしながら、手続きは30分程度で終了して、喜ばしいが肩透かしをくらったようだった。
しかも過去2回の入国時と異なり、オートバイの登録手数料の請求が無かった。 この税関で、オートバイを正式に登録してくれたのだろうか?、手続きに間違いは無かったのだろうか等少し不安になった。
ウズベキスタンの入国手続きが短時間で終了したため、当方は計画を変更した。
出来るだけキルギスとの国境に近い町(Andijan)へ向かうことにした。 ウズベキスタン入国地点から約180kmの距離があった。Andijanからキルギス国境までは50kmの距離だ。
Andijanの投宿はSheyk Hostel(一泊150,000ソム=約1800円)
(フェルガナ盆地を走行中に疲れて眠くなり、道路沿いの洗車場の脇にあった縁台で少し横になった。洗車場では写真の青年たちが働いてた。当方に縁台を快く譲ってくれた。)
(ウズベキスタンに入ったら道路状態は悪くなった。タジキスタンの幹線道路は修理・メインテナンスが良くされていたが。)
(ウズベキスタン最後の投宿地、Andijanの焼き肉屋)
ウズベキスタン出国・キルギス入国
アンディジャンの宿からキルギスへの国境へと先を急いだ。国境はアンディジャンから約50km程度先だ。
広大だったフェルガナ盆地も端に来ているのが判る。すこし先には枯れた山々が見えるからだ。
この国境を通過する外国人の旅人は極端に少ないようだ。
出国管理事務所で当方の前で出国手続きをしている人は1名のみだった。
当方がウズベキスタン再入国時に懸念していたことは起こらなかった。 10分程度の短時間で出国できた。
ただし、過去2回の出国手続きとは異なり、税関の書式に関係窓口の各担当者が3ケ所押印し、同書類を出国ゲートを見守る係官へ手渡す必要があった。
キルギス入国
キルギスの入国手続きも簡単だった。
イミグレーション(パスポート・コントロール)でパスポートに入国印を押印してもらう。その後、Customs(税関)で一時輸入の書類を作成してもらわなければならない。
税関の書類作成担当者がいるコンテナーを改造した事務所窓口にてオートバイの登録証書とパスポートを提出して、必要書類(一時輸入許可証のような書類)を作成してもらう。約20分~30分程度でキルギスへ入国出来た。
キルギスのオシュ(Osh)を目指したのは、オートバイのチェーン用潤滑油(Lubrication Oil)を買うためだった。
ツーリング出発時にマドリッドのオートバイ店で購入した潤滑油をどこかで失くしてしまった。
その後、 タジキスタンで買った中国製の機械油はチェーン用潤滑油としては全く使い物にならず、むしろチェーンが痛むのではと危惧した。
中央アジアではオートバイに乗る人がほとんどいない。せいぜい小型のスクーターを少し見かける程度だ。 そのため、オートバイの修理やメインテナンス作業を行うメカニックがいない。また、オートバイ用品を販売する店もほとんど存在しない。
オシュにはオートバイの修理を行うメカニックがいて、チェーン用潤滑油のスプレー缶も販売するオートバイ・レンタルショップ兼修理店Ataloo MotoがあることをI Overlanderのアプリで知った。
400ml入りのMotul製のスプレー缶は25米ドル(約3,600円)と日本より少し安い。 当ショップはスイス人とキルギス人の共同経営だった。
スイスとキルギスを中心とする中央アジアとのルート間をオートバイでのグループツーリングで案内する業務を手がけている。 レンタルバイク用としてホンダのオフロードバイクCRF250を20台する保有すると言う。
オシュでの投宿はABS Hostel。 一泊750ソム(約1,300円)
(キルギス入国直後。写真奥がキルギスの出入国管理事務所)
(オシュのAtaloo MotoとパートナーShabrush氏。ウズベキ人だが英語を上手に話した。)
(オシュで投宿したABS Hostel。ドイツから8カ月かけて自転車でツーリング中のドイツ人青年も投宿していた。)
(オシュ市内の幼稚園。幼稚園の壁に何故か分からないが子供に慕われる警察官が描かれている。)
以上